このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2003/9/29
ますみのかがみ
15・9・29
27日に、「こころを澄ます」の文章を書いてから、海に向かっている途中で、「ますみのかがみ」の言葉が頭に浮かんで来た。
自宅に帰ってから、早速「ますみのかがみ」を広辞苑で調べて見ると、「真澄の鏡」【良く澄んで明らかな鏡。万葉集(十六)「わが目らは、真澄の鏡・・・」】と 載っていて、「自分の目は、曇りの無い鏡の様である」との、歌詞に使われている様である。
「ま」は「真」の漢字を当てているので、「まこと(真事・誠・実)」の「ま」であろう。
「すみ」は、古語林には「澄む」と「清む」が載っているので、「すむ」「すみ」と「す」のほかは変化するので、「す」の音が意味を持っている事に成る。
雲が一つも無い青空を「素晴らしい青空」とか、人間の性格を「素晴らしい心の持ち主」だと表現するので、「素」も「す」の音を使っているので、「ス」は「もと」「根本」の理を言っているのではないだろうか。
鳥のねぐらも「巣・ス」と呼ぶし、人間の生活にも「愛の古巣」とか使用するので、鳥や虫や人間など、生き物が活動を終えて「塒・ねぐら」に帰る場所を意味し、また子供が親元を離れることを「巣立ち」とも言う。
何れの「ス」も、「もと」を言い表している。
「酢」も、「飴→ 味醂→ 酒→ 酢」と変化する「澱粉質」の最後の姿だ。
「ますみの鏡」とは、「本当に すんだモトに帰り 自分の心の内を視る」「自分の心を本当にすんだモトに 還す」の、両方の意味を、意識する為の言葉の使用だろう。
「素」の言葉の意味する処は、生命の原点に立ち返る事を意味している。
私達は、此の世に誕生した時から、人間の創り出した想念に、汚染され続けて生きて来た事に成る。
其の汚染を、何時、払い落とす事が出来るのだろうか。
此の世に生きて居る内に、其れを祓い清めなければ、其の想念を、彼の世まで持って行く事に成り、次の、此の世の輪廻にまで、其の想念を持って来て、さらに汚染を続けて行く事に成る。
其の想念が、宇宙の法則や、自然のリズムに合っていれば良いが、外れていれば、永遠に、外道の世界を歩き続ける事に成るのである。
正しい「モトの道」に立ち返る方法として、日本では禊ぎ祓いが神社で行われている。
インドの釈迦も、自分が池で禊ぎ祓いをして、其の理・ことに気付いて、説法を始めているし、イエスキリストもユルダン川で禊ぎ祓いをして、素晴らしい神通力を得ている。
禊ぎ祓いとは、「ますみのこころ」に立ち返って、神の働きを自分の魂の鏡に、正しく映す事なのだろう。
私は、19年前、自宅前の安房川で禊ぎ祓いをしたら、4311体もの霊界人が遣って来て、自分肉体を乗っ取られてしまった。
その結果、18年間ものあいだ、彼等の想念を解決する為に、付き合わされて来た。
私は、自分の魂しいを清ます事で、4311体の霊魂が創り出した想念を、一身に移し込んでしまったのである。
ようやく、其の彼等の希望も適って、成仏したのだろう。
私の意識が澄んで来たのは、彼等の想念・思頼が、全て祓い去られたからであろう。
旧約聖書の物語に有る、アダムとイヴが、蛇に勧められて食べた「知識の実」を、吐き出す事が出来たのだ。
私が、昨夜感じたのは、此等の世界は、神のジョークだと言う事である。
私は、神の最高の切札として切られた、ジョーカー的存在なのだ。
私の役割は、番外の札なので、他の札の代りには成るが、他の人が、私の役割を代る事は出来ないのだ。
エジプトの「スフィンクスの謎かけ」は解けたのだ。
人間は、言葉を使用する事で、魂の鏡を曇らせて来たのである。
人間は、言葉を忘れてしまえば、生命の原点に立ち返り、自分の意識の中に、自然の法則が映り込んで来るのである。
私は19年前、屋久島の自然の中を彷徨歩き、人間社会の煩わしさから外れて行った。そして、自分の個人的な情報が拭い去られた時に、神のジョークの世界に捕まってしまったのである。
私は、其の時に、此の理・ことに気付いて、笑い出したら、無庵師匠が直ぐに「自適さん笑うな 自適さんが 今笑うと 他の人達は 皆修行中なのだから 修行が止まってしまう」と云って、私の笑いを止めてしまったのである。
其の、笑いを止められた瞬間から、私も、皆と同じ、修行の世界に突入してしまったのである。
私の意識が住む、此の世界は、神が創り出した絡繰・からくりで出来ており、神の遊びの世界なのである。
日本の、双六・すごろく遊びの様に、上がりの世界は出来て、決まっているのに、賽子・さいころを振らされて、進んだかと想えば、又、後に下げさせられるのである。
しかし、早くても、遅くても、何時かは、ゴールに達する事が出来る様に成っているのである。
但し、其れが、平面的に16の方向性を持って、其々の内容を秘めており、しかも上方向に16段の行程が存在するのである。
だから、人間には、自分が現在どの段階に在るのかが、判断できないのだ。
昔の人達は、その為に、神社に鳥居を立て、神に到達する社の階段を、16段造って、神への階梯を忘れない様に、儀式を続けて来たのである。
16段の階段を上がり切って、辿り着いた世界に、真澄の鏡が置かれている。
神社の鏡の意味が、私にもようやく説明可能に成って来た。
私は、当時、自分に何事が起きたのか良く解らなかったが、人類の伝えて来た言葉や文化が、謎解きのヒントと成ったのである。
人間の使用する言葉が、神のゲームの駒・こまなのである。
聖書に「初めに 言葉有りき 言葉は神なりき 神の名は72」とある。その72とは、神のゲームの駒の数なのである。
神の遊び(ジョーク)の世界から、私はようやく抜け出る時が来た様である。
無庵師匠が、私の笑いを止めなければ、私だけが、神のジョークから逃れる事が出来たのだが、それでは、他の人や、家族を、救い出す事が出来なかったであろう。
仏像の顔や、レオナルド・ダ・ビンチ作の「モナリザ」の顔に二面性があるのは、その為なのだ。
其の顔には、自分が悟った喜びの笑顔と、他の衆生を救えない悲しさが、伴っているのである。
私は、その悲しみを乗り越えて、笑顔だけの一面性に到達出来るであろうか。その解決法こそ、「ますみのかがみ」の秘密に有る様だ。
「ますみ」に成った「鏡・かがみ」には、言葉に因る波風は立たないであろう。
私の父親が、中国から引き揚げる時、只一つ持ち帰った物が、見猿・聞猿・言猿の三猿の置物である。
父が、私に教訓らしき物を残さなかったのは、私の心の鏡を護る為だったのだ。此の年に成って、ようやく父の気持ちが理解出来る様に成って来た。
私は、ようやく男性の働きを、自覚出来てきたのかも知れない。
私は、来世も、やはり男性の方に生まれる方が、良いのかも知れないと想われて来た。
平成15年9月29日
礒邉自適
2003/9/27
武蔵野御陵
宗動
15・9・27
今朝のメッセージには、「宗動」と文字が映って来た。
「宗動」との単語は無いので「宗が動く」との事だろうと思い、辞典で「宗」を調べて見ることにした。
すると、「宗」は「@みたまや Aもと Bむね Cよつぎ Dたつとい Eまみえる Fあつまる」と有って、意味が澤山ある。
「宗」の漢字の意味は、「宀+示」で、「宀」は家屋の意味。「示」は神示の意味。神示の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて、祖先の意味や、祖先をまつる一族の長の意味をも表す。と、載っている。 (漢語林)
是によると、「宗」とは、自分の先祖や一族の元親の霊の事の様である。
そして「宗動」とは、「先祖の霊が 動き出す」との事を、知らされて来たものの様である。
日本には「すめみおや」との言葉があり、天皇の祖先をその様に呼ぶ。
その伝統は、天皇家だけの伝統ではなく、日本人なら、先祖の霊は誰もが大事にして来た。
