2004/3/30

タンカン

ポンカン
自然のいきづき
16・3・30
昨日、原集落の「安田さん」のタンカン園に、最後に残ったタンカンを貰いに行き、三本だけ残っているタンカンの樹に登って、実を採り始めた。
完熟している実の傍には、既に新芽が出て来ており、昨年伸びた枝の先には、既に白い小さな蕾も彼方此方に見える。
私は、キャリーボックスに三箱収穫して、車に積んで自宅に帰って来た。
そして今朝の夢に、昨日食べた完熟のタンカンの影響か、タンカンの熟した実が、丸く、元気良く、何回も映し出されて来た。
朝起きて、その理由を考えると、タンカンの木は、今年の春に、実の着く花も咲かさなければならないし、新芽も繁らせなければならないので、タンカンの実を早く鳥や猿に食べて貰い、種を拡散して欲しいのでは、との想いに至った。
植物の果実は、内側の種子が未熟の間は、鳥や猿達に食べられたら困るので、色は目立たない様に、葉と実が同じ緑色だし、果肉も苦くて食べられない様に成っている。
其れが、内側の種子が完成されると、出来るだけ、小鳥や猿達に食べられて、種子を拡散して欲しい為に、果実は甘く美味と成り、色も緑色から目立つ赤色や黄色に輝き出す。
其れが、植物達の生命の特技・わざである。
今朝の夢には、その果実の想い(プログラム)が影響して、タンカンの実が現れて来たのだろう。正に、生命の息吹を感じる出来事である。
今朝の夢で、様々な自然の理・ことわりに気付く。
一つは、私の意識が目として働いており、鳥や猿と同じ視線で、タンカンの実を見ている事である。
葉の緑色の中に、オレンジ色の果実を丸く捉えている。其の、果実の円形の縁には線は無く、丸い形である全体が、粒子状態にいきづいているのである。
其れは、我々の命を支えている太陽が、その円形の縁には線は無く、コロナの活動が、太陽の縁を蠢かしているのと同じである。
そして、果実の縁と同じく、私達人間の皮膚も、一本の線で書き表せないように、生命とは、全てが線状の縁を持たないのだ。
この地球の生き物達は、全てが線で表す事ができない境目を呈して、存在しているのだ。
其の、電子顕微鏡でしか見る事の出来ない、小さな凹凸の世界こそ、生命の「いきぶき」の原初形態と言えるのではないだろうか。
私達の、視覚や脳は、物の形を、線で囲って見る様には出来ていないのだ。
物の形を、色の違いに因って識別して見ているのである。
白い紙に書かれた文字さえも、線で視ているのではなく、黒い色の識別として観ているのである。
様々な色に、輝いて見える草木の花も、縁を線で引ける物は無い。
花の縁こそ、光りのオーラに包まれており、生命の息吹の発露と成っているのである。
今朝のメッセージは、私達人間が、その植物の生命力に因って、生かされている理・ことを、感じさせられる現象である。
食べて欲しいと、願っている植物性の食べ物を、食べる事と、嫌がる動物を無理遣り殺して食べる事には、大きな差が生まれて来るだろう。
私の血の中には、食べて欲しいと願う、タンカンの意識が移り込んで、流れている様である。
タンカンの実の中に在る種子を、大地に還すシステムは、現在の人間社会のライフスタイルには無いが、タンカンは人間がこの世に存在する限り、共生を続けて行くものと考えられる。
今朝のメッセージは、人間の脳の働きや、自然の営みの不思議など、色々なヒントを与えてくれるモノと成った。
私は、屋久島の自然の中に生まれ育って、肌を通して、生命の息吹に馴染んで来た。里の山々は、いま新しい木々の芽吹きで、輝き出している。
私は又、子供の頃の様に、木々の気配の内に、紛れ込んで行きたい衝動に駆られて来る。自然の息吹が、私の五感を、取り込もうとしているのだろうか。
平成16年3月30日
礒邉自適
2004/3/28
清清として(二)
16・3・28
今朝のメッセージは、書店の包装紙に包まれた一冊の本が写し出されて来て、本の題名は「清清として」との意味であることが解った。
そして、包みから取り出された本は、真紅の色である事が見せられた。
今朝のメッセージの意味は、「清清しく生きることは 内側が真紅であることだ」との、知らせなのではないだろうか。
