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2003/2/27
夢をみる
15・2・27
一昨日、久し振りに屋久島鹿の焼肉を食べた。
其の所為か、今朝の夢は、三次元的な過去の夢ばかりで、未来が出て来なかった。
場所や、風景も、昔の様子で、現れる人達も皆、昔の付き合いの人達で、善い思い出ではない事ばかりである。
肉を食べると、毎回二日目の夜見る夢は、悪い夢で、未来には役に立たない事ばかりである。
仏教で、肉食を禁じている意味が、良く理解出来る。
日本では、天武天皇から肉食が禁じられ、明治時代に西洋文化が導入される迄は、肉は賤しい者達の食料とされていた。
肉食をすると、血液が酸化して暴力的になり、闘争を好むように成る事を、昔の人々は知っていた様である。
穀物菜食だと血液が清くなり、血圧も低いままである。
見る夢も、清い水の流れや、小鳥や草花等、自然の美しさばかりに成って来て、夢に現れる人達も、善い人達や、未来に出会う人達に成って来る。
神の世界に通じて、平和なビジョン(未来像、見通し、幻想)ばかりが映って来る様に成るのである。
其の事に付いて、取り敢えず、思い付く事を書き出して見よう。
穀物 菜食 肉食 邪食
・未来の夢 = ・過去の夢
・美しく鮮やか = ・暗くて見難い
・優しく穏やか = ・恐怖 ・おそれ
・平和 = ・災害 (洪水 津波 火山爆発)
・美しい女性や子供達 = ・男性の戦い ・戦争
・発明 発見 (ビジョン) =
(ノーベル賞等) = ・破壊
・天国 ・喜び = ・地獄 ・悲しみ
・感謝 ・幸福感 = ・うらみ(恨) ・つらみ(辛)
・美しい音楽 = ・音楽なし
・美しい食卓 ・料理 = ・食料の奪い合い ・排泄物
・仲の良い友人 = ・悪い仲間
・神・佛が現れる = ・切られたり撃たれたりする
・未来の出来事 ・予知夢 = ・悪夢 ・冷汗をかく
・光の世界 = ・闇の世界
・公け ・全体 = ・個人的な欲望
未だ未だ、対比して行くと出て来ると思うが、是ぐらいにして措こう。
この様に、食物が異なるだけで、自分の夢の内容は変化して来る。
何故なら、夢は潜在意識の現れであり、潜在意識は、細胞が見る情報だから、細胞に成る血液の元である食物が変れば、夢も同じ様に、変る事に成るのは当然の事である。
悪い細胞に成る、食物ばかりを食べていると、血液から出来る卵子も、精子も、悪い記憶を残して行くので、子供達の魂しいも劣化していく事に成り、出来の悪い子供達は、親に負担を掛けるように成るので、親の視る夢は益々悪くなり、悪循環に陥ってしまう事に成る。
最低レベルに成ると、昼間は眠っていて、夕方から起きて、夜街を徘徊する様になる。是は、ハイエナ的行動で、殺してから何ヶ月も経った、古い肉を食べる事から発生する、行動パターンである。
穀物菜食の人は、早寝早起きになる。
鶏の様に、朝が早く太陽が好きになり、日向ぼっこを良くする様になる。
善い夢を見る子供は、良い人生を歩む様に成り、悪い夢を見る子供は、不安感情に陥るので、周囲に当り散らす様になり、社会の不安定要素と成って来て、環境を悪くし、本人も、回りも、悪くしてしまい、社会全体を不幸にして行くのである。
夢は、潜在意識に深く関わっているから、悪い夢を見る事は、悪い疑似体験をする事になるので、人生を悪い方向へと、導いていく事と成るのだ。
夢の世界は、人間個人の志・こころざしや、考えとは違うもので、宇宙や自然と、神佛につながるものだから、人間の自由には成らない。
人間が、夢を、正しく見ようと想えば、食物を吟味して、自分の行為を正さなければならない。それが、仏教で言う処の「精進」の世界である。
私の、夢の舞台は、私が生れ育った屋久島の自然であり、東京や、大阪などの、大都市ではない。
屋久島は、水が清くて、自然豊かな環境である。
住んでいる人達も、不特定多数ではなく、一人一人の仕事や、個性まで知っているので、夢に現れる時は、全て、意味を持って現れて来る。
逆に考えると、個人情報を、私が把握しているので、島の人達が、役者として夢に登場して来るのだろう。
私に、夢で、様々な事を伝えて来る相手は、人間や環境や存在物まで、全てを情報化できる大物である。
私に、夢を見せて言語化させているのだ。
私が、文字化しなければ、直接、神から情報を受け取れる人が、居ないとの事だろう。居たにしても、自分の欲望をセンサーとしている人では、神の伝えたい事を歪める恐れが有る。
私の18年の修業は、正しく夢を、受け取る為だったのかも知れない。
子供の様に、純粋な気持ちで夢を受け取り、賢者の意識で、分析しなければならないのである。
旧約聖書は、多くの預言で組み立てられている。
預言は、其の人が、夢のビジョンで視せられたものである。
ノーベル賞を貰った人達、「ベンゼン」「アインシュタイン博士」「野口英世」等、夢でヒントを受けた人達が数多く居る。
「ユング」や「明恵上人」も、夢分析をしているし、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」に到っては、夢を、創作の技術として使っている。
私が、是から夢の世界を、どのように理解し受け取って行くかは、神と神霊界と、私の共同作業と成って行くであろう。
「出口王仁三郎」の様に、夢の内容をややこしくせず、「聖徳太子」の様に、建物を必要とせず、誰にでも簡単で、容易なものとして行きたい。
ニューギニアのある村では、今でも子供が朝起きて来た時に、親がどんな夢を見たかを聞いて、其の夢の解釈をしてあげるらしい。
夢の世界(潜在意識の内に)で解決してしまう事で、裁判所も必要が無く、警察署も無くて、平和に暮らして居るとの事である。
夢とは、現実と、神との間の、世界の出来事なのだ。
其の世界は、植物を食べれば、植物と同じく太陽に近くなり、肉食をすれば、肉食動物と同じく、闇の中で、獲物を狙う泥棒根性と、成って行くのである。
たかが、夢だけれども、されど、夢の世界である。
平成15年2月27日
礒邉自適
2003/2/21
音に感謝する頬笑み
15・2・21
本日21日は、毎月の「お大師さん・弘法大師空海」の祭りの日である。
年一回の大祭は、来月3月21日だが、真言宗では毎月21日が「お大師さんの日」という事にしてある。私にも、21日の日に、空海がコンタクトをして来る。
霊界のスケジュールで、毎月21日は、弘法大師空海が、私の体を使用するように決められている様なのである。
そして、明日2月22日は「聖徳太子」の命日で、一年に一回は聖徳太子のメッセージが届く。聖徳太子は、西暦622年2月22日に亡くなったと伝えられている。
聖徳太子は、霊界では一番中心的存在に位置しているらしいが、現場を動かすのは、弘法大師空海の方が専門らしく、空海が具体的に、私を動かして来るのである。
今朝のお告げは、「音に感謝するほほえみ」と言葉が来た。
