2003/10/29
文字もお金も無い村
15・10・29
今朝のメッセージは、昨日、宮之浦に在る自然食品店「みみ商会」で買って来た、有機農法無農薬の野菜を食べた所為か、スッキリとした内容だった。
私が、何かを探して歩いて居ると、森の中の道路の雑草を、刈り取っている40歳ぐらいの美しい女性に出会った。
其の女性は、一人で森の中に居ても怖くは無いらしい。犯罪者が存在するとの情報が、一つも無いらしく、安心な身心で作業をして居た。
私は、彼女に、村の在る方向を聞いて、其方の方向に向かって歩き出した。
ようやく、大きめの道路に出たが、交通の便が無いらしく、道路に立って居ても車一台通らない。私は、仕方無く道路を歩き始め、しばらく進むと、人家が数軒有る村に辿り着いた。
其の村は、段々畑の中に点在している、農家だけで成りたっている様子の村だった。畑は、段々畑の土手までもが、きれいに管理されており、人手が行き届いているのが理解された。
其の畑の所に居ると、50歳くらいの夫婦が、農作業に行く為に家から出て来た。私が、行き先の村の名前を言って、どう行ったら良いのかを尋ねても、其の夫婦は、他の村の事は知らないらしい。
其れに、地図を見せても、文字が理解出来ないらしい。
私は、諦めて道路を歩き始め、坂を少し上がった所の家を訪ねた。
其の家の庭に、食べ物が干して有るので、腹が空いていた私は、串に刺してある食べ物を6本食べてお金を渡した。処が、其の人は、お金を見た事が無いらしく、受け取った紙幣を返して来た。
どうやら、私が訪ねた村、訪ねたと言うより迷い込んだ村は、文字やお金が無く、バスも通っていなくて、勿論、新聞もラジオもテレビも電話も無く、近代社会の情報が一切無い村の様である。
しかし、其の村の人々は、一つも無知な様子は無く、善良で笑顔が絶えず、健康で明るく病気も無いらしくて、真に平和な暮らしを続けて居る様子なのである。
私は、其の村を後にして歩き始め、ようやくバスが通っている道路に出て、長らく待った末に、遣って来た古いバスに乗り込んだ。
走るバスの窓から、周囲の景色を眺めて居ると、荒れた土地と、木立の中に崩れかけた人家が所々に見えた。
道路が出来、交通の便が良く成ったら、町の情報が流れ込み、人々は、家を捨てて町の方に出て行ったらしいのだ。
今朝のメッセージは、交通が発達する事で、本当の平和な暮らしの村が、崩壊する事が知らされて来たのだろう。
私は、今朝のメッセージで、中国の老子の謂う「わが桃源郷」の文章を思い出した。
第80章「我が桃源郷」
小國寡民。使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟輿。無所乘之。雖有甲兵。 無所陳之。使人復結繩而用之。甘其食。美其服。安其居。樂其俗。鄰國相望。鷄犬之聲相聞。 民至老死。不相往來。
「国は小さく 人口は少ない。たとい 人並みすぐれた人材がいようとも 腕をふるう余地すらない。住民は すべて生命を大切にして 遠くへ足を伸ばさない。船にも車にも乗る必要が無いし 武器も使い道が無い。文字を書いたり 読んだりするこざかしらを忘れて ひたすら現在のままの衣食住に満足し 生活を楽しんでいる。手の届きそうなすぐ隣の国とも 絶えて往来しない。これが 私の理想郷である。」(中国の思想 老子・列子 訳 奥平卓 徳間書店)
今朝のメッセージの映像は、正に、この文章にピッタリと合っている。
「文字」や「お金」が無くとも、人々は畑を耕し、皆で協力して家を建てる。其の技術は、学校へ通わなくとも、見様見真似で伝わって行くのである。
其れこそが、「伝える」の元字「傳・デン(人+車+手手)」の組み合わせの、「人が 車の回転の様に 手から手へ 技術を伝えて行く」との意味に合っている。
私が今朝、夢で迷い込んだ村は、正に老子の「理想郷」で、本当の平和と幸福な人々の暮らしが其処に有った。
其れは、現在の世の中のシステムは、殆どが、不必要な理が示されている。
人々の欲望を、トコトン煽ぎたてる現在の経済システムは、何処かで一線を引かなければ、今朝の、村の住民の様な、安らかで平和な顔を、取り戻す事は出来ないだろう。
今朝のメッセージの内容は、経済の本質とは何なのかを考えろとの事だろう。
確かに現代社会は、物は豊かに成ったが、病気は増え、犯罪が増加し、環境は悪く成り、自然は調和を失い、人間の魂しいは混迷の度を超えている。
今朝の村には、其の様なモノが一切感じられなかった。
私は今朝、人間の、本当の幸福者の顔を、視る事が出来たのだ。
其の様に、人々が暮らす村が実在するのなら、神が、人類を創造した事の意味が理解されて来る。
今朝のイメージは、神の意その侭が、映し出された世界だったのかも知れない。そうであれば、今朝現れた数名の村人は、神そのモノの姿だったと言う事が出来る。
今朝のメッセージは、私に、本当の確かなものだけを、伝えて来たのだ。
私達は、神が理想とする世界に、本当に必要な物は何なのか、今一度、考え直す時に至っている様である。
平成15年10月29日
礒邉自適
2003/10/29
聖獣 ユニコーン
15・10・29
