このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2003/5/29
男性社会の終焉
15・5・29
今日のメッセージは、男性社会が終わりを迎え、女性の瞑想が、始まる様子が知らされて来た。
前半の場面は、次の様な場面である。
・林を切り開き、ブルドーザーで大きな道路の交差点を造る為に、土を押しているが、続きの道路を造る計画は何もない。
・道路予定地の森の中に、石の遺跡が発見されて、工事関係者が困っている。
・町の外れに、大きな産業道路を通し、工場誘致を図っているが、工場の建設が全て、途中で止まっている。
其の全部の場面に、道路が出て来たが、道路は交通を意味しており、風水では交通は、物の流通を意味し、物質の流れる事から、経済、商売の世界を現している。
此の事から、現在の産業が終焉を迎え、自然破壊をしながら道路を通し、工場を建設しても、無駄である理・ことを知らせて来ている。
森林を破壊し、道路を造り、工場を建てたがるのは、男性の心理である。
遺跡を破壊する行為は、古代の文化を、大事に考えていない証拠でもあるし、その遺跡が古墳だったので、古墳を破壊する行為は、古代の霊魂を尊ぶ心が無い事にもなる。其れは、自然破壊に止まらず、文化の破壊にも繋がる行為でもある。
是等のメッセージの映像は、現代社会の欠点を示唆して来ており、男性の価値観が、地球の為にも、人類の未来の為にも、役に立たない事を知らせて来ており、人類の価値転換を迫って来たのだと想われる。
後半の場面は、森の多い場所に木造の家が在り、人間の活動が始まっていた。
其の人達の仲間が、街の中にも居て、10数名の女性達が、瞑想を行う場所の連絡を取り合っていた。
其の場所は、市の文化活動の建物の様だった。
世話役の男性も、一人現れたが、其の男性は、若くておとなしい人で、前半に現れた建設現場の男性達とは、全然タイプが違っていた。
私は最初、道路建設予定の森の中に案内されて、古代の遺跡の前に立たされ、現場監督の男性に「壊しても良いか」と尋ねられたので、両手をかざして見ると、両手が耐えられない程痛くなったので、急いで、其の場を離れ「破壊すると大変だ」と答えて、其の場を去った。
現場の男性達は、お祓いをしてくれる人を連れに行ったが、私は関りたくないので、その人達と別れて、他の場所に向った。
別の、自然の中に在る村に着くと、知り合いが数名居て、皆楽しそうに、此れから活動を始める処だった。
私は、三台出発する車の一台に乗せて貰い、瞑想が行われる会場に向った。そして、会場に着いた処で、其の場面は終った。
現代文明は、西洋で起った産業革命に端を発している。
産業革命は、1760年代にイギリス国で始まり、1830年以降、欧州諸国に波及し、日本国は明治に入って1870年代より、急速に其の生き方を導入した。
日本国は、イギリス国に約100年遅れて、手工業から、大型機械化の道を歩いて来た。
何とか、技術的には追い着いたが、物質世界の変化に対して、東洋的な精神で暮らして来た、人々の心は追い着かず、バランスを欠いたまま、現在に至っている。
精神的な世界が、途中で抜け落ちていて、空白状態なのである。
日本の若者は、西洋の若者達の精神に比べて、著しく幼稚であると耳にする。
私が一番心配する事は、幼稚な人達が結婚をして、子供を産んで育てて行く事である。
自分に、親の資格が無いのに、子育てが、上手く行くはずが無いのである。
親の資格が無い親に、育てられた子供がどうなるのか。
未来は、子供達が創造する事に成るので、早く、其の対策を考えなければならない。
高度成長の中で、育った若者は、物に囲まれて生活している。
経済が落ち込み、物が手に入らなくなった時に、どんな行動をするのかを考えると、恐いものがある。
若し、彼等がパニックを起こす事に成れば、パニックを止める対策を考えておかなければならない。
其れには、経済活動だけを行って来た男性達は、役に立たない事は明らかである。
自分の立場が、崩壊した者に、他人を救える分けが無い。
パニックを抑える事が出来るのは、静かな暮らしの中に、自分の身を置いている者達だろう。
今朝のメッセージは、ただ単に、男性中心社会から、女性中心社会に移ると言う事だけではなく、若者達の未来をも含めた、メッセージではないだろうか。
神は、人類救済の次の段取りを企てていて、未来に対するヒントを、示して来たのではないだろうか。
私は19年前までは、前半の男性側の立場に立って居たが、現在は、後半の女性達の仲間に成っており、生活全般の事に付いて、日夜努力を続けている。
私の、其の19年間の努力は、新しい女性達の動きが始まれば、役に立つ事だろう。
平成15年5月29日
礒邉自適
2003/5/27
物を管理させられている人間
15・5・27
今日は、様々な人達が夢に出て来た。
その人達は皆、其々に、何かの管理をしているのである。
其の人達は、次の様な人達である。
・自宅を建築する父親
・食品会社の社長
・土地を澤山持っている未亡人
・社員寮を管理する女性
・自宅を二ヶ所持っている個人
・子供を見守る母親
上記した様に、自宅を建築する父親から、子供を見守る母親までの間に、人間が生きて行く為に、関わるべき場面が、様々な形で映って来た。
私は、夢の中では、自分が直接管理をしているのではなく、管理をしている人の、話し相手に成っているのである。
自分が、直接管理に手を下していないので、自由に意見を言う事が出来ていた。
私自体は、自由の身なので、客観的に物事を捉える事が出来て、意見が云えるのである。私は、どの場面でも、有り難がられていた。
今朝の夢は、何を意味しているのであろうか。
1私には、一つの現場をさせるのではなく、多くの現場を見せるように知らせて来た。
2私に、全ての人の、相談相手と成るように告げて来た。
3私には、物を管理するのではなく、人を管理するように告げて来た。
4人間は、神の代りに、物を管理させられる存在であり、物を管理しているのではなく、させられている事を知らせて来た。
以上の事の他にも、夢の場面に、色々な意味合いが含まれていたのである。
@ 父親が建築している新しい家は、建物の中に仏壇や祭壇が無く、西側の壁の外側に、社らしき部分が造られていた。西は、交通や経済の神を意味する方角である。
A 食品会社の名が「辻食品」で、「辻」とは交差点の意味だから、食物が人生の歩く方向を決める事を知らせて来ている。
B 土地を澤山持っている未亡人は、工場地帯や港湾に、広大な土地を有しており、何に利用すれば良いのか分からないでいる。
女性には、土地を生かして使う能力が無い。女性には、男性の様に、縄張を管理する能力が本能的に無い。
C 会社の社員寮を管理する女性は、壁に、会社で決めた寮の決まりを書いて貼ったりしているが、未だ若い独身女性なので、男性と性的繋がりが出来易い事を見せていた。
D 自宅を二軒持っている男性は、家庭が無いので不安定な感じで、家に暖かさが無く、人生が暗い感じであった。
E 子供を見守る母親は、子供と向き合っているのではなく、子供の後から、成長を支えている場面だった。
