2004/9/21
悟りの範囲を増す
16・9・21
今日は、弘法大師空海の月命日の所為か、新しいメッセージが来た。
其のメッセージの場面は、幾通りか有った。
・ 人間が使用する水を気の高いものにする。
・ 空気の質を大事にする。
・ 地面に物が埋まっている。
・ 精神レベルの高い人間を選ぶ。
等の映像が映って来て、最後に「気の力を強くする」との意味が告げられた。
朝起きて、今朝のメッセージの意味に付いて、瞑想していると「悟りの範囲を増(拡)す」と、言葉が告げられて来た。
其の告げられた言葉と、其れを伝えてくる人物の御霊が、何者なのかを考えると、本日21日は「お大師さん」の月命日であり、弘法大師空海の宗派である真言宗の事を思い出す。
真言宗の教えには、「地・水・火・風・空」と、世界を構成している五大要素が在るとされている。
今朝のメッセージの内容を考えると、この五大要素を広く深くさぐり、その五大要素の気を、強くせよとの理・ことと受け取れる。
現在の私は、普通の人達と変らない生活をしているが、20年前は、屋久島の山野や海川で修行をしていた。
その時は、人間社会との関係を絶ち切って、自分の心身の気を、高めて居たのである。
屋久島の岩や山、其れに草木や小動物達と気が通じ、水や空気を自分の身体と一体に感じて、太陽や月と、意志が通じるのを感じていたのである。
その時の事を思い出すと、正に人間は「地・水・火・風・空」の五大要素が自分を生み出しているのだと、その理を実感として受け取っていた。
その時の私は、余りにも人間社会と隔たっていたので、理解者は無庵師匠の他には全く居なかったのである。
私自身も、自分に起きている現象が、理解出来ない有様だったのである。ただ、精霊の告げる侭、手足の動く侭に、日々を過ごしていたのである。
其れから20年が経過して、あの頃の日々の事が、何だったのかは、ようやく自分なりに理解が出来る処まで来た。
現在・いまは、20年前の様に、無我夢中で事を成す事は無くなり、静かな気持ちで、日々の変化や、人々との関わりを処理している。
其の私に、「気を強くし 悟りの範囲を増せ」とは、又修行を始めろとの意味に取れる。ようやく力が抜けて、ゆっくり人生を楽しむ事が出来るのかと想っていたのだが、そうもしては居られない様である。
今日感じ取っている事は、真言宗の御本尊である大日如来は、インドの「マハーヴァイローチャナ」の訳語で、マハーヴァイローチャナとは「宇宙の真理」の意味で、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」は「真理の本体」を意味するらしい。
真理の本体とは、宇宙の森羅万象全て、形ある物全てと言う意味らしい。
そして、森羅万象には意志が有るとの事で、その意志が、人間の姿形を採って言葉を生み出しているのだと説くのである。
人間も、宇宙の意志が、物質化した一個の物として、存在していると言う訳だ。だから人間も、地水火風空の働きで生み出されたものであり、宇宙の一部と言う事になる。
その一人である私が、自分の存在意味を知って、その五大要素に通じる気を高め、物との関係性を深めて、事に当たって行かなければならないらしい。
昔の人達も、その理を知っていて、寺院に五大要素の現れとして、五重の石塔を建てている。
私は、昔の人と同じ様に、五重の塔等を建立する気持ちは更々無い。有るのは、20年前の様に、自分自身の気を高めて森羅万象と一体化し、新しい世界を現出化して行くだけである。
弘法大師空海は、中国の、唐の長安の青龍寺の管長である「恵果和尚」より受け継いだ法統を、次に受け継ぐ者が無く、仕方なく未来佛が現れるのに賭けて、食を断ち、身を滅して自分の魂を切り離し、現代の世まで霊界に存在して、弥勒菩薩・マイトレーヤの世を創出する為に、努力を積み重ねている。
其の空海が、自分の心臓を止めてから、既に1169年が経過している。
空海の1169年の意いからすれば、私の20年間の修行等、無きに等しいと言えるだろう。
しかし、1169年間もの間、空海の念い(おもい)が現実化せずに、今日迄続いているのだとすれば、今後の私の行動には、空海の本当の気持ちが、乗り移って来るのかも知れない。
その現象が、今朝のメッセージであれば、未来佛の現れる兆候とも言える。
私自身には、何も判らない。
私に出来る事は、自分の気持ちを少し引き締めて、毎日の現象に、対処して行くだけである。
仏教の祖師であるインドの釈迦仏陀は、「頼れるのは 自分のこの身だけである」と謂っている。自分以外には、他に頼れる神も佛も無いのである。
この自分の身を頼りにして、森羅万象と通じる時、自分がブッダと成り、宇宙の真理の本体として、存在を続ける事に成るのだ。
そうなってこそ、宇宙の存在が図られ、神々が大役を果たす事と成る。
今朝のメッセージは、私にも、其の世界にしっかりと根を生やせ、との事として受け取っておこう。
平成16年9月21日
礒邉自適
2004/9/20
