このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2003/4/30
トータリティ
15・4・30
今朝は、午前3時頃、床に入って眠ろうとすると「トータリティ」と出て来て、次に「はんぎゃくせい」と出て来た。
「トータリティ」とは、統一性か全体性の意味なのだろう。
それに対して、反対の言葉が「反逆性」との事だろうか。
「トータリティ」と、英語の名詞で出て来る原因は、日本語に同じ意味を表現する言葉が無いか、私が有っても知らないからなのだろう。
その意味を、私に知らせる為に、反対の意味の「反逆性」との言葉を、補足してきたものと考えられる。
「トータリティ」の言葉で、私が現在・いまの意識で浮かぶモノは、全宇宙のシステムとか、大自然の法則とか、生命の本質とかの理・ことである。
もう一歩、踏み込んで言うならば、「トータリティ」とは「神の意識」「神意」と考えても良いのではないだろうか。
神意に逆らって、「エゴ・利己主義」に走る人が、反逆性の有る人と考えられるのではないだろうか。
「はんぎゃくせい」が「犯逆性」であれば、「法律や 道徳を犯して 逆らう性質」となるので、自然の法則や神意に逆らう事は、犯罪と言う事にも成って来る。
私の「トータリティ」の解釈に、間違いが無ければ、老子の「タオ・道」の概念や、釈迦仏陀の「ダルマ・法」」や、イエスキリストの「永遠のいのち」も、其の理の意味と考えられるし、仏教用語の「マハーヴァイローチャナ」や「阿弥陀」も、同じ概念の範疇・はんちゅうに入るのではないだろうか。
「マハーヴァイローチャナ」は、日本語では「大日如来」で「宇宙の真理の本体」の意味だし、「アミダ・阿弥陀」は「人間の意識では 計り知れない 光であり 慈悲」との意味である。
神の、意志や働きは、人間には計り知る事が出来ないとの意味であれば、私の考えは間違っているとは想えないし、宇宙の仕組や、生命の本質の不思議さは、未だ人間には、しっかりと解明されていないと言える。
近年「ガイア」との言葉が使用されているが、「ガイア・Gaia」とはギリシャ神話の「大地の女神」の名で「大地」を意味し、「カオス・混沌」から生まれた物との事である。
其れは、老子の謂う「混沌から生じたものに 名前を与えなければ 認識出来ないので、仕方なく道と名付けよう。だが 道と名付けたらもう道にあらず。」と似ており、ギリシャ神話を考えた者と、老子の考え方が、同じ様なものである事が分かる。
何も無い、カオスから生じたモノ、其れに、どの様な名を与えるか、それに因って、人間の意識は方向性を持つ事が出来る。
地球・大地が、最初から有った訳ではないし、「阿弥陀仏」や「大日如来」が、宇宙に仏像の姿として存在する訳でもない。
仏像や、十字架や、様々な物に名を与える事で、人間の意識は、其れ等に振り回され、根本の処から外れてしまっている。
カオスとは、未だ何物も生じてはいないが、無と言う訳ではなく、何かが生じようとしている場面を、表現する言葉である。
カオスから生じ、現在の森羅万象の姿と成って来たモノに、どの様な名を与えるか、其れが一番の問題である。
世界の戦争などの不幸事は、此のモノの呼び名が、宗教毎に異なる事から、起きていると言っても、過言ではない。
「トータリティ」とは、全体の調和も意味しているのだろう。
全体の調和を崩す者が在れば、それが反逆者と言う事に成る。
現在、ガイアの調和を崩している者と言えば、私たち人間がそうである。
人間以外の地球生物は、生活に必要以外の事は遣らないが、人間は、不必要な事を休み無く続けている、存在と言える。それも、神仏の名を使用しながらである。
「トータリティ」の調和を壊す者は、自分自身に、その結果が、因果の法則で現れる筈である。一番その良い例が、病気のエイズである。
エイズは、同性愛者や麻薬常習者に拠って発生し広がって来た。現在、日本では、出会い系サイトで知り合った若者達の間で、急速に広がっているらしい。
「性・セックス」とは、本来子孫を残す為の大事な行為であり、遊びとして気軽に誰とでもするものではない。
人間の様に、性に対して、不真面目な生物は他には無い。これも、自然の法則から外れている。
今年に入って、中国から、新しい病気が新たに発生して広がっているが、これも、原因は不自然な生活習慣から生じているのであろう。
豚や、鶏も、ケージの中で人工飼料だけを与えて、不自然な飼い方をされている。それを食べる人間が、身体に不調和を起こす事は当然の事と言えるだろう。
宇宙や、自然のシステムだけではなく、人間の体も、トータリティに拠ってバランスを保って調和しているのである。
人間の體・からだこそ、宇宙の創造物であり、神の表現物である。
宇宙の全体性を、認識するのが、人間の役目である筈である。
其の人間が、一人残らず、道から外れ反逆者と成れば、宇宙の存在意味が、無くなってしまう理・ことに成る。
今朝のメッセージは、全体的な統合性を認識し、人類が調和を重視する様にと、告げて来たものではないだろうか。
私が、此処まで認識をするのに、如何程の「人材」と「物資」と「時間」が投入されて来たか、考えるだけでも恐ろしく成る。
それは、宇宙の全体性が、永い時間を掛けて取り組んで来た、大事業だったのである。
私の認識が、其のまま、新しき人類の価値観に成るのであれば、私が個人感情を出して、自己中心の行動を起こす事は、犯罪者に成る事でもある。
昨日は、昭和天皇の誕生日で「みどりの日」であり、私の二番目の妻「井上佳子」の五回忌でもあった。
私の、二度の結婚と、離婚と死別は、私の認識行程には、不可欠のモノだったのであろう。
一度目の結婚と子育て、二度目の結婚と子育ては、全然意味の違うものであった。