内容は、こんな感じだと想うが、是以上の場面を見せても、私が全部を覚えられないので、是くらいの内容だったのだろう。
今日の夢は、もっと深い意味があるのではないかと想う。
18年間もの、長い旅をさせられて来た、私の人生からすれば、今日の夢の内容は、単純過ぎる様な気もしないではない。
今朝のメッセージの内容では、神と私の繋がりが、明確に成って来ていないのである。
私は、其々の場面で、話し相手に成っているだけで、私が、何かの答えを授けたり、指示をしたりはしていない。唯、現場に立ち会っているだけの存在なのである。
これ等の場面は、一体何を意味しているのだろうか。
夢の場面は、私の直接の欲望ではなく、他人が行なっている事に、関わっているだけなのだ。夢の中の私には、自分の姿は見えないで、意識だけが存在し、夢に現れた人達と会話をしているのである。
家を建てている父親は、39年前に亡くなった私の父親で、此の世には居ない人間であって、自宅を二軒持っている人は、現在、島に住んでいる知人なのだが、実際には、家は二軒持っていない人だし、他の人達は、私の知らない人間で、場所も知らない所ばかりである。
確かに、私は、今朝の夢で情報が増えて、現実として同じ様な現場に遭遇すれば、対処し易い事は間違いないと想う。
と言う事は、私を育てる為にだけに今朝の夢があり、現実ではない事となる。
つまり、私は、実際に現場を体験しないでも、一晩で、多くの現場を巡り、知恵を得た事に成るのである。
此の事は、夢の中で、学校に通っている様なものだと言う事も出来る。
夢の中の現場が、神の主催する学校であれば、学校の経営者と教師は何者なのであろうか。
私の実力に合わせて、テキストを作るには、私の過去の体験と、知識の中味を全て知っていなければならない。
私の、これ迄の事を、全部知っているのであれば、私の56年間の人生を、全て見詰めていた事に成る。
私が歩いて来た道も、私が行なった行為、そして私が其の現場で、何を考えて居たのかの思考さえも、全部把握していた事になる。
そんな、途轍もない者の存在が、本当に在るのだろうか。
しかし、その存在を信じる事しか、答えが、他には無い事は確かだ。
私が、知っている人達や場所だけなら、私の脳自体が、全部を記憶していると考えられるが、知らない人や場所が出て来るし、時には一ヶ月先の出来事が、先に夢に現れて来る事もある。
時間と空間を超えて、私の意識を組み立て、育てている者の存在とは、何物なのであろうか。それを「神」と言って良いのだろうか。
それとも、無意識の世界と表現して良いのだろうか。
それか「私の無意識の世界に 神の存在が繋がっており 私の意識の成長に合わせて 此の三次元である現象世界を 動かしている」と、説明すれば良いのだろうか。
私の日常は、一人暮らしなので、自分で衣食住を賄い、訪ねて来る人達の話し相手に成り、時間があれば、文章を書いているだけである。
別に仕事が有るわけでもないし、他人の所に出掛け、意見を云ったりする訳でもない。
18年間の旅でも、仕事らしい仕事はしていないので、今日の夢の様に、他人のしている事を見て回って、協力して来ただけである。
私の、現在の文章を書く作業は、私が、自分で思索を練っている分けではなく、映って来る映像に対して、何等かの意味付けをしているに過ぎない。
強いて言えば、神の思索の手伝いをしていると成るのだろうか。
今朝の文章も、また神の思索の手助けに成ったのであれば良いが、私の脳の幻想と言えない事もないのである。
しかし、私の脳の幻想にしては、中身が有り過ぎると想う。
其れもまた、私の56年間の人生からの判断力だと言えるだろう。
その判断力こそ、神が、私を育てて来た目的の産物なのかも知れない。
昨日に続いて、私の中に、何かの創造性が、動き出して来ている様である。
平成15年5月27日
礒邉自適
2003/5/23
あとずさり
15・5・23
此の3月の末に、私は四日連続で、後退りをする夢を見た。
其れは、自分で車を運転していて、バックで他人の車にぶつかりそうに成ったり、やはりバックで、崖から落ちそうになったりする場面である。
私は、何故、連日バックする場面だけを、夢に見るのかを考えてみた。
すると、夢を見始める前の日に、伊勢海老を食べている事に気付いた。
其れは、伊勢海老の行動パターンが、私の意識に作用していたのである。
以前にも、屋久島の鹿肉を友人に貰って食べたら、夜中に、右足が痛くなり痙攣を起こしたので、次の日、其の友人に「昨日の鹿肉は 右足に鉄砲の弾が当った鹿だったか」と問うてみた。
すると友人が、「そうだ どうして聞くのか」と云うので、「昨日 夜中に 右足が痛くて 痙攣を起こしたので 若しかしたら鹿肉が 原因かと想ったからだ」と云うと、其の友人は怪訝な顔をした事があった。
動物は、殺される時の恐怖心が、情報として細胞に記憶されるらしい。
だから、西洋でも、昔から家畜を殺す人は、資格を有しなければ成らない事になっているのである。
動物を殺す時は、恐怖をできるだけ感じさせない様にし、血を完全に抜き取らなければならないとされている。
佛教で、「精進・しょうじん」をする事を説いて、肉食をしないのは、肉を食べると、其の動物の「記憶・おもい」が人間に伝わり、瞑想する時に恐怖心が湧いて来て、静かな境地に成れないからである。
仏教の神髄は「安心立命」にあるので、肉食をすると、其の反対の心境が現れ出て来る事から、肉食を禁じているのである。
今回は、動物ではなく伊勢海老だったのだが、それでも四日間は、私の意識に影響を与える事に成った。
その夢には、恐怖心は無いのだが、後ろに退がる場面で、後ろが見えない事から、私は必ず困っているのである。
良く考えて見ると、伊勢海老も、他の蝦・エビと同じく、餌を探す時は前に歩くが、逃げる時は皆後退りで、穴の中に隠れて行く。
其れは、穴の中に入る時に、前進すると長い角が邪魔になって、逃げ遅れるからである。
穴から出る時は、静かにゆっくりと、角を自由に動かしながら、隙間を通って出て来るので、角は邪魔にはならないらしい。
人間が、伊勢海老を捕る瞬間には、伊勢海老は穴の中に逃げようとしているので、その時の感情が細胞に残っているのだろう。
伊勢海老の目は、頭の上に灯台の様に飛び出しているから、360度周囲が見えるので、後ろに退がる時も、景色は全部見えている。
処が、其れを食べた人間の私には、後方を見る目が付いていないのである。
人間は、平になった顔の前に両目が付いているので、他の動物の様に横や後ろが見えない。
脳の仕組の中に、後方を見るシステムが出来ていないのである。
人間である私の脳には、車のバックミラーを見ながら、後退りをするパターンしか、組み込まれていないのである。
だから、伊勢海老のバックする動きが情報として、人間の思考の中に移された時、車のバックミラーを見ながら運転する感覚が蘇って来て、後退りする夢が現れるのであろう。
人間は、後方に移動する時も、体の向きを変えて移動するので、後退りの仕組みが無いのである。
私が伊勢海老を食べていなければ、車でバックする夢は見ないであろうし、命に危険が迫っていた、伊勢海老を食べていなければ、崖から落ちそうに成る様な危険が迫っている夢を、見る事も無かっただろう。
