2004/5/20
今からが難しい
16・5・20
今朝のメッセージの映像は、60歳代くらいの4〜5名の哲学者の様な難しい顔をした男性が、同じテーブルに座ったり、立ったりしているのが映って、左の後ろ側から「今からが難しい」との声が、ハッキリと聴こえた。
映像に現れた人々は、歴史上でも、今世でも見覚えが無い面々である。
過去の時代の有名な人間で、私が名を知って居たとしても、残されている似顔絵と、本人の印象が異なっていれば、誰だか知ることは難しい。
今朝の夢に出て来た人達は、誰一人名前を明かさないし、文字も言葉も一切無いので、意味を汲み取るのは容易なことではない。
判っている事は、現れた人々が、答えを、未だ手にしていない事と、私の頭の後方から聞こえた、「これからが難しい」との言葉だけである。
私は20年前、36歳の時に無庵師匠に捜し出され、全ての現実世界を捨て去って、真理の探究に身を捧げて来た。
是までの20年間は、過去の世界を生きて居た人達が、私の守護霊として絶えず付いており、成すべき事や、進む方向を教えてくれていた。
其の事が、今朝のメッセージでは限界に達しており、是から先は、誰もが体験の無い世界を進む事になるので、なにびとでも、指導する事が、不可能であると知らせて来たのだろうか。
正確に言うと、不可能と言うのではなく、難しいとの事なので、進む道は在るのだが、指導する側も、受け取る側も、実行する側も、簡単には行かないとの事であろう。
私が、「不可能」だとの語を使用したのは、今朝の映像に現れた人々の顔が、余りにも、難しい顔と雰囲気だったので、不可能に近いと感じ取ったからである。
そんじょ其処らには居ない、偉人や達人が数名集まって、膝を付き合わせて考えても、答えが出ないらしく、誰も瞬き一つせず身動きもしないのである。
特に、中央に座っている人は、長い時間厳しい顔をしていた。
私は、文章を書くのを止めて、目を野外に移して現実世界を見ると、屋久島は台風2号の通過の影響で、朝から強い雨が続いている。
其の、外の景色を見ながら考えて居たが、午後に成っても、何が難しいのか、答えは明らかになっては来ない。
一日中、閉じ籠って模索を続けても、無駄に成りそうなので、手にペンを持って書き始める事にした。
過去の世界を生きた人達が、現世を生きる人達に、伝えられない件とは何であろうか。
現世を生きる人達に、受け取る能力が無いのか、其れとも、実行に移せるだけの勇気の有る者が居ないのだろうか。其れとも、言葉や概念が、不足しているのだろうか。
凡そ600万年前に、類人猿からヒト科が分れ、言葉や文字を発展させながら、技術や文化を生み出して来た。
愛や、平和が説かれ、人間だけがその数を増やし、今や地球の自然環境は限界を迎え、天は人間の扱いに困っている事だろう。
其の事を、知っている聖霊達が、解決法を模索しているのが、今朝の場面ではないだろうか。
天・神が人間を滅ぼそうとするのなら、病気や自然災害を、大量かつ大規模に起こせば簡単に片が着く。
しかし、それでは、此処まで人間を育てて来た事自体が、天の失敗と成るので、其れだけは避けたいのであろうことは、誰にでも予想は付く。
霊界の首脳人達も、その件で悩んでいるものと考えられる。
天や、霊界人達の悩みを解決出来るのは、此の地球の物質世界に、確かに身を置く、私達人間の他には、何者も無いのである。
其れ等の自覚をする人が、60億人の中に数少ない事が、霊界の悩みなのであろう。
世界中には、其の問題に対して、現在・いま心配をしている人は、澤山存在するのだろうが、その解決策に乏しいのだ。
我々人間が、過去の時代に生きたイエスキリストや、釈迦仏陀を、いくら拝む行為を続けても、何の解決にも成らないのである。
彼等以上に、現実的に現象界に取り組んだ人達が、いま方向性を見出せずに居るのである。
此の、我々の住む現象界は、我々人間が実際に動き、事物を動かさなければ、何も変化はしないのである。
其の、人間の動きと、物事の現象が、神や霊界の想いとは、別の方向に流れているのだろう。
神や、霊界が願う方向に、物事を動かそうとする人間は、何時の時代も、反対勢力に何回も抹殺されてきた。
其の事が、又霊界の悩みでもあり、事の難しさともなっている。
神や霊界が、何十年も掛けて育てて来た、虹の戦士が殺されてしまえば、元も子も無くなる。
其れかと言って、何も起こさなければ、事は悪い方向へ流れて行くだけである。
過去に、何度も起きた失敗が、今回は許されないのである。
今回、成功しなければ、もう地球には、遣り直すエネルギーが残っていないのである。
其れは、私が1984年11月に伊勢神宮に参詣した際に、21日未明に伊勢の神が現れて「過去に八回失敗した 今回が九回目で 最後のチャンスだ」と告げて来た事からも、今回の変化が大変難しい事が理解出来るのである。
