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2002/11/27
オトナ
14・11・27
今朝の霊夢は、場面が海だった。
屋久島に帰ってから、未だ一度も、魚釣りには行っていないのだが、今日は海釣りの場面が二つ映って来た。
最初の場面は、港の沖にある堤防で魚釣りをして居て、帰る場面からだった。
釣り道具を片付けて、陸地の港に帰ったら、一緒に居た連れが、忘れ物をしたと云う。
顔を見たら、其れは、同級生のNで、バケツを堤防の上に置き忘れたようである。私が、「泳いで取りに行くのか」と尋ねると、しばらく考えていたが、泳いで取りに行く気力が無いらしく「もう 要らない」との事で、其の場を立ち去る処で映像は終った。
次の場面は、別の日に、別の人と、別の堤防に釣りに出掛けた。
堤防なのだが、其処は、外海に面していて、青くて深い海である。
仕掛けを準備して、釣り始めると、私の竿に、大物が掛かった。
海が深いので、魚の種類は分からない。竿が、手元まで曲ったりして、しばらく遣り取りをしていたが、なかなか水面に上がって来ないので、浅瀬の方に誘導して行った。
海草が生えている、浅瀬にまで魚を引いて行くと、ようやく魚の姿が見えて来た。其れは、赤い魚で、70〜80cmは有りそうな「オトナ」である。
「オトナ」とは、地元の安房での呼び名で、島の裏側の宮之浦地区では「おじさん」と呼ぶ魚で、魚辞典では「アカヒメジ」と載っている。
辞典では、アカヒメジは20cm位だとの事なので、今朝の魚は「ウミヒゴイ」か「メンドリ」と言う種類かも知れないが、魚の種類は余り関係が無いだろう。
「オトナ」とか、「オジサン」とか呼ばれるのは、魚の下顎に一対のヒゲがあり、そのヒゲには「味蕾・みらい」と呼ばれる味覚神経が散在し、これで砂泥の中から餌を見付け出す。
其のヒゲが生えている事から、人間の「叔父さん・オジサン」と類しているので、その名前が付けられたのだろう。
今朝、夢に出て来た「オジサン」は、本当に年取った「オジサン」で、顔も年取っているし、体の動きも鈍く、魚なのに、泳ぐ事が苦手の様である。
釣り糸は、魚が大きくて重い為に、引き上げ様とした瞬間に切れてしまったので、逃げられるのだが、浅瀬の海草の中で身をよじっているだけで、外海になかなか出て行かない。
良く其の魚を見ると、年取っているので、頭の部分もハゲていて、体の鱗もあまり付いていないのである。
私は、その魚を堤防の上から見ていて、「年取ったら 動けないのだなあ・・」と想っていると、夢の場面は終った。
朝起きて、其の夢の意味を考えていると、両方の場面で共通している事は、年取って、行動が鈍くなっていると言う理・ことである。
魚の「オジサン」は、年取って大きかったので、頭が良くて、健康でなければ、海の主の様に、あそこまで長生きは出来なかったと想う。
しかし、長生きして居るのだから、智慧は有る筈なのだが、年取って自分で餌取りが出来なくなったので、人間の差し出す餌に食い付いてしまったのだろう。
それは、人間の老人でも同じ事になる。
初めの場面は、私の同級生だから、私と同じ55歳である。老人ではないが、若いとは誰も言わない年令である。体力的に、難儀な事が有れば、気後れのする年となっている。
今朝の夢は、人間の行動に対する、年齢的な問題を提起して来た様である。
是から始まる事に対して、私に年齢的な事を認識しろとの事だろうか。
年取ると言う事は、ある面の落ち着きは出て来るが、動きは鈍くなって来る。若い時は、何かを想い付くと、直ぐ実行に移るが、年老いて来ると、想い付く事が有っても、「まあ その内に」との気持ちが出て来て、数日するともう忘れてしまう。
だから、自分から責任が有る事を、進んで行おうとはしなくなるのである。
老人の有り難さは、元気の良い若者が、どんどん行動を起して、それに対して、自分の体験からの知恵を与える事にある。
私は、ちょうどその中間に位置している。
若者ほどではないが、未だ自分でも動けるし、ある程度の体験も積んで、物事の分別も出来る様に成って来た。是から、老いていく10年余りの時間は、私にとって、人生の熟成の期間である。
今朝、夢に出て来たオジサンの様な、無様な物には成りたくない。