食べた物が、人間の意識に作用するのであれば、平和に生きようと想えば、人間に食べられる事を当然と想っている、穀物や木の実を主に食べるようにしなければならない。
何故なら、彼等は動物に食べられる事で、種子の分布を広げようとしているからである。
草や木の実・種子は、動物に食べられる事が本望であり、その事で、種の保存を図って来ているのである。其れは、自らが移動出来ないので、移動する動物を利用している事になる。
一方、動物には、食べられる事が本望だと言うのは、居ないのではないだろうか。動物は、自分が食べられそうに成れば、必死になって逃げようとする。
其の時の恐怖の感情が、食べた人間の無意識に作用するのであれば、考えなければならない事がある。
人間は、他の生き物と異なって、仲間である人間を殺す事が出来る。
それは、何故なのだろうか。
私は、其の原因が、肉食にあるのではないかと考えるのである。
植物を食べている内は、自分が襲われる・魘われると言う、感情が発生しないので、無意識の世界に、危険が迫るパターンは組み込まれないが、殺された動物の肉を食べると、何時も襲われると言う感情が、無意識の根底に在る様になる。
そうなると、自分の身を守る為に、常時、武器を携帯しようとする様に成る。其れが、軍備の始まりと成るのではないか。
相手の国が軍備を持てば、襲われると言う感情が強くなり、自分の方は、其れ以上の軍備を持とうとする。
その感情が頂点に達すると、敵が襲って来る前に、自分の方から先に攻めて、その恐怖を取り除こうとする。その事が、人間社会から、戦争が無くならない原因の一つではないのだろうか。
此の理・ことが事実であるなら、肉食を主にしている人間が、政治の表舞台で主役となっている間は、戦争が拡大される事は有っても、戦・いくさが此の世から消える事はないであろう。
其の様に考えると、ベジタリアンが平和主義である事も、納得が出来るというものである。
私に、近頃出て来るメッセージは「何もするな」との事が多い。
処が、私の方は、何かをしなければと言う気持ちが、強く成って来ている。
その様な、私の精神状態を知っているからこそ、何もするなと告げて来るのだろう。
しかし、私には何故、そう告げて来ても“動かなければ”との意識が、生じて来るのだろうか。
其れは、私が毎日、魚を食べているからだろうと想われる。
屋久島に帰ってから、知り合いが増えて来て、毎日の様に、誰かが魚を持って来てくれる。
自分では、海に出掛けなくても、何時も、自宅の冷蔵庫の中には魚が入っている。
魚類は、長期保存が出来ないので、どうしても早く食べなければと考え、常食する事になってしまうのである。
魚類は、常時泳ぎ回っている生物である。
特に回遊魚は、泳ぐ事で、エラの中を海水が通り、其れで酸素が得られる仕組みに成っている。だから、泳がない事が、死を意味する魚も居る。
此処数ヶ月、私が食べている魚は、漁師が持って来てくれる「飛魚」や「シーラ」や「鰹」が多い。其れ等は、皆、回遊魚である。
私の身体の細胞が、魚の細胞に、入れ替わってしまっているのかも知れない。
19年前、私は無庵師匠に捜し出されて「自適さんは 魚を食べ過ぎて 魚の毒が身体に溜っているから その毒を除く為に大根を食べろ」と云われ、銅の下ろし金の刃が摩り切れる程、毎日大根を下して食べさせられた。
そのお陰で病気も治ったが、それから数年、肉も魚も食べなかったら、今度は動くのが苦手と成り、一日中でも、樹の下に座っていると、気持ちが良くて、まるで天国に在る様な感じで過ごして居た。
屋久島に帰って、一年が経つが、魚の性が、再び私の中で、活躍を始めている様である。
魚を食べると、前進したくなり、伊勢海老を食べると、後退りをする。
私の意識は、まるで食い物に因って揺り動かされている様だ。
是で、恐怖を持って殺された、動物の肉を食べればどうなるのだろうか。
実験をして見ると、面白いかもしれないが、もう此の年だから、余計な事は止めた方が良いだろう。
やはり静かに生きて、善良なる顔に成る為には、精進の生活が一番良いだろう。精進の生活を続ければこそ、外道に落ちた時に、其の事が、自覚出来るのである。
「道」を、外れて生きている人には、もう「道」の何たるかを、知ろうとする要求さえ、起きては来ないだろう。
私の肉体の内で、伊勢海老の魂が、どうなっているのかは分からないが、私が成佛する為の、先達を果たしてくれた事には、間違いない。
19年振りに、自分で捕まえて食べた伊勢海老は、私の人生の、薬に成ってくれた様である。
平成15年5月23日
礒邉自適
2003/5/23
後向きに拡大する意識
15・5・23
今日は、昼間に瞑想していると、私の意識は、後向きで宇宙に拡大している理・ことが観えて来た。
其れは、意識は内側を見ているのに、外側に背中を向けて、宇宙空間を飛んで行く姿である。
其のビジョンから、私が観じる事は、「人間は 普通 子供の時から成長するのに 前向きで行動し 情報を集め 意識の拡大を続け 自分の世界を 構築して行く」と言う事である。
処が、私が今日、瞑想の中で観た現象は、其れとは違い、「私の肉体は 内側の空間の中心に向かっているのに その中心に向って進むのではなく 肉体は後向きで 外側に向かって飛び去っている」のである。
つまり、肉体は「未来」である外に向かって飛びながら、意識は空間の中心に在る、「過去」の世界を見詰めているのである。
是は、子供の時から、外側に向かって、前向きに情報を集めて来たのとは、180度向きが違う事になり、意識の在り方も、全く異なっている事となる。
人間は、成長する間は、食物も手当たり次第に取って食べ、知識も無限に取り込もうとして、学校に通ったり、図書館に通ったりする。
つまり胃袋と同じく、大脳にも、腹一杯詰め込もうとしているのである。
それが、今日のビジョンでは、食べたり情報を取り込んだりするのではなく、後向きに飛び去りながら、離れて行く過去の情報や物事を、整理しているのである。
不思議なのは、自分の「肉体」や「意識・こころ」から、是迄に食べた物や、情報を吐き出して、それを整理しているのではなく、宇宙全体の物事や情報を、整理しながら飛んでいるのであって、自分の方は、既に「肉体」や「意識・魂しい」には、余計なものは一切無く、クールな意識が、その作業を続けているだけなのだ。
これは、人間である私の意識ではなく、神の意識か、宇宙全体の意識を、私が観ていた事に成るようだ。
では、私の意識が、何故、人間の意識側から、神の意識側に、変わってしまったのだろうか。
改めて、私の人生を振り返って見れば、私は19年前に仕事を全部止め、家族とも別れて修業に入ってからは、仕事やお金をどうしようとか、子供の教育をどうするか等の、世事を一切考えないで、ただ自分とは何者で、宇宙とは何なのか、それだけが気に成って、意識は物事の根本に向かって、今日まで来た。
私は、自分自身の未来がどうなるか、世界の未来はどうなるかの事よりは、此の宇宙がどうして存在するのか、自分はどうして生きているのかの、疑問の解決に、全エネルギーを集中させて来たのである。