これは、直ぐ空海の言葉だと解かる。「音」は「観音菩薩」の「音」で、「ほほえみ」とは「観音菩薩像」の「微笑・頬の笑み」であろう。
「音」とは、日本語では「ね」と呼び、宇宙全体を存在せしめている、振動の事である。
中国では、その「音」の事を「玄の響」と言っている。
中国古典に、「玄の響は 誰にも聞ける。しかし それには、かかる努力が要る。」と有る。
又、老子の言葉には「弦を弾くと 宇宙の音が消える。」と有り、其の意味は、人間が、人工的な楽器の音を出した瞬間に、宇宙の振動が聴こえなくなる、との理・ことである。
と言う事からすると、宇宙の音・振動は、24時間、人間には聞えているという事である。
其の意味からすると、人間も、他の生物も、森羅万象全部が、音の中に存在している事になる。其の理・ことを、型・かたちに拠って、教えているのが、観音菩薩像であり、其の音を自由に観じる事を「観自在」と呼び現しているのだ。
今朝の「音に感謝する微笑み」とは「観音菩薩像の頬の笑み」の事であろう。どうして菩薩かと言うと、宇宙(ビルシャナ)が全てを育んでいるので、子を産み育てる母親像の姿を借りて、説明しようとしているのである。
別に、宇宙に、観音像の姿をした仏が存在するわけではなく、宇宙自体の働きを、理解し易く表現しているに過ぎないのである。
弘法大師空海は、日本の「真言宗」の開祖だが、チベット密教を日本に持ち込んだ人でもある。
密教の本尊は「ビルシャナ仏」で、日本では大日如来と訳されている。
ビルシャナとは「宇宙の真理の本体」の意味で、人の姿をした仏が、実在する訳ではない。
「大日如来(宇宙の真理の本体)」を分かり易く、分けたのが「三密」と言って、三つに分けて考えるのが、
(1) 身「宇宙の星々まで含めた質量、姿」
(2)意「宇宙の存在には意識が実在する」
(3)口「意識が存在するのだから言葉を生じる マントラ(真言)」 である。
そして、人間は、宇宙の全てを内蔵しているのだから、修業をおさめれば、大日如来と同化出来るとの行法が、三密加持で「修業者の三密(身、口、意)が、仏の三密と本質的に同一である事を 体験すること。」 広辞苑
真言宗は、その修業をする宗派である。
空海は、自分が、中国の「恵果和尚」から、伝授された奥義を、正式に継ぐ者がなかなか現れないので、脳細胞が減らない内にと、断食をして肉体を離れ、今日まで弟子が現れるのを待っているのだ。
・恵果和尚〔唐代の僧. 真言宗付法八祖第7. 長安の人. 青龍寺に住し、不空三蔵の弟子で空海の師(746〜805)〕
空海は「弘法も筆の誤り」との諺が残っている様に、「猿も木から落ちる」と同意義にされている程、絶対的な天才だと言われている。
空海は、筆の外にも建築、土木、薬草、霊力、何でもゴザレの実力者であり、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 」より上ではないかと想われる、大人物である。
真に日本語で言えば、神業的事を成した人と言えるだろう。
「音に感謝する」とは、空海の意念からすれば、其の様な深い意味が有ると想われる。音が、宇宙の全体的響を意味しているのであれば、「音に感謝する」との意味は、宇宙の存在其のものに感謝するとの事になる。
「感謝する」との意味は、「もう恐れを必要としない」との意味ではないだろうか。
それは、私が18年前、神に云われた事とは、まるで反対の処に有る。
私は、人類の滅亡を見せられて、この道に入って、長い旅を続けて来た。
そして今朝、「音に感謝する微笑み」と、言葉を掛けられた。
「微笑み」とは「観音菩薩像の頬に浮かぶ 微妙なほほえみの事」であろうから、何があっても、静かにほほえんで全てを見つめている、仏像の姿に見習えとの事であろうか。
私の役目が、仏像と同じに成る事を、要求して来たのだろうか。
人間、何かを遣らなければとの、使命感が有れば、顔は厳しいものと成る。
私も、旅の始めの頃は、「人類を救わなければ」「何とかしなければ」の念いが強く、他人に「怖い」と言われたり、自分でも苦しんで、何回も胃から出血して寝込んだりした。
屋久島に帰った今でも、何もする事が無い日は、「こんなに遊んでいて 良いのだろうか。」「神の働きを本当に助けているのだろうか。」と、心配に成る。
未だ、農業を行っていた時の、百姓根性が抜けきっていないのだろう。
上天気なのに、何もしないで家で休んでいる事に、未だ罪悪感が有って、とても笑っていられる心境ではない。
だからこそ、そんな私に、空海は救いの手を差し伸べ、「音に感謝する頬笑み」と告げて来たのだろうか。
私が、18年前覚醒した時に、宇宙の絡繰・からくりが解かったので、笑い出したら、無庵師匠が「自適さん 笑うな。自適さんが 今笑うと 世界中で修業している人の 気が抜けてしまう。」と云った。
私がキョトンとして居ると、「世界中で 其の日の為に 多くの人達が修業を続けているので 自適さんが 今笑ってしまうと 皆の修業が止まってしまう。」と、云うのである。
其の時には、良く理解が出来ないまま、私は笑うことは止めてしまった。
いま考えると、世界は一つであり、私が笑いの波動を出してしまうと、全体にその波動が伝わって緊張が砕けてしまい、修業が出来なくなるとの理・ことだったのであろう。
その時の無庵師匠の一言が、私の笑いをブロックしてしまったのである。
今朝は、その止め金が外されたのであろうか。
私には、全てが準備されている事の確認は、未だ取れていないが、ようやく、仏陀が長い涅槃から起き上がって、歩き始める時を迎えたのであろうか。
仏陀の歩き始める足が、右足からなのか、左足からなのか分からないが、その時がおとずれたのであれば、私は何も考えず、其れに身を由・したがって行けば良いのだろう。
私の頬の筋肉に、微笑の記録が残っていればよいのだが、どうだろうか。
〜 故郷を 泣かずに歩く 五十六 〜
平成15年2月21日
礒邉自適
2003/2/21
建 物
15・2・21
19、20、21日と、建物ばかりが夢に出て来る。
19日には、古い荒れ果てた建物が何軒も出て、私はその建物を見て歩き、使える家の掃除を始めた。掃除に疲れていると、誰かが私を連れに来て、新しい建物を建てる場所に案内したり、出来上がった建物の、部屋の使用方法や、家具や備品などの、相談を受けたりした。
20日にも、大きな建物が夢に出て来て、其の事は日記には書き残したが、文章にはしなかった。
其の理由は、私が個人的に、母親の住んでいる実家がボロボロなので、どうにかしてやらなければと悩んでいる為、その想いが夢に出て来るのだろうと考え、個人的な雑夢を気にしていたら駄目だと判断し、忘れ様としていたのである。
処が、今朝も、建物の事が出て来た。
三日も続けて、建物が出て来るので、どうしてかと考えて見た。
本日は、弘法大師空海の月命日でもあるので、空海が関係しているのだろうとも考えられる。
空海は万能選手であるので、現代風に言えば、世直しの現場監督であると言えるだろう。