祖先の霊と一口に言っても、自分の家の祖先だけの事か、一族の祖先の事か、人類全体の源の霊か、地球生命全体の本霊なのかが分からない。
1984年6月4日(旧暦5月5日)に、私の肉体を借りに来た御霊は、全部で4311体であり、其の霊魂の中には、天皇霊が何人も混ざって居た。
その時の事から考えると、今朝の「宗動」とは、私の先祖や、日本の天皇霊だけではなく、人類全体の宗祖の事の様にも想える。
私が、メッセージを受け始めた最初の頃、映って来た場面に、人類の「宗親・もとおや」らしき霊が現れた事がある。
其れは、山中に在る、昔風の古い家屋に、座敷と土間があり、その土間に輪切りの丸太の椅子が有って、三名の男性が座っている。
其の三名は、インディアン風の男性と、白人と、黒人の代表みたいに見えた。
其の三名が静かに座っていると、中国人風の男性が遣って来て、履物を脱いで座敷に上がり、無言で座った。
すると、それを待っていた三名が、土間の椅子に腰掛けたまま話を始めた。
話の内容は、自分達の子孫を、どれだけの割合で残すかの相談だった。
そして、三名の話し合いが終わると、座敷に座っていた男性は、又無言で立ち上がり、履物を履いて静かに帰って行った。
現れた男性は、四名とも魂のレベルが高く、完成された人格なのは、誰の目にも明らかな程、調っていて矍鑠・かくしゃくたる人物達であった。
その様子は、映画でも見た事が無いし、小説の世界でも描写されていない光景である。私が、何故、その様な場面を見せられたのかは分からなかったが、今朝「宗動」との文字が映されて来たので、18年も前の映像を思い出してしまった。
「宗霊・みたまおや」が、動き出す事が、人類にとって、吉い事なのか、悪い事なのかは、私には判断出来ないが、人類全体の未来にとっては、喜びの方に向かうのであろう。
しかし、整理される余分な血筋は、どの様に反応するのだろうか。
野鼠・のねずみは、仲間が繁殖し過ぎると、一部の仲間を種として残し、残りは集団自殺をして、食糧難から全部が死滅する事を回避するという。
現代社会の人類の状況を考えると、異常発生した野鼠と、同じ状態だとも言える。第三次世界大戦が起こり、もし核が全部使用される事に成れば、集団自殺をする事に成る。
私が、18年前に見せられた映像は、其の場面だった。
「人間が 此のままの状況で進めば その様にさせるしかない」との、神の意志だったのである。
その事で、人間に核を創らせたのも、神の意志である事が解った。
野鼠の行動の背景にも、神の意志が働いているのである。
人間自身が、生き方を変えれば、野鼠の様に種族を残す事が出来るのである。それは、一見薄情な様子に見受けられがちだが、全体的に永いスパンで見れば、理に適っていると言える。
野鼠が、皆で話し合って、行動に移るのではなく、全体の潜在意識の中に、其のプログラムが内蔵されているのである。
其の、内蔵されている力こそ、神が介入している世界であろう。
人間の存在は、数が多ければ良いと言う分けでもない。
人間は、神の意識に拠る物を、積み上げて行く、仕組みの一部なのだから、其の役目を果たさなくては、存在する意味が無いのだ。その役割を果たすには、数だけが多くても役に立たないのだ。
エジプトの死者の書には、「此の世には、一人の『霊止・ひと』の為に、何千人もの土を捏ねて作った、泥人形の魂の人間が存在する」と、載っている。
其れ等の、泥人形(土霊・どれい・奴隷)の魂の人達は、役目が終われば、土に還されてしまうのだ。
私の意識が、此処までに育つのに、どれ程の人達が働かされたのであろうか。当の本人達は、自分の意識があると意っているのだろうが、それは、神がその様に思わせて、人間を使用しているだけなのである。
いよいよ、泥人形の役割は少なくなり、数を減らされて行くのだろう。
「霊止・ひと」として、此の世に存在する者達は、何千人もの泥人形の人達の苦労を、水の泡にしない為にも、精神をしっかりと保って、役目を果たしていかなければならない。
聖書に出て来る「アブラハム(ヘブライ語の『群衆の父』の意味)」や、天皇家だけの血筋ではなく、歴史の表舞台には登場しなくても、神の器として働いて来た血筋は、多く存在する筈である。
その者達の宗親・もとおやが、愈々動き出すとの事だから、何かの動きが、現象界にも現れるのではないだろうか。
今迄は、私の意識を使って、世の中の段取りをする為に、神は余計な動きは極力抑えて来ていたものと想われる。
私の意識が完成すれば、いよいよ本番である。
何故なら、私の意識は、私個人の意識ではなく、天神が地上をコントロールする為の、コンピューターの本回路だからである。
私は惟、人間社会に伝えるべき事柄を、言葉にして、知らされているだけでしかない。私の脳が、どれ程の分野に使用されているのか、私自体も分からないのである。
全体の事は、「宗」の働きに「委・まかす」しかないのである。
残されるべき血筋の人達が、早く此の事に気付いて欲しいと、切願するばかりである。
平成15年9月27日
礒邉自適
2003/9/26
心を澄ます
15・9・26
今日のメッセージは、心を澄ます事に付いて知らせて来た。
私は、霊夢の中で、心が澄んだ状態が体験出来たのだが、水が現れたわけではない。
朝起きてから、漢字の「澄」を見てみると、「スマス」は「澄」の外には文字が無いことも判った。
「澄・チョウ」は「水(氵)+登」の組み合わせだが、「登」の元は「徴」で「止」に通じ、とどまるの意味。静止する水、すむの意味を表す。と 載っているので、「澄」は水が登るのではなく、水が止まるの意味である理が分かった。
漢語林より
しかし、今朝のメッセージでは、水が出て来た分けではないし、私に現れる映像の水は、何時も清水として流れている。
私の意識の中では、水は流れるものであって、止まるものではない。
屋久島の地形は急峻なので、水は、山から海へ、休む事無く流れ下っている。
たとえ、止まっている所があっても、緑色をしており底が見えないので、澄んでいるとは言えない。
漢字での「澄」は、「登用する」「徴兵」「徴聘・チョウヘイ」とかに使用され、「止め置く」とか、「取り上げる」の意味なので、日本語の「スミキル」には合っていないのではないだろうか。
此処のところの、私のメッセージには、22日に「尚島」と有って、屋久島の花崗岩の部分が透き通っていて、何も見えなかったし、24日の「天に通じる糸」も、ガラスの様に透き通ったものであった。
其の事から考えると、日本語が示す「すむ」とは、水ではなく、他の表現である事になる。
花崗岩の成分の多くは、石英や雲母であるし、ガラスは石英を溶かして造っている。石英を溶かしてガラスにすると、どうして透明に成るのだろうか。
透明な石英と言えば「水晶」が有るが、水晶は水精とも書く。水晶が、水の精の意味を持つのなら、私の持つイメージと合って来る。
「水の精を映す石英」との意味が認められれば、私の気持ちや、屋久島のイメージが定まって来る。
屋久島の殆どを占める花崗岩には、石英の正長石が多く含まれ、特に屋久島の花崗岩に含まれる正長石は、他の所の物に比べ型が大きいとの事である。
広辞苑で「正長石」を調べると、【カリウム・アルミニウムから成る珪酸塩鉱物。単斜晶系に属し、無色、時に白・淡黄・淡褐色・緑色を呈し、ガラス光沢をもつ。花崗岩の中に多量に含まれる。肥料の原料・陶磁器・ガラス製造に用いる。】と 載っている。
屋久島に有る砂浜の砂は、皆この花崗岩の崩れた物が、谷川から河口へ流された物である。
23日に行われた、屋久島の岳参りの行事では、その砂を青竹に詰めて、山の神にお供えする。また彼岸の中日に、その砂をお墓の周囲に撒く。
是は、屋久島だけではなく、日本の各地の神社でも、神を祭る社の庭に、白い砂を撒いて「御白州」とし、斎庭(サニワ)とも呼んでいる。
