2004/2/28
四魂に一礼
16・2・28
私は、今朝明け方4時に、安房に所在する屋久島聖人「泊如竹翁」を、お祭りしてある「如竹廟」に参詣した。
先ず、入り口の御手洗で手を洗うと、「無礼は許さない」と言葉が告げられて来て、今度は廟の祭壇の前で手を合わすと「四魂に一礼」と有り、次ぎに「四魂に代って一礼」との言葉が出て来た。
四魂とは、或る書物に拠れば、「奇(くし)みたま」「幸(さき)みたま」「和(にぎ)みたま」「荒(あら)みたま」の、四通りの神霊の働きとの事である。
人間界も、神霊界も、この四通りの魂の働きに因って、成り立っているらしい。
今朝の言葉の意味が、この四魂の理・ことだとすると「四魂に一礼」とは、神霊界の全ての神々に、一礼する事に他ならない。
そして、「四魂に代って一礼する」とは、誰かが、神霊に代って、人間側に一礼する事になる。
今朝のメッセージは、神に対する礼と、人間に対する礼を、きちんと果たす事を、告げて来ている様である。
其の「礼」を欠く事は、礼が無い事だから、つまり「無礼」である事に成る。私し自身は、是まで、神霊に対して、礼を尽くしたとは言えないのである。
何故かと謂うと、私は以前、自分では、幸福な状態で在ると意って居たのに、神霊の働きが起きてから、家族や仕事や財産、其れに社会的信用など、全てを失ったので、神霊に対して、あまり良い感情を持っていなかったのである。
と謂うのは、自分の人生が、神霊の言う事を信じて、20年遣って来たのに、元通りには成らないし、とても「幸福」とは、他人に言える様に成っていないので、神の存在に対して、あまり感謝の気持ちが湧かないからである。
私は、神に、自分の人生を一時的に止めて、神の為に働かなくては、自分の子供や妻を、護れない事を知らされ、20年間自分の身を投げ打って、動いて来たのである。
其の割には、現在の生活が、恵まれている様には想えない。
神の告げる通りにしておれば、素晴らしい世界に成ると信じて、是まで遣って来たのである。
今朝のメッセージは、私がもっと真剣に、神に対して、礼を執らなければならないと、告げて来たのだろうか。
そうであれば、是から素晴らしい世界が始まるので、其れに対応する私が、人一倍、神に対する礼を執って、他人に示す事で、世界の人達が、本当に神の存在を信ずる事が出来る様に、成るとの理・ことなのかも知れない。
現在の学校の教育は、神霊の存在や、人間が「ブッダ・仏陀」に成れる等の事を、生徒に何も教えない。
だから、人々が、神様やブッダの存在を、信じられなく成って来ているのだ。
人間社会全体が、神の存在を忘れ、自分勝手に行動を続けて居るので、神界が人間に対する援助を、打ち切ろうとしているのである。
私は、神界に、人間に対する最後の希望として選ばれ、20年間訓練を施されて来たのである。
其の私に対して、「無礼を許さない」と告げて来て、私に是から、神に対してと、人間に対して、礼を尽くせと言って来ているのである。
私の是からの修行は、人前で、神に対して一礼をし、また神の代わりとして、人々に一礼する事を、正しく行なうことなのであろう。
そうする事で、本当の神の働きが、人々に対して、奇跡として、示され始めるのではないだろうか。
私は、ただ神に対する礼を、整えて行けば良いのだ。
しかし、その様にして居る、私の見本と成るべき御人は、何処に存在して居るのだろうか。
平成16年2月28日
礒邉自適
2004/2/25
表現力
16・2・25
今朝のメッセージの映像には、私の意識が、母親的な存在に対して、様々な表現的動作を行なっている場面が映って来た。
其の対象的存在は、姿は見えないけれども確かに存在し、私は其の存在に向かって、説明や表現行動を起こしているのである。
私の相手と成っている存在は、ふくよかな中年の女性で、母親らしき雰囲気は有るのだが、自分の母親でもなく、それかと言って、誰かの母親と言う分けでもない。
その方は、尊い女性であり、私が異性的に性の対象として、惚れている分けでもないのである。
学校の先生でもなく、宗教の教祖とか、天皇の后と言う分けでもないので、男性が一番の理想とする、憧れの女性像なのかも知れない。
其の存在を、目に見える形に表現したのが「聖観音菩薩像」ではないだろうか。
