このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2002/12/31
大晦日
14・12・31
誰が、今日を12月31日だと決めたのか、良くは知らないが、本日で今年が終りだと決められていれば、此の私でも気になってしまう。
其れに、買いたい物が有っても、店が全部閉まっている。
私は、一応、実家に行って、父親の位牌に挨拶を済ませ、帰りに、お墓にも立ち寄ってお参りをして来た。
仏壇でも、墓でも、何もメッセージが無かったので、別に問題は無いのだろう。それとも、父親の霊は、他に準備をする事があって、屋久島には未だ帰っていないのだろうか。
父親の故郷は、鹿児島市の谷山だから、若しかしたら、自分の故郷へ帰ったのかも知れない。
父親は、私以外は、子供達が三名とも、平和な生活をしているので、安心はしているだろう。
私は明日、安房区の新年会で、講話を頼まれている。
何を話すかの事に付いては、一応原稿を準備した。
其れは、屋久島での二度目の人生の、出発の切っ掛けには成るだろう。
2002(平成14)年12月31日
礒邉自適
2002/12/28
流通
14・12・28
今朝の霊夢は、ハッキリしていた。
やはり、物の世界は、明白である。
夢には、野菜の出荷風景、トラックへの積み込み、ビデオデッキでの情報の発信の場面が、順番に映って来た。
出荷される野菜は、法蓮草で、収穫された法蓮草は、根を切って下葉を取り除き、しなびたり腐れたりしない様に、薬に浸けられてから、キャリーケースに入れて積み上げられ、注文次第で、何時でも発送出来る様になっている。
トラックは大型で、荷台はアルミ板で被われて、箱型になっているので、ロープを掛けなくても落ちる事はない。
後のドアを閉めれば、空調設備も付いているので安心である。
情報も、ビデオデッキにテープを入れれば、好きな時に流されるので、何時何分に、どのテープを使用するか決めれば、スイッチを入れるだけで、全世界に向けて発信出来る。
情報も、物の世界の一部の様である。
今朝のメッセージは、何を告げて来ているのだろうか。
昨日は「882」の数字が出て、経済の物の世界は「八次元に進んでいる」と書いたが、其の経済の部分が、具体的に示されて来たのだろうか。
道路が全国に完備され、交通網が整備されているので、場所と時間が設定されれば、どんな物でも運ばれて行く、便利な世の中に成ったものである。
宅配便の存在が、其の一番良い例で、情報網と交通網が合わさって、事故さえ起きなければ、指定された場所に、指定された時間に着く。
この様な事は、人間が作り上げた、奇跡的な事と言えよう。
此の様に、夢の事を書けば、全て完璧で、良い世の中だと想われてしまうだろうが、今朝の夢には、気になる事が含まれていた。
野菜を準備している家の子供が、大変困っている。
私が、どうしたのかと気になって、様子を見ていると、お父さんが病気になり、お母さんが病院に付いて行っているので、野菜を何時、何処へ出荷して良いのかが分からず、法蓮草を手に取り、駄目になって行くのを、心配している様子だった。
トラックの方も、後のドアを閉める位置にまで、荷物を満載していて、何時でも出発出来るのだが、行き先が指定されないので、出発出来ない様である。
情報の発信も、何時、どのテープを入れて、スイッチを押せば良いのか、決める人が居ないので、係りの人が側に居なければ、機器が設置されていても役に立たない様だ。
夢の中では、其の野菜は出荷されず、トラックは未だ走り出さず、ビデオデッキにも、未だスイッチが入っていなかったのである。
是は、どんな意味を告げて来ているのだろうか。
全て、完璧に流通の世界は準備されているにも拘(かかわ)らず、未だ機能していないと言うか、止まってしまっているのである。
今朝の夢は、私に、何を悟れと告げて来ているのだろうか。
考えられる事を挙げて見よう。
○流通が止まる。
○ 正しい流通を考える。
