2004/6/22
寿命
16・6・22
今朝のメッセージの映像は、私が傾斜の有る田舎の道を登って行くと、左側に神社の様な建物が在り、その正面の反対側に大きな木が三本立っていて、一番左側の木が立ち枯れと成っていた。
其の日は、村の奉仕作業の日で、私を含め三名の人間が、その枯れた木を切り倒す役目として残った。
早速、一人は木の上に登って行き、上の方の枝を切り落とす作業に取り掛かった。
私は、根元の所に居て、もう一人が、根元の大きな部分をどの様に切り割ったら、利用価値が高いかを考えて居るのを眺めていた。
其の現場の近くの畑に、70歳位の小母さんが居て、私が話し掛けると「あの木は 私の先祖が植えて 村に寄付したんだ。」と云った。
其の大きな木は「欅・けやき」の様で、根元の方では、テーブルを作れる程の大きさが有った。
今朝のメッセージは、何を意味するのかが良く分からない。
木は、いつかは枯れるとの意味なのか、後世の人達に、利用出来る物を残せと言う事なのだろうか。
今日は、6月22日だが、旧暦では5月5日で、昔なら、本日が端午の節句の日である。
端午の、「端」は始まりの日の意味で、「午」は二人で交互に突く杵の形で、交互になるの意味から、陰陽の変わり目の意味に使用されている。
時刻の正午は、午前と午後の変わり目・中心とされており、太陽の位置が天中にある時の、地面に立てた棒の影を計る事から生じている。
時計の「トケイ」の読みは、土に出来る影を計る「土面はかり・土計」からきている。
昨日6月21日は、夏至だったので、一年の内で、一番の午の日であった事になり、太陽暦では意味ある日であった。
旧暦の5月5日は、私にとって一番思い出深い日付でもある。
丁度20年前の、6月4日が旧暦の5月5日であった。其の日から、私の人生は、自分の事から、神の事へと変ってしまったのである。
20年前に、メッセージを受けた旧暦5月5日に、神社の御神木が枯れて、その大木を切り倒して、利用する霊夢を見せられたのは、どの様な意味に解釈すれば良いのだろうか。
何百年も生きる欅でさえ、御神木とされていても、永久に生きて行けるわけではない。何れは、枯れて朽ちるものなのだ。
しかし、今朝のメッセージでは、その木を如何に利用し、生かして使うかがテーマであった。
其の意味を、私なりに考えると、その木は自然に生えた木ではなく、昔の人が植えた木であり、其れが千年位いで老木と成って枯れはするが、後世の人々に利用される事で、役に立つとの意味であろうか。
大きな木が枯れて、空いた地面に、又新しく芽が出て成長して行く。
其の過程は、植物の暦「午」の世界とも受け取れるし、また人類の歴史で言えば、昔の人の教え(習慣)が枯れ、後世の人々が、其の教えの一部を、上手に切り取って利用し、生活に生かして行く事とも受け取れる。
今朝の映像で、木を切る作業をしているのは、三名とも年配の男性で、近くに居た女性も年輩である。
其の年配の女性は、静かに、其の様子を眺めて居るだけであった。
やはり、何かを変える作業をするのは、男性の役目の様である。
人間の一生も、木の一生と同じだと考えれば、何かを残しながら、世代交代をしていかなければならない。
今日は、月に関する旧暦の陰の世界で、私の役目が20年目の正午となり、何かが変り始める兆しなのだろうか。
もう、私も、枯れる準備をして行かなければ成らないのかも知れない。
平成16年6月22日(5月5日)
礒邉自適
2004/6/4
逞しく生きる
16・6・4
本日は、私の人生が急激に変化してから、丸20年目の大事な節目の日である。
今日は6月なのに、前線の影響で強風が吹き、海上も6メートルの高波で、フェリーも高速船も欠航と成っている。
春一番だと、南西の風が吹くのだが、今日は北東の風が吹き、屋久島では冬型の空模様である。