今朝の映像は、其の存在が、私に二枚の透かし絵を見せる処から始まった。
一枚の透かし絵を台の上に置くと、美しい絵柄が映って来た。そして、その上に、次ぎの絵を重ねて置くと、絵柄がダブッテしまって、何の絵だか判らなく成ってしまったのである。
私が、建物の中を見回すと、部屋の装飾や、調度品の色調は、淡い桃色を基調としており、女性の住まいである事が判り、部屋に置いて有る毛布に包まると、ふんわりとして暖かく、とても気持ちが良かった。
庭には、大きな温泉プールが有って、グリーン色の水が満たされていて、私は水の中に入って、其の温かさを味わっていた。
やがて、其の場面が終って、今度は私の脳の仕組みを、その存在に説明しているのである。
脳には、シナプスと呼ばれている神経細胞が有るが、私の脳の神経細胞の仕組みは、大きく三組が立ち上がっており、其の三組の上部が全て繋がっており、其の仕組みのお陰で、私の表現力が豊かで有る理・ことを説明しているのである。
どうも、普通の人達は三組が充分に機能していないらしい。三組が機能していれば、若し一組が駄目に成っても、残りの二組が機能しているので、パニックを起こす事が無いらしいのだ。
感情的に「切れる」と謂う言葉は、其の残りの二組の一つが働きを止めた時に、起きる現象を謂い当てている様なのである。
「切れる」の反対の人を、冷静な人と呼ぶのは、三組の脳細胞の神経がバランス良く機能している人の事だろう。しかし、ただ冷静と言うだけで、創造力が貧しい人は、三組のシステムが正しく機能しているとは言えない。
私が霊夢で、人類の未来や、宇宙の真理を視る事が出来るのは、文字毎に神経(神の経路)が正しく機能しているからだと想われる。
今朝のメッセージを、私し成りに解釈すると、自然界の雄の働きと、雌の働きの根源的な役割が見えて来る。
人間の脳は、皮膚の一部が変形して、脳の形に成り、其れを頭蓋骨が後から被って護っている物だから、手の指の皮膚と対して変らないのである。
人間が、自分の手や皮膚に触れる物で、物の判断が可能なのは、手の皮膚と脳が繋がっているからである。
そして、男性と女性の働きの差は、肉体的には、生殖器の違いが行動の差を生み出して、考え方の差となっているのである。
雄と、雌の差を決定しているのは、遺伝子の中の染色体が、女性は24組全部が]・]の組み合わせだが、男性の其れは、中の一組だけが]・Yの組み合わせに成っていて、其れが雌雄を決めているとの理・ことである。
其の一個のY染色体が、貢ぐ者と、貢がれる者の差を生み出していることに成る。
動物の雄は、大体において雌にアピールする為に、様々な工夫を凝らす。其の工夫の努力が、生物の創造力と繋がっているのだ。
人間のあらゆる行動も、其の為の、表現努力に他ならないのである。
今朝のメッセージの内容は、私が雄である事の証として、現れた現象(もの)であろう。それは、私の潜在意識が生み出す、雄の行動パターンに因るのだ。
人類が使用する道具や、文化も、殆ど男性が創造したものであり、女性は、其の伝承に力を貸しているにすぎない。
女性が、其れを無抵抗で受け入れて居るのは、其の事が、全部自分の為である事を理解しているからである。
女性は、其の原理を意識の奥の処で知っていて、上手く雄(男性)を働かしているのだろう。一方、男性は、無意識の処に自分が欠損した部分を持っており、完全な状態に復帰したい為に、女性を対象として、「帰省本能」に操られながら、並々ならぬ努力を続けているのである。
今朝の夢からしても、私の意識の深い処で、雄の働きが働いている事が理解できる。
私も未だ、男性としての機能が働いており、雌の気を引く為に、あらゆる努力をしようとしているのだろう。
其れが、男性の生命力の証しであるなら、私の「生命・いのち」も未だ元気であると言える。其の、男性としての命の表現力が、私の内で燃えている間は、私の未来社会創造のエネルギーも、途切れる事は無いと想われる。
今朝のメッセージで、見せられた透かし絵は、人間一人一人が持たされている、命の設計図なのかも知れない。そうであれば、一人一人が異なる命の設計図を有しており、自分の図と、他人の図を決して重ねてはいけないとの理・ことではないだろうか。
自分の図と、他人の図を重ねることは、自分の個性を失う事であり、自分の「さだめ」を発揮出来なく成るとの理・ことなのであろう。