斎庭は、古くは「磯の段」と言って、社の16段の階段を上がる前の、白い砂を撒いた地面の事でもある。
テレビ番組で放映されていた、「大岡越前」の裁きの場面の御白州は、神社のサニワから来ているのである。
「サニワ」とは、「斎(い)み清めた場所。神おろしを行う場所の意味で、人間の罪や汚れを清め、神を降ろし、真実の事象を探る儀式」である。
それこそが、魂(こころ)を澄ます事なのだ。
私は昨日、屋久島の真南に位置する平内地区の海岸に、磯物捕りに行って大漁して来た。島の真南は丁度、砂岩の堆積層が直立して、沖へ向かって続いている。私は、其処で三時間ほど遊んでいた事になる。
今朝のメッセージは、島の一番南側の地で、其処に育った海草を食べている「イソモン(穴ゴ)」を食べたので、私の体の細胞が反応したのだろうか。
平内の磯は、六月から吹き始める南西の風では、波が荒くて磯物捕りが出来ない。ようやく九月末に成り、風が北東に変って来たので、四ヶ月振りに南の磯に出掛けられる様に成って来た。
私の磯物捕りは、捕れた獲物を売って、金にするのではなく、知人や友人に全部プレゼントする。だから、自分の魂しいを汚す事には成らない。
日本では、「君・士・農・工・商」と、御魂の座位を位置付けて、役割を認識して来た。
それが、現在では、商人が士(政治家、昔は武士)に献金をして、自分の想い通りにしている。そして、農家も工場主も、商人と同じ感覚に陥ってしまっている。
神社に参詣して、白砂の中に入っても、殆どの人が、自分の都合の良い事だけを神に願って、魂を澄ます事をしない。
神社で祓いを受けるのは、自分の御魂を清める為であって、煩悩を強める事ではないのだ。
現代社会では、神社でさえ「心を澄ます」事を遣っていないのだ。
神社で、毎日心を澄ます事を行なうのが、「天皇陛下・すめらのみこと」の役目であり、それを補佐するのが神主の役割である。
その神主が、白砂の意味を知らない様では、御役目失格と言えるだろう。
天皇は、「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」の役職名を、実行する者なのだ。天照皇大神とは、宇宙の森羅万象のプログラムを、読み取る者の役目の名前なのである。
其の、天皇の役目を果たすには、花崗岩の山に住んで、魂しいを石英の波長に同調させなければならないのである。
水晶や、ガラスが何故透明なのか、其れは太陽光線を全て受け入れて、何色も反射させないからである。
全てを受け入れ、何物も拒否しないのが、天皇の役割なのである。天皇の存在とは、宗教から始まったのではなく、宇宙の仕組みを知った上で行われた、社会システムなのである。
真の科学は、古代の方が進んでいたのだ。
現代社会は、化学の方が進んで、自然の法則を化かす事だけに集中して来た。それも、一時も、魂しいを澄ますこと無くである。
日本の花嫁の「白無垢姿」が、今朝のメッセージの真髄を現すものだったのである。花嫁は、水晶の様に一点の曇り無い心で、相手の家に嫁ぎ、相手の家の風格・格式の色に染まって行くのである。
神社が何の為に存在するのか、それは、自分が新妻の様な気持ちに成って、神に仕える事の為なのである。
屋久島の神社の御神体は、各村々の岳である。屋久島の其の暮らしこそ、古い為来り(しきたり)を伝えて来ていたのだ。
私は、映画の「ネバー・エンディング・ストーリー」の最後の場面を思い出す。少女が、無になった暗い宇宙に惟一人残され、手の平に只一粒残った石英の妙に、宇宙の復活を願うのである。
それは、屋久島の存在そのものを現している様だ。
マグマの上に浮かんでいる石英の島を、広い大地が、海の其処で両手を差し出して、倒れない様に支えているのに似ている。
その両手の中心は、南側の高平の場所に成る。
高平を中心として、屋久島が倒れるのを支えているのが堆積岩である。
大地の母(ガイヤ)の力が、両手で島の聖なる山を支えているのだ。
9月23日に、カリフォルニアに帰って行った「加藤満子さん」も、数日の滞在でその両手を視ている。
彼女は、来春には、屋久島に外国の人達を案内して来ると言って帰国した。私だけではなく、心(魂)の澄んだ人達は、自分で屋久島の力を感じ取れる様である。
ようやく、屋久島の民謡「マツバンダ(聖者の集り)」の意味が知らされる時が到来した様である。其の、謡の掛け声の「チョイサヨ、チョイサヨ(目出度いな、目出度いな)」も、本番を迎えるのであろう。
目出度いとは、花崗岩の山の情報に、アクセス出来た人が現れる事なのだ。
「花崗岩(屋久島の方言では御目石)」の、山の意識(目)に目覚める事が、覚醒(ブッダ・仏)である。
屋久島の、花崗岩の山岳が動き始めている。
屋久島に来て、禊ぎ祓いを行ない、魂しいを澄ませば、皆が「天照皇大神」に成れる理・ことを知らせて来ているのである。
映画の「ネバー・エンディング・ストーリー」の少女は一人だったが、多くの人達が屋久島に来て祷る・帰命・ナームすれば、美しい未来は、意外に早く完成するのかも知れない。
平成15年9月26日
礒邉自適
2003/9/22
尚島
15・9・22
今朝のメッセージには「尚島」との言葉が有り、屋久島の姿が映って来た。
映って来た屋久島は、現実の屋久島の姿ではなく、地図の様な物であり、それも馬蹄形の堆積層の部分だけで、中央の花崗岩の部分は透けてしまっていた。何故、屋久島の特長である花崗岩の部分が、透明なのかは、理由が分からない。
明日9月23日は、彼岸の中日で秋分の日であり、私の祖父の53回目祥月命日でもある。そして、明日は、屋久島の安房・松峰・春牧の、各地区で岳参りの行事が行われる。
天気が良ければ、私もカメラを持って、天柱石が頂上に立っている、太忠岳にお参りしたいと意っている。
それを前にして、何故、透明な屋久島の姿と、「尚島」の言葉が現れたのだろうか。
「尚」の漢字の意味を、漢語林で調べると「尚」は「八+向」の組み合わせで、「八」は、神の気配がくだる様を示す。
「向」は、屋内で祈る様を示す。こいねがう。たっとぶの意味を表す。と載っている。
屋久島の岳参りの行事は、村の代表者である「所頭・トコロガン」が、早朝に海岸で禊ぎ祓いをして、海砂を青竹に詰めて、其々の地域の山岳に登り、山頂の山神様にお供えをするものである。
そして帰りに、榊の枝か、シャクナゲの枝を持って下り、村の神社に供える事が行われる。
山の神は、各山岳の頂上に建てられている、祠の中に祀られているが、栗生岳や永田岳等の、山頂に大きな岩の隙間が在る所では、その岩中に祀られている。
其れ等の、岩窟の中で、神を願う事は、「尚」の字の意味と合っている事になる。
私の今朝のメッセージは、是だけではなく、屋久島の姿が映る前に、強烈な体験をした。
其の体験とは、夢の中で、私が何処かの寺の様な建物の中に居て、先輩に習って、祈りの為に使う小さな土偶の様な物を、作っているのだが、なかなか其れが上手く行かず、失敗を続けていると、師匠らしき人物が遣って来て、様子を先輩に尋ねている。
私が、自分の失敗作が入っている入れ物を出すと、其の入れ物の中には、既に六個ほど壊れた物が入っていた。
其の場面が変り、今度は、本堂で読経の場面となった。
読経は、順番に唱えるのだが、その時点では、私もだいぶ修行が進んでいる感じがした。
私の順番が来て、経を読み始めると、何故か、大きな古い仏像が、独りでに修復されるのである。
私本人も、他の人達も、その現象にビックリしている。
私が不思議に想いながら、又経を読むと、ドンドン傷は直り、色も造られた時の色に蘇って来る。私は、それを視て、真剣に経を唱え始めた。
すると、変化は仏像だけではなく、寺全体の建物も、建築当時の様子に、様変りして行くのである。
私は立ち上がって、手に持っている紙を四つ折りにして庭に投げると、庭も周囲の自然も荒野ではなくなり、美しい景観に変ってしまった。