会社には、事務所が必要だし、商売人には店舗が必要である様に、人間社会では、何か事を興す時には、建物が必要である。
夢に出て来る家は、学校や病院等の、人が大勢集まる所ではなく、個人の家か、塾が出来るぐらいの大きさの家である。それも、古い建物を手入れするのではなく、手入れの要らない家を探している様だ。
私の考えでは、霊界人が行動を起すのに、私の肉体を、都合の良い所に移したいのではないだろうかと想われる。
現在、私が住んでいる家は、安房の飲屋街に在って、夜中2時3時迄うるさくて、ゆっくり眠れない。
現在は、私一人だが、手助けの人が来ても、とても泊れる状態ではない。
本番が始まれば、どこか静かな所に、建物が必要なのだろう。
夢に出て来る感じでは、20〜30人が一緒に食事が出来る建物で、数名は住める状態でなければならない様である。
現在の処、建物がハッキリしないのは、屋久島に、其の様な建物が実在しないからなのであろう。
例え、霊界が欲しがっても、現象界に無ければどうしようも無い。
私にしても、金も無いし、未だ一緒に、事を始めようとの相手も居ないので、霊界に頼まれてもどうする事も出来ない。
考えられる事は、霊界人が協力するから、私に準備をしろとの事か、家を用意する事を、考えろとの事だろう。
私が、自分で、これを遣りたいとの計画を立てなければ、準備する家の大きさや、内容、建てる場所も決まらないとの事だろうか。
私には、未だ、具体的な計画が立たないので、イメージが湧いて来ない。
今日の処は、「建物のイメージを考えようかな」という段階であると、言う事にして於こうか。
平成15年2月21日
礒邉自適
2003/2/19
佛から神へ
15・2・19
昨日で、1月18日から丁度一ヶ月が過ぎた。
1月18日の日付が、昨年12月15日に出て来て、何が起きるのか気にしていたが、世間的には、別段大した事は起きなかった様である。
一ヶ月を振り返ってみると、確かに変化した事が有る。其れは、全体の無意識の世界が、変化した事が感じられるのである。
私の、昨日までの霊夢と、今朝の霊夢が違っている。
昨日までの一ヶ月間は、「佛」の教えが「エネルギー・祈り・意乗り・波動」を占めている様だったが、今朝の霊夢は一転して、「神」の世界を映して来た様に感じる。
私が、此処で謂う「佛」と「神」の違いは、「佛」とは「解脱・げだつ」の意味で、日本語では「しがらみがほどける(ホトケる)」又は「悪い因縁が無くなる」の意味で、物事から自由に成る事である。
「神」とは、「縁結びの 神様」とか「あの人の技術は 神業だ」と言う様に、私達の住む現象界で、物事がハッキリ示される事を意味している。
「宗教」の単語は、明治時代に英語の「リリジョン・religion(再び神と結ばれる)」の日本語訳として生れたもので、英語圏でも「神」とは、結ばれるモノであって、解けるモノではない様である。
日本は、神武天皇が奈良で、神と結ばれる処から、歴史が始まった事に成っている。
今朝の霊夢は、昨日までの真理を求める事から一転して、私達の住む現象界を映して来た。
1.私が訪れた家は新築の家で、各部屋で食事が出来る様に成っており、和食が出来る畳の部屋、テーブルの有る部屋、カウンターの有る部屋、そして庭ではバーベキューが出来る様に成っている。どんな食事のパターンでも、可能に成っていた。
2.会社の社長と、パーティー会場に向っていて、会社の合併や、身内の結婚の話し等している。
3.大きな宿泊所に居て、サイフやカバン等の事を調べたりしている。
今朝の夢は、色々の場面が映って来たが、内容は、全て是からどの様にするかの事柄と、其の場所の場面だった。
其れ等の事から、考えられるのは、是から始まる未来社会を、どうすれば良いか考えろとの事だろう。
昨日の夢では、数字は「5・6」と出て来たが、其の数字の次元の説明までは無かった。
私の考えでは「5・6・7」の世界は、「3・4」の世界の事を理解した上で、人間の文化・文明を、創造しろとの事ではないだろうか。
5とか、6の世界は、神と人間が、共に創造して行く、理想社会を意味しているのかも知れない。
昨日までに、私の意識が究極に達して、今日から、未来創造に向うのだろうか。
不思議な事に、昨夜のNHKの番組で、現在の言葉の氾濫に付いて取り上げられていた。
其のテレビ番組の内容は、毎年500語ほど、日本に入って来ている外来語を、日本語に正しく変換しないで、皆が、意味のハッキリしない言葉で仕事をして行くと、社会が崩壊するとの事で、国が、国語の見直しを始めたとの事であった。
私の書いた文章と、NHKの番組が、連動しているのである。
神は、テレビ番組と、政府の方針と、私へのメッセージとを、全部を管理して、一挙に事を進めている様である。
神の世界が、ようやく、新しい「ムスビ・リリジョン」を起し始めている様である。
1月12日には、「3・18」の数字が告げられて来ている。
3月18日の事であれば、今日から又一ヶ月後である。3月18日までに、又何が有るのか、私の思考は休む間が無いらしい。
去る2月17日は「祈年祭」の日で、出雲大社や伊勢神宮等で、本格的な儀式が行われているが、東京の椿山荘でも130名が集まって催しが行われた。
知り合いである「西村玲光さん」の主催で、スーリアさんも参加し、私の文章が載っている屋久島発の雑誌「生命の島」を、会場で販売もした。
新たな、屋久島ツアーも企画されている。
私にも、また新しい役目が始まろうとしている。
七次元の神と共に、世界を創造する次元は、直ぐ其処に迫っている。
平成15年2月19日
礒邉自適
2003/2/18
言葉の危険性
15・2・18
今朝の霊夢は、長くて、意味も重要な物の様であった。
其れを、上手く文章に出来るかどうか分からないが、今日の分は、今日処理しなければ、夢の流れが止まってしまい、明日の分が来ないと考えられるので、可能な限り文章化して見たいと想う。
今朝の夢の中には、数字が付いていて、1から7まで有った様だが、4の番号の処に文字も映像も無く、4の処の内容が一番大事な様に感じた。
1の数字が出る前に、意識が物を捉えて映り始め、映像は大地の景色である。
其れは、地球の大地の自然の景色であり、人間にはどうする事も出来ない、根本的な世界である事が認識された。
次は、其の自然の中で生活する、人間の意識の存在が認識された。
この次元の意識の目は、人類だけでなく、他の生物も同じ意識のセンサーを備えている事になる。
其の世界が、2の数字の次元であろうと想われる。
そして、3番目と、4番目の境界が、一番理解が難しい様である。
3の数字の次元は、自然の中で生活する生物のルールや、コミュニケーションの世界ではないかと考えられる。
小鳥が、鳴いて縄張りを主張したり、アフリカのゴリラは胸を叩いて、自分の存在を主張したりする。
彼等の世界は、その行動で、ルールが守られているのだ。
しかし、それは、言葉であるとは言えない。