○ 関係する人間の人選。
○ 物の流通の世界が、完成された事を、私に認識させる為に見せた。
○ どんなに物質の世界が完成されても、神の許可が無ければ、止まってしまうか、動かせなくなる。
○何か、法的な整備が必要(農薬の問題、情報の良否)。
以上の様な事が有るが、今朝の夢は、問題提起であり、答えは又、示して来るだろうと想われる。
平成14年12月28日
礒邉自適
2002/12/28
本物は孤独
14・12・28
昨夜、床に入って寝ようとしたが、昨日から気温が下がり、屋久島でも布団が冷たいので、暖まるまで眠れないので、もの想いをしていると、自分は正月も来るのに家族とも会えないで、孤独だと感じた。
しかし良く考えてみたら、「イエス」も「釈迦」も「老子」も皆、孤独を自分から選んだ人達である事に、改めて気付いた。
と言う事は、私も、本物の部類に近付いたのかと、考えたりしていた。
そして、何故、真理・真実を求めると、孤独にならなければ成らないのかを考えて見た。
それで、私が出した答えが、「意」と言う漢字を「おもい」との大和言葉に使用する事である。
「意」とは「心+音」で、「音」は「人の言葉とならないおとの意味。言葉になる前の、おもいの意味を表す。」と 載っている。 漢語林
「意」とは、自分のおもいを言葉として口に出さないで、おもっている事を表している。
「おもう」の漢字は、「以」「侖」「念」「思」「惟」「意」「想」「憶」「懐」「謂」と有り、其々の文字が人間の「おもい」の多様さを表している。
人間は、シャベル・話す為には、話し出すの前に、何等かの「おもい」がなければならないが、その「おもい」が、何の為に、何処から立ち現れて来ているのかを、確かめなければならない。
単なる、昔の思い出だけなら害は無いが、怨みとか、妬みの「おもい」は、自分だけではなく、他人迄も害する「おもい」である。
では、聖者と云われている人達の「おもい」は、何であったのだろうか。
イエスの「おもい」は「愛」であり、釈迦の「おもい」は「人々を成仏・ブッダ・覚醒」させる事であり、老子の「おもい」は「道徳」であった様である。
其れは、三人三様だが、根本的には同じく、人類の幸福を願っての行動である。私が、其の三名の事を想うと、三名とも、幸福な人生を送ったとは、とても言えない様子である。
「イエスキリスト」は磔で殺され、「釈迦仏陀」は孫に囲まれ平和に暮らしたのではなく、旅の途中で食中毒にて倒れて死んでいるし、「老子」も一人で、行方知れずになったままである。
しかし、孔子やマホメットの子孫は、大勢残されている。
其れは、日本の神武天皇らと同じである。
前者の三名は、そうではない。
特に、イエスは一人ぼっちで、34歳の若さで殺されている。
イエスが殺された原因は、「おもい」を「愛の行為」として行動し、権力者を刺激したからである。
「おもい」が「意」では無かったのである。
「おもい」を、音にして攻撃し、敵を作り出し、其の敵に殺されてしまったのである。其の様に考えると、イエス自身が、殺人者を生み出してしまった事になる。
「おもい」を、愛ではなく、「意・おもい」にしていれば、釈迦や、老子みたいに生を全うし、魂しいの完成を見たと考えられる。
其の点、モーゼは「休息」をテーマにし、戦いを避けたので、老子に似た生涯を送っている。
空海・最澄・一休・良寛は家庭を持たず、子供も残していない様である。
日蓮は、少し風変わりで、イエス的行為を繰り返しているが、殺される処までは行かなかった。殺される寸前に、奇跡が起きて止まっている。
では、私は、彼等のどのパターンで進んでいるのだろうか。
私は、イエスや日蓮の事件が参考として有るので、無茶な事はしない様にしている。
日本には、未だ、過激な人達が居るので、下手をすると殺されかねない。
それかと言って、神武やジンギス・ハーンの様な事が、出来る御時世でもない。
イエスやサイババの様に、奇跡を示して人を集める訳でもないし、孔子やイエスの様に弟子を引き連れて、旅回りをする訳でもない。
