2003/6/20
金縛り・かなしばり
15・6・20
今朝方、10数年振りに、金縛りに遭った。
私が、誰かの部屋に入って行くと、布団が散乱しているので、片付け様と布団に手を遣ると、右側の棚の上から、何かが転がり落ちて来た。
何だろうと意い近付くと、其れが私の背に憑依して来て離れなくなり、私は金縛りの状態に陥った。
背中に取り付いた物は、黒くて痩せた人間の様な物体で、腹が減っている様で口をパクパクやっている。私が、何か食い物を遣らなければと想い、食べ物を探そうとする処で、其の金縛りが解け、気分もホッとした処で、霊夢は終わった。
「変な 世界を 体験したな」と思っていたら、昼過ぎ、知り合いが自宅に遣って来て、「今日は 僕の家に 遊びに行こう」と云う。
私は、他人の家に行くと、其の家のカルマを直ぐ背負うので、他人の家に行くのは余り好きではない。
だが今日は、用事が丁度済んだ処だったし、今迄に何度も誘われていたので、断り切れずに行く事にした。
その人の自宅に着いて、一休みしてから隣の部屋が気に成ったので、「隣の部屋はどうなっているの」と尋ねると、本人が隣の部屋を案内してくれた。
部屋の中に入って見ると、私が今朝霊夢で見た通りの部屋で、布団が散乱しており、部屋には仏壇が置かれている。
私は、今朝の霊夢で金縛りに成った部屋は、此の部屋だと想い仏壇を見ると、花は生けてあるが、水も食物も何も供養していない。
部屋を良く見ると、私の意識は、其の部屋の、東の窓から部屋の中に入ったらしい事が判明した。
そして、私に憑依して来たのは、その人の父親で、息子が供養物を上げてくれないので、腹が空いていて、私に、息子に知らせて欲しいとの事だったらしいのだ。
私は、その友人が読み掛けている本を手に取り、栞の部分を開いたら、其のページはちょうど「施餓鬼・せがき」の事が書いてある部分だった。
私は、現場の状況から、今朝の霊夢の場面と、部屋の様子を伝え、本人が読もうとしていた本の部分を読ませた。
彼は共産党の党員で、私の自宅に、何度か遊びに来て話しているのだが、どうしても霊の存在を信じないのである。
私が、先祖の霊の事を言っても、「それは迷信で 人間は死んだら終わりで 先祖を祭るのは 生きている人の観念にしか過ぎない。仏壇等の事は 自分の気休めにしか過ぎない」と謂うのである。
私が自分の体験から、霊魂の存在をいくら説明しても、彼は「体験が無い者には 信じられない」と云って、話が通じなかったのである。
今日の体験は、私が、彼の自宅を訪ねる事に成るのを、彼の父親の霊が知っていて、此の私に「息子に 自分の霊魂の供養をするように」と、告げてくれとの事だったのだろう。
人間は、此の世で生きている内に、宇宙の真理・法・ダルマを悟り、物事に対する執着を離れる事を「成仏する」と言うのだが、今朝の体験は、食欲の執着が解けていない父親に、息子が供養をしない問題を、私に知らせる為の現象だったのだろう。
今日の出来事は、私が、彼の家に初めて行く事を、前もって知っている霊が存在して、私の意識を、夜が明けない内に、仏壇のある部屋に連れ出している。
此の事は、彼の父親の他に、もう一段上位の御霊が、働いている事の証拠である。
彼も、私の言う事と、自分の読んでいた本のページの偶然性で、少しは先祖の霊魂を信じる気持ちに成ったらしく、「何か 御供えを買って来よう」と言っていた。
「施餓鬼」を、広辞苑で調べて見ると、【(仏教用語)飢餓に苦しんで 災いをなす 鬼衆や無縁の亡者の霊に 飲食を施す 法会。】 と 載っている。
屋久島では「インガメに取り憑かれた」との言い方がある。
「インガメ」とは「因果メ」で「メ」は「苦しい目に遭う」の「目」ではないかと想われる。飢餓に苦しんでいる因果の深い霊に、憑依される事を「インガメに取り憑かれた」と、表現するのだろう。
私は、自分の身に起きる事は、自分で解決出来るから良いが、何も譯・わけの解らない人が、同じ状況に陥ったら、怖くて寝込んでしまうか、何処かの霊媒師の所に相談に行く事に成るだろう。
共産党員のテキストは、マルクスなのだが、マルクスは「宗教は 麻薬と同じで 人間を無知にする」と謂っているだけで、神や霊魂を否定しているわけではない。
寧ろ、神の存在を知ったからこそ、土地の所有や、宗教の柵・しがらみから離れる様に説いたのであろう。
現在の日本も、マルクスの本当の心を理解しない「マルクス主義者」の存在で、社会意識が掻き回され、混迷を深めている。
人間は、此の世に肉体が有るだけが真実で、死んでしまえば、何も残らないとの教えは、人生を儚いものとして、益々、人々の心を暗くしてしまい、不成仏霊を増やして行く事に成る。
人間の不幸は、自分の先祖の霊が、自分の子孫に、何かを訴える為に、悪さを起こす事である。それは、他人では解決出来ない世界である。
其れに、修業が出来ていない坊さんに、幾等、仏教経典を唱えて貰っても、何にも成ないのである。
霊界の存在を信じない人が、死んで霊界に行ったらどうなるのか。
考えただけでも変な事である。
又、霊界を信じていた人が死んで、仏壇で食事を待っているのに、子供達が仏壇に振り向く事が無ければ、仏壇の霊は何を考えるか、想像するだけで変な気分に成って来る。
釈迦仏陀が訓えた事は、生きている間に成仏する事である。
成仏した者の霊は、もう食物や、財産や、家族に一切の執着が無いので、仏壇も墓も必要ではなくなる。静かに、子孫の平和と、存続を見護るだけである。
釈迦が、教えを説いてから、既に2500年が経過しているが、なかなか釈迦の想い通りには成らない様である。
仏壇の存在が、新しい執着を発生させているのなら、お釈迦さんも泣いているのではないだろうか。
私も、自分の先祖だけなら未だしも、他人の先祖の霊までは、面倒を見切れない。
今回の事は、私の学びとして、必要だったのかも知れないが、二度とは御免蒙りたいと意う。
平成15年6月20日
礒邉自適
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