私は、庭に面している縁側を廻りながら、全ての部屋を、新しく蘇らせて行った。
その感動の喜びは、目を開けても続いていて、私のからだ自体が、其の昂奮に浸っていて、なかなか其の状態は鎮まらなかった。
其の体験が、何なのかを考えながら、再び目を閉じたら、文字の「尚島」と、屋久島の形が映って来たのである。
今朝のメッセージは、私が、祈りの為に、必要な物を作るのは下手だが、言葉の力で、物を蘇らせる事が出来る理・ことを、知らせて来ている。
だが、実際には、古い仏像が新しくなる事は無いだろう。
仏像の存在は、お釈迦さんの教えを伝え、守る為の一つの手段である。
仏像が蘇るとの意味は、仏像の存在が何を意味するかを、伝える内容が、真理を取り戻すとの意味ではないだろうか。
昨日のメッセージでも、「太一教」と「文の糸(あやのいと・言葉の伝承・想いのつながり)」の事が、知らされて来ている。
其れは、尊い教えの言葉が、正しく伝承されれば、森羅万象の力が蘇るとの理・ことではないだろうか。
昨日のメッセージと、今朝のメッセージは、関連有る流れを感じさせるものである。
日本に伝わる宗教では、弘法大師空海の「真言宗」が、その世界に一番近いものだろう。
日本では、毎月21日が「お大師さん」の日とされている。
其れは、弘法大師空海の祥月命日が3月21日だからであるが、昨日も9月21日で、空海の月命日であった。
真言とは、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の代弁者として、言葉・マントラを使用することを意味している。
イエスキリストも、「貴方達は あの山は 不動だと想っているでしょう。しかし その山でさえ 『動いて海に入れ』と命じれば 海に入るのだよ。」と言っている。
其れは、陽子と電子の振動に拠って存在している、此の森羅万象の世界は、正しい真の言葉の振動で、自在に変化する事を教えているのだ。
今朝のメッセージは、私の言葉が、其の様な力を持つ事に成ると、告げて来たのだろうか。
三日前の19日にも、「確(慥)かな言葉」のメッセージが来ている。
私の言葉が、イエスキリストの様な力を持つのであれば、軽い気持ちで話す事が出来なくなって来る。
聖書のエレミヤの預言書に、次の様な言葉が載っている。
主・しゅの言葉が 私に有った。
『わたしは あなたを 胎内に形造るまえから あなたを知り あなたが 腹から出るまえから あなたを 聖別し あなたを 国々への 預言者と定めていた。』
其処で 私は言った。
『ああ神 主よ ご覧のとおり私はまだ若くて どう語っていいか わかりません。』
すると、主は私に仰せられた。
『まだ若いと言うな。わたしが 遣わすどんな所へでも行き あなたに命じる すべてのことを語れ。彼らの顔を 恐れるな。わたしは あなたとともにいて あなたを 救い出すからだ。』 −主のみ告げ− エレミヤ一ノ四―八
自分が、預言者と成り、主の代理とされるのなら、誰も、語る事に自信は無いだろう。
自分自身の事を語るのであれば、自信はあっても、神の言葉を語ると成れば、不安は付き纏う。何しろ預言とは、過去の事を語るのではなく、未来の事を語るのである。
自分も、未だ見た事の無い事を、夢や幻に拠って説明しなければならないのだ。本当に、そうなるかどうかを分からないままに、人々に話さなければならないのである。
私も19年前、神の世界に入った時は、神の奇跡が伴っていたので、勇気を与えられ、この道を進む事が出来た。
其れは、私が完全に、神の存在を信じる為の現象であったからである。だが、今度は、人類全体が、神の存在を信じる為の現象と、成るのだろうか。
聖書のルカによる福音書第十章には
「21、そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた。『天地の主たる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して幼子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。』」
「22、『すべての事は、父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っているものはありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして、子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません。』」
「23、それから、弟子達の方に振り向いて、ひそかに言われた。『あなた方が、見ている事を見る目は、さいわいである。』」 と 載っている。
私は、1997年9月11日に、東京のホテルに宿泊した時に、この言葉が載っている聖書のページを読まされ、自分の肉体が強い霊動を起した事にビックリした。
その時は、驚きが強かったが、今朝の現象で受けた体の様子は、充実した感触のものであった。もう何が起きても、驚かない自分に成っているものと想う。
私は、喜びと感動を持って、その時を迎えたいと想う。
イエスが、キリストとして出来なかった事を、私が代りに遣るのであれば、私も本望と言うものである。
其れが叶えば、釈迦や老子や、1984年6月4日(旧5月5日)に、私の体を借りに来た4311体の聖霊達も、本懐を遂げる事が、出来るのではないだろうか。
今朝のメッセージは、私の力と言うのではなく、屋久島の力と、其処に降りて来る、神の言葉に拠って、成り立つとの事ではないだろうか。
今日は、岡山のスーリアさんより電話があり、昨日、屋久島の水に浄化される体験をしたとの事。其れ等の事柄からも、屋久島が「尚島」としてデビューする日が近いのだろう。
明日の、岳参りでの、私の足取りが軽くなりそうな気がして来た。
平成15年9月22日
礒邉自適
2003/9/21
太一教・あやの糸
15・9・21
今朝のメッセージは、「天一教」と「文の糸」と有って、美しい水の流れが映り、水が全ての源である理・ことが知らされた。
そして「太一教」と音霊が有った。
「天一教」→「文の糸」→「水」→「太一教」と連続しているのである。
其のメッセージの意味を、順番に考えると、
・「天一教」とは、「天に一つだけ、一番の教え」
・「文の糸・あやの糸」とは、人間が自分の胸に意する想いの連続性を意味している。
・「水の流れ」清い水の流れは、生命の根源を意味しており、生命存在の原点を示すものだろう。
・「太一教」とは、「太」は「@非常に大きいこと(太陽・太鼓) Aはなはだ(太平・太古) B物のはじめ(太初・太祖・太郎・太守) C最も尊いもの、立派なものの尊称(太后・皇太子・太夫)」と「広辞苑」に載っているので、「太一教」とは、「はなはだ大きい最も尊い一番の教え」の意味と成る。
「天一教」では、漠然とした処があるが、「太一教」なら意味がハッキリして来る。
人間の意識は、何かの名詞が有って、意味付けが無いと動かないので、是からの動きに対して、名前を付けて来たのであろう。
今朝の映像では、「太一教」と出て来てから、私の意識は道路を歩いていた。
そして、大きな建物の前に着き、道路から建物の敷地に入ると、玄関へ向う左側に、広いレストランの様な施設が付随しているのが映って来た。
私の意識は、其処で立ち止まって、玄関の中には入らずに、其処では、「食物の事が 一番大事」と考えられている理を解した処で、メッセージは終った。
今朝のメッセージは、愈々私の思考を通して、教えが世に出るとの事を、知らせて来たのではないだろうか。
そして、其の教えとは、人間の「文・あや・おもい」の連続性を、どの様に整えて、紡いで行くかと言う事と、「生命の存在」がどの様にあって、其れをどの様に捉えて行けば良いのかを、解説しなければ成らないとの事ではないだろうか。