生存競争
16・9・20
今朝のメッセージは、若者の遊びや生活に付いての、課題に関しての事であった様だ。
今朝の物語は、オートバイのレーサーが主人公で、他に一人の若い娘と、少し年輩の修理工が関係者として出て来た。
始めに、なかなかハンサムで健康的な若者が、二人現れて練習をしている。
其の若者の応援者として、一人の若い女性が居た。
そして近くの建物には、オートバイの修理をする熟練工が一人居る。
他にも、競争相手の若者が居る様だったが、其の人達はメッセージには関係無いらしく、姿を見せなかった。
若者が、荒地の山道で練習をして居るので、私は娘さんの働いているレストランに食事に行った。
その店には、魚の生簀が有って、娘さんが「どの魚にしますか」と聞くので、私は生簀の中を覗いて見た。すると、赤とか、黒とか、青色の魚が泳いでいる。
私は、其の中に食欲をそそる様な魚がいないので、選ぶのを止めて、横に居る女性の姿に目を移した。
生簀の縁に、身体を折り曲げて、生簀の中を深く覗き込んで居る、其の娘さんのお尻が大きくて、とても丈夫そうなので、私は安産型の女性なのだと意った。
そして場面は変わり、私は若者と、娘さんと三名で、公園の様な所に立って居た。其れは、若者の仲間の一人が亡くなったとかで、二人が記念に植物を植える場面だった。
花木の根元に、蘭の様な植物を一株植えて水を掛け、何故か、女性が赤いヘルメットを保護の為に、其の蘭の上に被せた。それで、其のメッセージは終ったので、何を伝えて来たものなのかハッキリしない。
考えてみれば、映像に現れた人達は若者だが、本日は敬老の日で、老人の為に設定された祝日である。
老人の日に、元気な若者だけが出て来たのは、何の意味が有るのだろうか。
私なりに、今日のメッセージの意味を考えて見ると、若者達が、普通の仕事ではなく、オートバイの競争をする為に活動しているのは、男性には競走(競争)が、生きる為の目的であると知らせて来たのだろうか。
自然界の動物を見ても、雄は、雌を得る為に、闘争を繰り返す事で能力を高め、遺伝子を進化させて来ている。
雄の闘争本能が、進化の原動力とも言えるのだ。
今朝のメッセージには、雄の闘争の原因である、雌も出て来ている。
若者に関わって居るのは、健康的な女性で働き者であり、植物を優しくいたわる心を持つ、安産型の娘である。
其の娘さんが行なって居た事は、魚の色や大きさ等から、どの魚にするか選びだす行為である。
女性は、子供を産む事が、天に与えられている運命である。其のさだめを真っ当するには、良質の遺伝子(種子)を選らばなければならない。
其の、女性の本質を知らせる為に、魚を選ぶ場面が、映し出されて来たものと思える。
今朝のメッセージは、人間が地球上の生物として、本来の働きを取り戻す為の、本質の処が知らされて来たのではないだろうか。
男性に必要なのが、競争する為の体力・気力・勇気・そして技術力などである。
現在社会は、科学力が発達して、男が、男性的な特質を鍛える場が無くなってきている。
コンピュータに向かって、頭の作業だけを毎日行なっていれば、肉体的機能は退化して行くし、動物的な本質も消えてしまいかねない。其れでは、女性が男性を選ぶ規準も、生物の本質から外れてしまい、相手の色模様や、動きの良否を、見分ける能力を失ってしまいかねないのである。
現代女性が、結婚相手を選ぶ条件が、三高で「背が高い」「学歴が高い」「給与が高い」だとの事だと聞く。
相手の魂しいや、自分との相性等は、二の次に考えられているのである。其の所為かどうかは分からないが、離婚率が高く成っている事だけはハッキリしている。
「貴方百まで わたしゃ九十九まで」との言葉が、死語になるのかもしれない。
離婚率が高まると言うことは、両親が揃っている子供が、少なくなる事でもある。
子供達や、若者が、どういう大人に成りたいかと言う、目標が無く成れば、社会から希望が失われる事に成る。
そう成らない為にも、子供や若者が、夢や希望を持ち、安心して自分の将来をイメージ出来る様な社会を、創出しなければ成らない。其の為に、人間の本質を、改めて自覚する様に知らせて来たのだろう。
現在、老いを迎えて居る人達は、皆、悲惨な戦争を体験し、苦しい思い出を抱えて生きて来て居る。
此れから、10年先、20年先に、老後を迎える人達が、何事もなく安定した生活を送れる保障は何も無い。
ハッキリ言えば、人類の未来社会がどう成っているかは、誰も予想出来ない状況なのだ。判っている事は、現在の世に生きる我々が、どの様に未来を準備するかに掛かっている事は、間違い無い。
私達の老後の為にも、現在の若者達の生き方を、正しい方向に導かなくては成らないだろう。
若者は、皆良い社会を望んで生きて居るのである。私達の希望は、其の若者達の純真さの中にあるのだ。
平成16年9月20日
礒邉自適
2004/9/17
無明の世界に明かりを灯す
16・9・17