そして、現在も、未だ人間が使用する、文字や言葉が、何時頃出来て、それを考えた者は何者で、その者の意識が、何処に在ったのか等の事を、考え続けている。
是等の作業は、未来がどうなるかではなく、過去から、現在までの、流れや動きを観る事である。
現在の自分の存在を、明確に認識するには、是迄の経過を確認する必要がある。
自分が、毎日使用している言葉は、本来何を示すものだったのか。
其れ等の事が、ハッキリ自覚出来た時に、宇宙の真理が理解出来て、自分の立場や役目が確認出来るのだ。
私は今日、是迄の努力が実ったのか、自分の立場が、ようやく理解出来て来た。
私の立場と言うか、役目は、過去から未来へ続く意識の流れを、継続する事なのだ。
其れは、礒邉自適と名乗る一個人の、今世一代の役目ではなく、此の宇宙が存在している間は、永遠に続いている思考の紐なのである。
それは、イエスキリストの謂う 永遠の命であり
釈迦仏陀が説く「久遠元初」の佛であり
老子の謂う「道・タオ」であり
日本の神惟らで云う処の「天津霊継・あまつひつぎ」である。
宇宙は、一つの目的の為に、膨張を続けているが、其れを、背中で押し広げているのが、今日私が視た事象の姿なのだ。
其の存在は、宇宙を背中で押し広げながら、宇宙の中心から外側に向けて、組み上って行く事象を、管理しているのである。
その者の両手は、出来上がっていく事象の姿を、母親鳥が卵を温めて、雛鳥を育てるように、大事に慈しんでいる事に似ている。
私もようやく、エジプト文化に画かれている、神の姿を視た事に成る。
其の、宇宙が収縮しないように、背中で天空を支えているエジプトの神の姿は、古代人の中に、私と同じイメージを受けた者が、在った事を証明している。
イエスキリストや、釋迦牟尼佛が謂っていた理・ことが、エジプトでは絵画として伝えられていたのだ。
其れは、エジプト、中東、インド、中国、日本と、同じ意味の事が、異なる方法や表現で傳えられていた事に成る。
私は、これから、世界中で異なる言葉や、絵画で傳えられて来た事を、何と表現すれば良いのだろうか。
現在、世界は一つの電波の周波数で管理する事が、技術進歩で可能に成って来ている。新しい説明が出来れば、それは世界共通の概念と成るだろう。
私は、今日の、事象拡大の姿を、何と命名すれば良いのだろうか。
私には、新しい言葉が浮かばない。若しかしたら、日本語の「うしろ」の語に、漢字の「宇城」が使用出来るのであれば、「宇宙(天)の意識が 組み上げている城」の意味で、今朝のイメージを事象の姿として、幾分か説明出来るのではないだろうか。
「始めに言葉ありき 言葉は神なりき」と聖書に有るが、日本に伝わって来ている古い日本語こそ、神を表現しているものなのかも知れない。
特に、日本語の「おかげさま」の言葉こそ、人間の背後に存在する神の立場、宇宙の真理を証明する、最高の言葉ではないだろうか。
自分には見えない背中にこそ、神の光、宇宙のエネルギーが、当たっているのだと考えれば、古代の人達の価値観が理解されて来る。
日本の神社には、鏡が備えられており、人間は鏡に向かって修業を積み、鏡の向こう側に抜ければ、其処は神の世界であるとされている。
其れは、神の世界は、人間の方に向いて、存在する事を意味している。
其れは、神霊側に立つ事が出来た人間は、神を背に受けて、衆生(普通の人間)の方に立ち向かう事に成るのだ。
そう成れば、民は、自分が守らなければ成らない対象と変わるのである。
其の立場こそ「スメラの命」で、「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」の名の働きである。
其れは、真実の大人の世界を意味し、子供の時から続いて来た、成長を完了して、今度は方向を変えて、子供の生長を見護る側に立つ事なのである。
其れが、人間に与えられた、本当の宇宙のシステムであり、人間の真の完成の姿なのだ。鏡を抜けるとは、仏教で説く処の「彼岸に渡る事」である。
彼の岸から、未だ川を渡っていない人々に、手を差し伸べる姿こそ、ブッダの姿でありスメラの命なのである。
私も今日、其のスガタを視せられ、自覚を迫られた様な気がしている。
私の背には、宇宙の力が掛かっており、私は自分の意識の力で、世界が潰れないように、踏み止まらなければ成らない様だ。
私はもう、青年の時代を過ぎて「翁・オテナ・オトナ」の時代に達し、神に向かうのではなく、神を背にして、神の力を授かり、前面の衆生に対して、向き合わなければならない時節を、迎えたのかも知れない。
それが、事実なら、私は、自分のする事に、責任を持たなければならない事に成る。
そして、それは、私一人だけの事ではなく、人類全体の問題でもある。
何故なら、此の事が真実なら、私達の姿こそ、神の代理者であり、神の意志の実行者であるからだ。
私は、それを本日、自分の姿として、観る事が出来た幸せな人間なのである。
本当の神とは、神社や教会や仏壇に在るのではなく、自分が起きている間、背に背負っているものなのである。
イエスキリストが謂った様に、一人で隠れて祷る時、其れはそのまま、神と人間が一体と成った姿なのだ。
私は、今日も、精一杯に生きた。
明日の事を、思い煩う事無く眠る事にしよう。
何故なら、明日は又、神を背に背負うのだから。
平成15年5月23日
礒邉自適
2003/5/22
自分の存在理由が解ける
15・5・22
私が、何者なのか、ようやく理解が出来そうに成って来た。
昨夜、眠ろうと想い、床に着いて、しばらく想いに耽っていると、「自分の 存在理由が 解けて行く」との言葉が、意識の内を流れた。
その言葉を聴いて、私は、自分の人生が、ゴール地点に差し掛かっているのだと感じた。
「自分の存在理由」と、一口に言っても、「存在すると言う」其のモノに対して、何処から、切り込んでいけば良いのかが分からない。
人間は、過去の歴史から観ても、此の問題に関して、実に多くの人達が悩んで来ている。
その課題を、私一人が解決出来るとは、とても想えないが、私の意識の中に、存在理由を解こうとする、何者かが存在するのなら、私自身も、其の事をテーマとして、取り組んで行かなければならないのだろう。
中国の文字は、3千6百年前頃の「殷・イン」の時代から使用されているとの事だが、漢字の中に「自分」と言う語が有る。
その意味は「自分を 刀で 左右に切り分けて 内側を見る」との字義であるので、此れは「自分の 存在理由を 知る」との事と、考えて良いだろう。
「自分」と言う言葉自体が、自分が能く分からないとの事だから、人間が自分の内側に目を向けてから、随分と永い時が過ぎ去っている事になる。
此の私が、其の、長年の人類の悩みを、解決出来るのだろうか。
人間は、生物の一種として存在するのだから、生き続けなければならない理・ことはハッキリしている。だから、自殺する事は、自然の法則に反している事となり、存在の第一義は生きると言う事であろう。
では、「生きる」と言う事とは、何なのか。
其れは、自然の法則に従って、他の生き物の様に、遺伝子を伝えて行く事が基本であり、其の事無くしては、生物が存在出来ない理・ことはハッキリしている。