一番近そうなのは、老子であるが、私は老子ほど、文字や言葉を把握出来ていないので、一生掛けても、老子に追いつく事は出来ないであろう。
私は、自分の見た夢を、書き残すぐらいの事しか出来ないので、明恵くらいが関の山であり、一休さんの様に気転も効かないし、良寛さんの様に、子供と鞠付きをしようと想っても、其の様な、子供の相手も居ない世の中である。
結論としては、過去の時代の人と、同じ様には行かないのであろうと言う事だ。
昔とは、社会構造や時代背景も異なるし、人心も変っている。
旅をするにも金が必要だし、モーゼやイエスの様に、他人の畑の作物を無断で盗って食べれば、直ぐ警察に携帯電話で通報されて、捕まってしまうのが落ちである。
私は、現代に合った生き方をして行くしかない。
当分は、自分の気持ちの整理の為に、日記を書いてインターネットに載せ、世の中の反応を見て行くしかないだろう。
仕事も、家も、家族も全部捨てて、出家したのは、釈迦の行動に似ているが、文字を自分で書いている事は、釈迦とは違っている。
イエスも文字は書いていないし、文盲の弟子を集めていた様である。
だから、イエスキリストの教えは例(たとえ)話だと伝えられているし、釈迦仏陀の教えを伝える、仏教の経典は「嘘も方便」の「方便品」である。
私は、有り難い事に、義務教育は受けているし、手の平サイズの電子手帳には広辞苑が丸ごと入っているので、文章を書くのに不便は無い。
だから、過去の人々の、どのパターンとも同じではない。
逆に考えれば、過去の人達の良い処を、全部取り込んで、更に一歩進んでいると言っても、過言では無い様に想われる。
釈迦や、孔子の様に、風雨に晒されながら歩き回らなくても、インターネットで、世界中に謂いたい事を、発信出来る世の中である。
口にしなくても、「意い」は文字や映像に托して、発信出来るのである。
そして、一番大きい奇跡的な事は、自分の意いは、脳でイメージ化された時、デジタル信号となって、I・T社会の送信設備に侵入し、全世界に、脳波が電波として飛び出して行くと言う事である。
宇宙の真理と、一体化した者の精神波動は、額にある第三の目と言われる「珪素・シリコンの結晶」である、「松果体」と呼ばれている器官から、信号として発進され、その信号は、花崗岩の岩とも共振するのである。
其の理・ことは、空海・モーゼ・マホメット・イエス・王仁三郎・役の行者などが、皆気付いていた理・ことである。
唯、其の事が、当時の人には、説明不可能だっただけである。
言葉で発して、音にしなくても、「おもい」が伝わる理・ことを、知っていた人達は多い。しかし、残念なのは、それが普通の人には、体験が無い為に、理解されなかった事なのだ。
それが、現在では、小さな携帯電話で、世界中に電波が伝わって、話が出来る事を皆が知っている。
それと同じ事が、人間の脳でも可能だと、理解される日は近いだろう。
携帯電話や、インターネットは、人間世界の情報だけだが、人間の脳はもっと優秀で、神霊とのコンタクト・通信も可能なのである。
音(言葉)にしなくても、「意い」が伝わる日は近い。
本物も、孤独ではなくなる日が、近いのではないだろうか。
平成14年12月28日
礒邉自適
2002/12/26
技術不足
14・12・26
今朝の霊夢は、ダラダラ長くて、要領を得ない内容であった。
何処かの現場が映り、環境は整っているのだが、用を成すべき係りの人間が、遣り方が分からず、何度やっても、悉く上手く行かないのである。
私は辛抱強く、次から次へと、順番に様々な事を遣らせて見るのだが、全てに於いて経験が無いらしく、完成するモノが無いまま、其の夢の場面は終った。
私が、自分で行わないで、誰かに、時間が掛かっても、遣らせようとしていたのは、何故であろうか。
今朝のメッセージを、どう受け取れば良いのか分からないが、私なりに受け取れば、何事にも、ノーハウと体験が必要だとの、理・ことではないだろうか。