今朝の映像に現れた、神のメッセージは、是から、始まる屋久島の出来事を、金儲けとしてはならず、混迷している現代社会の灯明として、考えなければ成らないとの事の様である。
現れた映像の場面は、屋久島に産する金色の土が、黄金に変る場面が映って来て、其れを、人々に渡して拡げる事に、私も関係していた。
処が、その黄金は、月日が経つと元の砂に戻ってしまう事が判明し、私も島に居づらくなり、屋久島から出て行く事に成った。
しかし、私は直ぐに、新しい答えを手にして、屋久島に帰って来た。
私が、手にして帰った物は、金色に輝く物ではなく、真黒の物であり、其れが何だろうと意っていると、「カーバイド」と言葉が知らされた。
カーバイドとは、炭化カルシウムの事で、水を掛けると燃えるガスが発生する物質である。
私が子供の頃は、懐中電灯が無く、暗い夜道を歩く時や、何かの作業をする時は、其のカーバイドを利用するガスランプを使っていた。
明治時代の、都会の街路には、其のガスライトが灯されていたのである。
ガスライトは、現代社会の電気照明の様に、澤山の数や、強い大きな照明ではなく、仄かな雰囲気を醸し出す物である。
今朝のメッセージは、屋久島を金儲けの場と考えてはならず、世界人類を救う、静かな灯明の島と、しなければ成らないとの意味だと想われる。
人間の行動には、何時も物や財貨が付き物である。
だから、何時も、物質に心が奪われない様に注意していないと、いつの間にか、意識は、物質やお金の世界に逸れてしまう。
現代の人々は、何か、お金に成る事が有ると、直ぐに集まって来る。
其れだけ、お金に意識が集中しているのである。
屋久島を、そう言う人々の、集まる島にしては、成らないとの理・ことであろう。
私も、以前は屋久島で事業を行なっていて、経済の世界に身を置いていた。
その様な私だから、金の話をすれば、人々の気を引く事は知っている。
その事が、私の意識の内に有って、物事を簡単に進める為に「お金になるよ」と、口に出ているのかも知れない。
口に出ていなくても、相手にそう受け取られていれば、同じ事で、神が計画している屋久島の出来事が、スムーズに進まなくなる恐れがあるのだろう。
その心配が、神側に有って、私に注意をして来たものと想われる。
一昨日15日には、「菅野マコさん」という絵を画く女性が、屋久島を訪れたので、島を案内した。菅野さんは、7年前に神に夢で視せられた場所を、7年間も全国を捜し回って居ると云う。
其の場所が、昨日島内に見付かって、大変な喜び様であった。
近頃、菅野さんだけではなく、他にも数名、同じ地区に、神が神社の様な建物を欲しがっている事を、知らされている方々が在る。
「社」とは、神様が、人間との結びつきを図る場として、必要とされる建物である。いま神様達は、新しい世界を創造する為に、古い形や、概念の無い、神聖な場を必要としているのだろう。
神降ろしを行う場所を、「サ庭」と呼ぶ。
「さにわと」は、斎(い)み清めた場所で、神と飯を共食する場であり、サ庭のサは神稲の意である。
神聖な場所で、神稲を神霊とともに共食する時、神の世界と、人間の世界が一体と成るのである。
その同じ儀式が、天皇家に伝わる「新嘗祭」の儀式である。
その大事な儀式の場として、島の真南の土地が選ばれているらしい。
その土地の裏山には、「破沙岳・はさだけ(1259m)」と、「七五岳・しちごだけ(1466m)」の岩の山頂が見える。
特に、真北に位置する七五岳の延長線上(東経130度30分)には、「中島の頭(1678m)」「ネマチ岳」「神様の窪」等があり、島の北端「矢筈岬」を通るその線は、地図上では「開聞(かいもん)岳」の「枚聞(ひらきき)神社」や、久留米市の「水天宮本宮」、大宰府の「天満宮本宮」、宗像市の「宗像大社」を一直線で通じている。
屋久島の真南の神庭での神事は、島だけの祭事ではなく、九州全域に通じる祭事であり、日本から、世界に拡がる未来への灯明と成るのであろう。
「東経130度30分」http://blog.livedoor.jp/miitsuline/
私は20年前(1984年6月4日)に、屋久島で4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受け入れて、神の働きを助けて来た。
その結果が、ようやく現れ出ようとしているのであろう。
1987年8月6日に、其の4311体の神霊は、私の肉体から光の玉として離れて、空中に散って行った。其れから17年が経過している。
私は、目に見えない世界を、17年間掛けて、新しい方向に導いて来たのであろう。
今月22日より、大事な役目の人達が、屋久島に入り始める。
何か、新しい流れが起きるのだろう。
今朝のメッセージは、その新しい出来事に対する、私の心構えを、諭して来た現象と想われる。
私は、是から静かに、世界の人々の灯明と成るべき姿を、思念しなければならない時節を迎えた様である。
16年9月17日
礒邉自適
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