其の行為や、現象は、同じ様に見えても、其れに関わる、私の意識の中身が、全然違うものであった。
最初の結婚は、個人的なもので、二度目の結婚は、全体性を認識しながらであったし、生まれた子供達も、二度目の結婚で生まれた四人の子供達は、宇宙のトータリティからの贈り物であると、実感出来るものだったのである。
宇宙の全てが、トータリティで整っているのなら、妻の死も、死ではなく、全体的な現象の一部であった事に成り、私も又、神のトータリティの一部である事には間違いないのである。
此処数日、私に与えられたメッセージは、私が、トータリティの一部として役目を果たすように、指示して来たものであろう。
「トータリティ」其のモノを、支えるには、私が一時でも、道から外れる事は、調和機能の中心が、役に立たなく成るとの事ではないだろうか。
私に、18年前に告げられて来た事は、「事象の特異点」と「神が 未来を企画する為の 座標軸」であった。
私が、新しい「事象の特異点」に位置し、神の未来創造の「座標軸」の役目を果たす時、全体的な統合が成され、未来が整って行くのだろう。
是からは、私自身が、其の事を自覚し、其の場を、守って行かなければならないのである。
愈々、私は、老子の謂う「無為自然」の道を、実行しなければならない時を、迎えた様である。
老子「無為にしてなさざるはなし」《行為しようとの意志を持たず、しかもすべてを成し遂げる。これが無為自然の「道」である。君主がこの「道」にのっとるなら、万物はおのずと生々発展する。だが、この生々発展の中にありながらも、人は作為したい欲望を起こすものだ。そうした欲望は、無心の徳によって鎮めよう。いや、鎮めようとする意識すら捨て去ることだ。無心に自然のはたらきにまかせれば、天下はおのずと治まる。》
徳間書店、中国の思想、老子、奥平卓訳
「道」とは、トータリティの働きの事であり、個人の作為は、反逆と考えて良いだろう。
私は老子の言う様に、そして、無庵師匠に18年前に意識させられた様に、作為の欲望を、完全に止めなければ成らない様である。
今朝のメッセージは、人類全体にと言うよりは、私個人に対してのモノ・現象だったのかも知れない。
「事象の特異点」と、「神の座標軸」に付いて、もう一度深く認識し直さなければ成らない様である。
私の為に、短い人生を送る事に成った、二度目の妻である「井上佳子」の為にも、失敗が許されない事であると想う。
平成15年4月30日
礒邉自適
2003/4/30
明晰は氏で流れる
15・4・30
今日は、正午前に一寸と微睡でいると「明晰は 氏でながれる」との言葉が出て来た。
これは、聞いた事の無い言葉なので、意味を探って見ようと思う。
「めいせき」〔明晰〕@明らかではきりしていること
A(哲)(Claraラテン)概念の内包が一つ一つはっきりしていなくても、その対象を他の対象から区別するだけの明白さを持つ概念についていう語。
「うじ」〔氏〕@血縁関係のある家族群で構成された集団。氏族。
A古代、氏族に擬制しながら実は祭祀・居住地・官職などを通じて結合した政治的集団。その内部は、姓(かばね)を異にする家族群に分かれ、上級の姓を持つ家族群が下級の姓の家族群を支配し、最下層に部民(べのたみ)および奴婢(ぬひ)がある。と載っている。 (広辞苑)
この説明からすると、私の姓の「礒邉・磯部」は下層の部の民に成るのだが、天皇家の祭祈を行っていた「物部」も部が付いている氏族なので、此処ではその事は考えないでおこう。
氏族、血縁で一番分かり易いのが、日本の天皇家や、イギリス王室等の例であるが、旧約聖書のアブラハムの子孫の様な伝えられ方をしている血筋も在る。
天皇家や、西洋の王族は、政治的な要素を含んでおり、アブラハムの子孫は宗教的な要素を含んでいる。
釈迦や、イエスや、老子の子孫は継続されてはいないが、孔子の子孫は現在まで続いている。
日本では、天武天皇が日本書紀の編纂を命令し、次の持統天皇の時に、儀式を一本化させる迄は、18の氏族が其々異なる生活習慣を持っていたとされるので、18通りの血筋と、其れに伴う処の、価値観があったと思われる。
今日、私に出て来たのは「明晰は 氏で ながれる」なので、戦いに強い氏族や、権力に強い血筋の事ではなく、道理に明るい血筋の流れの、一族との事だろう。
私自身の血筋を謂えば、父親は鹿児島市上福元町(旧谷山市)出身で、住んで居た所の地名も「磯部」と呼んでいたらしい。
磯部は、錦江湾(鹿児島湾)に面した部落で、伊勢湾にも磯部町が在るので、湾に面した土地に住み、海を生活の場として居たのかも知れない。
確かに、私の父親「礒邉勲」は、道理に関して明晰だったが、祖父から前の代の事は、私には判からない。
私の、霊的な出来事を謂えば、物部の初代「宇摩志遅命・うましまじのみこと」の御陵に参拝した折に、「此処は 貴方の神社だ」とメッセージが有ったので、私に憑いている本霊は、物部の流れで、礒邉とも本家筋で繋がっているのかも知れない。
物部一族を祭る、奈良の石上神宮は「イソのかみ物部」で、石を大事にする風習がある。
伊勢神宮の「イセ」も、「石を敷く」事の意味から来ているらしい。
天皇家の武蔵野御陵も、墓の周りには、全面石を敷いてあり、神戸の明石に在る五色塚の墓と同じである。
五色塚の祭神も、物部系の王だと云われているので、祭式としては同じ物ではないだろうか。
岡本天明氏の日月神示には、「148の救世主が 日本から現れる」と出ている。
148とは「石屋(イシヤ)」と読める。
石屋の救世主とは、石とチャンネルが同調する者であるとの事だろう。