年取ってから、他人の餌に喰い付く事は、注意しなければならないのである。
オトナとは、ヒゲを生やしていれば、良いと言うものではないだろう。
美しく年取った者こそ、「翁(オキナが訛ってオテナ→オトナ)」である。
今朝の夢は、自分の55歳の体力と、行動と、是からの私自身の振る舞いを、示唆するものであろう。
今朝の夢で、私は、釣られる側でなく、釣る側であり、忘れ物を自分がしたのではない事が救いであった。
不思議なのは、私の体験を通して、夢を創作しているのが誰なのか、正体がハッキリしない事である。
夢を見ている間は、自分の様な気がしているのだが、夢の内容を良く吟味すると、私に知らせたい事がある者が、存在する事になる。
私が知らない事を、私に知らせて来る別の意識体とは、一体何者なのか、其の正体がハッキリしない。
其れを、自分の無意識の力だと、一口に片付ける事は出来ないし、神の現れだと言う事も出来ないだろう。
其れが、何者であるかの説明は、未だ不可能だが、何かの意識体が存在する理・ことは間違いない。
私は、自分自身の事を考える時間を、なるべく少なくして来た。
自分自身の事を考えると、どうしても過去に考えが行ってしまい、自分の子供の事など思い出して辛くなってしまうからである。
現実的には、過去は過ぎ去って無いのだから、思い出しても何にもならない事は理解しているのだが、脳が覚えているのだから仕方が無い。
頭の記憶の中では、過去が存在しているのだ。
其処に思いが行くと、現実に、昔の世界が有る様に感じてしまう。
18年間、屋久島を離れている時は、過去に生活していた場と物が無いので、思い出す事は少なかったのだが、現在は18年前と同じ家に住んで、昔と変わっていない景色を見ているので、昔の生活の中に居る様な感覚に、陥ってしまう。
昔と違うのは、夢を見る立場が、異なっていると言う事である。
昔は、海の中を泳いで魚を捕る夢を見ていたのだが、今は、魚を捕る人間を見ているのである。
自分の、後に存在する者が、全体を見て居るのである。
説明が怪しくなって来たので、説明の方法を替えてみよう。
小説家は、自分の頭の中で、現実では無い物語を創出して、文字にし、本を出版する。其れを読む読者は、人間が勝手に頭で考え出した、現実ではない、嘘の世界に入ってしまい、泣いたり笑ったりする。
小説を読む前と、読んでいる間は、全然違う世界を生きている理・ことになるのである。
余りにも感動すると、本当に小説に出て来た場所が存在し、出て来た人達が実在すると、思い込んだりもするのである。
其れが、人間の心の弱さなのである。
其れは、人間の意識の不確かさだと言った方が良いかも知れない。
若い時は、この罠に掛かり易いので、現実ではない事に、直ぐに飛び付いて、失敗をするのである。
現在社会の状況は、其の罠に掛かったまま、年老いた人達が増えて来た。
人間は、自分自身で創り込んだ世界に、全身浸かっているので、自分が浸かっている事が判らないのである。
せめて、首までなら、自分の体が首まで浸かっているのが見えるのだが、目線が水の中に入ってしまうと、もう水の中しか見えなくなってしまうのである。
自然の中で、釣りをしている内は、自然の方が偉大で、自分の想う様には成らない事が理解出来る。
しかし、都会に住んで居れば、お金を出すと、刺身が皿に乗って出て来るので、金さえあれば、全て想った通りに成り、金が無ければ、何も出来ないと想ってしまう。
昔の知恵ある老人は、其の意識のカラクリを知っていたのであろう。
そうでなければ、私の夢の中の住人は、存在しないはずである。
私の夢の中で、私に釣りをさせているのは、昔の誰かであり、多くの経験を積んでいて、私に何を見せれば、どう言う風に考えるかまで、知っているのである。
私は、55歳がどういう年令なのか、其の生命の神秘は未だ解らない。
今朝の夢に出て来た、魚の「オトナ・オジサン」は、余りにも現実的に映って来たので、しばらくは、私の脳裏からは離れないであろう。
平成14年11月27日
礒邉自適
2002/11/26
削り役
14・11・26
今朝の霊夢は、写真を撮る場面が二場面出て来た。
其れは、大勢の人達を迎え入れる為の準備の様で、建物と外の景色を、カメラアングルを決める様に、余計な物を外して行く作業を、男性に手伝って貰っていた。