地球上の他の生物と、人間の違いは、人間は意識の組み立てが出来る事であり、その特長が無ければ、人間が自分の存在に悩む事すら、発生しないはずである。
人間の悩みは、何時から発生したのか。
其れは、自己の存在に、気付いてからである。
自己の存在に気付くとは、自我意識の目覚めであり、その自我意識の組み立てが、未だに続いている事に成る。
人間は、誰しも、成人として、此の世に生まれて来るのではなく、約3000gの肉体を持って皆「オギャー」と泣いて、赤ちゃんで此の世に遣って来るのである。
そして、成長するに従って、自我意識は生じて来るが、何歳に成っても、自我意識の完成が起きない。
それは、何故なのか。その原因は、人間が成長を続けるからである。
成長するに順い、取り組んで行く情報が変化するので、「確立」したと言う、ある一線を引けないのだ。
では、人間とは、永遠に未完成で在り続けるのだろうか。
其れは、そうではないだろう。
植物の生体を見れば、花が咲き、実を着けて、中に種子を育て、熟して地面に落ちて、次の発芽を待つので、必ず、一応の完成を終えている事に成る。
だから人間も、植物と命の源を同じくしているので、一世代には、必ず一回の終結を見るはずである。
只、植物の場合でも、全部が、立派に熟して種子を残せる分けではないので、落ち零れは、必ず出来る事は間違いない。
植物に比べると、人間は、意識の部分を抱えているので、特に落ち零れが多く発生する事は、やむを得ない処があるのだ。
人間の完成の仕方も、植物に、多くの種類が有る様に、様々な場で、多彩な熟し方があるだろう。
芸術、科学技術、スポーツ、生活全般等、行為の種類を挙げて行けば、何百とある。そして、何時の時代かに、誰かが完成させた事が、土台と成って、現在の社会が営まれているのだ。
其れ等の、多くの流れの中に、此の私も存在していて居るのだから、私も、何かを完成させなければ成らないのである。
其れを、何にすれば良いのか、私には、是と言った特長が無い。
有るとすれば、自分の存在理由が何なのか、ひと一倍悩んでいる事である。
其の、ひと一倍悩んでいる、私の意識の中に、「存在理由が 解けて行く」との意識が生じた事は、答えが、間近に迫ったとの事であろうか。
私が、歴史の中で、最も、人間として熟した人物を挙げるとすれば、中国の「老子」である。
老子の残した思考の種子が、私の中で芽生えて育っているのであれば、私には一番嬉しい事と言える。
私の本名は「自適」であるが、母親の話では、此の名は、私が自分で持って来た名前であるとの事である。
「自適」の語は、「悠々自適」の「自適」であり、老子の生き方を、一言で言うならば「悠々自適」の生き方をした者と成るだろう。
そして、私が屋久島を出て、旅の途中で、最初に買う事に成った本が、老子の本であるのも、何かの因縁が有ったのだろう。
そして、旅の途中で、全ての本を捨てようとしたら、夢の中で、ゴミ箱の中から、その老子の本だけが飛び出して来たので、未だに、老子の本は、私の座右の書として手元に置いてある。
何故か、老子の本「道徳経」は、他の人は難しいと言うが、私にとっては、自分が書いた物の様に、能く理解が出来るのである。
人間に、魂の転生と言う現象が実際に有るとすれば、私の意識の奥に、老子の思考の種子が発芽している事に成る。
私は、38歳で旅に出て、初めて、老子の書物に接する事が出来た。
私が18年間、横道に逸れる事無く、旅を続けられたのは、其の老子の「道徳経」を、何時も身近に置いていたからであろう。
しかし、私にしても、最初から老子の魂・精神を、理解出来た分けでは無い。私に其の老子の言葉が、理解出来るまでに成長するには、実に大変な仕掛けがあったのである。
私が、物心が付いたのは1歳8ヶ月の時の、祖父の葬式の日からであり、精神的に強くなったのは、17歳の秋に、父親が亡くなった日からである。
1歳8ケ月の時から、祖父「礒邉助次郎」の霊魂の働きで、父親を自分の息子として扱い、17歳からは父親「礒邉勲」が、霊界から目に見えない手で、私を導いて育てて来ている。
そして、38歳からは、老子の思考が私の意識のセンターに、実在して居るらしい。
日本語では、肉体の事を「からだ」と発音するが、其れは、体は「空だ」との意味らしい。体・からだは、魂しいが入る物で、魂しいが無ければ「空っぽ」だとの意味だとの理・ことである。
島根県の出雲地方では、女性が妊娠すると「霊が 止(とど)まった」と考え、「ヒが とどまっしゃった」と言っていたとの事である。
日本語の「ヒト(人)」の意味は「霊が留まる」との事が、語源の様である。
私の人生を、振り返って見れば、私の人生は本当に「霊止・霊留・ひと」としての人生を、歩いている事に成る。
私の人生の、存在理由とは、過去の人達の念いを、継続する事にある様だ。
日本の神社では、現在でも、大祓祝詞の中に「祓い清めれば 神魂の思頼(みたまのふゆ)が起きる」との内容が有り、人間が、自分の欲望を祓い清めて、空に成れば、神霊が入り込み、神霊の思いや、頼みをふゆ(附与される)するとの事が、儀式として伝え続けられているのだ。
私には、その事が、現実として起きて、今でも其れが続いている事に成る。
人間は、万物の霊長と考えられ、人類は、地球上のあらゆる生命の頂点に立っているとの考えがある。其れが本当なら、人間は、全ての生命の代表として、相応しい立ち振る舞いをしなければ成らない事に成る。
果たして、現在の人類は、その様に生きているだろうか。
私には、一部分の人間を除くと、大部分は、自然の獣・けもの以下の行動をしている様に見受けられる。
自然の中の生き物は、必要以外の、無駄なエネルギーの消費はしないが、人類は物凄い勢いで自然を破壊し、エネルギーの消費をし続けている。
老子は、2600年も前に、人間が守るべき三宝として、次の理・ことを伝え残している。
・物事に 慈しみを持って 接すること。
・足りるを知ること(不足を言わないこと)。
・自分から 進んで人前に立たぬこと。
私の行動には、此の老子の三宝が支えに成っている様である。
老子が、私の中に存在しているのであれば、此の姿勢は、今後も続いて行くであろう。
老子の言葉には、「古の人々は素晴らしい」と有り、其れは、自分が此の様な智恵を得る事が出来たのは、古代の人達が、智恵を積み重ねて来てくれているからだとの意味である。
その延長線上に、私が在るのなら、老子の智恵の上に、私も智恵を積み上げなければ成らない、責任がある事に成る。
私の存在理由とは、その為に在り、私が其の事を果たす為に、老子をはじめ、多くの霊界人達が支えていてくれる事に成り、宇宙の森羅万象が廻っている事にも成る。
途轍もない話の様だが、釈迦やイエスの語録を読めば、それは当然の事であり、寧ろ其の事が、宇宙と言うか、人間が存在する理由の、基本に成っている理が理解される。
私は、現在56歳に成るが、ようやく意識が「大人・オトナ・翁」の世界に近付いて来たのだろうか。
霊界人に、何かをお願いする立場ではなく、霊界人の頼みを聞き届けられる段階に、至ったとの事かも知れない。