大本教の「出口ナオ」のお筆先にも、「やがて 石が モノを言う時が来る」とあるし、天理教の「中山ミキ」に懸かった神は、石上神宮の物部の神霊との事だから、其れも一つの流れに繋がって来る。
時代を、物部からもっと遡ると、岡山に古代吉備王国が在ったとされ、王墓山古墳から発見された、祭祈用の石は、アイルランドの5000年前の王墓から発見された、祭祈用の石とソックリである。
其れは、5000年以上も前に、アイルランドの「ダーナ神族」と同じ風習を持つ氏族が、岡山に住んでいた事に成る。
其れは、9000年前の南九州の文化遺物と同じ物が、南アメリカ大陸の西海岸で発見されているのだから、それ程不思議な事ではない。
アイルランドの「ダーナ神族」の文化も、石を大事にする文化である。
日本が元か、アイルランドが元かは分からないが、人間の魂と、石との間に、何らかの関連性を見出していたのだろう。
石を祭る事は、現代社会の様に金銭を大事としたり、権力を大事としたりする事ではなく、自分と神の関係を、明確にしようとするものである。
何故なら、石を祭っても、金銭や権力が直接手に入る分けではないのだから。
石は、宇宙の記憶を取り戻す事や、神の意志を受信する物として、考えられて来た。
「明晰」が、宇宙の真理、神の意志を明確にするとの事であれば、石の謎を解かなければならないであろう。
キリストとは、ユダヤ民族の「メシヤ」から発生した言葉で、「神に油を注がれた者」の意味であるとの事。
キリスト教の救い主「the saviorザ・セイヴィア(助ける者)」とは意味が違うだろう。
ユダヤの秘儀でも「石工が 石の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 永遠に生ける力のダイナモ・dynamoを 正しく応用する事であると知る時 彼は結社の神秘を学び取り ルシファーの渦巻くエネルギーは 彼のモノと成る」と有り、石の持つ記憶を、自分の生体電気を使って引き出し、自分の能力とする事が示されている。
石の神秘を学びとる事こそ、明晰の意味ではないだろうか。
それは、その可能性を持った、血筋でなければならない事に成る。
その血筋が、「イソ部・石部」や「物部」であれば、私も、其の血筋の流れを受けている事に成る。
自分の先祖の霊が、其の秘密を知っており、私の身心を使って、記憶の再生を図っているのであれば、私の人生の不可思議も、納得が行くものと成って来る。
私が、18年前に神掛った時に、自動書記したメモ書きに「海渡族の謎を追え」と書いて有った。
伊勢神宮の神主で、磯部族の末裔である「渡部・わたらいべ」と名乗る氏が在ったらしい。
其れは、海を渡って来た部族の意味の渡辺であろう。
伊勢神宮が在る伊勢は、元は磯部の氏族が住む地であり、現在の伊勢神宮の神域は磯部族の「イザワ彦」が土地を与えたと伝えられている。
磯部町に存在する「伊雑宮・イザワの宮・磯部の宮」が、伊勢の元宮とされているのも磯部族の古さを意味しているし、伊雑宮のカゴメの印(六芒星)は、古代ユダヤの紋章と同じ標である。
石の記憶を取り戻し、宇宙のシステムと同調出来る者こそ、今日のメッセージの「流れを組む者」の事であると思われる。
其の様に考えると、私の礒邉の姓も、値打ちが有る様に、想えて来るではないか。
平成15年4月30日
礒邉自適
2003/4/27
理解されない私
15・4・27
今日は、約一ヶ月振りに、島の真南に在る「歌之介さん」の別荘に泊った。
そして、今朝見た夢にはストーリーが有って、一つの流れと成っていた。
其のストーリーとは、私が、不正を正し、世の中を良くしようとしていたら、仲間の学者らしき年配の人が、私を体制側の人間に売ってしまい、私は捕まる寸前に、それを察して逃げ出した。
そして、何処かに隠れるには、現在の格好では都合が悪いので、長い髪を床屋で短くして、若者の風体で雲隠れをしようと考え、床屋に向かって居ると、自転車で遣って来た年配の男性が、私を呼び止めて「貴方は 大事な人だから 隠れてはいけない。私が 助けてあげる」と云って、何処かの和風の建物に連れて行った。
其の、和風の建物の玄関を入ると、入口の近くに有る部屋に、社会的に地位の有る年配の人達が数名居て、会合が始まるのを待っている。
其の人達の会話を聞いていると、「学会が 大きく成れたのも 高嶋が在ったればこそだ」とか、「私は 中村天風の教えを受けていて 天風先生が偉い」とか、自分の学問の優位性を誇る人達ばかりである。
私は、其の人達と全然、話が合わず、入口の部屋に取り残されてしまった。
私を案内してくれた男性も、困った様子をしていたが、其の内に居なくなった。
私が、奥の部屋を一寸覗くと、これから会席料理が出される様子が見て取れた。
私は結局、誰とも話が通じないままに、夢の場面は終わったのである。
今朝の霊夢は、何を知らせるモノなのか、私にも、能く理解が出来ない。
私自身の、是からの人生を予告するものなのか、私に憑いている、誰かの霊が、昔の事を思い出しているのか、私の脳が、勝手に妄想を描いているだけなのか、それとも、他に原因が有るのだろうか。
中国の老子の言葉にも、「道を 実行する者は 誰も 理解される事は無く 嘲笑される者こそ 真の人である」との意味の言葉が有り、他の文献にも「世の 偉いと呼ばれている人達が 多く集まれば 集まる程 善が反比例する」と、載っている。
私の師も、「自適さんを 理解出来る人は 誰も居ないよ」と謂っていた。
私は、其の無庵師匠の言葉を押し切って、屋久島を後にして旅に出たのである。
一年後、島に帰ったら、無庵師匠が私に「誰か 居たか」と訊いたので、私は「理解はして貰えなかったが 私が出現する事は 何人も知っていて「やっと来たか」と云われたと答えたのである。