朝起きて、其れが、何の意味か分からずに、「只の雑夢かな?」と思いながら、顔を洗って居ると「けずり役」との言葉が浮かんで来た。
「けずり役」と、今朝の霊夢に関係が有るのかな?と想うと、スッと感じるモノが生まれて来た。
其れは、余計なモノを取り除いて行く事が、私の役目だと言う事である。
今朝の夢の中で、私はカメラを覗く様な感じで、視野に余計な物が入らない様に、指令を出していた。
漢字の「撮る」とは、「一部分をつまみ取る」の意味から来ているように、必要な部分だけを選択する意味である。
私の今朝の夢は、未来を創造するには、先ず、余計な物を削り取れとの事だろうか。
私は18年前に、余計なものどころか、女房、子供まで全てを削り取って、ただ、神の仕事を是まで手伝って来た。
其れは、「最高・ハイレベル」のボランティア活動と言えるだろう。
漢字の「愛」の文字は、自分の個人的な目的・行動を一切止めて、困っている人の事を、全面的に手伝う事を意味している。
私は、困って居る人を手伝ったのではなく、困っている神霊達の手助けを、18年間遣って来た事になる。
だから私の行動は、神様の立場への協力を、して来たと言えるだろう。
神は、人類への愛の行動の為に、私の身心を使用した事になり、私から言えば、神に仕えたと言う事になるだろう。
今朝の夢は、愈々、神が現象世界を演出するので、其の受け入れ態勢を整えろとの事だろうか。新しい現象を起すには、不必要なモノを、取り除かなければ成らないとの理・ことだろう。
神の視界を遮るもの、其れは何だろうか。
其れは、自然界の働きに災いしているモノであり、人類が、勝手に創造した不純物であろう。
人間は、創造する事が善であるとして、実に様々な物質や、概念を創り出して来た。ゴミや公害ばかりでなく、宗教や小説まで、様々な、魂しいに害に成るものを、一生懸命創り出して来たのである。
其の、人間が創り出して来たもの全部が、不必要な物と言う訳ではないが、不必要な物が邪魔となって、全体の動きが止ってしまうと言う事も考えられる。
人間だって、小さな刺が指先に刺さったり、小さな魚の骨が喉に刺さったりすると、何も出来なくなってしまう。
神にとっても、大事な場面に、刺みたいな余計なものが刺さっていれば、作業を中断するのかも知れない。
新しい家を新築する為には、土地を平らにし、余計な物は、一切取り除いてサラ地にする。
神の方から考えると、真っ新な気持ちの人間と、不必要な物が無い舞台が、必要だとの事ではないだろうか。その為に、私に余計な物や者を、取り除く「削り役」をしろとの事であろう。
私は、幸いと言うか、都合良くと言うか、一切のモノを捨て去って、修行を積んで来た。一旦、全てを捨て去ってから、新たに、必要な物と者を、身の回りに置いて来た、私の其の選択感・体験は、是から人々の参考になるだろう。
今朝の夢は「必要な物と 者は 一応揃ったので 不必要なモノを 入れるな」とのメッセージだろうか。
イザ何かが始まれば、再び、不必要なモノが押し駆けて来るだろう。
それをどう排除するか、其れが、私の目利きに掛かっているとの事であろうか。さすが、神様である。私に、事が始まる前に注意を与えて、心の準備をさせているのだ。
私が、18年前に神懸かった時に、「全てを カメラに 納めなさい」とのメッセージが有ったので、18年間、気になる物や者を、記録し続けて来た。其のアルバムは、既に50冊を超えている。
18年間、カメラのファインダーを覗く行為が、現象を捉まえる訓練に成って来た様である。
人間は、毎日の行動の中で、余程の事がない限り、場面を意識にフォーカスする事は無い。交通事故でも、他人が起したものであり、自分が関係無ければ、事故を目撃していても、数日すれば忘れてしまう。
いつまでも残っている場面は、自分の人生が変った時の、切っ掛けぐらいのものではないだろうか。
人間の記憶は、日記か、写真でも残っていなければ、昔の行きずりの人などは、記憶には残らない。
だから、私には、出会った役目の人達や、物事を忘れさせない為に、写真を撮って残せと告げて来たのだろう。
50冊のアルバムの中には、何千人の人達と、物事が有った場所、日付、内容が一目で分かる様に成っている。
私は昨晩から、450枚の年賀状を書き始めた。