私自身の事を言えば、私は、中学しか出ていないし、宗教の修行もしていない、其れに、哲学の勉強などもしていない。
大工や、料理も、師匠に付いて学んだ訳でもない。
私は、色々様々な事が出来るけれども、其れ等はみな、中途半端である。
しかし、殆どの事は、他人に頼まずに自分で行っているので、一応の土台が出来ていると言えるだろうか。
今朝の夢に出て来たのは、40歳代の男性で、仕事は、男性の役割であり、女性の役割ではなかった。
男として、男性が遣らなければならない事柄を、全部出来る人が、少ないと言う事であろうか。
職人には、政治の事が分からないし、政治家には、技術が乏しいだろう。
政治家は、シャベルのが仕事で、手仕事をしている時間は無いし、職人は手を真剣に使わなければならないので、オシャベリをしている隙が無い。
インドの釈迦牟尼仏は、「行為の為の入り口は 8万4千 在る」と、言ったと云われているが、現代の職業は3万種以上、在ると言われている。
其の中に、男性の職種が、何万在るかは知らないが、男として、基本的に出来なければ成らない事が、少なければ、考えが片寄ってしまい、偏見が現れて来る。
我儘だと、「自己保存本能」が立ち現れて来て、一方的な事を言ったり、行ったりする様になる。
其れは、自分の得意な処だけを表に出して、行動しようとするからである。
それは、男性の本能であると、一言で片付けてしまえば簡単なのだが、人間社会の不幸は、其処から起きて来ているので、何とかしなければならない。
今朝の夢では、一人の男性に、全てを遣らせている自分が在った。
其の遣り方・手段を変えて、一つの事が出来る人間を、澤山集める事は、可能であろう。
しかし、其の為には、全体の事が見通せる、マネージャーや監督が、必要と成って来る。
そんな立場の役割を、果たせる人が、存在するのだろうか。
全ての事を見通して、指導出来る者、その様な人間を育てるには、又、別の高次元の魂しいの人材が、必要である。
現在の世の中で、其の様な人と言えば、大統領か王様だろう。
日本では、天皇陛下と総理大臣なのだが、どちらも、今朝のメッセージの解決には成らない様な気がする。
天皇陛下は、何も物事に口出し出来ないし、政治家は口ばかりで、現場の事が分からない様である。
若し出来るのであれば、世の中はもう新しい方向に、進み出している筈である。
今朝の霊夢は、今の侭では駄目だから、何とかしろとの事であろう。
ただ待っていても、誰も出来る人が居ないから、其れが出来る人を捜して、何かを始めろとの事だろうか。
其の点に於いて、今朝の処は、未だハッキリとはしない侭である。
人を束ねて動かす役目、其れが「頭領、統領、棟梁」であるが、何処かに、それ等の本物の人物が、居ないものだろうか。
私の今朝の夢は、霊界に居るその役割の人の悩みが、現れて来たものかも知れない。
平成14年12月26日
礒邉自適
2002/12/24
つばくろ
14・12・24
今朝のメッセージは、「つばくろ」との言葉が告げられて来た。
朝起きて、辞典で「つばくろ」を調べると、「つばくら」の転で、燕の事とあり、竹取物語「つはくらの 巣くいたらば 告よと 給ふを」が 載っている。
辞典言泉
「燕・ツバメ」は渡り鳥で、初夏に日本に渡って来て巣作りをし、子供を育てて、秋には子供と一緒に南に帰って行く。
どうして、ツバメの事が、「つばくろ」として出て来たのだろうか。
日本に、ツバメが渡って来て、巣作りを始めるのは、季節的に丁度田植が始まり、稲の苗が育ち始める頃である。
其の燕は、一昨日の文章に書いた「瑞穂の国」の情景には、切っても切れない関係性を持つ鳥である。
燕は、水田の害虫を食べてくれる、人間にとって益鳥だから、昔から、日本人は燕を大事にして来た。人間と燕は、一番共生関係にあり、仲良き間柄である。
人間に一番害の無い鳥は、燕であろう。
「瑞穂」の言葉に、其の燕が加われば、日本の田舎の風景は決まりである。