其れから17年経ったが、私が、自分の事を、本当に理解してくれたと思う人は、未だ誰も居ない。
私が、手加減をして話している内は、理解してくれている様だが、私に起きた事を、隠さず話し始めると、誰も未経験な事なので、理解に苦しむ様である。
昔の人の事を考えると、老子を理解する人は一人も無く、釈迦を理解する人も無かった様であるし、イエスの場合も、最後には、弟子が皆逃げ出している。
日本の一休さんも、誰にも理解されなかった様である。
今朝の夢は、私が未だ、現在の世の人々に、理解して貰おうとの意識が有るので、それを止めさせ様との、霊界人の働きがあっての事だろうか。
良く考えて見れば、世間の人々に理解されると言う事は、人間界に、時間とエネルギーを使う事である。
世間の人々に、理解されて、持て囃されると言う事は、現象界で多忙になる事であり、世事が澤山起きて来る事でもある。
そう成れば、神の世界に通じる時間も、エネルギーも、少なくなる事に成る。そう成っては、いけないとの理・ことだろうか。
今朝の夢は、私が、権力者に都合の良くない事を遣っていた所為で、裏切りを受ける事に成ったのが、ストーリーの始まりだった。
今朝の夢が、現実に成らない為には、私が、一切何も事を起こさず、何も言わなければ良いとの事だろうか。
今朝の夢は、先日の「雪うさぎ」に続く、忠告の様に想えて来た。
私の欠点は、第一次産業に従事していたので、365日休まず手足を動かして作業をする事が、善であるとの価値観が、未だに抜けない事である。
それが、修業の間は良かったのだが、何も行動をしてはいけない時節を迎えたら、今度は、毎日動くという事は、神にとって、都合の良くない事に成るらしい。
自分自身が動く事は、五感を使用しながら、行動する事であるので、意識が相対的に成ってしまって、神の意識が入り込めなく成ってしまう。
聖者とは、神の言葉を受け取る人の意味である。
だから、人間が作為を持って行動する事は、聖者ではなくなることである。
私は、人間社会の主義主張の中に、入ってはいけないとの理・ことを、今朝の夢は伝えて来たのだろう。
たった一人で歩く此の道は、他の追従を許さない世界である。
同じ立場で、理解出来る他人が現れる事があれば、その者は、失格している証拠である。
誰も、理解者の居ない事が、道を歩いている証しならば、今朝の夢は、私の行動が、道を外していない事を知らせるものであり、又理解者を求めようとしては、いけない理・ことも告げて来ているのだ。
私は、私の事を理解して貰うのではなく、神の道が、存在する事だけを知って貰えば良いのだろう。
666年毎の、次のサイクルの場面まで、此の事を体験する者は、必要無いのかも知れない。
必要とされない事が、宇宙の大道であれば、私が理解されない事も又、宇宙の真実であると言う事に成る。
「私が 自分の意識で 余計な事を考えない」其れが、今日の結論ではないだろうか。
平成15年4月27日
礒邉自適
2003/4/25
白い雪うさぎ
15・4・25
今朝の霊夢は、一面の銀世界に、灯が幾つか黄色く点っているのが映り、その灯が在る施設を、岡の上から静かに眺めている、一羽の白い雪うさぎが見えた。
今朝の夢は、現実には存在しない世界である。
だから、私に何を、告げて来たモノかもハッキリしない。
私の意識が、真白で純粋な状態に成ったと云う事なのか、本当に「雪うさぎ」の霊が、私の意識に侵入して来たのか。
それとも、本日、雪深い新潟から屋久島に遣って来る、若い女性客の霊性が映って来たものなのか、今の処は判からない。
今朝の夢に出て来た幾つかの灯は、屋中で人間が生活している事が示されている。其れを今、私にイメージ出来る事を文章にすれば、雪に鎖された、人間の住み家や施設は、電気や石油を使用しなければ、成らないと言う理・ことである。
人間は、雪兎と異なって、肉体から毛を失っている。
其れは、人類が地球の何処かの、暖かい地方で生活して居て、毛が生えていれば暑くて大変だから、毛を脱ぎ捨てたからであろう。
その人間が、火を使用する事を覚え、段々と寒い地方にも住む様になり、やがて衣服を身に着ける様に成った。
風雪に閉ざされる厳寒の地でも、食糧を長期保存し、電気等のエネルギーを使用し、暖をとりながら、テレビを観たりして過ごせる様になったのである。
今朝の、谷間に点る灯は、其の人類の文明を、象徴している様に想える。
岡の上で、只一羽、其の灯を見詰める雪兎は、私の純粋意識の現れなのであろうか。それとも、神の意識が私の脳裏に存在して、雪景色を見ていたのだろうか。
白い色は、アフリカの原住民や、南米の原住民の間でも、聖なる色とされているし、旧約聖書でも、聖なる白百合は、神に捧げる花とされている。
白い色は、女性の純白を意味し、日本の結婚式で花嫁が着る「白無垢」の衣装や、西洋のウエディングドレスが白い衣装である様に、白は汚れの無い世界を意味している。
其れは、何故なのであろうか。
人間の創る法律は、物事の逆を現している。医者や看護婦、料理係り等、一番汚れ易いモノこそ、純白を要求され、盗む心が有る人間だからこそ、盗みが禁止されるのだ。
文明が、発達すればする程、人間は雪兎よりも、汚れた者と成って行くのであろう。雪兎は、自然の純白の雪の中に溶け込んで生きている。
雪兎は、自分を主張することなく、生き続けているのだ。
自分の衣装を、夏用と冬用に衣替えしながら、誰の手も借りず、何のエネルギーも使用せず、人間よりも永い時間を生き続けている。
屋久島には、野兎は居ない。居るのは、猿と鹿とイタチだけである。
雪兎は、日本では北海道だけに住んでいるらしい。
北海道にしか居なくて、私は実物を見た事が無いのに、何故、私に雪兎の居る世界が映されて来たのだろうか。