住所録や名刺を整理していると、様々な人達と、其の人達の職業の事が思い出されて来る。其れ等の、人々や職業にも、不必要なものが含まれているのか。
その事にも、余計なものを視野に取り込むなとの、メッセージが有るのかも知れない。
新しい企画の中に、余計な線を、引いてはならないとの事だろうか。
今朝の霊夢は、私が写真を撮り続けた事による視線が、影響している様である。
古代社会では、男は狩をする為に、弓矢を持ち歩き、獲物を探す目線と、弓に矢をつがえて獲物の心臓辺りに、視線を集中する力を鍛えていた。
其れと同じ行為を、私はカメラを覗く事で行って来たのだ。
其の様に考えると、50冊のアルバムは、私の狩の獲物の貯蔵庫と言う事になる。
今朝の夢の中では、その獲物を狙う目線が、新しい情景の中の、不必要な物を分別していた。
建物の中に有る、必要の無い物を片付ける事と、自然の景色の中に、水田や林や山の美しさが有って、其れに不似合いの電線や看板等を、アングルの中から外していたのである。
是ぐらいで「削り役」と、今朝の夢の意味する処は、繋がったのだろうか。
日本の神社には、鳥居に注連縄が取り付けられているが、其れは、多数のモノを練り編む事を表している。
祭りを「まつり」と言うのも、「まつりあわせる」事から来ているのである。
「多くのモノを まつり合せる」と言っても、藁と針金を編みこむ事は出来ない。何を、祭り合わせていけば良いのか。
是からが、選択の本番である様だ。
人を選り分けないのが、私の長所であると想ってはいたが、是からは、それが欠点と成るのかも知れない。
誰か、男性の助手が、出て来なければならない時を迎えた様である。
平成14年11月26日
礒邉自適
2002/11/24
のりのぶ
14・11・24
今朝の霊夢は、何処かの会場で集りが有り、私は中央のテーブルの最前列に座って居た様である。
其の会場で、何が話し合われたのかは分からないが、私が、自分からお金を出して、募金箱に50円玉一個と千円札を三枚入れた。
すると残りの人達も、それに従って、募金を出し始めた様である。
夢の場面は、それで終って、言葉で「のりのぶ」と出て来た。
募金の、趣旨も、目的も分からないのだが、私が、進んで自分から始めたと言う事は、何か大事な事なのだろう。
其れに、「のりのぶ」の意味も良く分からない。
辞典で調べて見ると「宣」が有り、「神仏や 天皇の宣言されたものが『定め』『規則』であると考えられたところからいう」と、辞典言泉には載っている。
「のり」が、この「宣」であれば、「宣がのぶ」とは「宣が延ぶ」ではないだろうか。
11月21日に、天皇家の高円宮さまが急逝された。
21日は、新嘗祭の鎮魂の儀式の日である。不幸が起きて、天皇家の新嘗祭は中止と成ったのであろう。
今朝の「宣延ぶ」は、新嘗の儀式に宣すられるべき事柄が、延ばされたとの事であろうか。「高円宮」は、宮家では一番元気で、活躍されていた方との事。
これでまた、天皇家も力を失ってしまった事になる。
私は、代々の天皇霊に、人類の未来の事を頼まれ、1984年に屋久島から、全国の旅に出たのだが、昭和天皇は身罷った1月7日の夜、私の心臓に飛び込んで来た。
そして、大葬の日の朝には、「わが身 すでに遠く 良き世を 願いたてまつる」と、昭和天皇の御魂に自動書記で書かされている。
今年は22日、23日の大事な儀式が、高円宮さまの急逝で、順調に行われなかった事になってしまった。
何か、霊界の動きが変ったのだろうか。
そして、私が募金を集める様に、動かなければならない事が起きるのだろうか。
それとも、誰かが、其の役目を始めるのを、私は只、霊的に感じただけなのか、今日の処は、未だ分からない。
今朝のメッセージの映像で、私が会場の最前列中央に座って居て、一番先に募金箱に50円玉一個と、千円札三枚入れたのは、5月3日の日付を暗示しており、5月3日は憲法記念日なので、日本の新しい「憲宣・のりのぶ」との意味も有るのかも知れない。
平成14年11月24日
礒邉自適
2002/11/22
農林大臣
14・11・22
今朝の霊夢は、カラーテレビの画面が映って来て、大変な事が起きるニュースが放映されている様だった。