「燕の巣作りが 始まれば 告よと給ふ」その句に、付いても意味が有れば、私にも、何か良い知らせがあるとの事だろうか。
私が1984年の3月5日より修行に入り、神憑りに成ったのは丸3ヶ月後の6月4日(旧暦5月5日)であった。
6月4日頃の、屋久島の風景は、紫陽花が満開で、梅雨空を燕が飛び交っている。
来年の春に成れば、私が、神の世界に触れて丸19年と成る。
燕が、何か、新しい知らせを運んで来てくれるのであろうか。
楽しみにしておこう。
是も、自然豊かな瑞穂の国だからこその、楽しみであろうから。
追記 昨日、岡山県△△町のA.Kさんより電話があり、「何か 変化が有りませんか?」と聞いて来た。昨夜は、「何も無いよ」と答えていたが、今朝は思い当たる事がある。
私は、A.Kさんの自宅に行った事があり、その時ビックリしたのは、牛舎に何十もの燕の巣があり、何十羽もの燕が飛び回っていたのである。
普通は、一軒に、一巣か多くても二巣ぐらいであるから、余程、餌になる虫が多いのだろうと想った。
A.Kさんは、12月22日の夜から23日の朝方にかけて、コンサートを開催した。
私の友人の田中竹仙氏に、夜2時間三味線の演奏をして貰い、夜明けにはオーストラリアの原住民の楽器「ディジュリドゥー」での演奏をして貰ったとの事。
12月22日から、23日は冬至の前後であり、マヤの暦でも意味ある日とされているし、クリスマスの祭りも、本当は、ヨーロッパのケルト族の「冬至祭」に関するものであると言われている。
イエスキリストの祭りと言うより、ケルトの冬至祭に、イエスやサンタが合体されたものであろう。
A.Kさんは、今年から、オーストラリアに住むダチョウの飼育を始め、40数頭を飼っている。ダチョウの居る「つばくろの里」の村が、出来るのかも知れない。
平成14年12月24日
礒邉自適
2002/12/24
195
14・12・24
12月8日の夜「195」と数字が出て、何の数字かわからないで居たが、今日に成って、世界の国の数ではないかと想った。
12月8日は、釈迦が「ブッダ・仏陀・覚醒・佛」と成って「ダルマ・ダンマ・法」に繋がった日であり、日本が第二次世界大戦に突入した日でもある。
また、ビートルズの「ジョン-レノン」の命日でもある。
其の日に「195」と数が出たのは、世界各国と言う意味ではないだろうか。
ジョン-レノンは、国境を定めているのは人間意識だけで、本来は国境など無いのだと歌っている。
太平洋戦争が終った、昭和20年8月15日には、奈良の「矢追日聖氏」に地球儀が現れて、世界中に日の丸が立っており、「新しい意識革命が 日本から起きる。その為に 今回の戦争は必要であったのだ。」と、告げられている。
「正傳矢追日聖」http://moon.ap.teacup.com/20061108/568.html
釈迦は「末法の世に 弟子の『弥勒菩薩(有情の菩薩の意味)』が輪廻転生して 衆生を救う」と告げている。
これ等の事は、単なる偶然ではなく、宇宙の意志の働きではないのだろうか。日本に生まれた「日蓮聖人」は、「広宣流布」と言って、世界に釈迦仏陀の教えの「法華経」が広がる事を念じている。
私を、動かして来た諸天善神の中に、確かに日蓮上人も居た。
霊界には、確かに、一致団結したチームが存在する様だ。
私は、1984年6月4日(旧5月5日)に、自宅前の安房川の岸辺で、無庵師匠の手に拠り「禊の儀式」が行われ、イエスキリストの謂う「聖霊に満たされる」、神道で言う処の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きた。
其れを、仏教では「虚空会の儀式」と言うらしい。
日本の天皇家では、その儀式を「大嘗祭・だいじょうさい」として、新天皇が位に着く時に行われる。
其れと同じ事が、釈迦が木に寄り掛かって休んだ時に、起きたのだろう。
釈迦が、何をしたかと言うと、宗教の教団を起こすのではなく、「真理・ダルマ」を共有体験する、仲間作りである。