私は22日に「阿字観・あじかん」の文章を書いて、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の本体の「阿」字を受け取った事を書いた。
大日如来が画かれている「曼荼羅(マンダラ)図」には、中心に大日如来の姿が画かれていて、大日如来は自分の手には何も持たず、只、左の人差し指を右手の指で包み込んで働きを封じている。
右手を働かす処か、左手の働きを封じる為にだけ、右手を使っているのである。
其れは、自分自身は何事にも、一切手を下さない事を示している。
今朝の夢の意味は、大日如来の真の意味を、伝えて来たのではないだろうか。
一面、真白の世界で、只一羽(一匹・一人)で、人間の営みの灯を見詰めている、其の様子が、「大日如来(宇宙の意識の本体の意味)」であれば、私自身にも、其の伝えられて来た真実の意味が、理解出来る。
雪兎は、年中白い色をして居る分けではない、夏に成れば毛を替えて、自然の野原に溶け込んで、確かに居るのだが、何処に居るのか分からない。
つまり、自己主張を一切せず、環境に溶け込み、確かに存在するのだが、一生懸命探さなければ、見付からない存在なのである。
今朝の夢は、一面の雪の中で、人知れず、一つの意識が、確かに人間の生き様をジーッと見続けている事を知らせて来ている。
私の中に、確かに「マハーヴァイローチャナ・大日如来」の本体が、収まった事の証しではないだろうか。私の自己意識にも、ようやく自分の意識・心を何者にすれば良いのかが、見えて来た。
真白き世界で、自分も真白になって、静かに、人々のくらしを見詰めている、そんな雪兎の一羽に成り切れば、それで善いのだ。
何の事はない、私の19年の歳月は、真白き心(意識)で何の蟠(わだかま)りも無く、人々のくらしを見続ける為のモノだったのだ。
それも、何も分けを知らずにと言うのではなく、学校も、医者も、政治も、何も無い世界で、自然の理・ことわりを全て知っている、孤独な一羽の雪兎としてである。
私は、屋久島に生れ育ち、島の自然の中で、自由に暮して来た。
17歳まで育ててくれた父親は、「見猿・聞猿・云猿」の三猿の像だけを大事にし、私には「勉強をしろ」とか言った事も無いし、私は父親に一回も殴られた事が無い。
私の父は、人間が、真白に生きて行く事が如何に大事であり、困難な事であるかを知っていたのではないだろうか。
今朝の夢は、私の個人的なものではなく、父親の追及していた事の、答えなのかも知れない。
「息子」とは「息の子」である。
父親のイキ(呼吸・生活のリズム)が、私の、身と心の源に、成っているのではないだろうか。
礒邉家の「家風(家の内に内在するルン)」が、ようやく完成を見たのではないかとの想いに、到った今朝のメッセージであった。
平成15年4月25日
礒邉自適
2003/4/19
食の源図
15・4・19
今朝の霊夢には、一枚の紙に「飛魚」の図が画かれて映って来た。
紙面の全体に、飛魚のデッサンが画かれていて、側面、正面、腹面、背面など、全身が判るように画かれて映って、下の方に文字が有り「食の原図(像)」の意味が受け取れた。
朝起きて、今朝の夢の事を考えると、「正食・マクロビオティック(Macrobiotic)」の「一物全体」「身土不二」の言葉を思い出した。
・「一物全体」とは、食物の全体を丸ごと食べる事である。牛蒡や人参などは、皮を剥かないで食べ、魚は、頭や皮も、出来れば骨ごと食べる事が、体(體)に良いとの考え方である。
・「身土不二」とは、自分の住んでいる環境の近くで収穫された食物を食べる事で、自然の働きと、自分の身の働きが、一体化するとの考え方である。
今朝の、夢の分析を、私なりにしてみると、飛魚は屋久島の特産品であるので、島の産物を示しているし、私は飛魚を食べる時は、身を刺身にしても皮付きだし、骨と頭は味噌汁の出汁に利用するので、一物全体を食べている事に成る。
今朝の夢は、食物の体の全体を食べる事で、食べた者の体にも、食べた物の全体的な働きのプログラムが、取り込まれるとの意味ではないだろうか。
現代社会の人間の食事は、大きなマグロのトロだけとか、牛のカルビ、豚のロースだけとか、体の一部だけを食べる事が多い。
米も、玄米ではなく、大事な糠・ぬかの部分を捨てて、白米にして食べるし、砂糖もミネラル分の黒い部分を全部捨てて真白にし、炭水化物だけを食べている。
林檎や、柿も、皮を剥いて食べるので、一物全体を食べている事にはならない。私が、飛魚の身だけや、マグロのトロだけを食べているのであれば、今朝の夢は、切り身だけが映って来たのではないだろうか。
否、私の夢は、魚の脳味噌まで食べているから、全体が出て来たのであって、切り身だけを食べている人には、脳の働きがインプットされないので、私の様な夢は、一生掛かっても映し出されて来ないのかも知れない。
私は昨日、一昨日と、飛魚を食べてはいない。
私は、海が二日連続大潮なので、磯に貝獲りに出掛け、色々な種類の「貝・蜷」と、「藻蟹・もがに」を獲って来て食べている。
貝は、焼いたり煮たりして内蔵まで食べるので、貝が食べている腹の中の藻までを含む、全部を食べる事に成る。
貝殻以外は、全部食べるので、貝の脳味噌から消化器官までの、全てを食べる事に成り、貝の働きを全部取り込んだ事に成るし、「藻蟹・モガニ」も、手も足も味噌も全部食べるので同じ事が言える。
私は、4月2日から4月16日迄、九州→ 中国→ 四国と旅をして、他国の産物を食べて来た。だから、二週間振りに、屋久島の産物を食べた事に成る。二週間の空白が、改めて、私の体(體)の刺激に成ったのだろうか。
人間も、魚も貝も、海草も、生命の源は、同じ処から出発している。