雄の個性の働きが、新しい世界を創造し、遺伝子を変化させ、生命の進化を促して来たのだ。
現代社会は、教育制度が整えられ、男性が自分の個性を失って来ている。此の侭では、現代社会の問題を解決出来るような、新しい価値観が生まれては、来ないのではないだろうか。
余りにも厚く、強く覆い被さった、現代社会の柵みを、誰かが突き破って、真実の雄に目覚めなければならない時節を迎えている。
無意識の内に住む、永遠の菩薩を、誰が呼び出せるのか、其れは、男性にとって永遠のテーマなのかも知れない。
其の答えが完結した時に、人類は歓喜の瞬間を迎えるのか、あるいは又役目が果たせずに終って、この宇宙は働きを止めて無に帰すのかは、私には分らないが、私という個体が現存すると言う事は、未だ宇宙は、創造を継続中だと言う事であろう。
私も、残りの人生を、女性の機嫌取りに精一杯頑張らなければならない様である。暖かい部屋で、気持ちの良い毛布に包まれて眠れる時までは・・・。
平成16年2月25日
礒邉自適
2004/2/23
真澄の鏡
16・2・23
かがみに、「鏡」と「鑑」が有る事は、以前にも書いてあるが、「鑑」は自分の顔を映して見るもので、「鏡」は現象界の物質を写すものではなく、肉眼では見え無い世界を映し視るものである。
肉眼では見えない世界とは、神の意志や、自分の意(おもい)が映像化されて、自分の脳に映って来る現象を言い現している。
今朝は、其の「鏡」に、神の「パターン(型・様式)」が映像化されて来た。
其の映像では、私は、岩の側に隠れる様に立っており、世間の様子を眺めて居た。自分の着ている服をみると、女子学生の着るセーラー服だった。
何故、私が、女子学生のセーラー服を、着て居なければならないのか。
その意味は、中国の老子の思想に関係が有りそうだ。
老子の言葉には、次の様な物がある。
・「雄の立場を知ったうえで 雌の立場に身を置くならば 万物の源泉になることが出来よう。そうなれば、道に違うことなく 無心にして あらゆるものを受けいれる 赤子の状態に返るのだ」
・「白の本質を把握したうえで 黒の立場に身を置くならば 万物の規準と成る事が出来よう。そうなれば 道と一体になって 限りなく広い原初の状態に返るのだ」
・「尊貴の本質を把握したうえで 卑餞の立場に身を置くならば 万物を包摂する事ができよう。そうなれば 道の全きはたらきを得て 自然そのままの境地に返るのだ」
・「手を加えない原木は すべての道具のもとである。「道」を体した聖人は、すべての人を統率する。真に良く作るとは、手を加えないことである」
と、載っている。
徳間書店 中国の思想 奥平卓訳
私は成人男性だが、今朝の霊夢では、襟の赤い女学生のセーラー服を着ていたので、赤子までには成らないで良いが、純真な女学生ぐらいには、成れとのことだろう。
老子は、他の箇所にも、女性の様に受身であれと謂っている。
現代の世界情勢を見ると、殆どの問題は、男性が起こしている事柄である。
老子の教えが、少しでも行き渡っていれば、世界はもっと、平和であると想われる。
現在の緒問題は、男性の価値観の衝突が原因で起きている。
資本主義・共産主義・社会主義等のイデオロギーと、ユダヤ教・イスラム教・カトリック教等の宗教が、其の要因であるが、イデオロギーや宗教、其れ自体が悪い分けではなく、其れ等を用いて活動している、男性の行動が問題なのである。
2500年前に、老子や釈迦が指摘した事が、何一つ解決されていない様に想われる。
是だけ、世の中は行き詰まって来ているのに、誰かが立ち上がって、新しい価値観を打ち立てる事が、起きないのは、何故なのだろうか。
女性の立場に身を置くと言っても、女性は、新しい創造を起こすのは苦手である。やはり、新しいモノの創造は、男性の能力に頼るしかない。
しかし、何処に、其の能力の有る人材が存在するのだろうか。
前日19日のメッセージには、寝ている男性が、身を起こす場面が映って来た。其の男性は、私の知らない人で、東洋系の30代後半で、スマートな長身の男性だった。
其の男性が実在して、世間に現れるのであろうか。
そうであれば、私も、その人に協力をして、新しい世の中を創造して行かなければならない。
昨日2月22日は、聖徳太子の1382回目の命日であった。