日本ではなく、アメリカの「ニューヨーク」の地名が浮かんだので、昨年のニューヨークのテロ事件の様な事が起きるのかと思ったが、「農林大臣」との言葉が出て来たので、食料に関する事の様である。
本日11月22日は、天皇家や石上神宮で、新嘗祭が行われる日でもある。
今日から、明日に掛けて、一晩中新嘗の儀式が夜通しで行われ、「先祖(御祖神・みおやかみ)」の霊と、現世の人達との交流が行われる。
「新嘗祭・にいなめさい」とは、其の年に収穫された新米を、天皇が初めて食べ(なめ)て、先祖の霊と「直会・なおらい」をする祭りである。
先祖の霊が、現世を生きる子孫に乗り移って、メッセージを伝えてくれるのである。
其の祭りは、現在では天皇家と物部系の神社ぐらいしか行っていないが、昔は皆の家で行われていたのだ。
其れが、お盆の行事として、仏教に取り込まれてしまったのである。
8月13日の迎え火は、21日に行われる鎮魂際の代りなのである。
仏壇に、御飯を上げるのは、新嘗祭の儀式と同じ意味であり、お盆の行事は、仏教とは直接関係が無いのである。
だから、他の仏教国には、釈迦の生れた日と、亡くなった日が、お祭りの日であり、正月は有るが、お盆は無いのである。
似た祭りが有っても、それは、豊穣祈願か収穫祭の祭りであろう。逆に、其れは新嘗祭の原形が、残っていての事なのかも知れない。
新嘗祭の始まりの今日、「大変な事が起きる」と伝えられ、そしてキーは「農林大臣」だと言う事は、食料に関する事件が起きるとの知らせだろうか。
普通の新聞には載っていないが、農業新聞には、アメリカの穀物が不作で、値上がりするだろうと予測されている。
人間も、自然の生き物と同じ動物だから、食料が無ければ死んでしまうので、いざ食料が無くなれば、法律とかも役に立たない程のパニックが起こって、スーパーやデパートも営業が出来なくなり、経済活動も破綻して社会も崩壊する。
そうなれば、政府で一番の大役が、「農林大臣」と言う事になってくる。
水産が入っていないのは、水産業には、アメリカが関係無いからなのかも知れない。
日本は現在、食糧の自給率は30%で、先進国では、最低の自給率の国である。食料輸入が全面ストップすれば、7割の人は死ぬしかない。
米だけは自給出来るのだが、それさえも減反して自給率を落としている。
パンや麺類の材料である小麦粉は、百%近くが輸入である。
輸入が止れば、パンや麺類は店頭から全部消えてしまい、大豆も輸入できなく成るので、味噌も醤油も油も手に入らなくなる。
アメリカが、食料を輸出出来なくなれば、世界は、一気に食糧難に陥ってしまうのである。自国の民を犠牲にしてまで、他国民を救う事は考えられない。
日本国は、食料の輸入が止ってしまえば、新しい食物を嘗めるどころか、古い食料も手に入れる事が出来なく成るかも知れないのだ。
今夜、天皇家や神社で新嘗の儀式が行われるが、私と同じメッセージを、先祖霊から受け取れる神主が、居るだろうか。
見栄や、体裁だけで儀式をしていれば、たぶん神霊とのコンタクトは起きないだろう。
「秋」という字は、元は「穐」で、「禾+火+亀」の組み合わせになっており、「禾(穀物)を収穫して 火で亀の甲羅を焼いて 来年の天候や収穫量を占う」との意味から来ている。
現在は、亀甲占いが中止されているので、亀が外され「秋」となっている。「秋」を「トキ」と読むのは、来年の「トキ・時」を占う事から来ているのである。
私の住む屋久島でも、水田は畑にされ、稲作が行われなくなっている。後二年で、国が米を買い取るのを止めると言う。
日当が、日本の10分の1の国で作った米を、自由に輸入出来る様に成れば、日本からは水田が無くなり、食料の無い国と成ってしまう。
日本の農家は、自殺者が多く発生しており、後継者も育っていない。
車や、電化製品が輸出できなく成った時に、何が起きるか、その混乱は、余程の馬鹿でない限り、予測が出来る筈である。
今日のニュースで、日本の国債は先進7ヶ国で、最低の水準に落ちたとの事。日本は農業国であったのに、工業国になり、その工業も他国に地位を譲り、何も取柄・とりえの無い国と成ってしまっている。
職業の中でも、一番地位の低い、商売人だけの国に成りつつある。もう直ぐ、その商売も、成り立たなく成る日が近いのではないだろうか。
救われる道は、出来るだけ早く、日本の伝統文化に立ち返り、生活を立て直す事ではないだろうか。其の為にも、新嘗祭の儀式は、国民に知って貰う必要があるだろう。