古代では、当たり前だった事が、忘れ去られてしまいそうなので、其の理・ことを、私を使って復活しようとしているのだろう。
私が、自分の存在理由が解かるとは、私が修業を終え、もう自分では何も考えたり、想ったりしなくても、事が動いて行くとの理・ことではないだろうか。
私は、ようやく解脱の時期を迎えて、悠々自適の名の通りに、「生かされて行く」との事なのかも知れない。
いよいよ、「三昧・ざんまい・サマディ」の中に、身を投げ入れて行けば良いのだろう。
私は、是から、此の「現し身・うつしみ」を空にして、森羅万象の変化を楽しんで行けば良いのだ。其れが、私の存在する理由なのかも知れない。
平成15年5月22日
礒邉自適
2003/5/18
長輪壺
15・5・18
今朝のメッセージは、「長輪壺・ちょうりんこ」と漢字で出て来た。
「長輪」とか「長輪壺」とかの語は、聞いた事がないので、「長」「輪」「壺」の其々の漢字の意味を、辞典で調べて見る事にした。
「長」は、髪の毛の長い人の象形で「長い」の意味に使われ、物の長さや時間を表現し「長(おさ)」等と人間にも使われている。
「輪」は、「すじみちが立っている」の意味で、車の矢が放射状に秩序だって並んでいる「輪」の意味を表す。
「壺」は、口がつぼんで、腹がふくれた容器の象形だが、容器の他に体の壺や、話の要点等にも使用される。
此の三文字の意味から、私なりに考えると、「要点(壺)は 長期的に 筋道が立っており 秩序正しく組み込まれていなければならない」との事に受け取れる。
長期的に、筋道が立っていて、その仕組みが、上手く廻って行かなければ成らない事とは、何であろうか。
私に、此処のところ伝えられて来るメッセージからすれば、人間の暮らし方に付いての事だとは解かるが、具体的に、要点を列挙しろと急に言われても、無理である。
私自身も、此処のところ二ヶ月くらい、此れから何が起き、何をすれば良いのかを考えている処なので、今朝のメッセージは、その心構えには役に立つと想う。
私自身は、世界の人達と同じ様に、短期的な計画を企て、明日の生活の事を考えていてはいけないのだろう。
現代社会は、スピードが早い事もあるが、長期的なビジョンを立てる事が、難しくなっている。
その原因は、企画する内容が経済中心なので、経済は、物の流通が主だから、物の流れる勢いに、人間の精神が付いて行けないのである。
人間社会を、平和で幸福なものへと導く為には、精神的な事が重要である。
その精神的な事には、長期的なプログラムと、根気有る人達の努力が欠かせない。
現代社会には、実に多くの宗教活動や、イデオロギーの研究機関は在るが、それは、過去の人達の概念を、伝える内容のものが多く、未来社会の創造に繋がるものは少ない。
経済活動の方は、発明発見が有るので、どんどん新しい方向に進むのだが、宗教の方は、何千年前の価値観を変えてはいけない事に成っているので、新しい発見や言葉の近代化が進まないのである。
確かに、基本的な処は変えてはいけないと想うが、生活手段や、物質の変化に、教えが追い着いていない部分が、多多有るので、日常の生活と、精神的意義に相当の差が生じている。
是からは、近代科学の発達で、人体や宇宙の構造が、増々明らかに成って来るので、それに見合った教えが、確立される必要があるだろう。
今朝のメッセージは、新しい価値観を整備しろとの事ではないだろうか。
しかし、そうは云われても、私一人には何も出来ない。
その事を企画しようと想えば、社会学者や法律家など、多くの人達の参加が必要である。其れ等の人達を、呼び集める事を、誰かが遣らなければ、具体的な動きとはならない。
先ずは、筋道の通っている人材の輪から、創る必要があるだろう。
私に、其の人材の選出、を考えろとの事だろうか。
「長輪壺」の三文字は、その動きの、基本的姿勢を伝えて来たのかも知れない。
何れにしても、誰かが、何かを始めなければならない時期に来ている事は、間違いないと想われる。
私も、その切掛け創りには、積極的に参加するべき使命はあると実感している。これから、スタート台に何人が上がって来るのか、それが一番の気掛かりではある。
平成15年5月18日
礒邉自適
2003/5/16
見えて来た神の力
15・5・16
今朝、寝床にて暫く微睡で居ると、文字の書かれた紙が吊り下げられているのと、熱されたフライパンが映って来た。
文字は、幅が30cm程で、縦が1m程の和紙に、漢字2文字と、カタカナらしき文字が10文字くらい縦書きに書かれている。
だが、よく見ると、その文字は、紙の裏側に透けて見えているもので、書かれた文字を、裏側から見ている事が判った。
其の映像は、何を意味するものだろうか。
私の感じでは、人間の意識の表現を、何者かが、裏から見ているとの事に成る。それも、文字を書く時は、人間は紙面に真直ぐに向かって書くので、紙の裏側に、何者かが立って見ている事に成れば、正面から向き合っている事に成る。
それは、人間が鏡に向かって行為をしている時に、鏡の裏側に此方を向いて、自分を見詰めている者が、存在すると言う事に成る。
そして、其れは、私達はマジックミラーの向こう側で、誰かが観ているのに、何も知らず、自分の意思表示や行動をしている事に成る。
此の事を考えると、日本の神社に、三種の神器として、鏡が中央に置かれている意味が、理解されて来る。
其れは、古代の人達は、自分と神の関係を、良く知っていた事に成る。
一方、フライパンの映像は、何を教えて来ているのだろうか。
出て来たフライパンには、中に何も入っていないのに、敷かれた油は、熱で蒸発して無くなるくらいに、加熱されているのである。
だが、未だフライパン赤くは成ってはいないので、手で触れて見なければ、目で見ただけでは判らない。
誰かが、フライパンを火に掛けている処が見えないので、何も知らず、不注意に手で触ると、火傷をしてしまう事に成る。
これは、神が、人間に分からない様に、フライパンを熱しているとの理・ことを、告げて来たものだろう。
私達は、「運気が 満ちて来た」とか言って居るが、その「運気」とは、誰が運んで来るものなのだろうか。
それを、簡単に説明出来る者は少ないだろう。
誰も知らない内に、フライパンが熱せられ、料理が炒められる様に成っているのだ。
私達人間が、フライパンに入れられ、炒められる物であれば、誰か、料理をする意志を持った者が、存在する事に成る。
それが、神であれば、私達はもう直ぐ、神の手で熱せられた、フライパンに投げ入れられる事になる。
料理の材料に選ばれる事が、善い事なのか、悪い事なのかは分からないが、私に出て来た事なので、私は吉い事と受け取っておこう。
神の準備が出来て、時節は満ちて熱せられており、いよいよ神が料理を始めるとの事ではないだろうか。
それには、誰かがマジックミラーに向かって、意思表示をしなければならないのであろう。
鏡に書かれた文字を、裏側から観ていてくれる者が、神の本当の正体であれば、その内容次第では、人間の願いを実現してくれる事に成る。
透き通った紙に、書かれる人間の想いは、神様への注文書きの様である。
其のメニューが、神様側の献立表に載っていれば、材料も準備されているのだろうから、早速料理に取り掛かってくれるのだろう。