昨日のメッセージには、悪い事をしている者達が、多い事が知らされて来た。聖徳太子も、霊界で、この世の有様を嘆かれて居るのではないだろうか。
何れにしても、私が自分から行動を始めることは、神の意志にはそぐわない様である。
平成16年2月23日
礒邉自適
2004/2/20
いろは祭り
16・2・20
今朝のメッセージには、「3月18日・いろはまつり」と出て来て、くれない色の衣を着けた女性の姿が視えた。
呉藍(くれない)色の女性は、「弁財天・サラスヴァティー」で、紅色の蛇の神で、水の神でもある。
七福神の中の、只一人の女神で「福徳賦与」の神として、湖などの小島に祭られる神である。その女神が現れて、「3月18日・いろはまつり」と告げて来た事に、どんな意味が有るのだろうか。
3月18日で、私が一番気に成るのは、私を捜し出してくれた無庵師匠との、出会いの日付である。
1983年3月18日に、屋久島の安房で始めて師と出会ったのである。
今年の3月18日で、丸20年が経過する事に成り、3月18日が来れば、21年目に入る事と成る。
其の日の「いろは祭り」とは、どの様な祭りの意味であろうか。私は、無庵師匠に出会ってから、自分の価値観や、生活の仕方を全部変えてしまった。
「いろは」とは、伊呂波の47文字を手習いする事で、「いろは」は最初の文字であり、物事の始まりを意味する。
そうであれば、「弁財天・サラスヴァティー」が「物事の いろはから 遣り直しなさい」と、告げて来た事に成る。
今朝のメッセージには、未の妹が現れて「妹の魂の低さは 成長する新芽の部分が 汚染されたからだ」との意味も、告げられて来た。
其の様に言われると、末の妹は五歳の時に父親を失っているので、父親の影響を受け取る期間が短く、私が長男で影響を与えた事に成るので、私の徳の無さが原因と思えるのである。
私は、四人弟妹を抱え、生きるのに精一杯だったので、精神的な余裕が17歳の少年にある分けが無く、精進だとか、精錬などの言葉を知る由も無い頃である。
父の死から20年間、37歳まで必死に生きて、37歳から無庵師匠の教えに従って、精進や精練などの生き方を学んで来た。
其れから、又20年が経ち57歳を迎え、新たな20年が始まる事に成る。
昨日は、自然食の店で水菜を買って来て、夕食にて其れを食べた。
其の水菜のエネルギーが、「弁財天・サラスヴァティー」を招引する事に成ったのだろうか。
屋久島は、山岳の島で、水と緑が豊かな島である。
弁財天が、祭りの順備をしろとの事は、水の祭りでも有るのではないだろうか。
水は、人間の魂を浄化するのには、なくてはならない物である。
キリスト教の教祖である「イエスキリスト」も、ヨルダン川で禊ぎを受けて聖霊に満たされているし、仏教の教祖である「釈迦仏陀」も、池で水浴をして悟っているし、神道の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、小戸のあわぎ原で禊ぎをして、神の働きに目覚めている。
水を支配する者は、御魂を支配する者と言えよう。
その意味からすれば、イエスも、釈迦も、伊邪那岐も、弁才天の下部と言うことが出来る。
私も、安房川の川辺で水の禊を行って、4311体の聖霊に満たされ、神の道を歩き始める事と成った。
屋久島が、聖霊の集まる島であれば、須弥山の島、妙高山・妙光山の在る島とも考えられる。
屋久島の葬儀では、お墓に御霊屋が建てられ、其の小型の家屋の壁には、「先島丸・さきしままる」と言う名の、船の絵が画かれ、花や、酒の徳利と盃が書き添えられる。
其れは、死んだ霊が、極楽へ旅立つ事を祈る為である。先島が、何処に在るのかは、誰も知らないので、その信仰は、島外から伝わった風習であろう。
島外の人達が、何処かに存在する島として、考えた島が、屋久島である可能性はある。先島とは「幸島・さきしま」であり、幸は「さきはえたまえ」のさきの当て字であるが、先島丸の先はこの幸であろう。
「島・しま」は、孤高とか孤立の意味で、或る区切られた地域の意味を表す文字である。
「さきしま」とは、幸が在る或る区切られた地(島)の意味を示しており、「丸」は船の意味で、その地に行く乗り物を意味する。
現代では、船だけでなく飛行機もある。
別に、丸とは、船だけに限定する必要は無い。