救いの道は、其処からだと想われる。
今の農林大臣が、その事を知っているかどうか、私は知りたいと想う。
平成14年11月22日
礒邉自適
2002/11/21
12
14・11・21
今朝の霊夢は、いきなり鮮やかな色から始まった。
桃色がかった紫の色が、段々と濃く輝いて来て、大きく拡がって私の意識から外れていった。
そして、白い新車の車か、電車の頭部が、家の前に横付けになった。
其の車内の座席を見ると、未だ誰も乗っていなくて、人が乗車するのは是かららしい。
次に、横に長い紙に「12」と、大きく数字が書かれて出て来た。
私が「12」だけでは、意味が解らないと思うと、小さな文字が紙面に現れて来て、「12の事を しっかりと把握しろ」と知らされて来た。
朝起きて、辞典言泉で調べて見ると、色はマゼッタらしき色で、「マゼッタ」は「印刷の紫の原色」との事である。
マゼッタ色は、「色相6RP」「明度4」「彩度14」と、表示されている。
私は17年前、奈良県の「天河神社」に参拝した時に、同色の蛇・コブラが霊感で見えて、私が行なった儀式に因って、ようやく天河神社の磐座・いわくらに納まって、「ありがとう。貴方のお陰でようやく入れた。」と、女性の声で、お礼を云われた事がある。
後で判った事だが、天河神社の祭神とされている弁財天は、吉野の脳天寺の修行場である谷川に降りて来た女神で、其処は、男の修行場で女神を祀る事が出来ないので、脳天寺が困ってしまい、天河神社にお願いして、移って貰ったとの事である。
天河神社は、女神自身が気に入って降りた所ではないので、ちゃんと納まっていなかったのであろう。
私が行くまで、何百年も待っていた事になる。
私も、屋久島の安房川で禊をして、水神に導かれる事になったので、「弁(辯)財天」とは霊的に繋がりが有るのだろう。
「弁財天」は、二通り有って、「弁財天」は「Sarasvati・サラスヴァティ」で、サラスヴァティは河を神格化した女神で、「弁才」は「河川の音」を表し、「琵琶」はこれを象徴するという。
「梵天王の妃といわれ、音楽、弁舌、長寿、福徳、戦勝、除災などを満たす神である。財宝や名誉を与える「大吉祥天女・ラクシュミー」と、よく混同される。」と 載っている。 (仏教いわく辞典より)
私には、天河神社の弁財天は、其のどちらとも言えない。
河川の霊が「サラスヴァティ」で、財宝の神が「ラクシュミー」との事であるが、今朝の色は、マゼッタの色なので、天河神社の弁財天の蛇姿も同じ色だから、同じ意味を持つと考えられるし、天河は水が豊かなので「サラスヴァティ」とも考えられるが、ピンク系統の色は財産を表すとも云われているので、「ラクシュミー」との関係も有りそうである。
何れにしても、水に関係有る女神である事には間違いないし、両方の働きも全然別という訳でもないので、私は区別しない事にしておこう。
今朝の映像で、ピンク色のマゼッタ系の輝きの後に、リムジンの様な真白な車体が映った事は、財産に繋がると考えて良いだろう。
其の車・乗り物にどんな人間が乗るのかは、私にも未だ分からない。
芸能人が乗るのか、金持ちが乗るのかは分からないが、私にとっては、どちらでも良い事である。
今日は、物部神社の鎮魂祭の日である。
物部は、古代社会で、天皇家の一切の財産を管理していた部族である。
物部初代は、「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」で、「饒速日命・にぎはやひのみこと」の長男であり、奈良の石上神宮は、其の物部代々の霊を祭る神社である。
そして現在の天皇家は、今日まで物部族の儀式を取り入れて、儀式を続けて来ているのである。
天皇家は、此れまで政治的な中心となり、物や人を治めて来た。
神霊のまつり事は、神社に任せて来ている。
天皇家が、代々の霊を真剣にお祭りしていれば、この私に、代々の天皇霊が寄り付く筈がない。
今日は、また、新しく用を言い付けて来たのである。
其れは、12の事を調べ上げて、全ての物事を管理せよとの事らしい。
言泉で調べると、12は「12縁」「12音階」「12月」「12宮」「12光」「12支」「12時」「12神将」「12社」「12段」「12天」「12表法」「12門」「12律」「12束」等、様々な世界に使用されている。