事と、場は、確かに実行されて、営みは確立されているが、それは遺伝子に記憶されているプログラムに依って、行動が発生しているのであって、人間の様に、言葉に依って、意志が伝わっているものではない事は、確かである。
だから、言葉を使用する人間とは違って、小鳥やゴリラは、行動パターンで、仲間との約束事を、継続させて行くのである。
人間世界も、言葉や文字文化がなければ、意識の分散と、誤解が無く、現在の様な混乱は起きなくて、仲間同士が殺し合うと言う、戦争等は存在しなかったであろう。
其の点から言えば、人類は、小鳥やゴリラに比べれば、大事な能力を失ってしまったと言えるだろう。
今朝は、4の数字の処が空白だったので、其処の世界が、テーマの本題だと想われる。
人間の特長として、ヨチヨチ歩き始める生後12ヶ月位いから、言葉を覚え始める。
動物の様に、餌の捕り方や、敵から身を守る事等は、人間には必要がなく、言葉でのコミュニケーションを図れる様に成る事が、一番大事であるのだ。
今朝のテーマは、子供の時から、覚えて行く言葉の内容と、其れで培われて行く文化の事を、明確にしろとの事のようだ。
子供にとって、一番大事な言葉は、母親に、お腹が空いたとの事を、伝える意志伝達用語である。だから、母親は、飯を「まんま」と呼ぶ様に訓練する。
子供には、「ま」が一番発生し易い音らしい。
日本では、母親を呼ぶのに「まんま」と云えれば、母親から食料を貰える事を知るので、「まんま」は直ぐに覚える。
英語でも、母親を「ママ」と呼ぶので、人類の発生から考えれば、当然の事なのだろう。
「まんま」から始まって、次々に、言葉の数を増やして行き、4〜5歳頃には、人間社会での日常用語は、大体使用出来る様に成る。
小学校に入学すると、文字や漢字、数字を覚えて行く。
絵も画ける様になり、楽器も鳴らせる様になる。これらの次元は、人間の生活にとって必要な範囲で、どんな国に住んでいる人々にとっても、同じであろう。
この段階では、未だ、政治・経済・宗教・哲学などの、知識は必要が無いので、意見の衝突や闘争が生じないから、戦う事も無く、平和な世界と言えるだろう。だから子供達にとって、この時期は、遊びの延長線であると言っても良いだろう。
4の数字の場・次元は、是より先の、成人になってからの言葉に因って、出来上がって行く文化や文明の方向性や、内容に関する事に付いてだと思われる。
現代社会の人間の不幸は、言葉の使用のずれや、文化の違いから起きていると考えられる。
戦争の大きな原因は、民族や、国家の価値観の違いから発生している。
人間の価値観は、言葉に因って組み上がったものである。
地球人類60億人が、同じ言葉を使い、同じ価値観の本で 同じ生活様式をしていれば、戦争になる事は無いだろう。
余りにも言語が分かれ、価値観がずれてしまった為に、戦争が絶えなくなったのである。
同じ意味を、表現する単語が、地球上に、何十種類存在するだろうか。
余りにも、言葉が増え過ぎて、人間は、言葉の意味を理解出来ない内に、一生を終えて行くのである。だから、人類は、言葉の不消化を起していると言っても、良いのではないだろうか。
言葉を正しくしようと想えば、言葉の意味を、正しく理解しなければならない。そうであれば、言葉の数や量を、少なくしなければならない。
処が、現在では、其れと反対の方向に流れており、意味の不確かな外来語がどんどん入って来て、日本語でさえ、満足に理解していない者が、中身の伴わない外来語を使用するので、益々、言葉の世界が乱れるばかりである。
其処で、問題点を挙げると、言葉が乱れると、聖霊界や、先祖霊等とのコミュニケーションが取れなくなる事がある。
私達が、現在生きている社会の文化・文明は、昔の人達が積み上げて来たものである。そして、これからの未来は、その上に、私達の生きた時間が、重なっていく事に成る。
と言う事は、私達の生活次第で、未来が変わると言う事だから、言葉が乱れると、過去と未来が、不連続に成る事になる。
だから、未来社会を安定させ、人類の幸福を願うならば、言葉を正しくする必要がある事になる。
今朝のメッセージは、正しい言葉を選び、未来に向かって、正確に伝えろとの事ではないだろうか。
此処、数日のメッセージの内容を思うと、正しい価値観や、文字や、言葉を如何に伝えるかを、示して来ている様に想われる。
現在の世の中は、主義・主張や、哲学が様々に有り、宗教も数知れず存在していて、どれを学べば良いのか判断が難しい。
其れ等の中から、人間にとって、重要なものだけを選び出し、正しい価値観を残す事が、我われに与えられた使命ではないだろうか。
子供達に、自信を持って伝えられる、文化の中身の充実を、図らなければならないのである。
4の数字の処は、是からするべき作業なので、空白だったのかも知れない。
正しい言葉が伝えられてこそ、5次元、6次元の世界が、確立されて来るのだろう。
宇宙の働きと、人間の間には、未だ、計り知れない次元が存在するのだ。
其の世界を知ろうとすれば、正しい言葉の意味を、知る事が大事である。
人間の脳のシステムが、本来の働きに戻らなければ、宇宙の正しい情報源に、チャンネルを合わす事が出来ないので、現在社会の多くの人々には、宇宙の本来の働きを知る事は不可能である。
例え、脳が、其の世界を垣間見る事が出来たにしても、其れを言葉に置き換えて、理解出来ないのである。
皆が、簡単に、神の世界を観られないのは、神が不用意に、人間に高次元の神秘を見せて、誤解されて人間界に伝えられてしまう事を、心配しての事であろう。其れは、誤解されると、人間に新たな迷いを、齎してしまうからである。
人間の言葉が正され、脳が自然の状態に立ち返れば、脳が見るものは素晴らしい神の世界、美しく輝く大自然の姿なのである。
其の世界は、言葉が必要ない、無言の世界であり、文字も無い、調和の世界である。
其の世界は、子供達が、この世に誕生して来る前の世界である。
だから、私達が、長い人生の旅を終えて、行き着く終着駅は、この世に誕生する以前の世界なのである。
私達は、神の世界の裏表を旅する、旅人なのである。
その旅の、途中の遊び場が、言葉を使用する人間社会なのだ。
だからこそ、この社会で使用される言葉が、一番大事と考えられるのである。
私達が、どんなに美しい文字が書けても、その文字の意味が、正しく使用されていなければ、害には成っても、益には成らないだろう。
此処まで、ある・あると、決め付けて書いてしまったが、其れは、私の18年間の体験から出る事なので、了解して欲しいと思う。
今朝の夢のテーマは、密教のマントラの世界に通じるものである。
空海が「マントラ」を「真言」として捉えたのも、言葉と、神の繋がり・コミュニケーションの世界の秘密を、知ったからであろう。
弘法大師空海の体験した世界は、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」と、言葉と文字が、一体化している世界であったのだろう。