今朝のメッセージで思い浮かぶのは、2000年前に伊勢神宮を創建した、斎宮である「倭姫命」の言葉である。
黒(きたな)き心なくして 丹(あか)き心をもちて
清く潔(いさぎよ)く 斎(ゆまわ)り慎(つつし)み
左の物を 右に移さずして
右の物を 左に移さずして
左を左とし 右を右として
左に帰り 右に廻(めぐ)る事も
万事 違(たが)う事なくして
大神へ仕え奉れ
元(はじめ)を元とし 本(もと)を本とする故なり
倭姫命は、西暦6年頃に、奈良から「天照皇大神」の御杖と成って伊勢に行き、伊勢に神宮を創建して「天照皇大神」に仕えた斎宮である。
今朝は、その倭姫命の霊魂が訪れて来たのだろうか。
「清清として」とは、「清く潔く 斎り慎み」生きる事ではないのか。
そして、包みの中から現れた真紅の本は、「丹き心」を意味しているのではないだろうか。そうであれば、天照皇大神の意志が、私に作用して来たとも考えられる。
私には、今年に入ってから「何もするな」と告げてきている。
其れは、倭姫命の言葉の実行を、する様に告げて来ているとも受け取れる。
大神に仕える者は、物の移動をしてはならないとの事だ。
其れは又、人間の勝手で、作為を起こしては成らないとの理の様である。
私に、何もしては成らないとの事は、大神の働きが、本格的に動き出すとの意味にもなる。
現実的に、現在の様子を見ると、日本全体が、私の望む方向に動き、良い方向に流れ始めている。
私の20年の動きが、無駄ではなかった事が、証明されつつあるのだ。いよいよ、神の大計画が現れ出ようとしているのだろうか。
私は、清清として存在するだけで、自分の役割を果たせるのだろう。
それが、「天照皇大神」の本当の意味ではないだろうか。
平成16年3月28日
礒邉自適
2004/3/7
0・ゼロに還る
16・3・7
今朝のメッセージは、場面が三通り有った。
最初の場面は、湿った布団の湿り程度を調べながら、全部の布団を、湿気が無くなる迄乾かす場面だった。
二番目の映像は、人の血筋の様な、縦の配置図が出て来て、何も無い一番上から、一本の線が引かれ、其の下に横線が一本長く引かれており、その横線の下に数本の縦線と文字が有り、更にその下に横線が有って、其の下には多くの文字が縦に書かれていた。
其の意味する処は、真理は一つであり、多くに別れた考えや、宗教や、哲学や、イデオロギー等を、最初の原点にまで遡って、乱れを無くすとの事である。
三番目は、ピストルを振り回したり、立ち小便をして居た男性が、酒屋に来て自分が朝から酒を一滴も飲んでいないで、素面である事に気付き、自分の意識が正常を取り戻した事を、喜んで帰って行く場面であった。
今朝のメッセージの、三通りの場面から考えられる事は、自分を、何も無い状態に一度戻すとの事であるようだ。
インドの釈迦や、中国の老子は、自分の意識を絶えず、原点に還すことを説いている。
人間は、子供の時から、知識や情報を集めて成長を続けて行く、処が成長しても、其れを死ぬまで止めないで、一生を、他人の知識や情報に汚染されたままで過ごし、あの世にまで、迷ったまま帰ってしまうのである。
つまり、湿ったまま乾く隙がないのだ。
ピストルを振り回す暴力は、年取ったら出来なく成るし、アルコール中毒はお金が無くなったリ、病気に成れば止められるが、宗教やイデオロギーに填まり込んでいる人は、死ぬ迄抜け出る事は出来ない。
そして、彼の世に行ってからも、自分の考えを他人に押し付け様としている。
其の様なパターンは、自分が正しいと信じているので、0・ゼロに返り様が無いのである。
だから、釈迦や、老子は、其の事を止める様に説いているのだが、釈迦の教えは仏教として、老子の教えは道教として歪められ、現在でも、人間の意識を湿らせ続けているのである。
今朝のメッセージは、人間が落ち込んだこの罠から、どうしたら抜け出せるかを、私に考えろとの事だろう。
現在では、どんな家庭にもテレビが有り、昼夜を問わず、知識や情報が流れ込んでいるので、これを変える事は、容易なことではない。
これ等の理は、株式相場や、為替の上下に一喜一憂している人々には、何の事だか解らないだろう。
株式や、為替が上がろうが下がろうが、人間の魂には、何の関係も無いのである。其れ等の情報に染まって、自分の大事な人生を湿らせてしまうのは、折角この世に肉体を授かって生まれて来て、勿体無い限りである。