人間が、忘れ去った生き物としての感覚を、自然の中で生きている、生物を通して思い出す事は、可能な事として受け取れるだろう。
人間は、自分の肉体は皆、他の生き物の生産している物で養われている。
人間は、植物の様に自分で体を作る事も、貝の様に、自分の住み家を作る事も出来ない。
人間が創り出しているのは、人間の脳が、自然の姿から受け取った物の情報を、真似して創り出した、不自然な物だけである。
最早、人間には、自分の體が何時、何の目的で出来上がったのか、両手両足が何の目的で進化したのか、髪の毛や爪をどうして身に着けたのかの記憶が残っていない。
貝は、自分の身を守る為に、堅い殻の住家を開発し、飛魚はシーラやダツから身を守る為に、羽根を発達させて、水上に飛び出せる様に進化した。
人間は、手を使い技術を発達させた為に、今は、自分の体を進化させるのではなく、道具を開発してカバーし、不足を補っている。
その為、自分の体を、進化させる必要がなくなったので、結果的に、自分の肉体の仕組や意味を、忘れてしまったと言えるだろう。
手短に言うと、不自由がなくなったので、五感を研ぎ澄ます必要が無いので、五感のセンサーが眠ってしまったと言える。
現在の都会型文化は、人工的な味付けや、人工的な音楽の世界なので、都会から離れ、自然の中に一人で佇んだ時、其の差が、始めて理解出来る。
急に、自然の中に暮らそうとしても、自然の音や、食物の原形が、情報としてプログラムされていないので、自分の生活に結び付かず、戸惑ってしまうのである。
私は小さい時より、木に登って木の実を食べ、川や海に行って、魚や貝等の食物を自分の手で獲り、自然と一体と成って生きて来た。
其の肉体の記憶が、基礎に有って、19年続けて来た玄米自然食の体験と、生活スタイルの研究がようやく実を結び、こうして文章化出来る処まで来たのである。
私は、人間の新たな進化の一部を、形成している事に成るのかも知れない。
私は人間だから、貝の様に堅い殻を身に付けることはなく、飛魚の様に羽を付けて逃げる必要も無いし、草木の様に一ヶ所から動けないわけでもない。
私は、新たな生きものとして、又 新しい一歩を踏み出す役割を、担っているのではないだろうか。
地下要塞を、造ったりしたり、宇宙へ飛び出して行く事は、貝や飛魚の真似に過ぎないのではないだろうか。
人間は、もっと自分の體に目を向けて、本来の生きものとしての「しあわせ(仕合せ)」を考え直す時に、到っているのではないだろうか。
人間は、人間としての自分の體を、全方向から見つめて、飛魚に負けない様な、素晴らしい姿に帰らなければならない。そして、自分の手足や、目や、耳の本来の働きを、取り戻さなければならないのだ。
此のような事を、考えさせられた、今朝の夢であった。
平成15年4月19日
礒邉自適
2003/4/18
池波 辶宀
15・4・18
今朝の霊夢には「池波 辶宀」の文字が映って来た。
「辶宀」の漢字は見た事が無いし、辞典にも載っていない。
「辶(しんにゅう)」で「宀(うかんむり)」が使用されているのは「逭」だけで、【「カン」。のがれる。にげる。の意味】とある。
「辶(しんにゅう)」は「行」と「止る」の合字で、「行く」の意味で、「宀(うかんむり)」は「屋根の形でおおうの意味」とある。 (漢語林)
今朝の夢に現れた、文字の通りに意味を受け取ると、「池を波がおおい行く」との理・ことに成り、「波紋が広がり 波が 物事を被って行く」とのメッセージと、考えられる。
4月13日の、私の左手中指の事や、スーリアさんの三島の「水神社(八大龍王水神が祭神)」の件。
そして、帰って来て、昨日郵便物を整理していたら、松山市の「中山さん」より4月14日の日付で手紙が届いており、「八大龍王水神」の霊が自分に関係が有り、「自適さんが 屋久島に帰り 役目が済んだら 私が役目で 動き始める事に成って来た。」と書いてある。
中山さんは、地球を緑にする運動に関係しており、私の友人の「熊谷金治氏」のコンサート活動にも、力を注いで戴いている方である。
私の活動のテーマも、地球の緑を守り、水の循環を取り戻す事なので、流れとしては共通していると言えるだろう。
今朝のメッセージは、「水の神」が働きを強くし、人間の暮らしを立て直すとの事ではないだろうか。
私は、屋久島の生まれで、島の自然環境に取り囲まれ、緑と水に育まれて来た。私の精神や身体は、屋久島の環境その物の、化身と言えない事もない。
私の役目が残っているとすれば、緑と水が、豊かな環境で育った人間が、どの様なものであるかの、標本と成る事ではないだろうか。
其の事が、人類の未来や、地球の環境に善い結果を齎(もたら)すものであるのなら、私も嬉しいし、気楽な役目でもある。
私が、是から、想って行かなければならない事は、屋久島の自然と、両親や係わりのあった人達への、感謝の念いであろう。
今朝のメッセージは、これ迄の流れの結果と、是からの流れの方向性を、暗示するものである。
此処まで書いたら、又、左手中指がビリビリと痛くなって来た。
私が、現在住んでいる自宅は、屋久島で一番水流の多い、安房川の岸辺に在る。
私が産まれた「矢本嶽」の麓に在る実家も、小川の側で、24時間、家の横にある竹の樋から、水の流れ落ちる音がしていた。
全国の旅で、私が住む事に成った場所も、出雲と愛媛は川の横で、東京は目黒不動尊の池の辺、阿蘇ではプールの横、奈良は溜池の側と、水の有る所ばかりである。
其の様に考えると、私の守護霊は、水無しでは居られないらしい。
私の行動自体が、神社の入口に在る「御手水」に繋がっているのかも知れない。
地球は、「地の球」と呼ぶよりは、「水の球」と呼んだ方が当っている。