その仲間も、今世の人だけではなく、過去世を生きた霊魂達も、その仲間として扱っている。
龍神や、鬼神までもが、釈迦の説法を聞きに集まったと、経典には記されている。其の様子を、日蓮は「南無妙法蓮華経」の本尊・マンダラに、文字で画いている。
創価学会の二代目会長「戸田城聖氏」も、平和運動で政府に捕られて、獄中で其の神霊界の様子を幻視した様である。
そして7月3日、広宣流布の決意に燃えて、出所したと述べられている。
昨日、昭和48年7月3日生れの「鬼頭知直」と言う若者が、初めて自宅を訪ねて来た。話をすると、日本国中旅をして、東南アジアも回り、屋久島で生活を始めて一年経つとの事である。
其の鬼頭君は、本来は真言宗の寺を継ぐべき血筋であるけれど、中学2年生の時から旅に出て、現在に到ると言う。
話の内容を聞いていると、是から、私が遣らなければ成ないと感じている事を、今日からでも、出来そうな青年である。
昨日12月23日は、平成天皇の誕生日であり、奈良の大倭あじさい邑の故「矢追日聖氏」と、救世教の「岡田茂吉氏」の誕生日でもある。
矢追日聖氏が設立した、奈良市の「大倭あじさい邑」では、毎年其の12月23日に「元旦祭」が行われており、新しいカレンダーの準備が始まろうとしている。
世界195ヶ国に、新しいカレンダーが普及される日が来るのであろうか。
私のイメージの中では、着々と、新しい未来社会の様子が組み込まれている。
日々、其の実現の為の人材が、組み込まれている様である。
追記
「195」の数が国の数ではないかと言っていたら、岡山のA.Kさんが外務省に電話を掛けて調べてくれた。外務省の答えでは、日本が国と認めているのは現在191ヶ国で、東ドイツが無くなったが、東チモールが独立したので、数は同じであるとの事。
外交上、認める事が出来ない国、台湾やチベット等、中国の一部とされている国や、ハワイ等のアメリカ国の一部とされている別の州もある。
若しかしたら、其れ等の国々も別々に数えると、195ヶ国が確かに存在するのかも知れない。
平成14年12月24日
礒邉自適
2002/12/19
正蔵神宝所
14・12・19
今朝の霊夢には、70歳ぐらいの眼鏡を掛けた恰幅の良い、物思いに耽っている感じの、男性の左側上半身が映って来た。
其の姿を見ていると、「正蔵神宝所」との漢字が浮かび、続いて30歳ぐらいの理知的な美しい女性が、表情豊かに「早く話して欲しい」と、訴えているのが映った。
私は、其の女性の指示に従い、何を話せば良いのか戸惑っている内に、其の夢の場面は終った。
この夢の意味は、単純に受け取れば、「正しい蔵書は 神の宝であるから 図書館を造れ」との事に、成るのではないだろうか。
昨夜8時より、長峰の「朝比奈敏子さん」宅に、私と、宮之浦の「長井三郎氏」とで、三名が集まり話をした。
屋久島には、文化資料が乏しいので、「自分達で 何か出来る事をやろう」と言う事になり、取り敢えず地層学の勉強から始めようとの事で、その第一回目の集会となったのである。
今朝の霊夢は、其の事を、霊界も支持するとの事ではないだろうか。
人類は、伝えられている言葉や物品で、自分達の思考を組み立てて、文化を創って行く。その文化の、基礎である何かが間違っていれば、思考は真理から外れて行く事になる。人類にとって、文化は大事なものであるが、正しい物でなければ、無い方が良い。
今朝の夢は、母親に成るべき女性に、正しい情報を与え、蔵書を選択する者は思慮深く、経験豊かな、正しい見識を持った人でなければ成らないとの理・ことであろう。
霊界の「神霊の思頼・みたまのふゆ」と、現世の動きが、段々とスムーズに進み出した様である。
平成14年12月19日
礒邉自適
2002/12/6
石原都知事
14・12・6
今朝の霊夢は、石原都知事が乗っている車に私が乗り込み、何かの相談を受ける為、何処かに出掛ける場面だった。
挨拶の後、私が「前から 会いたいと想っていたのですよ」と言う処で、夢は終った。