死んだ者は、肉体が無く、霊魂だけなのだから、屋久島が妙高山であると知って居れば、死んだら、屋久島に直ぐに飛んで来られるのである。
その事を、皆に知らせるのが、3月18日の「いろは祭り」と言う事に成るのだろうか。
妹達には、申し譯・わけ無いと思うが、妹の子供達や、孫達には、正しい価値観を残して遣りたいと意う。
「いろは祭り」が開催されれば、私の父親としての役割も、果たされる事に成り、無庵師匠の意いも完成する事に成るのではないだろうか。
全てが、屋久島の水の働きに在るとすれば、私は、水の神である「弁財天・サラスヴァティー」に身を委せて、生きて行くしかないのだ。
平成16年2月20日
礒邉自適
2004/2/17
神に一番近い道
16・2・17
今朝のメッセージは、小学校の高学年の男子生徒と、行動を共にする場面だった。
学校のグランドに、30名程の男子生徒が、上半身裸でショートパンツを穿いて、背の高い順番に並んでいる。
私は、その列の一番後ろに付いて一緒に走り始めた。
すると、校庭を一周しないうちに、子供達は、グランドから外道に走り出て行って、見えなくなってしまった。
次の場面は、山に登る為に、山道を、中学生か高校生位の男女の子供達と歩いて居たが、私は上り坂で付いて行けなくなった。
今朝の夢を、私なりに解釈すると、夢の中では、自分の年齢の事が判らずに、子供の頃の場面や、若い時の体験が夢の舞台に成っているので、自分が年をとっている事が、分からないでいるのである。
「年寄りの冷や水」との諺が有るが、年をとっても、若い頃の、元気で丈夫な時の思い出が、自分の意識を占めており、今でも、その頃の様に出来ると思い込んでいるのだ。
しかし、実際にその事を遣ってみると、全然出来ない事が多い。
私も夢の中では、自分の若い時の思い出の映像が、存在の場を、設定している様である。
私は、今朝の夢の事を考えながら、人間は肉体を有していなければ、歳を取ると共に、どの様な意識に成るのだろうと考えて見た。
すると、人間は、肉体が有るからこそ、体験を積む事が出来て、意識を積み重ねる事が出来、また夢も見る事が、出来るのだと気が付いた。
人間は肉体を持ち、目・耳・鼻・口・手・足を使い、見る・聞く・嗅ぐ・食べる・触る・歩く事で、自分の意識を組み上げて行く事が出来るのである。
他にも、走れば呼吸が苦しく成る事や、お腹が痛くなる事など、肉体が有るお陰で、様々な体験が出来るのである。
人間は、其れ等の体験を通して、心(こころ)の変化を知り、魂しいを成長させて行くのである。
夢も、其の一つの表われであり、夢は、心や魂しいの成長には、欠かせないものである。
今朝の夢では、山道で遅れてしまった私は、鋸と鉈を使って、山道の手入れを始めたのである。
私は、もう自分が走ったり、山を登る事を止めて、子供達が、走ったり山を登ったりの体験を積む為の、お膳立てをする役目の方へ、行動パターンを変えなければならない年齢であると、自覚をする事と成った。
人間は、どうして、人間として此の地球に生活する必要があるのか。
其れは、人間とは、神の創造物であり、神自身が認識を積む為に、人間の姿をとっているのである。
夢は、その働きを、垣間見る事が出来る世界なのだ。
人間が、肉体を持ち、様々な体験が出来る世界こそ、神が、自分の存在を深める事が出来る、世界なのである。
私達人間の、本来の目的は、肉体を維持する為に「衣・食・住」の事を考えるのではなく、此の肉体を最大限に生かして、神の摂理を深めて行く事なのである。
その理に気付けば、神社や、寺院や、教会等の建物は、必要ではない事に成る。
自分が、神の為に、精霊の力を借りることは良いが、自分の欲望の為に、神社や寺院や教会で祈る事は、道から外れている事に成る。
神に一番近い道は、神社や寺や教会にあるのではなく、未来を担う子供達が成長する為に、日々活動している、人間の現場に有るのだ。
私達が、一番重要に考えなければならないのは、子供達が、如何に、正しい道を歩けるかと言う事を、絶えず考え続けるかにあるのだ。
その秘密は、難解な書き物の中に有るのではなく、日常の生活の中に隠されているのである。
その証として、私の存在が在るのだろう。
私の視る夢こそ、その扉の鍵なのだ。
其れは、少しも難しい事ではない。