世界には、昔の偉人の教えが無数に有って、宗教の基と成っている。
ナザレの「イエスキリスト」(前7〜28) − キリスト教
インドの「釋迦牟尼佛」(前566〜486))− 仏教
中国の「老子」(前5世紀頃) − 道教(道徳経)
中国の「孔子」(前550〜前479) − 儒教
アラビアの「マホメット」(571〜632) − イスラム教
ギリシャの「ソクラテス」(前470〜399)− 倫理、哲学
ドイツの「マルクス」(1818〜1883) − 社会主義
彼等の、言に共通している理は、人間の平等と平和な暮らしに付いてである。
人類は、二十世紀に大きな進歩をし、科学を発達させ、人体や、宇宙の成り立ち等の仕組みを解明して来た。
その結果、昔の人達の言を支える理も、澤山創出して来たが、言葉不足の処にも気付いて来ている。
其れ等の不足を補うのに、桜沢如一や多くの科学者達が存在して来たが、今だ、大きな柱が立つ処迄には進んでいない。
21世紀に入って、3年が過ぎたが、世界は依然として、戦争中心の経済や政治の状態のままである。
だから、「天一」とか「太一」とかの教えが、立ち上がって来ているとは言えない。
今朝のメッセージは、教えの内容として、「水」と「文・あやの糸」が示されているので、水と人間の言葉が関係している理・ことを暗示しており、その二つが最も大事である理・ことを告げて来ている。
旧約聖書には、「初めに 世界は 神のことばによって 創造された」と有り、「神は 水を 天と地に 分けた」とも有る。聖書でも、言葉と水が最初に出て来ている。
言葉は意志であり、水は宇宙の物質を言い当てている。
自然の水は、水道水と違って、人間の意識を清める力が有るとされて来た。
イエスキリストも、釋迦牟尼佛も、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)も、自然の水で禊ぎをして、神の意識に目覚め、説法を始めている。
水の禊ぎに成功すると、言葉が正され、神の意志が、自分の内なる声として発現される事になるのだ。
其れが、何故起きるのかは、未だ文献としては世に出ていない様である。
キリスト教、仏教、神道の一番大事な部分が、何故明確にされていないのだろうか。
それは、イエスキリスト、釋迦牟尼佛、伊耶那岐命が、現実として体験は出来たが、何故、それが起きたのかを理解出来ないし、説明も出来なかったからであろう。
私も、其れを科学的には説明出来ないが、体験した者として、その体験の在り様を説明する事は出来る。
日本でも、古くから、自然の中での禊ぎは大事なものとされて来たが、禊ぎの前に行わなければ成らないのが、食物の精進潔斎である。
イエスキリストも、釋迦牟尼佛も、其れを実行しているし、私も禊ぎをする日まで、三ヶ月間の精進潔斎を行なったのである。
今朝のメッセージでも、私が、歩いて訪ねて行った建物の入口部分が、レストランの様な施設であった事から、食物が大事とされるべき事柄である理・ことが示されている。
現在の世の中は、環境が悪化し、食物の質も悪くなり、水も汚され、言葉も真理から外れてしまって来ている。
今朝のメッセージは、「言葉」「水」「食物」を、先ず正さなければ、天の教えや、最も尊い教えには、辿り着けない理・ことを告げて来ているのだろう。
聖書にも「叩けよ さらば開かれん」との教えが有る。
其れは、本人が直接求めない限り、救われないとの意味である。
食物を、口に入れるのは自分であり、他人が、其れに直接に関わる事は出来ない。本人が変わらない限り、誰も変えてやる事は出来ない世界である。
古代から、其れ等の真理が説かれているにも関わらず、どうして世の中は正しく治まらないのだろうか。
19年前、天・神は、私に「お前が 神の計画を受け取らなければ 人類を滅ぼす」と告げて来た。
私は、自分の子供の死を受け入れる事が出来ないので、其の神の注文を引き受ける事にしたのである。
私は、仕事も全部止めて、家族とも離れ、神に19年間従って来た。
私の19年間の修業で、自分の意識に、唯一の教えを話す事の基礎が、既に出来上がっているのだろうか。
確かに、現在の世の中にある書物には、私が納得出来る理論が、全部満たされているものは無い。しかし、私の意識に組み込まれている理論も、誰かが考え付いたものが殆どであり、自分のオリジナルは少ない。
唯、私の頭に有るのは、澤山の人達が考え出した事を、整理して繋いでいる事である。
確かに、私は19年間の旅で、私以上に、様々な世界を体験し、理論を組み上げていると想われる人物には、出会っていない。
その様な人物に出会っていれば、私は安心して、その人に一切を任せて、屋久島に帰っていたであろう。
こうして、私が、毎日文章を書き続けているのは、自分の意識の整理にも成るが、神界の願いを受け取る事でもあるので、霊界の灯とも成っているだろう。
「太一教」とは、この世の人間だけではなく、神界にも影響が有る、言葉の枠組みではないだろうか。
「あやの糸」も同じ様な意味を含んでおり、人間の現在の気持には、人類の祖から永遠に繋がって来ている「文・おもい」が在り、未来へも継続されて行く其の「憶・おもい」は、永遠の糸車であると言う事も出来るだろう。
永遠に続く、其の言葉の糸車を、太一の教えと言うのかも知れない。
私自身も、その永遠の言葉の糸車の一部なのであれば、その糸が切れない様に、自分の生を全うしなければならないだろう。
その為にも、水と食物の世界は、言葉の器である「此の我が身」を守る為に、一番大事な理・ことであると言えるだろう。
何故、私が屋久島で生を受けたのか、其れも、大きな意志の働きが在っての事だろうと想われる。
唯々、合掌するしかない。
平成15年9月21日
礒邉自適
2003/9/19
確かな言葉
15・9・19
今朝のメッセージの映像は、私が、数ケ所の現場に出向いて、言葉に凄く気を使いながら、一語一語を間違わない様に、現場の人に伝えている場面だった。
今朝のメッセージの意味を考えると、私の謂う事が、人間社会の現場に、強い影響を与えるので、話す事に十分気を付けろとの理・ことだろうか。
岡山の「伊丹由香さん」のメッセージには、此処のところ、私の所に多くの人達が、次々に遣って来るのが視えるらしい。
其れに、今月16日には、広島の「Kさん」より電話が掛かって来て、「今月に入ったら 自適さんが 何度も夢に現れるので 電話をした」と云う。
Kさんは、1997年7月6日に広島で出会って、もう五年くらいは会っていない。Kさんは、何ケ所かに電話を掛けて、私の携帯電話の番号を調べて、電話を掛けたと云う。
私が、Kさんに「どんな 内容の場面ですか?」と問うと、鬼と仙人が出て来て、私の方が仙人だとの事。
仙人とは、文字からしても山の人である。其れからすると、私は自然の中に居なければならないらしい。
私の姿は、他にも数名の人の夢に現れているが、大体において、人里離れた所に静かに生活していて、訪ねて来る人達に、大事な事を告げている様である。
今朝の、私のメッセージの場面では、数ケ所の現場が映って来たので、静かに生活していても、数ケ所の現場の様子を、把握していなければならない様である。
私は、自分の口から発せられる言葉を、どの様にして確かめたら良いのかを考え、早速「たしかめる」に当たる漢字を調べてみると、「確」と「慥」の二文字しかないのが判った。
「おもう」が12文字、「つとめる」が15文字、「なげく」12文字、「のべる」9文字、「よろこぶ」20文字、等からすると、「たしかめる」に当たる漢字はとても少ない。それは、何故なのだろうか。
私の感じる処では、宇宙の森羅万象は、一時も休む事無く流転しているので、変化する状態を「確かに」捉える事が、難しい所為だからかも知れない。