今日は、太陽・地球・月が一直線に並び、月は一番大きく見え、一年で一番潮位が下がる大潮の日だが、海に磯物取りにも行けず、一日中自宅で本を読んで過ごしている。
目が疲れたので一休みすると「逞しく生きる」との言葉が、頭に浮かんで来た。
直ぐ、広辞苑で「逞」の漢字を調べると、
「逞しい」@存分に満ちている。豪勢である。と 載っている。
今度は、漢語林で調べると
@ たくましい。㋐こころよい。たのしい。㋑強い。勇ましい。さかんである。
A たくましくする。㋐こころよくする。強くする。さかんにする。
㋑ほしいままにする。思う存分にする。㋒つくす「尽」きわめる「極」。
B く「解」。ゆるやかにする。C速い。すばしこい。
と 載っており、以外と意味合いが広い。
文字の成り立ちは「辶+呈」で、音符の呈は むきだしにするの意味。
自分の意志を むきだしに物事をすすめる意味から、たくましいの意味をあらわす。と有り「辶」は足で行くの意味「彳+止」なので、自分の意志のままに、強く進んで行く事を意味しているようだ。
其れは、今日から私に「逞しく生きろ」とのメッセージだろうか。
私は、今日迄の20年間は、神霊の働きに身を委せて、心はその身に従わせて来た。自分の考えで、想い通りに行動する事に制約があったのである。
20年間の修行は、自分の自我心を、コントロールする訓練の月日だったと言える。別の言い方をすれば、忍耐を続け、神の働きだけに対応して来たと言えるだろうか。
例えば、自分が好きな女性に出会っても、自分からは好きと言えず、神があてがう女性とだけしか、付き合いが許されないと言う様なものである。
遊びも仕事も、皆それと同じかたちである。
其れが、今日から、自分の想いや意志を、剥き出して生きて行けとの事だろうか。随分と、混乱しそうなメッセージである。
混乱しない為には、其の真意を、探らなければならないだろう。
其の理由として考えられるのは、次の様な事柄である。
1.神の段取りが整ったので自由にして良いとの事。
2.私の意識が、完全に神意(天意)と同一に成ったので、私の想う事が神意と違いはないとの事。
3.私が好きに動いても、神の対応が充分に間に合う状況に達している。
4.私の想いが、どう動くかも、神の采配で決まる様に、人と物が準備されており、私はそれに順じて流されていくだけである。
5.私が眠っている間に、潜在意識に何を想うかがプログラム化されて行く。
6.私の個人的な脳の働きとは、本来無く、私の脳自体が神の創造物であり、私の個人的な意識は無いとの事。
7.その時、その時の立場や、現場で、直接メッセージが届く。
其れ等の事が考えられるが、確かな事は分からない。
しかし「逞しく生きる」とのメッセージで、私の行動が自由になり、三次元的な此の現象世界で、活動的に動ける段階が、近付いている事は自覚される。
私が20年前、神のカラクリが解ったので笑い出したら、無庵師匠が「笑うな。自適さんがいま笑うと 皆の気が抜けてしまう。皆が其の日に向けて 修行を続けているのだから いま自適さんが笑ってしまうと 皆の大事な修行が止まってしまう」と言うので、私の笑いは、其の日で止まっていた。
明日から、其の呪縛が外れて、私が想う様に動き出して、笑い始めれば、世界はどう変化するのだろうか。
何の立場も無く、所有物の無い私が、楽しく笑い始めれば、世間は20年前と同じく「自適は 又 頭がおかしく成った」と、云い始めるであろうか。
屋久島に帰って二年が過ぎている。
或る程度の、信頼は得ているので、気狂い扱いされる事は無いだろう。後は、私の笑いが、受け入れられるかどうかである。
57歳の男性の逞しさとは、どんなものなのか、自分自身で確かめて行きたいと想う。
平成16年6月4日
礒邉自適
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