人類は、神の恵みに因り、自分の肉体の他にも、多くの物質を与えられている。いまでは、その与えられた大事な物質(エネルギー)を、無駄にしている部分が多い。
もう此れ以上、物は必要ないであろう。
私達は、ここらで、もう0・ゼロに返る事を意識しなくてはならないだろう。
人間が、自分で気付いてバランスを取り戻さなければ、神が直接手を下す事になる。
人間のエイズや、狂牛病、鳥インフルエンザ等は、神から人間への「改めよ」との忠告ではないかと想うのは、私一人ではないだろう。
どの様にして、人々に、真理はひとつ(一本線)である理を、説く事が出来るだろうか、今日は、私に新たな課題が生じて来た。
平成16年3月7日
礒邉自適
2004/3/1
主体性
16・3・1
今朝のメッセ−ジは、映像に屋久島の友人が現れて、私の書いた文章を提示し、主体的に書いてある処を書き直して、自分に主体が無い事を、自覚する様に云って去った。
彼は、私が一番信頼している、6歳年下の男性であるが、彼は17歳の時から、私に対して好意を持っていてくれている御仁である。
彼は、私が神業を続ける間も、私の護り神と成って居てくれた。
其の様な、彼の姿を執って、出て来る霊魂は何者なのであろうか。
彼の言葉なら、私が受け入れる事を知っているのだ。
彼の指摘する事なら、私が受け入れると、神霊が考えての、今朝のメッセージなのだろう。
礒邉自適が、自分の能力で、事を進めて来たと話す事は、神の存在が消える事に成り、日本語の「お陰様で」と云う言葉が、意味を持たなくなる恐れが有る。
だから、私の言葉としては「全て 神が行っている事であり 私の存在も 其の神の計画の一部のパターンとして 機能しているだけだ」と、説明するしかないと言うことだ。
神は、6歳も年下の彼の存在を、どうして大事に扱っているのだろうか。
私の感じる処では、彼は精神的に自由に生きており、心も真っ直ぐな動きをしている。彼は、2月13日にも私の夢に出て来た。
其の時は、白い上下の服を着て現れ、私に代わって石積みの基礎を、上手に築き上げてくれた。
其の映像の意味する処は、私自身が経済事の為に、直接動く事が出来ないので、彼が私の代わりに、大事な働きを、担ってくれるとの事ではないだろうか。
そうであれば、彼の存在が、私を、楽にしてくれている事になる。
其の彼が、今朝又夢に現れて、私の主体性を消せと指摘した事は、私が自分で行為をする事を、控える様にとの事であろう。
明日から、熊本の友人が三名で来島して、様々な段取りを進める事に成っている。
今朝のメッセージは、私が口出しする事を止めて、彼等に全てを委任する様、前もって知らせて来たのだろうと想われる。
私が、自由に成ると言う事は、私には、次に大事な役目が待っていると言う事だろう。私が行うべき事は、自分の内側を空白にして、意識的世界に、存在を拡大する事であると想われる。
屋久杉が、何千年も長生き出来るのは、内側の部分を殺して、管理する事を止め、外側の枝だけに成長を任せてしまうからである。
内側に栄養を摂る事を止めれば、梢には栄養が届かないので、木の梢は枯れてくる。其れに構わずに、自分の内側を空洞にしてしまうのだ。外側だけが栄養を貰えるので、木は外側へとドンドン大きく成って行く。
一方、樅・もみの木や、栂・つがの木は、其れが出来ないので、400〜500年で、皆老木と成って枯れてしまう。自分の芯を、何時までも大きく伸ばそうとしていると、長生き出来ないのである。
屋久杉は、ある年代に達すると内側を空白にして、体の外側を大きく拡げる事で、安定を保ち年令を重ねて行くのである。
神の計画が、私の存在を軸として、プロセスを進めて行くのであれば、私自身が、外側の枝葉に働きを委ね、何もせずに安定して存在する事だけを、護持して行かなければ成らない。
其の為には、彼の存在が、なくては成らない事になる。
屋久島には、神々の住む御岳が澤山ある。
彼の他にも、山の神様が付いている人が、何人も居るかも知れない。
平成16年3月1日
礒邉自適
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