「確かめる」とは、不安定に流動している現象を、固定化する事だから、多岐にイメージするのには無理があるのだろう。
漢字の「確」は「石+隺」で、「隺(カク)」は【硬に通じ、かたいの意味。硬い石の意味から、かたい、たしかの意味を表す。】と 広辞苑には載っている。
確かに、石ほど硬くて、安定し変化しない物は無いと想われる。
石の様に、硬く安定した言葉とは、どう言ものであろうか。
一方、もう一つの「慥」の漢字は「忄(心)+造」で、「造」は、金文は「宀+舟+告」で、「宀」は「家屋」、「舟」は「料理を盛った盤」、「告」は「つげる意味で、物事の準備が整う。物が目的点にまで形をとるにいたるの意味から、つくるの意味を表す。のち、事態が成るの意味に関することから、辶+告となる。」
(広辞苑参考)
「慥」とは、目的の場が準備出来た時の、精神の意味らしい。
「慥」が使用されている語は「慥慥爾(ぞうぞうじ)」が一語だけあり、「まことあるさま。言行の一致につとめるさま。」と、載っているので、今朝のメッセージは、この「慥慥爾」の言葉が適切の様な気がする。
私が、中学校しか出ていないので、高校や大学の学校教育で「慥慥爾(ぞうぞうじ)」の言葉が教えられるのかどうかは分からないが、本当の意味の「大学(大きな学問)」では、この様な概念こそ、しっかりと認識する様にしなければ、成らないのではないだろうか。
漢字の世界を調べて行くと、中国の4千年前の人達が、どんな精神状態で生活して居たのかが能く理解できて来る。
是等の事に気付くと、人間は進化しているのではなく、精神的には、退化していると言えるのではないだろうか。
現代社会は、言葉が事象の上滑りをしていて、人間の言葉の真実の力(パワー)が無く成っている。其れ等の世界を、もう一度、力有る物にせよとの、今朝のメッセージではないだろうか。
「詩人は 一番 神に近い人々だ」との諺も有る。
詩人の様に、言葉で現象・事象をしっかりと捉える事も、大事なのだろう。
しかし、今朝の場面は、人間社会の作業現場での映像だったので、単なる詩人では役に立たない。
今朝のメッセージの意味は、「天皇(すめらみこと)」の「命令(みことのり)」の要素を、含んでいるのではないだろうか。
宮廷の中で、絹の御召を着ていては、現場の事が分からないので、新しい型の「みことのり」の体制が、必要なのではないだろうか。
アメリカの「ブッシュ大統領」とは違う言葉は、日本の長い歴史と、伝統に裏付けされた文化の中でしか、生れないのかも知れない。
どうやら、「たしかな言葉」を使用するには、どの様に生きれば良いかを、真剣に考えなければならない様である。
「君子は 危うきに近寄らず」との諺も有るが、そればかりでは済まない様である。
平成15年9月19日
礒邉自適
2003/9/18
はくみ
15・9・18
今朝のメッセージは、地面に巣を組んでいる、羽根を持つ、大きな蟻の様子が映って来た。
私の弟が、蟻の巣を壊したので、中を覗くと、中に居る蟻は、黒茶色の体に、黄色の模様が付いていて、一見すると土蜂にも見えた。
蟻と、蜂は、同じ仲間だとの事なので、同じ生き物の習性を示して来たのかも知れない。
其の蟻の姿が、大きく拡大されて視えた後に、「はくみ」との言葉が出て来て、今度は真黒い四角い紙の上に、白くて透き通った、蟻の卵の様な物が5〜6個重ねられているのが映って来た。
其の、透き通った丸い物体の内には、何も見えないので、卵なのかもハッキリしなかった。
朝方、瞑想を続けていたが、答えに成る様なイメージは現れなかった。
「はくみ」が「白実」なのか、「白身」なのかも分からない。
ただ「はく」が「白」の字なのだけは判る。
朝起きて、広辞苑で「白」の文字に関係有る単語を見ていると、「白帝」と有って、「中国五天帝の一で、秋の神。西方の神。(季語)秋」と、載っている。
その「秋の神」と「西方の神」の謂われを知って、今朝のメッセージを再び思い出した。
地蜂の巣が有った場所が、畑の中にある農道の、十字路を西に入った所だったのだ。
今は季節も秋だし、自然の理を、私に考えろとの事だろうか。
五帝の他の季節は、
「青帝」東方の神で“春”をつかさどる・青龍
「赤帝」南方の神で“夏”をつかさどる・朱雀
「白帝」西方の神で“秋”をつかさどる・白虎
「黒か黄帝」北方の神で“冬”をつかさどる・玄武
西方の神は、白とされているので、中国では白い虎で「白虎・びゃっこ」と成っているが、日本には虎が居ないので「白狐・びやっこ」と成っている。
中国では「白虎とは 君主に 徳があるときに現れるとされる霊獣」(言泉)と載っているが、今朝私に現れたのは、白い虎や狐ではなく、ハチ目のアリ科の虫である。
地面の中に巣があったので、蟻の生活なのだが、姿は蜂に近かった。
どうして、虎ではなく蜂でなければ成らないのか。
そして、透明な卵の意味する処は、何なのであろうか。
季節は、確かに秋である。蟻も蜂も冬に向けて、最後の活動をしているのだろう。
蜂で思い当るのは、私へのメッセージに、新しい世の中の旗印が現れ、其のモチーフは紫陽花で、その花に蜜蜂が一匹止まっている絵である。
後に判明したのは、西洋のカバラのマークが、赤いバラの花に、蜜蜂が一匹止まっている物とのことである。
カバラとは、ユダヤ教の神秘説を伝える口承や伝承をいう。ユダヤの秘伝にも、蜂の生態が関係しているらしい。
蜂も、蟻も、女王が一匹居て、その女王を中心に、システムが可動している。女王一匹だけが、卵を産む権利を有しているのだ。
今朝は、その卵の様な物が数個ハッキリと映されて来た。
その透明な卵が、何を意味しているのかが判らない。
卵だから、何かが「誕生する」との意味を、伝えて来ているのだろう。
それも、自然の摂理に従ったモノの様である。
西方の神は、道路に関しており、交通・経済の神でもある。
今朝のメッセージには、十字路の道路が現れているし、道路で出会った人が知り合いで、宅配便を出しに行く処だった。
その事からも、何か経済事が動き出すのだろう。
それも、人間の勝手放題な型ではなく、自然の法則に従った型としてである。
其れも、卵が5〜6個盛られて有ったので、一件ではなく、数件の事が同時に産れるのではないだろうか。
現在、屋久島に、子供達の学校を建設しようとの話と、屋久島の植物「赤目柏・あかめかしは」の茶が、健康に良いとの事で動き始めているが、他の事は、未だハッキリはして来ていない。
取り敢えずは、西の神の「白虎」が動き出した事を、認識して於こうと想う。
《追記》
午後、客人と話をしていると、岡山のスーリアさんより電話が掛かって、明日、岡山の山田養蜂場の人達が屋久島に旅行に行くので、会ってやって欲しいと言って来た。
電話を切ってから、今朝のメッセージが蜂であった事を想い出した。
山田養蜂場の社長は、環境問題に熱心に取り組んでいる方の様で、時々新聞に全ページで、環境問題に取り組んでいる人との対談が載っている。
私も、自然の蜜蜂は自然を計るバロメーターだと考えているので、一度会ってみたい方だと想っていた。
島に居ても、次々と何かの動きが遣って来る。
神の働きは、私如きには、未だ未だ予想が出来ない事の様である。
今朝の蟻・蜂の出現で、確かな後ろ楯が、在るらしい事が見えて来た。
平成15年9月18日
礒邉自適
2003/9/17
タイムトンネル
15・9・17
今朝は、霊夢の映像の中で、過去の人達が生活している場面に、何度も往復した。だけど、言葉や文字は出て来なかったので、特別な意味は無いと思う。
しかし、自宅に寝ているのに、どうして見た事の無い場所や、人物が映って来るのだろうか。
昨日は、初めての出会い人が自宅に来て、一緒に飲み食いをしたので、その人の情報を、取り込んでしまったのだろうか。
私の亡くなった妻の「井上佳子」も、初めての人が自宅に来ると、二日程は其の人の波動を受けて、良く眠れなく成る事があった。