地球の陸地の高い所を削って、海の低い所に埋めると、水深2000mの水の球に成ってしまうとの事。何と、陸地は2000mの海中に全部消えてしまうのだ。
其れだけの水量の水に、意識が存在するとすれば、水の意識に逆らって生きる事は出来ない。
地球から、水の循環システムが消えてしまえば、全ての生命は消えてしまう事に成る。
其れだと「いのち・生命」のシステムの根本は、水に支えられている事に成る。
水神とは、その生命システムの源の力の事であり、その力から外れては、何者も生きる事は出来ないのだ。
老子の「タオ・道」や、釋迦牟尼佛の教えの「ダルマ・法」も、この理・ことを抜きにしては考えられないのである。
日本語の「全てを、水に流す・返す」とは、水神の力に、身も心も捧げる事とも言える。
私が18年前、伊勢神宮に参拝したら「天照皇大神」が現れて、「是までに八回失敗した 今回が九回目で 最後のチャンスだ」と告げて来た。
八大龍王水神の念いが、九代目の水神の誕生を促しているのだろう。
今朝のメッセージは、何かが、水の世界を被って、私達を、新しき世界へと導こうとしている「瑞祥・ズイショウ・きざし」ではないだろうか。
日本は、古くから「豊葦原瑞穂の国」と呼ばれている。
日本の役目が、世に出る時が来たのかも知れない。
平成15年4月18日
礒邉自適
2003/4/13
仏の指
15・4・13
本日15時57分に、愛媛県伊予市の蕎麦屋で食事をしていると、私の左手中指に、例の痛みの信号が遣って来て、10分間程続いた。
誰かの行動が、影響して反応しているのかと想い、スーリアさんに連絡を入れて見た。
4月13日は、スーリアさんの誕生日で、私の長男「名越海生」の誕生日でもある。
スーリアさんは、丁度其の時間に、三島市の「水神社(みずかみの社)に仲間達と参拝中だった。其れで、「スーリアさん」と「水神社」と、私の「左手中指」が、どう関係しているのか考えて見た。
私は4月11日より、広島県双三郡吉舎町敷地の友人である「壇上宗謙氏」の「西光寺」を訪ねて二泊し、13日の午前11時に西光寺を後にした。
私が、其の西光寺で気付いた事は、寺に有る絵や仏像の、釈迦仏陀の説法印が、左手の中指を、右手の親指と人差指で、挟んでいるのである。
私は壇上氏に「この釈迦の説法印は 弟子の誰が 前に座っている時のものだろうか。」と尋ねて見たが、壇上さんも、それは分からないとの事だった。
13日の私の指の反応は、その釈迦仏陀の様子と、丁度同じ状況である。
左手中指の痛みを止めるには、其の指を、右手の親指と人差指で挟んで、気の流れを調整する事に成る。
私は、釈迦仏陀の説法印が気に成っていたら、丁度同じ場面を、体験する事になったのである。
そして、その時間に、スーリアさん一行が「水神」をお祭りしている社・やしろに、参拝していた事は、何の関係性を伝えて来ているものだろうか。
釈迦が悟ったのは、6年間の厳しい修業を止め、水浴びをしてスジャータが差し出したミルクを飲み、菩提樹の根本に休んだ時の事である。
イエスキリストも、神の世界に入ったのは、ヨルダン川で水浴びをして、聖霊に満たされての事であり、日本の神道の世界も、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」が黄泉の国から帰り、小戸のあわぎ原で水浴びをした時に、起きた事が元に成っている。
だから「仏教」も、「キリスト教」も、日本の「神道」も、みな水で禊(みそぎ )をした事が、始まりと成っているのである。
是等の事を考えると、宗教の源には「水」が関係しており、水には神が宿っているとの理・ことは、世界共通の事として考えて良いだろう。
では、何故、神の世界に繋がるには、水に関わりを持つ必要が有るのだろうか。
インドでは、多くの人達が、ガンガーの流れに身を浸して祈りをしているし、日本の神道や仏教でも、海、川、滝で禊ぎをする。
昔から、世界中で水浴びをする事は、神に近付く事として、続けられて来たのだ。
私は、誰かに習ったり、云われたりしての事ではなく、自分自身が無意識に、其れ等の事を、屋久島の自然の中で、行う事に成ったのである。
自分の考えではなく、私の意識に入り込んでいる何者かの霊が、其れを、私の肉体を使用して行うのである。
私は只、其の出来事に自分の身心を、委すしかなかったのである。
おそらく、釈迦仏陀や、イエスキリストや「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」も、其れと同じ体験をしたのではないだろうか。
禊ぎ祓いの儀式を済ますまで、憑いている霊は、肉親の先祖霊か、自分の守護霊だけのようだが、禊ぎが済んだ後は、全体の数知れずの、霊魂の集団が遣って来て、どれが誰かの区別も不可能である。
名前も分からないし、どんな事が出来る霊なのかも分からない。
私は只、どうする事も出来ないで、その現象に、身を委すしか、他に方法がなかったのである。
その結果が、現在私に起きている、両手の指のビリビリの反応なのである。
霊界と、現界の間に、私の肉体が在り、霊界の働きが、現界の人間に伝わる時、私の身体を通過していくらしいのだ。
どんな働き(やくめ)の霊が通ったのかは、両手の指の反応で感じるしかない。
簡単に説明すれば、左手は「精神的」な働きの者、右手は「物質的」な働きの者が、作用していると言えるだろう。
片手の五本の指も、其々の働きの区別が有るようだが、私にも未だ、其れは明確ではないので言う事は止めておく。
釈迦仏陀の姿(仏像)を見ると、私と同じ事が起きていて、「様々な 指の組み合わせを していたのだなあ。」と、考えさせられるのである。
日本の天皇家の元は、「スメラのミコト」と呼ばれ、シュメール文化の流れを伝えるものらしい。