音、光、占、法律、時間、仏、神、寸法、易、季節、あらゆる事柄が、12に分けられているのである。
私に「これらの全てを、把握せよ。」との事だろうか。
これだと「財産など、必要ないから、ほっといてくれ。」と言いたくなる。
しかし、神霊達が、全国の「新嘗祭」に行かないで、私に出て来ると言う事は、他に受け取る人が居ないと言う事だろうか。
円・○を、12に分ける。
音や色を12に分ける。
天の働きを12に分ける。
其れ等の事は、今のままで良いだろう。
私が、改めて12の事を意識しなければならないのは、どんな事であろうか。
今日の処は、気付きが無いので、心に留め措く事だけにしておこう。
平成14年11月21日
礒邉自適
2002/11/20
新嘗祭・にいなめさい
14・11・20
今年も、物部の儀式である「新嘗祭・にいなめのまつり」の日が近付いて来た。
明日21日は、鎮魂の祭儀が行われ、22日から23日に掛けて、夜通しで新嘗祭の儀式が行われる。物部の儀式を取り入れた天皇家でも、一年で一番大事な儀式を迎えるのだ。今朝は、私にも、其の前触れのメッセージが来た。
今朝の霊夢は、これ迄に無い様な内容であり、重要な意味を持っていると想われるので、少し長くなるが、想い着く事を全部書き出して見よう。
今朝の夢は、大まかには五つの場面があった。
最初の映像は、太陽が輝く青空に、鷹か鷲の様に見える鳥が、飛んで行く姿が現れ、羽根の部分が大きく見えた。
私の意識も、空へ上ろうとして、鳥の様に、両手を動かすのだが、飛べない内に其の場面は終った。
次の映像は、水田が有る土地の、一番上の段に行くと、美しい清水の池があり、其の池の水中には、若鯉が数匹泳いでいた。
其の清水の池より上の段は、岩山で、上流付近には畑も人家も無いので、水は清潔で澄み切っており、鯉の鱗も美しく、動きも活発で元気な様子であった。
三番目の映像は、誰かの家で、四名にてマージャンをやっている場面である。私は、マージャンパイを積み上げようとするのだが、上手く積み上がらない。
前と左右の人は、もう積んで有るので、変だと想って自分のパイを見ると、半分に欠けた物や、摩り切れて丸くなったりしている物が有るので、上手く重ねられないのである。
おまけに、彫った文字や絵も、磨耗してハッキリしないのである。
私が「こんなパイでは、マージャンが出来ないので、新しいパイを持って来てくれ。」と云うと、奥の部屋から、別の人が縁側の廊下を通って、両手でパイの入った箱を持って来る所で、其の場面は終った。
四番目の映像は、建物の外に出ると、屋敷の石垣が古くて、大水が出ると家が壊れそうなので、屋敷全体の石垣を、コンクリートの擁壁に変えてしまう場面である。
其の建物が、立派な擁壁に変ったのを確かめると、其の場面は終った。
最後の場面は、何かの決まり事を、文字書きして居る所へ、黒豹が一頭やって来て、其の文章を覗き込み、匂いを嗅いで獲物がないか探っている顔が、大きく気味悪く映って来た。
その内に、決まり事の文章の中に、スキが無いので、得るものが無いと感じたらしく、黒豹は去って行った。
今朝の連続した夢は、他人に話しても、繋がりが有るとは想えないだろう。
私は、18年間の旅の成果として、今朝の映像の一場面毎に、其の意味する事が、何なのかが解かる様な気がする。
私が、これ等の夢の内容を解る処まで、私を育てて来た何者かが存在し、私に此の夢が含んでいる内容を文章化させる事で、次の段階に、計画を進めようと作戦を立てているのだろう。
天の神界は、何かの現象を進めようと考えても、此の現界に誰かが居て、其れを認識しなければ、何にも成らないので、私を、其の役目に選んで、育てて来たのだと想われる。
そうであれば、今朝のメッセージは、正しく受け取らなければならない。
一番目と二番目は、陽と陰の世界の様である。
一番目は、空、太陽、鳥、青空(晴)、伸びて行く緑の樹木、其れ等は全部「陽」とされている物である。二番目は、土地、水、魚、岩、池で全部「陰」の世界であると、考えて良いのではないか。
西洋のカバラの世界でも、「火(陽)」と「水(陰)」が対象とされ、「ライオン(陽)」と「牛(陰)」が対に成っている。