古代の人達が、云い続けて来た、禊ぎ祓いや、精進こそ、其の道なのである。私は、その事を忘れずに、日々を唯生きているだけである。
神に一番近い道とは、一番易しく、誰にでも今日から取り組める、一番簡単な方法であり、誰に相談せずとも、自分一人で、直ぐに始められる事なのである。
折年祭 平成16年2月17日
礒邉自適
2004/2/11
何者かが先を知っていて導いている
16・2・11
今日は、建国記念日(紀元節)である。
今朝のメッセージの映像は、誰かが敷布団を運んで来て拡げたら、10数m程の長い物で、大き過ぎて使い回しが利かない。
そして、別の者が途中を切断してしまったら、今度は1・5m程で足が出てしまい、布団としては使用出来なく成ってしまった。
今朝のメッセージが、建国記念日を意識しての事なら、布団は、治める国の広さを示して来ているのではないだろうか。
過去の歴史を見ると、無理して国土を拡張した者は、其の国土を治め切れずに潰れているし、反対に人口が多いのに国土が狭いと、民は国外にはみ出してしまう。
其れ等の問題を、解決する方法としては、国と呼ぶ敷地を設定しなければ良いと言う事になる。
国や、国民の違いが、文化の差を生み、国土の設定に繋がるのだから、統一された文化が存在すれば、国の敷地を決める必要は無く成ってくるのだ。
人類は、約600万年遡れば、アフリカで誕生した一人の母親から、別れた者同志だとの事だから、又もう一度、一人の母親の源に意識を返せば、同じ価値観に至る事が出来るのだ。
其の母親の名を、何と呼べば良いのかは、私には分からないが、人の名ではなく神の名なら、現在使用されている名に、ギリシャ神話の大地の神「ガイヤー」が在る。
それは、地球には、大地に意志が在るとの考えから来ている。
私の人生を、振り返って考えてみても、何者かが、私を育んで来た事が理解出来るし、其れを、大地の神・地球の魂と考えても、何等不思議な事ではない。
何者かが、私を導いて、現在まで事を進めて来て居るのだ。
現在、世界では、数ヶ所にて国や民族の対立があって、戦争が行なわれているが、其れは、主義や、宗教・文化・風習等の違いに原因がある。
誰も、好んで、争いを続けている分けではないのだ。
母親の立場から見れば、子供達が切磋琢磨するのは良いが、殺し合いに迄で発展する事は、喜んではいないだろう。
子供達の中から、立派な指導者が育ち、皆を善い方向に導いて行く事を、望んでいるのではないだろうか。
其の母親の希いが、私の霊夢と成って、現れ出て来ているのかもしれない。
1984年3月13日の朝、太陽の日の出と共に、有った一言のメッセージで、私の人生は根底から変わってしまった。
37歳で、私の人生は、本質の処から変化してしまったのである。
其れは、無庵師匠との出会いが切っ掛けではあるが、其の師を使わした、何か大きな目に見えない働きが在った事は、認知出来ている。
作日は、旧暦の1月20日で二十日正月だった。
今朝、私の子供の頃からの呼び名で、「ジー」と呼ぶ、男性の声がして目を覚ましたが、人間が誰か居る分けではなく、霊界人の誰かに、起こされた事だけは判った。
しかし、それが、霊界に居る誰なのかまでは判からない。
昨日は、学校造りの件も、思い掛けない方向に進んでしまったし、今朝は「自分でするのか?」との、問い掛けの声も有った。
私の役割は、自分で、国を治める事をするのではなく、どの様にしたら、人類が幸福に暮らせるのかを考え、実行に移せる人材を、選出する事にあるのだろう。
私の霊夢は、私が、自分の事を観るのではなく、何者かが、私の脳のシステムを使用して、此の世界を組み立てる情報を、知らせて来ているのだと考えられる。
其の、何者かの大元締めが、「ガイヤー」の働きなのかも知れない。
其れを、「天照皇大神」と呼ぶのなら、私も妥協するしか無いのだが、其れは、世界人類が皆、其れを認めて受け入れ、共通認識に至ればの話である。
今の処は、其の存在を「ガイヤー」か「サムシング-グレート」かの、差し障りの無い名で呼ぶしかないだろう。
私を導く、目に見えない何者かの働きが、今日も存在する事だけは、間違い無い様である。
平成16年2月11日
礒邉自適
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