この事から考えられるのは、神社で、神様に上げる祈願文も、人間から神への注文書である事に成って来る。
神官が、手にする「祝詞・のりと」や「祈祷文」が書かれた書面は、人間側が読んでいるのであって、実は、神が裏側からこっそりと、内容を確かめている事に成って来る。
人間が、自分の欲から、勝手に願い事を頼んでも、神の意志に添わなければ聞き入れて貰えないし、料理もしてくれないのであろう。
今日のメッセージは、神が手を下す準備の場は既に出来ており、人間の願い事の内容次第では、実現するとの事ではないだろうか。
私には、未だ、是と言った具体的な願いは決まっていないが、神のフライパンは、何時でも準備OKとの事なのであれば、何か、嬉しい気持にも成って来る。
神が、どんなメニューを決めているのか分からないが、私は、自分の身に起きて来る事を、静かに見詰めていようと想っている。
平成15年5月16日
礒邉自適
2003/5/15
ヒメシャラの木霊
15・5・15
3月31日の朝方の夢に、自分の「紅赤・べにあか」の肌に、数個の瘤が出来て、手で取り除こうとするのだが、どうしても取れないので、諦める場面が映って来た。
朝起きて、何の事を意味しているのか判らないまま、岡山県から来ているお客さんと、安房の明星岳に登った。
七合目位まで登った時、登山道の直ぐ側に、大きなヒメシャラの木が立っているのに気付いた。
私が、今迄に見たヒメシャラの木では一番大きな木で、直径1メートルを超えそうな老木である。木肌を見ると紅赤で、ヒメシャラ特有のツルツルした肌をしており、苔や宿り木は付いていない。
ヒメシャラは、自分の木肌に苔などが生えない様に、毎年木肌を更新するので、肌は光っていて美しい。
私は、その老木のヒメシャラの木肌を見ていて、朝の夢を思い出した。
老木の木肌には、彼方此方に瘤が出来て盛り上がっている。
私が、其の日の朝の夢で見たのと同じ光景が、其処に在ったのである。
私は、朝の夢が、自分の肌ではなく、此の年老いたヒメシャラの肌であった事に気付いた。
私が初めて出合う、其のヒメシャラの木が、どうして、前もって、私の夢に登場するのだろうか。
私の意識が、肉体を抜け出して、明星岳に生えている木に入り込み、木の肌を見たのだろうか。それとも、ヒメシャラの木の霊が、私の処に遣って来て、私の意識の中に入り込んだのだろうか。其処のところが、良く分からない。
それにしても、自分の皮膚が紅赤色に成っていて、皮膚の中に瘤が出来てきて、取ろうとしても取れないと言う実感は、どうして生まれるのだろうか。
ヒメシャラに、人間の様な意識が在って、自分の肌に瘤が出来るのを嫌がっているのであろうか。それならば、癌が出来た人間と同じ気持が、樹木にも在ると言う理・ことになる。
そして、その木の魂は、私が其の日に、山に登って会いに来る事を知っている事になる。
だとすれば、木は私の存在と、私のスケジュールを、前もって知っている事に成るのだ。其れは、私がヒメシャラの存在を知らなかった事からすれば、大変な違いである。
それに、夢を視ているのは、未だ、夜が明けていない内なので、木肌に陽が当たってはいないのだから、木肌が明るい紅赤をしている分けでもない。
昼間の光景が、夜が未だ明けない暗い内に、映されて来た事になる。
其れ等の事を考えると、ヒメシャラの木は、昼間の光景を情報として保存していて、私に送り込んで来た事になる。
この様なシステムが、ヒメシャラの木自体に在るのか、それとも、木や人間を育てている、太陽か、地球か、水にあるのかは私には分からない。
私に分かるのは、確かに、その様なシステムが在るのだ、と言う事だけである。
明星岳は、私の生れ育った家の裏山である。
私は、小学校の頃より、其の海抜651メートルの山頂によく登っていた。山に、神様が居るとすれば、私は子供の頃より、明星岳の神様に見守られていたと言う事になる。
明星岳に生えているヒメシャラの老木も、山の神様が育てたものであるのなら、私とヒメシャラの神が同一神であると言う事になる。
山に神が在り、木にも魂が在るのなら、昔の人達が、山や木に畏敬の念を抱くのは、当たり前の事と成って来る。
屋久島の屋久杉は、350年前迄は御神木とされ、切られる事が無かったと云われている。其れを伐るように勧めたのが、地元出身の僧「泊 如竹翁」である。
それから340数年で、相当数の屋久杉が伐られたが、数年前からは、立木の屋久杉は伐採禁止となり、生木は保存される事になった。
屋久杉の古木にも魂が在るのなら、350年振りに安心をしている事だろう。
私の体験を、もう一つ記すならば、不思議な事がある。
私は、1984年の初夏に、神掛かっている時、実家の裏山の大きな杉の木の根元に、川に有った細長い石を、綺麗に洗って立て掛け、妻を呼んで来て、その木に両手を当てさせて、後ろから性の儀式を行なった。
妻は、それで、私が完全に、気が狂ってしまったと想ったのであろう。
それから、数日で、子供を連れて実家に帰って行った。
それから4ヶ月後、私は、島を後にして旅に出たが、旅の途中で目にした本に、古代には、その様な風習が有り、子供を授かるのに、山中で一番力の有る木を選んで、石を立て掛けて祈りをしてから、女性に木を捉まえさせ、後ろからセックスをしていたと書いてあった。
私はその文章を読んで、私の行為が、昔の人達の聖なる儀式だったのだと理解出来たのである。
現代社会で、この様な事を言うと、殆ど、人に相手にされなくなるが、漢字の「色」の字は、女性が前屈みに成って、男性が、後ろからお尻に乗っかってセックスをしている象形文字である。
此の事からしても、昔は、後ろからのセックスが当たり前で、現代の様に布団や敷物が発達していない時代は、女性を直接仰向けに寝かせる事は、非人道的な行為だったのかも知れない。
話が、本筋から外れたので元に返すが、古代からの儀式を調べても、木に魂や霊が存在する事は、常識とされていた様である。
人間が、山に向かって「オーイ」と呼べば、「オーイ」とやまびこが返って来る。それを「木霊」と書いて「こだま(室町時代まではこたま)」と読む。
この木霊の言葉も、山の木に霊が住んでいて、その木霊が返って来るのが、やまびこだとされていたのだ。
今では、音響学が有るので、誰も、木霊が存在するなどとは信じないが、何処の神社に行っても、境内の神木には、縁結び等を願ってのおみくじが結ばれている。
そして、おみくじを木に結んでいる人達に、若者が多いのは何故であろうか。若者も、何かの力を信じて居なければ、その様な行為はしないだろう。
私は、木霊は信じていても、神社でおみくじを引いて、其れを、木の枝に結んだりはしない。
どこ迄を信じて、どこからは信じないかは、其々本人の自由に委ねるしかないだろうが、私に起きて来る現象は、私が受け留めて解決していかなければ成らないのだろう。
そんな私に、山々の木が頼っているのであれば、私は、森の木を守る事に、もっと力を注がなければ成らないのかも知れない。
明星岳のヒメシャラの老木が、いま何歳なのかは私には分からないが、原生林の木だから、人手が加わった事が無い木である事は間違いない。