ようやく、空海が石に刻んだ文字の「祷り・意乗り・帰命」が、現実のモノとして、現れ出ようとしているのではないだろうか。
3次元と、5次元の間に、「金剛・こんごう」の光り輝く世界が、存在するようだ。其の金剛の光を、どの様に現象化させるか、其れが、私達に与えられた「宿命・さだめ」の様である。
平成15年2月18日
礒邉自適
2003/2/17
頼む
15・2・17
昨夜は一晩中、小さな文字が全面に書かれている物が、続けて出て来た。
文字が小さ過ぎて、量が無限なので、読む気にも成れなかった。
最初の内は、興味が有ったので、一部分だけ目を近付けて見てみた。
すると、其の部分は女性の個人情報で、誕生日や、それ迄の人生の事が全て記されている。
其の内容は、現在、病院で看護婦として働いているが、大型ダンプカーの運転手に成りたい夢を持っている事まで、載っており、未来で何月何日に免許を取得したとまで、載っているのである。
其れは、現在、生きて働いている人が、未来に転生して、夢を叶える事までが、記されているのである。
私は、其の文字の記されている物が、人類の「三世(過去・現在・未来)」のデータベースである事が分かった。
そして、疲れた頭で朝起きたら、男性の声で「たのむ」と一言有った。
其の声の主が、誰だろうかと考えて見たら、本日2月17日は、旧暦の1月17日で、屋久島安房生れの「泊 如竹聖人」の誕生日であり、午後5時半より「泊如竹廟」で、生誕祭が催される事を思い出した。
泊 如竹は元亀元年(1570)1月17日 船大工「泊 太次右衛門」と「初亀」の長男として安房に生れ、5歳で本仏寺に入寺、「日章」の名で法華の京都本能寺に上京して仏教を学び、後に薩摩藩に招かれ、老後は屋久島に帰り郷土の為に尽して、1655年5月25日に85歳で亡くなっている。
だから、今日は、433回目の記念すべき日という事に成る。
今朝「頼む」と言って来たのが、其の「泊 如竹翁」であれば、私に、何を頼みたいのかは、理解できる様な気がする。
今朝の夢は、アカシックレコードと言われている、宇宙の記憶盤のデータベースが映って来たのだろう。
人間一人の個人データでも、三世に渡れば、莫大な量であろうし、現在は60億人居る人類全部のデータとなれば、想像を絶する量となる。
しかし、現在のコンピューターの発達を見れば、どの様なものかは、想像出来ない事ではない。
其の泊如竹は、琉球王に招かれて沖縄に渡り、王の図書館に案内されて蔵書を見せられた時、外に出てから「私の図書は 皆頭の中に有る」と、云ったとの逸話がある。
泊如竹は、人間の脳が、どれだけの知識を蓄えられるかを、知っていたらしい。
そして、如竹は、自分の文章は、あまり残してはいないらしい。
若しかしたら、如竹はアカシックレコードの存在に気付いていて、書物が無くても、知識は宇宙に蓄えられる事を知っており、自分が、何かの文章を残す事は、無意味であると考えていたのかも知れない。
其れに、余計な情報を残す事は 後世の人達に、無駄なエネルギーを使わせる事に成ると、考えていたのではないだろうか。
如竹は、猛烈に学問をして、釈迦仏陀の法華教だけでは物足りなくなり、本能寺を出て「儒学」の道に進んでいる。
若しかしたら、老子の学問に迄で進んだのかも知れない。そうであれば、自分の考え等を残す事は、余計な事であり、自分の念いは永遠だから、霊界から、未来に影響を与えようと、考えたのではないだろうか。
私に、18年前起きた事と、私の執らされた行動から判断すれば、如竹の関与の可能性は高い。
昨日は、日蓮聖人の誕生祭でもあった。法華宗は、日蓮が立宗した宗派である。
法華経は、釈迦仏陀が弟子の「舎利弗(しゃりほつ)」に、説法した内容を伝えるものである。だから法華経は、釈迦の言葉が文字に成って、伝えられた物である事に成る。
言葉が文字に変った時、人間の意識は文字に囚われて、もう意識は自由ではなくなり、釈迦の教えから外れてしまう。だからこそ、偉大な釈迦は、その欠点を補う為に、弟子の「摩訶迦葉」に無言の教えを渡したのである。
泊 如竹は、其の事の意味まで理解したので、自分の文字を、残さなかったのではないだろうか。
五歳で出家する事に成った如竹は、小さい時から、私と同じ体験をしていたのではないだろうか。
それを見抜いた行者も凄いが、釈迦や老子の心境にまで達した如竹も、偉大な存在と言えるだろう。
泊如竹の、産湯を汲んだであろう、安房川の川岸に、私の両親が上陸した時に、一番喜んだのは如竹かも知れない。
そうであれば、私の子供の時からの行動にも、納得いくものがある。
そして、今日「頼む」と言って来たのが、当の如竹であれば、三世に繋がる情報の整理を、委託して来たのではないだろうか。
私が20歳代の時に、数年間居候していた家は、如竹の母親である「初亀さん」の実家であり、如竹の産湯を使った跡の、石碑が有った屋敷でもある。
私が、自分で買う事に成り、現在住んでいる家も、其の居候をしていた家の女主人が、お世話してくれた物件である。
私の、自宅前の安房川の岸辺には、昔の桟橋跡が残っている。
其の桟橋は、56年前の夏に、私の両親が上陸した場所であり、多分、如竹も五歳で此の場所から出発し、数十年後、また此の場所に、帰って来たのではないだろうか。
私の自宅の裏山には、現在でも、如竹が五歳で、頭髪に剃刀を入れた「本佛寺」が建っている。
私の日常は、泊 如竹の一生を写した、鏡の舞台で、繰り返されているのかも知れない。
自分の一生が、自分だけの一生ではなく、永遠に繰り返されている、ブッダの業(カーマ)として、存在しているのではないだろうか。
インドの釈迦は、自分の念い・波動は死後500年残り、教えはその後1000年残り、言葉だけは其の後1000年残ると言ったと伝えられている。
そして、合計2500年経過すれば、衆生は皆、無明に陥ると言ったとの事である。
現在社会は、正に、其の2500年後の、無明の時代と言えるだろう。
その無明の時代に、人類のデータベースを見せられ、「頼む」と云われれば、私も、何らかの対策を採る必要があるだろう。
私は18年前、1984年6月4日(旧暦5月5日)自宅前の川岸にて禊を行い、4311体もの「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が起きて、人類の未来を頼まれる事に成った。
その禊の場所が、56年前の昭和21年8月3日、母親が上陸し、荷物が陸上げされるのを待って、座っていた砂場である。
其の母親の胎内では、私は三ヶ月目の細胞分裂を繰り返していたのである。
三ヶ月目の細胞に、安房川の水神アナコンダは、どの様な影響を与えたのであろうか。
安房川の清い水の流れは、私や泊如竹に、何のエネルギーを与えたのであろうか。
インドの「ガンジス川(ガンガー)」の流れと、同じ記憶が、秘められているのであろうか。
今朝、夢に現れた小さな文字は、日本語の文字盤ばかりであった。
他のページを捲って見れば、世界中の文字が記されている事だろう。