朝起きて「知事」とは何かと思い、辞典で調べて見た。
@ 都道府県知事の総称。各都、道、府、県を統括し、これを代表する首長。住民の直接選挙による公選制がとられ、任期は4年。明治初年に置かれた『県令』が、明治19年(1886)に改称されたもので、旧制では内務省の任命による官選。
A 寺院の雑事や庶務をつかさどる職。
B 中国で州、県などの地方の長官。地方長官。」と載っている。辞典言泉
「知事」とは、文字の意味からすると「事を知る」の意味だから、Aの雑事や庶務をつかさどる職というのが、本来の姿に近いのだろう。
昔は人口が少ないので、現在の町長ぐらいの職務だったのかも知れない。
現在の都知事位に成ると、昔の「国の長」程の、権力と責任が有るのではないだろうか。特に、現在の石原都知事は、国の代表である「総理大臣」と、互角にモノが言えるぐらいの力を持っている様である。
私は、石原都知事と会った事も無いのに、何故、夢の中で、車に同乗する事になったのだろうか。
それも、私の方が、知事の方から何かの相談を受ける為に、待ち合わせをしていた様である。しかし、その話し合いの内容等は、全然分からない。
私が19年前、屋久島で1983年3月18日に無庵師匠に出会い、「やっと見付けた」と云って抱きしめられ、「自適さんは 何でも 想った様に成るでしょう」と訊かれたので、私は考えてみたら、善い事も、悪い事も、自分の想った通りに成っているので、「そうですね」と応じた。
すると無庵師匠は、「未来は 貴方が想った様に成るのです」「貴方は 大事な役目があるので 仕事も全部止めて 家族とも別れて下さい」と云うのである。
私は、若い時から、誰かが捜しに来る事は、予感していたので、「貴方ですか 時が来たのですか」と云うと、「そうです 貴方の処に 総理大臣も連れて来るので 貴方は動かないで良いのです」と云われた。
私は、その無庵師匠の謂う事を信じられたので、云われる通りに仕事も辞め、家族とも離別して、全身全霊で、其の無庵師匠の言う通りにし、修業の道に入って行ったのである。
そして、1984年の3月5日迄に、屋久島に無庵師匠の建てた道場が出来、其の日から、衣食を師と共にし始めたのである。
其れから、丸3ヶ月後の6月4日(旧5月5日)に神の世界に入った。
そして、11月の中旬迄、屋久島での荒野の行が続き、イチョウの黄色い葉が舞う頃に屋久島を出て、全国の旅が始まった。
それから、様々な体験と研究を続け、全国に人脈も出来た。
19年前に無庵師匠に云われた事が、いま始まれば、総理大臣が訪ねて来ても、大体の答えは出来るように成っているのだろう。
今朝の夢は、其の前触れなのだろうか。
何事にも、心の準備が大事である。何時、其の様な場面が生じるか分からない。不意打ちを食らっても良い様に、前もって知らせて来たのだろう。
本日12月6日は、私の神憑りから丁度18年半の月日が経過し、次へのステップの始まりの日である。
私は、1984年6月4日に神の世界に入って、「16年半掛かる」と告げられた。
その年数は、神武天皇が南九州を旅立って、奈良で「政治(まつりごと)」を始める迄の、年月と同じである事が、旅の途中で分かった。
(大分で「宇佐彦」と出会って、福岡の「岡田宮」で1年。岡田宮を出て広島の「安芸宮」で7年。「安芸宮」を出て岡山の「高島宮」で8年。岡山を出て奈良の橿原で政・まつりごとを始める迄半年。
合計 1+7+8+半年=16年半)
丸16年の後、東京から四国の山中に入り、文章を書き始めて、丸2年半経った事になる。
私は、一応、頭の整理が出来、天界も準備が出来たのだろうか。
若しかしたら、「塩土の翁」に神のメッセージが降りてから、神武の兄弟が南九州を出発するまで、2年が経過していたのかも知れない。
そうであれば、今日からが本番となるのだが、未だ決定的な事は現れて来ていない。
私には、物事が立ち現れて来るのを、静かに待つしか、方法が無いのである。
平成14年12月6日
礒邉自適