2003/10/4
ボイス
15・10・4
昨夜は久し振りに、屋久島の真南に位置する、歌之介師匠の別荘に泊めて貰った。
そして、現れた今朝のメッセージは、私の所に、何人もの修業を続ける人達が、答えを聞きに来るのが映り、その人達に対して、答えを教えようとすると、神の「待った」が掛かり、答えを教えたり、相手の修業の手伝いをしてはならないと言う。
そして、私が答えるのを止めた処で、アルファベットの文字が横に並んで出て来た。其れは「VOICE」で、大きくしっかりした字体だった。
英語が理解出来る友人に、其の事を知らせると、「ボイス」と読む事が判り、「言葉」とか「声」の意味だという。
私は、その友人には、文字の出てきた事だけを伝えて、前の映像の事は話してはいない。ボイスが、言葉に因る答えであれば、映像と文字は、繋がっている事が理解出来る。
昼前のトッピーで客人が帰るので、宮之浦港まで送って行ってから、自宅に帰り、「ボイス」を早速辞典で調べて見た。
・「ボイス」(voice)【 @声。音声。 A発言権。 B文法で態(たい)】と載っている。 カタカナ語新辞典(有紀書房)
@ Aは分かるが、Bが分からないので、今度は広辞苑で「ボイス」を調べて見た。
すると【@声 A(言)動詞の表す動作に主語がどう関わるかを表現する文法形式。態。主語が動作の主体であれば能動態、客体であれば受動態「相(そう)」とも訳す。】と有る。
次に、今度は「態」を調べると【たい [態] @すがた。かたち。ようす。ふるまい。「態度。姿態。形態。実態。」 A[言]→ボイス】と 載っている。
私には、文法の事は能く解らないが、声や音声、発言権の他にも、「態」の意味が有る事が判り、言葉だけではなく、態度にも関係がある事が解って来た。
今朝のメッセージは、答えを言葉で教えるだけではなく、態度で示して教えてもいけない事を、告げて来ている様だ。
今朝のメッセージでは、答えを教えない事が「神惟道・かんながらのみち」である事も告げられたので、此れから、私は、修業を続ける人達に、答えを決して教えてはいけないし、態度で示してもいけないと言う事に成って来た。
神惟の世界は、この道の理を「教えてもいけない。」「聞いてもいけない。」「見せてもいけない。」とされている。
今朝のメッセージは、其れを英語の世界で、知らせて来た様である。
そうであれば、ボイスを現さないのが、神惟の世界の極意である理・ことになる。
仏教でも「密教」の世界が在り、「大日如来・マハーヴァイローチャナ(宇宙の真理の本体の意)」の世界は、秘密であるとされている。
法華経にも寿量品の中に、弥勒菩薩が釈迦仏陀に対して、何時どの様な事を実行し、何が起きて悟ったのかを、質問しているが、釈迦は其れに対して、黙して何も答えなかったことが載っている。
釈迦もやはり、惟神の世界と同じで、具体的な事はボイスしていない様である。
私の父親も、中国から引き揚げて来る時に、見猿、言猿、聞猿の三猿の置物だけを、大事に持って帰り、何時も座る所の頭の上に、板を打ち付けて置いていた。
私の父も、子供達に対して、それらしき理を何もボイスしていない。
大事な理を知っていても、その理を直接ボイスする事は、道に反する事を知っていたのであろう。
学校の教育に例えれば、式だけを教えて、答えは、各人が自分で導き出せというのに、遣り方が似ている様である。
その様に考えると、私も、自分が体験した過程は、話しても良いとの事ではないだろうか。
答えを、直接教えてしまえば、式に因って、本人が模索する段階が失われてしまい、真の答えを得る事が難しくなるとの理だろう。
人間一人一人は、皆異なった「命・みこと」を持って、此の世に遣って来ている。私の得た答えが、皆の答えと同じと言う事は無いのだろう。
私の答えと、他の人達の導き出す答えが、異なるのであれば、私の答えを教える事は、その人の答えを狂わす事になるのである。
だから、私の父親も其の理を知っていて、私に式だけを教えて、答えを教えなかったのだろう。そうであれば、私の父も「神惟の世界」に在り、宇宙の真理を理解しており、それを実行した人間の一人と言う事になる。
私の父親が、何故4311体の霊界人の、一番前に立っていたのかが、ようやく解って来た。
私の父は、私が17歳の秋に49歳で亡くなったのだが、それが20年振りに、私の37歳の時に現れて来た。
そして、父親が私に云った事は、「お前に苦労させたのは、お前の精神を鍛える為だった。もう大丈夫だから 此の人達に身体を貸しなさい。だけど 仕事だと想うな。何があっても 遊びだ、遊びだと 想って居なさい。」との事であった。
私に起きた事が、他人が私の修業を真似したからといって、起きる分けではない。2600年振りに起きた事は、もう19年も前の事であり、次に起きるのは又2600年後の事かも知れないのだ。
今、私と同じ事を行っても、それは起きないだろう。
だから、私にボイスを行うなと、告げて来たのだと想われる。
此れから、大事なことは、私の後追いや、釈迦の真似事をするのではなく、未来の創造に向けて、皆が努力をする事である。
過去の世界に、意識を向けていては、未来の時空は生れない。
宇宙は、生々発展を続けているのだから、未来へ向けて、人間が活動をするのは、宇宙の流れに即しており、エネルギーを得やすいが、過去の世界は、記憶・情報は残されていても、それを復活させるのには、エネルギーを廻す事が出来ないのだ。
私に起きた事は、もう過去の世界であり、世界が後戻りすることはない。
だから、私が得た答えを「ボイス」する事は、宇宙の流れに、反する事になるのだ。
人間は、自分が体験した強烈な印象は、脳裏にこびり付いて、なかなか離れない物である。
だから人間は、過去の栄光を語りたがるし、栄光を語る時は、気持ちが高揚するのである。私も、其の脳の仕組みに、陥り易いタイプなのだろう。
お釈迦さんも、35歳で覚醒した時は、その様な気分だったかも知れない。
しかし、釈迦は80歳近くまで生きて、枯れてからの説法が残されている。
34歳の若さで殺された、イエスキリストよりは、脳のカラクリには気付いていた様である。
私への今朝のメッセージは、過去の人達の知恵から、贈られて来た現象ではないだろうか。
「言」の「こと」は、「事」と同源であると、広辞苑には載っている。
「言」を使用することは、「事をおこす」ことになる。
ボイスとは、「言」や「事」の意味を、深く包み込んでの事ではないのだろうか。
私に、多くの人達が答えを求めて来るとの事は、私の本番が近付いて来ているとの事かも知れない。
私は、自分のオッチョコチョイを、直せるのだろうか。
そう出来る様に、神に祷るしかない。
平成15年10月4日
礒邉自適
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