記憶をしている材料や、場所が、何処に存在するのか分からない。
水なのか岩なのか、又は樹木なのかも私には分からない。
若しかしたら、生物の体内の遺伝子のゲノム其のものが、アカシックレコードのマイクロチップなのかも知れない。
仏教でも、神道でも、精進が基本の処にある。
自分の体内細胞こそ、永遠のインターネットであれば、自分の身こそ大事にしなければならないだろう。
一人の人間の肉体は、60兆の細胞で組み上がっており、一個の細胞の中に30億個の遺伝子情報が有るとの事。其の、臣大コンピューターと、大自然の働きの間には、境界が無いのだろう。其の関係性を、釈迦は 「法・ダルマ」と名付けたのではないだろうか。
私の意識も、自分のゲノムを通して、成佛しているのかも知れない。
※ゲノム{Genom ドイツ語}【配偶子または生物体を構成する細胞に含まれる染色体の一組。または其の中のDNAの総体。其の構成は生物の種に固有。】
平成15年2月17日
礒邉自適
2003/2/16
係属は力なり
15・2・16
今日、2月16日は、日蓮の781回目の誕生日との事。
私の産れた安房は、現在「あんぼう」と呼ばれているが、学校や神社は「粟穂神社」「粟穂小学校」だったので、「アワ」が本来の呼び名であったのだろう。屋久島の安房と、「日蓮上人」に関係が有るか無いかは分からないが、日蓮が生まれたのは千葉県の安房(あわ)小湊である。
安房地区のお寺が日蓮宗なので「粟」に「安房」が当てられたのかも知れない。
日本の歴史の中で、革命児を挙げれば、日蓮は三本の指に入るかも知れない。日蓮が言う様に、全家庭が「南無妙法蓮華経」のお礼を拝すれば、幸福に成れるかどうかは私には判断出来ないが、今朝の霊夢は、何かの系統か系列が大事な事を告げて来た。
今朝の霊夢は、日が当っていない白色の長方形の箱が、横一列に並んでいるのが映って来た。箱は、何の文字も色もなく無地である。
どうして、箱が幾つも並んでいるのか分からないので近付いて見ると、大工が糸墨を打った様に、初めから終りの箱まで一本の線が通っている。其の一本の線を巡って見て行くと、他の箱より少し奥に凹んでいるのには、其の線が付いていないのである。箱の位置次第で、線が付いたり付かなかったりするらしい。
今朝の夢は、たったそれだけで終ったので、何の意味か分からなかった。
朝起きる時「けいぞくは ちからなり」と言葉が遣って来たので、今朝の夢は、何等かの系統か系譜が必要だと、知らせて来たものだと理解が出来てきた。
今朝の箱の並びは、横一直線だったので、「並」の文字が組み込まれている。
「譜」の漢字の方が合っていると思うが、言葉や文字が無かったので言偏は合わない。箱が、並んでいる漢字が有れば能いのだが、それが無いので仕方が無い。
今朝の夢に、現れたのは只の箱だから、俗に言う処の、箱物であり中身が分からない。箱だけが繋がっているという事は、容器・うつわだけと言う事に成り、容器だけが系譜されても何にも成らないだろう。
では、何の系譜を考えれば良いのだろうか。一番身近なのは、無論、自分の血筋の系譜である。
今は、それ程でも無いが、昔は系譜が示された系図が大事にされ、本家だ、分家だと、事難しく扱われていた。日本の最大の系図は、天皇家のものであろう。
血筋は、私事であり、天皇家は公事とされているが、別にも仏教の系譜がある。
私は日蓮宗ではないが、同じ仏教の道元禅師の流れの得度を受けている。だから、一応私も、お釈迦さんの弟子という事に成っている。その系譜では、私は釈迦から数えると80番目と成る。
禅の系譜は、釈迦仏陀の次が「摩訶迦葉・まかかしょう」で、第一代目の弟子となり、南インド生れの「達磨大師」は28代目の弟子である。51代目が永平寺を開山した「道元禅師」であり、私は道元禅師から数えると30番目に名前が有る。
私が、師(78代 田中真海禅師)から在家得度を受けたのは、昭和63年2月26日であり、私の名前が載っている系図の名称は「譜脉血戒大傳正祖佛」で、これはお「釈迦さん・釈尊」から正しく傳えられている系譜の証明書である。
この系図も、夢と同じく、釈迦から一本の線(糸)で結ばれており、歴代の和尚の名前が一直線上に載っている。そして、其の線の最後は又、釈迦に繋がっており、佛の世界は一連である事が示されている。
日蓮上人も、釈迦の弟子である事には違いないが、この線とは異なる線上にある。
今朝の映像の、箱の中身が仏教であれば、お釈迦さんからの「血脈・ケチ脈」と成るが、しかしそれは精神的なものであって、自分の肉体的な遺伝子の継がりとは、何の関係も無い事になる。
日本には、昔から氏神様等の神社が存在し、その大元締が「天照大神」の天皇家と成るが、日本人が皆、天皇家と同じ血筋かと言うとそうではない。
1300年前迄は、大きく分けても18の部族が存在した事が記されているので、日本列島には何十もの血筋が住んでいた事はハッキリしている。
私の、礒邉家(石部、磯辺、磯部)の血筋も全国に広がっているが、代々を遡って調べる事は不可能であろう。血筋の糸は、探り様が無い。
さて、今朝の夢の系譜は何をつなぐ糸だったのであろうか。箱の中身が色々あるとの事であれば、考え付く事を挙げてみなければならない。
考えられるのは、次の様な事である。
・自分の血筋か家柄
・宗教や学問、茶、書、武道の師弟関係
・代々の天皇家や儀式の伝統
・世界の文化や風習の伝統
・政治や経済界の代々の長 など色々な事が有る。
此れ等の繋がりを、考えろと言う事なのであろうか。
今朝のメッセージは「けいぞくは ちからなり」なので、何等かの「係属」か「継続」に力が有るとの事だろうから、けいぞくする事で、力に成る物事の事を考え出さなければならない。それが、現在の社会に存在する事なのか、これから私達が続けて行かなければならない、何かなのかが判からない。
私達の日常使用する言葉に、長所と短所がある。「長所」とは善い事で、「短所」とは悪い事柄である。
今朝のメッセージは長く受け継いで行く事だから、長所でなければならない。長く続いた方が、善い事とは何であろうか。
現在の、寺院や神社其れに教会の存在が、全て後世まで残った方が善いかと言うと、そうでも無いだろう。イエスや、釈迦も「建物は必要無い」と謂っている。大きな宗教的建物を造る人達は、みな真理から外れている人達である。
何をつなげば良いのか、今日一日考えているのだが、未だ明確に其のものが浮かんで来ない。
若しかしたら、本日が日蓮の誕生日である事から察すれば、箱の並びの中に一個だけ、線から少し奥に引っ込んでいて、糸に触れていない物が有った。
それが、日蓮自身の事であり、自分が佛陀の本線から、少し外れていたと知らせて来たのかも知れない。ようやく、日蓮も本筋に達する事が出来て、「成佛・じょうぶつ」とは何なのかを悟ったのかも知れない。
日蓮は、立宗から756年の間、大変な事であったろう。御苦労様である。