「定着した画像」http://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
殺される事無く、効率的に、早く変化を遂げるには、如何に進めば良いのか、其れが宇宙全体の現在の課題なのである。
現代社会の人間は、良い結果は、自分の努力の結果であり、悪い事が続くと、神の所為にしたがる傾向がある。
神や、霊界人が、何を望んでいるのかを考えようともしないのである。
イエスキリストが、現在の世の中に降臨しても、又殺しかねないし、釈迦が現れて説法を始めても、耳を貸す人は少ないだろう。
私には、霊界の悩みが、手に取る様に理解出来て来た。
他人に云うより、私自身が、明日から物事に対して、どう対処すれば良いのか、その事が一番の問題の様である。
今日は、私自身が、問題を積極的に受け取る事を、自覚する事で、納めて措こう。
2004年5月20日
礒邉自適
2004/5/19
触官
16・5・19
今朝のメッセージは、鮮やかなピンク色の長い舌の様な物と、昔の中国人の挨拶の様に、両手を胸の位置に組んで、両手が使えない状態の男性が映って来た。
其のメッセージの意味が、分らないまま朝起きて、何時ものテーブルに着くと、昨日友人に借りて来て、読んでいる雑誌「致知・チチ」が目に入り、雑誌名の致知の意味が気に成り始めたので、漢語林で調べて見た。
すると「致知」とは、中国の学問の「大学」の「致知在格物」(チをいたすは ものにいたるにあり)の語から出た言葉で、その解釈には諸説があり、代表的なものは次ぎの二説である。
1.南栄の朱喜の説。全ての事物には、それぞれの理があるから、一つ一つの事物についてその理をきわめて行くことによって(格物。ものに にいたる)やがては、自分の天賦の英知を悟り、きわめることが出来る。(致知を致す)と解した。 {大学章句}
2.明の王守仁の説。物とは、自分の意志の発動する事物をさし、自分の意志の発動する事物を正しくする事によって(格物。物を正す)自分の生まれながらに有する良知をきわめて、明らかにすることが出来る(致知・チをいたす)と解した。 {伝習録中}と、載っている。
是等の事を、私なりに考えると「知るということの 一番の基礎は 物に在り」で、私が是までの人生で考えた理と、一致する共通の概念であると想われて来た。
1も2も、事物に対して、人間の意志が働き、知に至るとあるが、漢字の「事」の文字は、「神に対する願いを 書いた札を 木の枝に着けて 手にして居る」意味だから、人間の行為の代表的な事を表しているので、唯の物が有るとの意味ではない。
「物」と「事」の文字の間には、意味の違いがあり、その違いや関係性を知る事こそ、「致知在格物」である。
私への、今朝のメッセージの意味する処は、腕を組んでいる男性は、行為が一切無い状態を表し、事が無い意味を伝えて来ており、生命力豊かな長い舌は、人間にとって一番物に触れる、最先端の触官を意味し、人間が、物の存在を確認する一番大事な、理・ことわりの世界を示して来ている。
人間の赤子は、指をしゃぶり、何でも口に入れてしまう。
それは、手で物に触り、口で物を確かめる行為である。
今朝のメッセージは、人間が、この世界に生まれ出て、最初に取り込んだ情報が、何であるかを知らせて来たものの様である。
人間は、肉体を持ってこの世に誕生し、その肉体の手や舌を使って物に触れ、自分の自我を組み立てて来ている。
其の、物に触れる世界が違う事で、民族や国の違いが生まれているのである。しかし、3〜4歳の頃までは、何処の国に生まれても、大した違いは無いものと想われる。
猫は、何処の国に生まれても猫であるし、猿は、何処の森に生まれても猿であるのと同じく、人間も又、何処の国に生まれても、大した違いは無いはずなのだ。
其れが違って来るのは、舌に触れる物や、手を使って行なう、行為の違いに因ってである。
触れるの「触」の漢字は、元は 「角+蜀(虫)」の組み合わせで、音符の「蜀・ショク」は、目の大きな虫が澤山群がっている象形である。
蜀は、桑の葉に群がって葉を食べているカイコのことで「触官」とは、動物の体で触覚をつかさどる器官。人の皮膚または、カタツムリの触角の類。と、漢語林には載っている。
屋久島も、数日前より梅雨模様で、カタツムリやナメクジが、元気に活動を始めている。
私の食べた野菜に、カタツムリの卵か、ナメクジの粘液でも残っていたのだろうか。私の体内に、カタツムリの触覚が蠢いて、今朝のメッセージに成ったのだろうか。
それとも、昨日、何年か振りに手にして舐めた、ソフトアイスクリームの舌触りが、舌の本能を目覚めさせたのだろうか。