中国の、魏志倭人伝に出て来る、日本の「卑弥呼・ひみこ」と言う女性も、他人に会うと、自分の波動が乱れ、神のメッセージを受け取り難く成るので、食事を運ぶ弟の他は、誰も、自分の回りに近付けない様にしていたとの事である。
私も、無庵師匠に捜し出されて、修業が始まったら、他人と会たり、電話に出る事も禁止された。
現在では、私は他人に会っても、受けた影響は、自分で調整出来る様に成ったが、初めの頃は、現れるイメージ(情報)が自分の事なのか、他人の事なのかの区別が付かずに、混乱をする事があった。
他人の持ち物に触れたりすると、その人の情報が、自分の方に移って来るのである。
「天皇」が、国民と接見する時に、会う人との間に御簾・みすを下げるのは、他人の気を受けない様にする為であるし、自分の食べる物や、着る物も、特別な人間を指定して作らせるのも、自分の波動を護る為なのである。
逆に、神社や寺院で貰うお守りは、自分より高い波動の人の気を貰い、自分の気を上げる為の物である。
今では、お札もお守りも、内職の人達に作らせているので、波動は高くないが、昔は、全て修業を済ませた人間が、作っていたので、効果が有ったのだろう。
波動が高くて、気が強い人が作ったお守りを、身に付けたり、お札を家の中に貼ったりすれば、その波動が、時空を超えて、現象に影響を与えていたのである。
何故、物の移動や接触で、時象に影響が現れるのであろうか。
其れは、此の宇宙が、全て振動で成り立っており、その振動は、情報に因って変化しているからである。情報が変化すれば、振動が変化するので、物質の現れ方が変ってしまうのである。
私達人間も、変化する情報と、素粒子・電子の運動に因って存在している。
だから、違った波動を受けると、電子の振動が影響を受けて、自分の情報が掻き回されるのである。
その理・ことを、知っていた昔の人達は、自分より低い波動の人達には、出来るだけ近付かない様にして、波動(徳)の高い人の恩恵を受ける様に、努力して来たのである。
では、波動の高い人とは、どう言う人であるのだろうか。
波動が高い人とは、別の語を使えば「徳の高い人」と言える。
「徳」の漢字の意味は、「天に 真直ぐな心で 進む人」の意味である。
天に真直ぐ通じているとは、宇宙の波動や情報に通じている。又は、天神と同体に成っている者を意味している。
宇宙には、過去の姿形は無く、現在の姿形の中に、全ての情報が含まれている。
徳が高い人とは、その宇宙の情報の中で生きている人であり、一時的な人間社会の経済事に、意識を向けている人の事ではない。
「徳がある」「波動が高い」「悟っている」等と呼ばれる人達は、宇宙の情報に繋がっている人で、宇宙の振動に、自分の身を合わせている人の事である。
宇宙の情報に繋がっていれば、過去の情報や、未来の情報に、自分の意識をチャンネルする事が出来るのである。
それは、時間の旅が出来る事だから、タイムトンネルを行き来する事が出来る意味になる。
それは、修業を済ませた、老人だけが可能な世界ではなく、未だ、人間社会の業に汚染されていない、3〜4歳の子供達にも出来る事である。
「三歳(みつご)の魂 百まで」との諺がある様に、子供は、三歳の歳頃までに覚えた言葉の数に因って、「頭が良い」「悪い」とされるが、言葉を頭に入れる分だけ、人間社会の物や情報に、意識が取り込まれるので、宇宙の情報からは、段々と切り離されてしまう事に成るのである。
頭脳が優秀だと言われる人は、人間社会の物事に詳しい人の事だが、数多くの物事に、名詞を与えて言葉を詰め込むと、意識と波動は、三次元に固定され、四次元の宇宙とのコンタクトが、不可能となってしまうのだ。
だから、子供達が、宇宙の情報に繋がっていられるのは、教育を受け始める前迄である。小さい子供達は、宇宙の情報を視ていても、言葉にする術が無いので、大人達に伝える事が出来ないのだ。
中国には「老少」との言葉が有り、悟った老人と子供は、同体であるとの概念が伝えられている。
私がいまの様に成れたのも、屋久島の一歳から四歳位の年代の子供達が、何人も協力して、私を導いてくれたからである。
本当の事を言うと、無庵師匠が私を導いたのではなく、無庵師匠は環境を整えてくれただけで、師匠の子供や、私の子供、そして弟の子供や、近所の子供達が、毎日私を指導してくれたし、全国の旅でも、行った先々で、子供達が導いてくれたからである。
子供達は、学校に通い出す迄は、タイムトンネルの中で遊んでおり、未だ、神の世界と繋がっているのである。其れが、現在では「幼児教育」と言って、未熟な脳に、無理やり文字や数字を詰め込んでしまうので、宇宙とのコンタクトを取る回路が、失われてしまうのである。
私は、子供の頃より、眠ろうとして目をとじると、銀色の粒子が瞼一杯に広がり、それが満ちた処で、銀色の世界は渦巻と成り、トンネルが出来て、私の意識はその銀色のトンネルの中に吸い込まれて行くのである。
小さい時は、私が悲鳴を上げるので、父親が懐に抱きしめて眠らせてくれていた。
だけど、私はトンネルの中に吸い込まれるのに段々と慣れて来て、終点に迄行き着く様になると、声が聞えて来り、映像が映り出す様にも成って来た。
ソ連のチェルノブイリの原発事故も、小学六年生の時に視て、卒業式の日に舞台でその事を云っている。
タイムトンネルは、過去ばかりではなく、未来にも繋がっている様である。
どうして、未だ起きていない現象が、何10年も前に、現れて来るのか。
それは、未来をデザインしている存在が宇宙に在って、その存在が、未来を創造し情報化して、その情報通りに質量を動かし、コントロールしているからである。
未来が見えるのは、その情報にアクセスするからであり、過去が見えるのは、過去の情報を覗き見るからである。
タイムトンネルとは、自分が移動するのではなく、「宇宙・神」の情報に意識がチャンネルを起す現象なのだ。
それが、教育を受け始める迄は、みな同じ次元に在るのだが、その回路を使用させないで、地球上の相対現象だけを、脳に強引に詰め込んでしまうと、タイムトンネルの旅が出来なくなってしまうのである。
現在の世の中に、覚醒剤や麻薬が広がるのは、無意識で、子供の頃のアクセス回路を思い出そうとする、為なのではないだろうか。
覚醒剤を無くすには、取締りを強化するよりも、アクセス回路を取り戻してやる事の方が、解決策に成るのではないか。
私の様に、過去や未来を自由に覗けば、楽しくて、覚醒剤は必要無くなるであろう。
今朝の私の様に、過去の人達とコンタクトを取って、意志の共有をはかれば、過去の人達の希望も叶えられ、霊界も明るい物と成るだろう。
人間は、自分の事だけ考えていても、幸福には成れない。
其れは何故なのか、人間も神の存在の一部であり、宇宙の構成物なのだから、同じ仕組みの一部品として、人間の体も脳も存在しているので、神の意識から離れる事に成れば、落ち着かなく成るのは当然のことと言える。
だから、神の意いと同じに成った時に、満ち足りた気分に成り、宇宙の法則と自分の肉体の営みを同調させた時に、健康も維持出来るのである。
タイムトンネルこそ、人間の幸福の道であり、発明・発見の門なのである。
宗教の祖や、ノーベル賞を貰う人々は、全員此の門を潜る事が出来た人達なのだ。
子供達に、その扉を、開放しなければ成らない時節を、迎えている様である。
平成15年9月17日
礒邉自適
2003/9/16
引文・ひきあや
15・9・16
今朝のメッセージは、「引文」との単語が現れたが、読み音も、それに類する画像も伴っていないので、能く分からず、朝まで瞑想を続けていると、「自由」との概念が観えて来た。
昨日の文章に、屋久島の安房で使用される言葉、「嗚呼 あやが 引っ切れたょ」の事を書いたので、其の事が意識に残っていたからだろうか。
辞典で「引文」の単語を調べても載っていないので、一般的には未だ概念が拡がってはいない様である。それとも、使われないので、忘れられてしまったのだろうか。