頓智で有名な「一休宗純禅師」は、「昔 釈迦という徒・(イタヅラ)者が在って 余計な事を言ったので 此の様に 迷う者が澤山増えた」と、ジョークを云ったと言う。日蓮さんも、ようやく一休さんの様に「ゆとり」が出来たのであろうか。
平成15年2月16日
礒邉自適
2003/2/14
き
15・2・14
今朝の霊夢には、平仮名の「き」の文字がハッキリと大きく出て来た。
その前後の夢も有るので、説明すると、少し長くなりそうな気がする。
「き」が映る前の夢は、長い物語りに成っていて、大きな理・ことを示して来ている様である。
最初に、リング・輪の付いた、大きめの単語帳が映って来て、教室が現れた。
教室には、20名程の生徒達が居て、教壇の先生の話を聞いている。
先生が云っているのは、「単語帳の 一枚一枚に書いて有るセリフを覚えて これから始まる場面に 合わせて話すように」との事である。
自分勝手に、セリフを云ってはいけないらしいのだ。
私は、教室内の、後方の席に座って居て、自分の単語帳を捲って見ると、一枚目には何か短い文章が書いて有ったが、二枚目からは何も書いてないので、何を話せば良いのかが分からないでいた。
教室内での説明が終り、皆が外に出て作業が始まった。
その作業とは、人から人へ、手に持っている物を、リレー式で受け渡して行く「道筋(過程・経路・プロセス)」を、現している様だったので、文化や文明の継続を意味しているものと思える。
私は、自分の役割を忘れて、他の人達が次から次へと、自分の特長を出した物を、渡しながら走り続けているのを、眺めている内に、その列から外れてしまい、取り残されてしまった。
そして、皆が走り去った後に立って居ると、畑で農作業をしている母子に気付いた。何をしているのかと想い、近付いて行くと、其れは自分の母親と、27年前に26歳で亡くなった、直ぐ下の弟「農夫成」だった。
私が近付いて、其の作業を見てみると、私のやり方とは違っているので、「こんな事をしては 駄目ではないか」と云うと、弟は「自分では この新しい方法が 良いと想う」と云って、作業を止めないのである。
私は、母親に協力を求めようと想い、母親の顔を見ると、母親は、優しい顔をして見ているだけで、何も云わない。
私の云う事も、弟のやり方も両方理解しているらしいので、私は、もう弟に委せた事だから、好きな様にやらせるしか無いと想い、一連の夢は終った。
この夢の連続が、何を伝えて来ているのかを考えて見ると、
1)起きる事の順番に 口にするセリフが 大事。
2)順番に 伝え続ける 技術や文化。
3)個人が 研究して新技術を開発し 実行している事の邪魔をしてはいけない。
4)古い考えを 押し付けてはいけない。
等の事柄に思い当たる。この事を、通して考えると、「人間の生活の舞台には、其の時代 其の時代に合った 言葉が必要とされ、其々の人達が、考え出した発明、発見を、連続して継続しているのだから、たとえ自分の弟であっても、余計な口出しをしてはならない。」との理・ことに、成るだろうか。
この夢が終ったら、「き」の文字が現れて、何の意味か考えていると、右下の方に小さく「拳」の文字が見えて、其の文字を確認したら、次に「ろ」の音霊が意識に浮かんで、今朝のメッセージは終った。
朝起きて、辞典で調べると、「拳」は「拳法」の「ケン」で、【指をまきこみ、こぶしをにぎるの意味。から、にぎる、かたし、つとむ、力の意味】とある。
「ろ」は、「何々をしろ」の「ろ」で、命令語に使用されるが、国語大辞典・言泉には「感動を持って 相手に働きかける時に 使用する。」とある。漢語林
「き」は、平仮名文字でハッキリ現れたので、「漢字では考えるな」との事であろう。漢字で考えると、「気」とか「木」とかに、意識が固定されてしまう。
文字に気を取られないで、「き」の音だけで探ってみると、「気持ちが 悪い」の文字は「気・キ」「持・ジ」「悪・オ」が、漢語読みだから、「きもちがわるい」は日本語である事が分かる。
其れは「きの もちかたが わるい」との意味だから、「き」は人間にとって目には見えないが、大事な物である事が理解出来る。
「気」は、「キ」の他に「ケ」とも読み、「気配・ケハイ」にも使われる。
「ケ」は、人間の体の外に感じる物の怪の事で、人間の目には見えないが、感じるものの事であるし、一方「きもち」の「キ」は人間の内側に存在する、目に見えないものの事である様だ。
目には見えないが、確かに、人間の内側に存在するもの、それが「き」であろう。
「き」は「生」もあり、【「生娘」「生そば」「生一本」「生まじめ」「生糸」「生醤油」など。原産のままで人手を加えていない、また精製していない意味と、純粋でまじりけのないこと】とある。 言泉
後半の夢の「き」「拳」「ろ」を調べてみたら、「感動して(ろ)こぶしをかたくにぎりしめる(拳)+き」という事になる。
「き」を、前に持って来ると、「純粋な まじりけの無い気持ちで、かたくこぶしをにぎりしめ 感動する」になり、「き」を後に持って行くと、「感動して 拳をかたくにぎりしめる 純粋な気持」という事になる。
それでは、前半の夢の映像と、後半の文字の意味を繋いで見ると、どの様に成るであろうか。
一番のテーマは、やはり「き」の言霊・ことだま・言葉が持っている、本来の働き、魂しいであろう。
「き」は人間の内側ばかりでなく、宇宙全体の内側に、満ちているものでもある。神の名も、その宇宙に満ちている「き」に名付けた名前であろう。
宇宙には、永遠に継続する何かが存在する。
その何かを、名付ければ「真理」とか「神」とかになるであろうが、名付けないで認識だけしようとすれば、「き」と言う音霊に行き着くのではないだろうか。
人類の文化を発展させ、継続させている根源の力も「き」であるし、発明・発見を起させている力も、その「き」が源である。
そして、その文化や発明・発見に感動するのも、人間の内に在る「き」のエネルギーであるし、拳を固く握り絞める力は、身心のエネルギーの気である。
「きをくばる」とか、「きをひきしめる」「きがきく」とか、日本語の中には「きを使った」言葉が澤山ある。
その「き」が現代では、「き」が違ったのか、狂ったのかは分からないが、自分の金儲けとかの欲望だけに「き」が使用されて、本人も気を使い過ぎて疲れ果てている。
「疲れ果て」とは、使いつくされている事の表現である。
其れ等の人々は、人類が長いトキを掛けて築いて来た、文化・文明を、ただ自分の為にだけ使っているのだ。
愛とは、「き」を自分の為だけに使うのではなく、他人の為に使う事である。
自分の為に使う「拳」は、怒りと暴力の為であり、その様な人は「ろ」も、また権力の命令系にしか使えない。
今朝の夢は、自分が、私心ではなく公の場で、どの様なセリフが言えるかを、深く考え、準備しろとの事であろう。
宇宙の永遠性の時間の中で、神氣に因って築き上げられて来た、人類の文化が、地球環境と共に、滅び去ろうとしている現代社会において、未来社会をどの様に継続させて行く事が出来るかを、今朝の夢は、示唆して来た現象・モノであろう。