私が、夢を視た日に泊った家は、屋久島の真南に位置する落語家の「三遊亭歌之介さん」の別荘である。
南の方角の神・はたらきは「太陽」で、その化身は「朱雀・すざく」である。
朱雀は、その名の通り朱色の鳥だ。
夢に出て来た、蠢(うごめ)く紅赤の木の肌の色は、朱雀に通じるものがある。其の映像の意味は、太陽が、何時も同じ波長を使って、木やあらゆる生き物を育てているとの、メッセージだったのかも知れない。
そう言えば、18年前の初冬に、伊勢神宮で現れた神も、同じ色の服を着ていた様である。若しかしたら、紅赤の色は天照大神の色で、私の意識は天照大神の霊を受けていたのかも知れない。
ヒメシャラの、美しい紅赤の色は、太陽神や朱雀と繋がっており、人間の私も、それらと同じエネルギーで、結ばれているとの理・ことだろうか。
此の様に考えると、新しいシャーマニズムの世界が見えて来る。
是からも、私は屋久島の森や岩や水に、多くの理・ことを教えられ続けるのかも知れない。
古代の人達がそうであったように、自然と自分が一体であると、最後まで観じ続けて行きたいと想う。それが、私の人生の目的であるなら、別に逆らう必要も無いだろう。
これも、屋久島に生れた宿命として、受け入れて行きたいと想う。
平成15年5月15日
礒邉自適
2003/5/12
鳥居もなかに
15・5・12
今朝は「とりいも なかに」との言葉が遣って来た。
漢字を使用すると「鳥居も内(中)に」と成る。
鳥居は、神社に行けば、何処にでも建てられている物なので、誰にでも直ぐに見付かる物だが、それを「なかに」とは、どう言う意味なのか、私には良く解からない。
鳥居は、神社のヤシロや建物よりは、敷地の入口の所に建っており、入口や参道の在り様を示す、役目を果たしている。
神社に依っては、神社の入口だけではなく、神社に通じる道路の入口や、最寄りの駅前など、数ヶ所に鳥居が建てられている所もある。
今朝の「とりいもなかに」とのメッセージは、外にある鳥居は止めて、やしろの有る敷地の中だけにしろとの事なのだろうか。
駅前や、一般道路に建てられている鳥居は、神社の宣伝効果を狙って建てられたものであったり、道案内の意味を込めたりと、人間の思惑が有っての事だろう。
本来の、鳥居の意味や役割からは、現在の在り様は、逸脱していると言えるかも知れない。
「鳥居」を辞典で調べて見ると、次の様に載っている。
【鳥居】神社の参道入口に立てて神域を示す一種の門。左右二本の柱の上に笠木をわたし、その下に柱を連結する貫(ぬき)を入れたもの。伊勢神宮の神明鳥居を基本として、明神鳥居・山王鳥居・三輪鳥居・両部鳥居などがある。
広辞苑より
上記の様に載っているが、鳥居自体の持つ本来の意味の説明が無い。
これでは、答えが出せないので、私が自分の足で、全国を旅して研究した事柄から、今朝の言葉を解釈してみようと意う。
或る本に拠れば、鳥居の原形は中国の雲南省辺りの、魔物の侵入を防ぐ為の、結界の風習に源が有るとされている。
私が、出雲に生活している時、松江市大庭町にある「神魂(かもす)神社」に行ったら、鳥居の原形の様な物が、国宝の社の横に立てられていた。
「神魂神社」は、出雲地方でも一番古い神社とされ、「出雲大社(杵築大社)」の社は、神魂神社の社を真似て造られたとも伝えられている。
その「神魂神社」の敷地の左側の山に、直径1メートル50センチ程の洞窟が掘られており、その入口に、二本の木が左右に立てられ、上に横木が渡され、稲藁で作られた飾りが付けられている。
私は、其れを初めて見た時に、是が鳥居の原形だと感じたのである。
其れを、そう感じたのは、伊勢神宮の創建の原因と成った「倭姫命・やまとひめのみこと」の物語に出て来る内容が、それらの風習を感じさせるものだからである。
倭姫命は、奈良の地より、天照大神の神霊が鎮まる、新しい地を求めて旅を続けるのに、榊の木を二本用意し、それを二人の巫女に別々に持たせ、木綿の布きれを、一本には左巻きに、一本には右巻きに巻き付け、前方の左右を歩かせて、旅を続けたと言う事である。
目的地に着けば、その二本の榊の木は、地面に左右に立てられ、新しき神域の結界を示すものと成ったのであろう。
私の考えでは、其の二本の榊の木の棒に、巻き付けられた木綿の布きれは、蛇の代わりだったと想われる。
左巻きと、右巻きの螺旋は、世界中で古代神のシンボルマークとされている
中国では、タオ・道のマークの二匹の陰陽の蛇として、それに西洋では神官の手にする神の杖に巻き付く、左巻きと右巻きの二匹の蛇として使用されている。
何故、中国でも西洋でも、二匹の陰陽の蛇がシンボルとされるのか。
日本の古事記の物語でも、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」と「伊耶那美命・いざなみのみこと」が、天の柱を左回りと右回りに回って、契りを結んだとある。
人間の意識の根底には、何かの二本の渦巻きが存在している様である。
その、意識の奥に存在する二本の螺旋は、遥か昔から、人類に、永遠の謎を突き付け続けて来ている様である。
エジプトの神官が手にする杖は、握り手の所は鷹の姿で出来ている。
二匹の蛇の謎が解ければ、神の使いの鷹が、手に入る事を表しているものだろう。
鳥居に「鳥居」の文字が使われているのも、その意味が込められており、横に渡された木には、神の使いである鷹や鳶が降りて来るとの、願いがあるからなのだろう。
私には、18年前実際にその鳥の使いが訪れた。
其の鳥とは鷹で、私が、神社の鳥居に出向いたわけではなく、自宅の上空に毎日同じ鷹が迎えに来たのである。
私の、神の世界への旅立ちは、鳥に誘われて始まったと言っても良いだろう。
其の出来事は、私の心の中に、二匹の蛇が生じたから起きた事であろうか。
あれから、18年経過して、私の意識には、もう神社の鳥居は必要なくなり、心の中に、鳥居の仕組みが出来上がったとの事かも知れない。
そうであれば、私はもう、神社の鳥居を潜る必要は無く、意識の中の鳥居を見続けていれば良い、と言う事に成って来る。
私の父親は、子供達を、神社やお寺に一度も連れて行く事は無かった。
その事が、私が迷い道に踏み込む事を、防いで来たのだろう。
私の意識の中の鳥居は、私一人が通る為の物ではなく、全ての人々の通る参門である。
全ての人々が、私の建てる鳥居を通過する時、世界人類の意識は、同じ道に帰る事に成るだろう。
私の意識は、宇宙意識と繋がっている事はハッキリしているが、人類の何%が、同じ意識に至っているのかは、私にも未だ判らない。
今朝のメッセージは、私が何処かの、一つの鳥居に固執するのを、くい止める為のものだったのかも知れない。
日本の神社の鳥居を、世界中に建て、その門を、人類が全て潜る様にするのは、絶対に不可能な事であろう。
私に出来る事は、私の意識の中の鳥居を、全ての人々が潜って幸福に成る事を念じる事だけである。
今朝のメッセージで、私の意識は、再び新しき段階へ、進み始める事に成りそうだ。
私の意識が、私一人のものではない事を証明する為にも、私はこの道を進んで行くしかない。
平成15年5月12日
礒邉自適