普通に、文字から判断すれば、「引く文」と受け取れるので、「何かの文を 辞典で引く」とかの意味か、「文章を 引用する」とかの意味に、解釈されてしまう。
辞典には、その概念が載ってないので、やはり、昨日の安房弁を解釈しなければ成らない様である。
過去の人達が、一番大事とした「文・あや」は、中国の孔子は「恕・ジョ」で、老子は「道・タオ・トウ」、インドの釈迦は「法・ダルマ」で、イエスは「愛・アガペー」であると成るだろうか。
「孔子」は、人間の生き方を説いたので、弟子に、一番大事な「意・おもい・文」を問われた時に、「恕」であると答えたとされている。
「恕」は「@おもいやり Aゆるすこと」と 載っている。 広辞苑
「釈迦」は「ダルマ・法」と謂って、宇宙にはダルマが存在し、それに目覚める事が「ブッダ(佛・覚醒者)」であると説いている。
「老子」は「道(漢 タウ。呉 ドウ・ダウ)」と謂って、宇宙にはタオの働きが存在し、それに従う事が「徳」であると説いている。
「イエス」は「愛」が一番大事であると説いているが、是は「ラヴ・love(エロス)」ではなく「アガペー・agape」か、慈悲の「マーシ・mercy」と受け取るべきであろう。
しかし、今朝、私に出て来た言葉は、「恕・法・道・愛」ではなく「引文」である。私は、どの様な「文・あや」を自分の胸に引き入れて、刻めば良いのだろうか。
私が瞑想を続けていて、意識が捕捉したのは、「自由」との概念に似たものであった。
漢字の「自由」の意味は、「みずからを、宇宙で一番大きなモノに預けて 寄り添う」の意味で、其れを「由・よし」とし、其れに「自が由(したがう)」との理である。
前に述べた、四人の聖者達の文字を、彼等の気持ちに成って考えると、「法」と「道」は「自由」の漢字の意味と同じであり、「恕」も他人に余計な事を押し付けない事だし、「愛」は他人の自由を見守る事でもある。
其の様に考えると、四名の意識の土台は、全て「自由」の概念を含んでいる事に成る。
釈迦が「出家・しゅっけ」を勧めたのも、寺に入る(入寺)事等ではなく、家族や社会の柵・しがらみから自由に成る理・ことであるし、イエスキリストの言葉にも「私に 付いて来なさい」とか、「私は あなた達の 親子 兄弟の 仲を裂きに来たのだ」と有る。
其のイエスの言葉も、釈迦と同じく、家族や社会から、其の者を自由にする為の方法である事が解る。
自由の概念を、英語で見ると、
@ 「アズ-ワン-プリーゼズ・as one pleases」「㋐思いのまま。㋑心のまま。」
A 「フリーダム・freedom」「束縛のない活動」
B 「セルフィッシュネス・selfishness」「わがまま」。と、言海社 最新式字典
に載っており、「道」や「法」の概念は含まれていない。
何故、釈迦仏陀や、老子や、イエスキリストが、一番大事とした概念が、世の中に拡がらなかったのだろうか。
其の原因は簡単である。
国民全員が、自由に成ると困る人達が在って、其れを妨げて来たからである。
皆が自由に成れば、人間は一箇所に定住せず、税金が徴収出来ないので、権力者が困るし、会社を興しても、従業員も安定しなくなる。
其れ等の事が原因で、教育制度も権力者の都合に因って行われ、自由に成る事を止めて来たのである。
その事が、何百年も続いて来たので、全ての人々の意識から、自由の概念が消え去ってしまい、今では、人々の胸の内には、お金や財産の事だけしかなく成ったのである。
女性が結婚する相手を選ぶのにも、相手がどんな事を意っている人間かを考えずに、「3H ・背が高い、学歴が高い、給与が高い」を条件として考え、相手の人格を無視している。
それで、幸福に成ろうと考えるのが、所詮無理と言うものである。
本人はそれで良くとも、子供が生まれて母親と成ってから、何を想いながら子供の教育をするか、目に見えているではないか。
そんな家庭からは、出来るだけ早く出家するべきである。
人間以外の動物は、命を懸けて子供を育てるが、子供が一人前に成ると、母親は必死になって、子供に自立を促す。
其の点においても、現代社会の人間は、動物以下であると言える。
人類のテーマである「平和」と「安定」も、考えてみれば、人間が自由である事の為のスローガンである。
「遣りたい事が 好きに行える」「言いたい放題が 出来る」「金儲けが好きに出来る」そんな事は、本当の自由でも無いし、「恕・法・道・愛」に反している事である。
現在の日本人は、「自由」とは「自分の遣りたい放題に 出来る事」だと勘違いをしているのだ。
現在の人間は、論語の「恕」の意味の「己の欲せざる所は 人に施すなかれ(自分が欲しないことは、人も欲しないのだから、これを人にしてはならない)」との教育も受けてはいない。其れは、学校の教育者が、自由や民主主義の概念を正しく把握していないからであろう。
思考を元に戻すと、「引文」の「引」は、「みちびく」とか「広げる」とかの意味も有る様だ。
今朝のメッセージが、私の胸に想う事を「拡げる」とか、想う事の方へ「みちびく・みち引く」との意味を、告げて来ているのであれば、私の役目は、人々を自由にする事にあるのかも知れない。
現在の学校の教育は、全国民をサラリーマンか、お金の奴隷にするものの様である。神社や寺院に行っても、欲望を煽る事ばかりを、行っている様に見受けられる。
日本には、元々「自由」との概念は無かったのだろうか。
探して見れば、其れこそが、日本文化の源に有る事が理解出来る。
日本語の「みそぎ」とか「かんながら」とは、釈迦の「法」や、老子の「道」と同じ概念なのである。
「みそぎ」とは、社会のシステムや、人類が創り出した柵・しがらみから抜け出す事であり、「かんながら」とは、「法」や「道」に従う事である。
どうやら、私が自分の胸に「文・あや」として刻むべきモノは、何なのかが明確に成って来た様である。
私が、他人に対して想う事は「恕」であり、自分の胸には「由」を念じて行けば良いのである。
それを、自分の「弓」として、胸に意(しま)っておけば、その「文・あや」は「念・おもい」と成り、「祈り(意乗り・波動・切願)」と成って、人類全体の潜在意識に広がって行くのだろう。
その方法の理が、日本では「御稜威・みいつ・みーつ」として、言い伝えられて来たのだ。
私が、今朝捉えたモノは、宇宙の根源的親心ではなかったのだろうか。
イエスキリストも「天の父よ」と言っているし、日本でも「大御心」とあり、釈迦の言葉にも「衆生一切我が子」と有る。
私の胸に、今朝去来したモノは、その宇宙の「あや」だったのかも知れない。
そうであれば、私は、宇宙の文を引き込んだ事にも成る。
「御稜威」とは、宇宙の「あや(綾糸)」を、「衆生一切に 偏く 拡げる働き」の理・ことなのである。
私の胸の文と、宇宙の文が、一体と成る時、それはブッダ・仏陀であり、「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」の働きでもある理・ことに成る。
私は、私の胸の文が、引き切れない様に、務めなければ成らない様だ。
昨夜、寝る前に「減速」との言葉が遣って来た。
何を、減速すれば良いのかも、見えて来た様な気がする。
胸の文を、人類救済の行動から、自分の自由に向けるのであれば、人間社会に対する想いや、行動を減速する必要があるのだろう。
私は人類全体の命運を委されてから、19年が経過した。
何が、何だか解らない侭、19年間突き進んで来て、そのスピードも漸く減速の時を迎えた様である。
家族や、人類を救わなければ成らないとの文から、やっと解放され、自分の自由の完成へと、文を入れ替える時を迎えたのだ。
「悠々自適」の名へ、56年振りに復帰する時が来たのだ。
私にも「サマディ・三昧」の人生が、ようやく訪れて来た様である。
平成15年9月16日
礒邉自適