何れにしても、昨日借りて来た、雑紙の内容ではなく、表紙にある「致知」の漢字の意味が、理解出来た事は有り難いし、人間と、物と、文字の関係の在り様の「妙」に、神の不思議を感じる今日の出来事であった。
本日の午後、屋久島の「神山小学校」の校長先生が自宅を訪ねて来る。
其れは、今月26日に、午前中は世界遺産に登録されている西部の森で、午後は栗生のキャンプ場の海岸において、小学5年生の子供達に、話しをする打ち合わせの為である。
私が、小学5年生の子供達に、自然の現場で、何を話す事に成るのか、今朝は、その件にも関係が有るメッセージなのであろう。
自分が、屋久島に生まれ、是まで生きて来た体験の中から、子供達に伝えるべき何かを、探り出さなければならないのだ。
長い梅雨の間に、私のするべき事が、見えて来た様な気がする。
平成16年5月19日
礒邉自適
2004/5/10
あからさま
16・5・10
今朝のメッセージは、私が何処かの岩山に登って居て、下り方向にルートを確保しながら、ワイヤーロープを設置している映像を見た。
其れは、他に人影がなにも無かったので、私は単独で、他人が登山する為のルートを開設していた事になる。
私は、既に頂上に登って居るのだから、私自身には必要ない作業である。
今朝のメッセージは、私が、他人の為に登山ルートを作るのに、他の人の力を借りてはならないとの理・ことなのか。其れとも、他の人では、出来ない事だからであるのかは解らないが、私にしか出来ないルート作りの事を、知らせて来たのかもしれない。
朝起きて、今朝の岩山に登って居た夢の事を考えると、私は子供の頃より、度々一人で岩山に登る夢を、見て居た事を思い出した。
其れが、何故なのかを考えて居ると、突然頭に「あからさま」との言葉が出て来たので、直ぐに、其の言葉を広辞苑で調べて見た。
すると「あからさま」の言葉には、「偸閉」「白地」とも当てる。と、載っている。
其の意味は、@たちまち・急。A一時的であるさま。ちょっと。しばらく。とある。
私は「偸閉」が解らないので、漢語林で「偸閉」を調べると「トウカン」と読み、なまける。ひまを求めて心を楽しませること。ひまを盗む意。と、載っている。
私は、是まで、「あからさま」とは、「隠し事の無い様」の意か、「露骨な様」の意としか、捉えていなかったので、上記の@とAの意味がある事は知らなかったし、況・まして「偸閉・トウカン」との語が、ある事は知らなかったのである。
今朝のメッセージから、私が、何を受け取れば良いのだろうか。
岩山に登る意味を、あからさまにしろとの事なのか、其れとも、是から忙しく成るので、隙を求めて心を楽しませることを、考えろとの事だろうか。
確かに、私の思考の元を探れば、子供の頃から、閑を見付けては、屋久島の山岳に登って居た事は間違いない。
山の頂上から、下の町を見下ろすと、客観的に人間の営みを視る事が出来る。
私の物事の見方は、子供の頃からの癖で、目線が、山頂の立場から出ているのかも知れない。
今朝のメッセージを、私なりに解釈すれば、「この世の真実を あからさまにするのには 閑を見付けては 岩山に登ることである」との意味に、受け取る事が出来る。
日本には、佛教や神道のとは別に「修験道」の世界が在って、その代表的な修行の場は、山形県の「月山(1984m)」と、奈良県吉野郡の「弥山(1895m)」其れに、福岡県の「彦山(1200m)」が、日本三大修験の山とされており、全て女人禁制であった。
現在では、女人禁制は、それほど喧しく言われなく成って来ているが、其の分男性の修行も、中途半端なものと成っている。
男性でも、複数や、女人を伴って山に登るのは、単なる登山であって、修験道の世界ではない。
私は、子供の頃より山に登るのは、何時も一人であって複数ではなかった。
人間同士が、会話をしながら山道を歩いても、自然との共鳴は起きない。
私が、今朝、岩山にルートを開発し、切れないワイヤーを張っていたのは、私が案内をするのではなく、続く人々が、登る為の手掛かりとして、切れる事の無い意識のルートを、残せとの理・ことではないのだろうか。
私自身が、直接、誰かに案内されて、真理の山に登り、頂上に達した分けではない。過去の人達の、霊魂の指導に因って導かれての事である。
私の役割も、又、過去の人達と同じく、未来の求道者の為に、ルートを切り開いて、残して置く事ではないのだろうか。
そうであれば、忙しく成って来た今日、閑を見付けては「偸閉・トウカン・あからさま」の世界を、実行しなければ成らないのだろう。
新しいルートとは、絶える事無く、前人未踏の山に布石を残して行く事である。
「偸閉」とは、休む暇など無い、永遠の世界に進む、旅人の世界に通じる言葉なのである。
平成16年5月10日
礒邉自適
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