「スメラのミコト」の働きは「ミーズ(御稜威・みいつ)」の働きと言って、神の世界と、人間の世界の中間に在って、エネルギー(情報)のトランスの役目をする事なので、「釈迦(ブッダ)」と「スメラのミコト」は、同じ働きの者と言う事が出来る。
仏教の得度式の儀式と、天皇家の大譲祭の儀式は、同じくシュメール文化(7000年前)の流れから来ているものだと、本に載っている。
何千年もの昔から、私と同じ事が起きていた人達が居て、其れ等の人達の体験が、現在でも、目に見えない働きとして続いているのだろう。
日本の神事の言葉に「天津日継・あまつひつぎ」とあって、其の事の伝承を明らかにしている。
日本の長い歴史の中に、其の事が傳えられている事を、有り難く感じ、是からも日本の伝統を大切にして行かなければならないと、感じているのは、私だけではないだろうと想う。
私の身に、起きている事柄も、其の長い日本の歴史と、文化の積み重ねからのものであろう。
是からの人類の歴史に、私も、何らかの貢献が出来れば本望である。
平成15年4月13日
礒邉自適
2003/4/13
17・80日
15・4・13
今朝の夢には、「後80日」の言葉が出て来て、次に「17−80日」と数字が現れ、東京に住んでいる、屋久島出身の人達が数名映った。
今日から、80日を計算すると7月2日になり、旧暦では6月3日である。
何が、後80日で始まるのかが分からない。
其れに、7月2日の日付は、私が1985年に日本一周の旅が、丹後半島の網野町で終わった記念日でもある。
17の数で、私が思い当たるのは「聖徳太子」の17条の憲法であり、「伊耶那美命・いざなみのみこと」から「天御中主神」までの、神位の17霊位と、神社の「磯の段(斉庭、白砂)から神殿迄の、17の階段の数である。
屋久島出身の東京暮らしの人達と、私が出会うとの事は、私が、島の人間として、東京へ出向く様に成るとの事だろうか。
三つの繋がりが、今日の処は、能く理解出来ない。
今日4月13日は、スーリアさんの誕生日で、私の長男「海生」の24歳の誕生日でもある。
私が、神の世界に入る事に成ったのは、長男の存在が、大きな切掛けだったが、屋久島に帰る事に成ったのは、スーリアさんの存在のお陰である。
4月13日生まれの二人が、島を出る事と、帰る事の原因に成っているのは、面白い現象である。
知り合いの、伊丹由香さんの今朝の夢では、私から電話が掛かり「今、松本に居ます。とても順調です」と云ったとの事。
何故、神霊は、私が松本に居ると告げたのだろうか。
長野県の松本市に居るとの事か、又は世直しの松の木の、根本に居るとの事なのかは分からない。
いずれにしても、順調に行っていると言う事は、吉い知らせであると、受け取って良いだろう。
伊丹由香さんには、4月1日に「如来とお姫様」の文章と、私の笑顔が出て、後光が射していたとの事。
そして4月8日には、世界の大国10ヶ国の大統領や首相が、一列に並んで映って、其々の前に、各国の旗が立てられており、日の丸が中心に立っていて、アメリカの星条旗は一番端に立っていたとの事。
そして裏側には、中国とロシアの国があり、其処にも日本の旗が立てられていたらしい。その中でも、三ヶ国が全体の代表となっており、其処にも日本の旗が立てられていたとの事である。
伊丹由香さんの夢を参考にすると、日本の価値観で世界が動く事が示され、日本が世界の中心と成る事が、理解出来る。
聖徳太子の17条の憲法は、第1条に「和をもって尊し」と有り、アメリカの現在の遣り方とは違って、平和を第一としている。
アメリカの旗が、端に立っていたとの事は、アメリカの価値観が、世界の中心には成り得ない理・ことを、示して来ている。
「法隆寺の奇跡」http://moon.ap.teacup.com/20061108/381.html
中国とロシアは、アメリカの資本主義と違って、マルクスの共産主義の国だが、現在・いまはアメリカの資本主義の追従に走っており、今のままでは、アメリカと同じく、中心から外れてしまう事を意味している。
伊丹由香さんの夢では、そうならない様に、日本の価値観が導入される事を示唆している。
私の日記を見ると、1994年4月16日に、私の夢に世界地図が出て、ロシア地方が赤、中国以南は青で、両方の地域に、それぞれ巻物が与えられる事が映って来ている。
伊丹由香さんの夢の、アメリカが表で、中国・ロシアが裏との事は、地図上では日本を中心にして、右側が表・アメリカ、ヨーロッパで、左側が裏・中国、ロシアと成る。
地図上からも、日本が中心になり、昔から伝えられている、「豊葦原の中津国」の表現が合っている事に成って来る。
1994年4月13日の日記のページを見ると、私の夢に、座禅の達人が現れて「南閻浮提・なんえんぶだい(大地の事)」と、伝えて来たと記してあり、「南閻浮提」は、須弥山の南部の土地を意味している。
「須弥山」とは、仏の住む、山岳の在る島の事である。
9年前の私の夢と、伊丹由香さんの夢が合って来ている。
伊丹由香さんの、4月1日の「如来とお姫様」との事は、「如来」は真理の世界から衆生救済に来る者であり、「お姫様」は、救われる者の対象的存在である、と言う意味ではないだろうか。
聖徳太子は、叔母の「額田部皇女・ぬかたべのひめみこ。推古天皇」を女帝に立てて、自分は民の為の「政・まつりごと」の為に、仏教を信ずる者と成った。
17の数字が、聖徳太子の存在を伝えるものであり、後80日とは、世界が新しい価値観を求めるまでの日数だろうか。
アメリカの行動が、イラクでどの様な結果と成るのか、其れも80日間で明らかに成って来るのであろうか。
平成15年4月13日
礒邉自適