2003/8/28
わたしは 誰か
15・8・28
本日は、旧暦では8月1日で、月初めの日であり、海岸も8月では一番潮が引く日でもある。
今朝のメッセージは、季節を調み込もうとする意識が暫く続いていて、「わたしは だれか」との声が、意識の深い芯の奥から出て来た。
声の調子からすると、年寄りの声だが、力が強くて威厳のある声だった。
今月12日に「 」の言葉は、「神の意志では無い」との事が有ったので、其の声も神の声ではなく、過去に人間を遣っていた人格霊の言葉だろう。
では、何処ら辺りの位置に、在る人格霊なのだろうか。それとも、私自身の潜在意識に住む、自分自身の過去の魂しいの声なのだろうか。
日本では、古事記に、神の世界は「天御中主」から始まって、「伊耶那美命・いざなみのみこと」まで、17段階ある事に成っていて、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと(16番目)」の神の両目と鼻から、「天照大神」「月調命」「素戔鳴尊・すさのおのみこと」の三貴神が誕生した事に成っている。
其れなので、神の世界と、人間の世界の中間辺りには、此の三貴神の働きが在る事になる。
「天照大神」は、昼間の太陽がある世界を、「月調命」は夜の世界を、「素戔鳴尊」は海原を治める事に決められている。
しかし、日本全国の神社を調べると、天照大神と素戔鳴尊は、多くの神社で祭神とされているが、月調命が祭神と成っている神社は、全国に数社しか無い様である。
私の体験からすると、「伊耶那岐命」が禊ぎをして誕生した神は、三貴神とも男神であり、「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」も女神ではない。
今朝の声の主が、三貴神の一人であっても、どれだと決める事が出来ない。
声が聞こえる前に、季節を探っていたので、可能性がある者と言えば、「月調命・つきよみのみこと」と考えられない事もない。
月調命が、人気が無いのは、人間に、直接御利益が無いからであろう。
天照皇大神や素戔鳴尊は、人間界の生命や財産に関係するので、人間の欲望に直接繋がる事だから、人々は天照大神や素戔鳴尊の神社を建てるのには、協力を惜しまない。
しかし、月調命は「夜の国を治める役目」で、波動調整の働きだから、人間の目には、直接見えない世界なので、人々の興味を引かないのである。
現代では、科学が進んで、宇宙は全て夜だと判明して来ているし、物質の存在は、全て振動に因って存在している理・ことも解明されたので、月調命の世界こそが、主体である理が判って来ている。
日本語の「お陰様で」と言う言葉が、世界中の概念と成ろうとして来ているのである。
宇宙物理学者は「お陰様」の世界を、「シャドーグランド・陰の場」として名付けて呼び始めている。
もう直ぐ「お目出とう」の言葉にも、英語の名が与えられる事だろう。
「目が出る」とは、ラーの意識が目覚める意味で、宇宙の根源意識と繋がった者が、神の目に目覚めて、現れる事を意味している。
今朝の「わたしは 誰だ」は、疑問を投げ掛けるもので、「私が 神だ」とかの、名乗り言葉ではなかった。
名乗らない事で、私の意識を働かそうとしているのであろう。
「わたしは 何々だ」と名乗ってくれれば、私は「ああ、そうですか」と、簡単に処理出来るのだが、名前が分からなければ、色々と考えなければならなくなる。
それが、今朝の神霊の作戦なのだろう。
物に名前を与える事は、その物に対して、名付ける者の理解がなければ成らない。
目にも見えないで、手でも触る事が出来ない物に、どうして名前を付けて、認識出来ようか。
是等の事を考えると、昔の人達が、最初に、物事に名前を与える時の苦労が見えて来る。
我々現代人は、子供の頃から、大人が言っている言葉を、何の疑問も抱かず、其のまま受け入れて使用して来ている。
其れが間違っていても、そのまま丸暗記して来ているのだ。
そのパターンが、代々受け継がれて来ているので、日常の習慣も、疑いを持つ事も無く、子供達に伝えてしまっている。
今朝のメッセージの声に対して、私が間違った名を与えてしまえば、後々の世まで、其れが伝えられてしまう事に成るのだ。
其の、言葉の絡繰・からくりを知っている何者かが、私に、新しい課題を与えて来たのだろう。
人間社会では「他人に名前を聞く前に 自分の名を前に名乗れ」との、挨拶言葉があるが、今朝のメッセージの次元は、その様な段階ではなく、人類全体の言葉の始まりの、謎を解く鍵に関する事の様である。
「わたしは だれか」とは、礒邉自適の内なる声なのか、其れとも、宇宙の根本霊で、宇宙の内側の声であっても、私よりは、外側の者なのかも知れない。
声が、発生されて来た次元の位置が、明確ではないのが問題である。
「わたしは 誰か」との物言いが、その次元を探れとの意味を含んでいる。
私は、「 」の中の言葉は、神の意志ではないと告げられてしまったので、神の言葉だとして片付けられなく成ってしまったのである。
季節をはかる(探る)意識は、天照大神や「素戔鳴尊」ではないだろう。
「月調み」とは、宇宙のリズム・調子を読み取る事を意味している。
人間社会の働きで言えば、気象庁や天文台の役目であり、人間の生活内では、占いや易などである。
それに、暦・カレンダーも、生年月日を決めたり、計画を立てたりするのに欠かせないので、暦やカレンダーを作る事も、其の一部として考える事が出来る。
そうであれば、天文台や気象庁に、「月調命」が祭られていても良いと想うのだが、人間側には、それらの受け取り方はされていない。
月調の神は、人間に忘れ去られた神なのである。
忘れられている神が、働きを現わそうとしているのなら、私の意識の奥から声を出して来るのも、理由が分かる様な気がする。
宇宙の、シラベやリズムを読み取り、管理する働きには、言葉を必要としない神が付くのなら、自分の名前も有しないのかも知れない。
名前が無ければ、自分から名乗る事が出来ないのも頷ける事である。
「わたしは 誰か」とは、名乗る事は出来ないが、存在する事だけは、知っていて欲しいとの事なのかも知れない。
私の内側に、其の様な働きが存在するとすれば、私の血の流れの中に、斎部。忌部・いんべ。物部。石工・メーソンの役割が、隠されている事に成る。
そうであれば、私の人生の不思議さにも納得が行くし、「わたしは だれか」の声も、自分の身に、内蔵するモノから発生されたと、考える事も出来る。
今年の夏は、私に巣食っていた諸々のモノが、すっかり禊がれて、自分の本体が顔を出して来たのかも知れない。
其れは、鉛筆の木の部分が削り取られて、芯の部分が現れ出て来たのと、似ているのではないだろうか。其の、芯の部分が、何を画き出して行くのか、私の内側の力が、本性を現わして来るのを待つ事にしよう。
「わたしは 誰か」と、発する声の本体が、私を、何処へ運んで行くか楽しみである。
平成15年8月28日
礒邉自適
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