2004/7/11
行三昧
16・7・11
今朝のメッセージは、「行三昧・ぎょうざんまい」と文字と言葉が出て、二つの場面が映って来た。
行三昧とは、行(おこなう・おこない)は、三昧(梵語・samadhiの音訳、三摩地・三摩提とも定・正定・等持・寂静などとも訳す。
心が統一され安定した状態。ひとつのことに心が専注された状態。(広辞苑)
とのことだから、私自身は特別な行ないをしなくても、寂静を正定して居れば良いのだろう。
二つの場面の一つは、誰かの辻説法が有るらしく、道路の交差点に大勢の人達が、其の人物が現れるのを待っている。
私は、少し離れた場所に立って居たので、車の運転をしたり、辻説法をする等の、開催者の立場ではない様であった。
次の場面は、教室の様な所に机が並べられており、是から、誰かの講演が始まるらしい。私は、友人と二人で会場に着き、出入りが楽な端の方の席に着いた。
楽屋の方に向かう講師が見えたので、近くに行くと60歳位の大学教授の様な品格のある方で、奥様か女性秘書の方かは判からないが、同年代の女性が一人付き添って居た。
両方の場面とも、私が話をする側ではなく、話を聞く側の立場にあった。
と言うことは、私自身は三昧で良いが、誰かは判からないが、話をする事が役目の人を捜し出して、其の人を、見守る必要があるとの事だろうか。
私は、20年間掛けて、自分の感じた世界を、ようやく言葉に出来る様に成って来た。
其の事を、自分が大衆に向かって直接話すのではなく、大衆に分かり易いかたちで話せる人に、自分の体験を伝えれば良いとの事なのだろう。
私自身は、毎日、天意を受け取り、其れを人間の言葉として変換し、人々に伝えなければならない。
しかし、私の言葉が、直接大衆には理解されないのであろう。
私が、行三昧を実行出来る為には、話す事を役目とされて居る人を、先ず捜し出す必要があるのだろう。
昨日のメッセージには、紫布が現れ「帝・みかど」や「神仙」の言葉が、世に広まる時節が到来している事を知らされた。
今朝のメッセージは、其の帝や神仙が、直接に大衆に話をするのは、正しくない事を知らせて来たのだろうか。
何れにしても、私が演説をする必要は無い様である。
平成16年7月11日
礒邉自適
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