私に、此の様なメッセージを送って来る「き・ケ」は、何なのであろうか。
昔の人達は、その「き」に対して、神と名付けたのではないだろうか。
そうであれば、私は「き」の中に、埋もれていると言う事に成るのであろう。
そんな「き」がする、今日のメッセージであった。
平成15年2月14日
礒邉自適
2003/2/14
記
15・2・14
私の旅日記を捲ると、様々な事が記してある。
何しろ、18年間自由に旅をして来たので、多くの出会いが有り、日記を書いた場所も、全国バラバラである。其の中で、自分でも興味深い事が有るので、文章に起して見ようと思う。
1999(平成11)年5月21日の夢に、「ルーベン-デス」と出て来て、次に「判断基準」の意味が伝えられ、縦書にて「記― 性― 食― 霊―」と、次々に文字が書かれて現れた。
そして、一番上の「記」の文字だけが光っていたのである。しかし、当日は未だ、何の事だか分からなかった。
次の日22日に、出雲から、東京に向かって出発した。
23日に、埼玉県上福岡市で神明塾を開いている「佐々木将人氏」の祭りが有り、其れに呼ばれていたからである。
不思議な事に、二ヶ月前の1999年3月18日金曜日の夢に「23日 1.4」と現れて、何だろうかと考えていたら、其の日の午後2時頃、郵便が届いたので開けて見ると、佐々木将人氏からの手紙で、『5月23日午後1時より4時まで祭りを行う。』との内容であった。
3月18日は、私が無庵師匠に捜し出されて丁度16年目の日である。
其の16年目の記念すべき日に、夢に出た日付と、時間が附合する手紙が届いたのである。
早速、安部忠宏氏(当時、私がお世話に成っていた 出雲の会社社長)に其の事を話し、二名で参加する旨を連絡した。
そんな事が有って、5月22日朝9時20分発の飛行機で、出雲空港から東京へ向けて出発する事と成ったのである。
其の、5月23日の祭りも無事に済んで、出会いの中から、東京に安部氏が事務所を持つ事に成り、私は事務所探しの為に東京に留まる事になり、其れから暫らくホテル住いと成ったのである。
26日に、時間が空いたので、渋谷の本屋に寄って「ルーベン-デス」を調べてみようと思い、辞典のコーナーに行って見た。
行って見て、分かった事は「ルーベン-デス」のスペルが分からないと、調べ様が無いとの事である。「ルーベン-デス」の日本語の意味も、分からないので調べ様が無い。
私はガッカリして、あきらめ掛けたのだが「ルーベン」の言葉の響きがドイツ語の様な気がするので、ドイツ語辞典の棚の前に立った。
しかし「独和辞典」なのか、「和独辞典」なのかも分からない。
私は、何気なく、厚い独和辞典を手に取って、栞・しおりの挟まっているページを開けて見た。すると、独語のスペルの右側に、カタカナが書いてある。
其のカタカナの中に、何と「ルーヴェン」と有るではないか。
そして、後の方に「船首を 風上に向ける」と書いて有り、スペルの方を見ると「lu-ven」と載っている。「ルーヴェン・(ルーフェン)」の所に、偶然に栞が挟まっていたので驚きであった。
私は喜んで、昂奮気味に、今度はカタカナで「デス」を追っ掛けて頁を捲って行った。
すると「デス・タメント」が載っており、【@遺言状 Aキリスト教・神と人との契約】とある。判った事は「デス」とは「テスト」や「テスタメント」の「テス」で、「精確に。精密に。」「聖なる契約」の意味である事が分かったのである。
遺言状や、神と人との契約は、人間にとって一番大事なもので、決して間違ってはならないものである。
テストは間違っても、点数が悪くなるだけだが、それでも正確に書くという約束事は、ハッキリ意味付けされている。
「ルーヴェン」と「デス」を続けて意味を採ると、「正確に 船首を 風上に向ける」となり、私の是からの行動は、「風に向って 正確に前進せよ」とのメッセージとして受け取れた。
この事が判明したので、私は、馴れない東京での、一人暮らしの覚悟が出来たのである。
話を元に戻すと、5月21日には「性(男・女の働き)」「食(食物の良し悪し)」「霊(守護霊の霊格)」等の判断基準の前に「記」の文字が有り、其の文字が光っていた事が有る。
此れらの事からも、「ルーヴェン-デス」が、何の事か解って来た。
「デス」が正確に書く、つまり記す事に関係が有る事が分かったので、「記す事を正確にし 其れを判断基準にして、風上に向って進む」とのメッセージが、明確に成って来たのである。
西洋の旧約聖書が、預言書として3000年来伝えられている様に、人間が風に流される事なく前進する為には、何らかの記された物が、必要であるとの事だろう。
「記す」と言う事は、古代シュメール文化や、エジプト文化や、マヤ文化でも行われている。記された物が、如何に、人間の判断に影響を与えるかは、昔から重要視されていたのであろう。
それにしても、中学校しか出ていない私に、ドイツ語で云って来るのも不思議な事であり、東京の本屋の辞典の、其処のページに栞を挟んである事も、常識では考えられない。
私が、出雲に住んでいる事を知っており、東京の本屋の人間まで、動かしている者の正体は、一体何者であろうか。
私にも、神の世界がどう言う「絡繰・からくり」に成っているのか分からないが、全体的に、目には見えない何者かが、手を尽している事は、ハッキリ感じられるし、其の働きを人間側が知って、証しとして記す事が、大事である事も理解できて来た。
私が文章を書き始めたのも、此の「記」と「ルーヴェン-デス」のメッセージが大きな切っ掛けと成り、1999年の秋から、日記だけではなく、文章にも残し始めたのである。
それから、三年余りに成るが、私が記す事で、神界も段取り良く、事が進められる様である。
私の行動を支えながら、メッセージを送って来る者、それも、私が持っている辞書の中身まで知っていて、私の知り得る情報の限界をも、把握していての事らしい。
昔から、神は、偉大な存在だと云われているが、私も、其の事に対して疑いは無くなっている。
私が、不思議に思うのは、其れだけ力の有る神が、何故・なにゆえこんな出来の悪い人間を、大量に増やして来たのかと言う事である。
他の生物や、地球環境の事を考えると、もう少し、何等かの方法が有るのではと想うのだが、其れも人間の余計な考えなのであろう。
神は、偉大な存在であるのだから、全て知っていての、現象界への現れなのだろうから、私達人間は、風上に向って、神の御業の完成を手助けし、勝って行かなければならないのだろう。
13日には、愛媛県と岡山県の中年男性が、「もう 世の中に合わせて 生きて行くのには疲れた」と、限界を訴えて来た。
人間社会全体が、古い価値観では、どうしようもない処まで、来ている様である。
未来に向って、新しい船を出港させなければならない日は、近いのであろう。其れが、「ルーヴェン-デス」のメッセージの指し示す事であると想われる。
平成15年2月14日
礒邉自適