今日は、何も無い日かと想い、家の中を片付けていると、警察の方が二名自宅に訪ねて来た。
別に是と言った用が無い様で、雑談をして居ると、私が横領されている土地の事の話になった。警察の方が訪ねて来たのは、私の土地の件に付いて調査に来たらしいのだ。
私は、安房の港の近くに、土地を三千三百坪買って整地をしていたのだが、私が島を離れている間に、私が使って居た会社の役員だった人間(池田保・富子)が、其の土地に勝手に店舗や自宅などを、数軒建ててしまっている。
私がその事を、九州の友人に相談すると、早速友人が島に飛んで来た。
そして、法務局や銀行・役場を廻って、取り返す手続きを始めてくれた。
そして、是迄の実情を書いた文章を、島内の目ぼしい会社等に配布した。
其の文章に虚実が有れば、名誉毀損と成る。相手方が、警察に行ったのかどうかは分からないが、警察の方が、其の文章を持って廻ったら、訪ねた相手が皆「其の通りです」と、答えたとの事である。
今日、自宅に訪ねて来た警察の方は、「自適さん、島の人達は 皆知っていますよ。」と言って帰った。
其の後、この事を頼んでいる友人より電話が有って、「自適さんの頭に一本角が生えている夢を見た。自適さんは 頭に角を隠して居るのですか。」と言って来た。
私は、「其れは ユニコーンと言って 裁判の神様ですよ。」と答えた。
そして、しばらくすると岡山の「スーリアさん」より、裁判官の人に付いての電話が有った。
私は、この三つの出来事から、今日は、法律や裁判の事に付いて、何かを考えなければ成らない日である事を感じた。
私の13年3月13日の文章「獬」の題で、その事を書いて有るので読んで欲しいと意うのだが、学研「ムーブックス」から発売されている「久保有政」氏著の「日本の中のユダヤ文化」にも、ユニコーンや「獬」の事が詳しく載っているので、一読すると良いと想う。
其の中に「神である主はこう仰せられる。見よ。私はエフライの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、其れ等をユダの杖に合わせて、一本の杖とし、私の手の中で一つにする。」(エゼキエル書 第37章19節)
「杖というのは王権を意味する。王は杖を持ち、其の杖は権威を表している。」 と 載っている。
私は、神に、自分の身心を召喚され、其の杖を持たされ19年が経過した。
そして、漢字の「伊」の文字が、「人が 一番大事な杖を 手の持つ事」を意味している理・ことを知った。
ユニコーンは、神社の入り口に建てられている鳥居の、左側に置かれている高麗獅子の左側の物で「一角獣・神獣」の像の事である。
其の「一角獣・神獣」は、神の言葉を間違って解釈した侭、門の外に出る者を、其の角で刺し殺す役割を担っている物である。
其れに、右側の像は「ライオン・獅子」である。
高麗獅子はライオンを表し、ライオンは西洋では水の守り神である。
日本の神社では、右側を通って奥の社に近付き、左側を通って外に出て来る様に決められている。
神社では、右側に御手水が有り、手や口を禊いでから鳥居を潜り、神に会って左側から出て来る事に成っているのは、禊ぎ祓いをして神に会い、法を授かって出て来るのを意味しているのだろう。
神の門を潜る所に、水と、水の守り神であるライオンが備えられているのは、時代の古さを伝える物である。
神の代理者として、杖を授かる事は、天の法を授かる事を意味している様である。
天皇家の一番大事な儀式である大嘗祭には、履物と杖が用意されているとの事だが、其の意味する処は秘密とされている。其れは、神に選ばれた者だけが知る事の出来る、神秘なのであろう。
人間が、自分勝手に其の杖を手に入れ様とすれば、ユニコーンの神獣に角で胸を突かれ、命を捨てる事に成るであろう。
「獬・かいたい」http://moon.ap.teacup.com/20061108/87.html
此処のところ、太陽に黒点が大きく現れ、磁気嵐が地球を襲っている。
太陽の磁気は、電気器具だけではなく、人間の心身にも、何がしかの影響を与える筈である。
私は屋久島での修業中に、自分のいのちが太陽の黒点に吸い込まれ、太陽の内に入った後、再び光りのエネルギーと成って、地球にサンサンと降り注ぎ、植物の葉に吸収されるビジョンを観た。
私達のいのちのエネルギーは、太陽が発している、磁気エネルギーで生かされているのかもしれない。
そうであれば、ユニコーンとは、其のエネルギーの門番ではないだろうか。
いのちの決まりを破る者を、見張っている存在こそ、王の資格が有るのかもしれない。
日本では、「お天道様に見守られていきる」との概念が昔から有る。
其の言葉や風習は、無意識で獬(ユニコーン)の存在を、肯定しているのではないだろうか。
「天神様の細道は、行きは良い良い帰りは恐い、恐いながらも通りゃんせ。通りゃんせ。」
いよいよ、帰り道の時節に成った様である。
「ユニコーンの存在に お気を付け遊ばせ。」である。
平成15年10月29日
礒邉自適
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