今朝の夢では、鳥と魚が対に成っているので、同じ分類法ではないだろうか。中国の易で言うと、太陽と鳥は南の守り神である「朱雀・すざく」に通じ、水と鯉は東の守り神である「青龍・せいりゅう」に通じる。
諺でも「登龍門」が有り、鯉は岩の滝を上ると、龍神に変化すると云われている。
三番目のマージャンは、東西南北のパイが有るように、四方に四名が座ってゲームをする遊びである。そして、パイには、数字や文字や絵が彫刻されていて、学問の一部となっているのであろう。
パイが、水晶か白い翡翠で出来ていたので、今朝のマージャンは、王様の遊び道具だったのかも知れない。王様と翡翠であれば、方角としては北であり、守り神は「玄武・げんぶ」である。
四番目は、建物の四方を固める事なので、城を意味し、ピラミッドや城壁の囲いの事ではないだろうか。建物を、堅固にすると言う事は、防備を固めろと言う事になる。
最後の五番目の夢は、黒豹が出て来た。
本来は、四方の西方の守り神は「白虎・びゃっこ」で、白い虎が出て来なければならないのに、何故、同じ猫科でも黒い豹が出て来たのであろうか。
西は、道路を意味し、道路は交通の為だから、交通は物の流通・経済を意味している。しかし、日本では虎が居ないので、替わりに狐を当てて「白狐・びゃっこ」を、商売の神として祭っているのである。
四番目迄は、善い情報なのに、最後に何故、黒豹が出て来て、新しい文章(法律)に、何かスキがないか探っていたのであろうか。
建物は、堅固に造っても、中に納めてある法律が弱ければ、何にもならないとの事であろうか。
今朝、夢に現れた黒豹は、利用できる法の抜け道を見出す事が出来なくて、諦めて立ち去って行った。其れは、私が管理している法律は、正しいと言う事だったのであろう。
小さな字で書かれた、澤山の書類は、誰が作成したのかは判らないが、法律を作り直せと言う事なのであろう。
そうしなければ、「白虎・びゃっこ」の登場が無いとの事だろうか。
現代社会の様子を眺めれば、法律とは守るべきものではなく、悪い事をする為の、防波堤の様なものに成ってしまっている。
人間が創る法律は、守る気持ちが無ければ、何にも成らないモノである。
善い世の中にする為には、先ずは、人の上に立つ者達が、魂を禊がなければならない。それが、新嘗祭の前日に行われる鎮魂の儀式である。
「白狐・びゃっこ」が、商売の神様とされ、「おいなりさん」と呼ばれるのは、「倉に納める稲荷」から来ている。
日本は、長い間、米換算の経済であったので、米がお金の替わりとされていたのだ。
食物の「いなりずし」は、油揚げを俵に見立てて、カンピョウが縄であり、油揚げの中に米を詰めて、カンピョウで括って、米俵を真似たものである。
米俵を模した「いなり鮨」を社に供えれば、夜中に狐が現れて、其れを咥えて持って行く。供えた物が、翌日の朝に無くなっていれば、神が受け取ったと想う事が出来て、自分の願いまでも、聞き入れられたと想う事が出来たのであろう。
食物の神である「食の御魂・うがのみたま」は、伊勢外宮の祭神「豊宇気姫命」の霊の事であり、また別名「稲荷(いなり)の神」の祭神ともされている。
明日から行われる「新嘗祭」の行事は、「天皇家・宮内庁」、「伊勢神宮・内宮・外宮」や、奈良の「石上神宮」、島根県大田市の「物部神社」等の「饒速日命・にぎはやひのみこと」系の神社で儀式が行われ、今年の新米が奉納されて、神霊と人間の「共食・直会(なおらい)」が行われる。
其れに先立ち、私に来たメッセージは、是からの動きを示唆するものであろう。
(大田市の物部神社は1日遅れ)
今朝の霊夢の知らせに拠ると、東と南は、順調に門が開かれている様である。後は、北と西を、準備しなければ成らないとの事ではないだろうか。
黒豹が出たと言う事は、表裏は一体だから、裏から見れば「白豹」である事が分かる。黒豹がジィーッと視て、スキが無いという事は、白豹・白虎が動けると言う事でもある。
新しい時代の法律・きまりを、どの様にして出して行けば良いかは、未だ具体的にはされていないが、今朝のメッセージは、其れ等を、準備しなさいとの事ではないだろうか。
今日は、明日から始まる鎮魂の儀式を前に、私に四方を固める準備をせよとの、メッセージが届いたとの事にして措きたい。
平成14年11月20日
礒邉自適
2002/11/19
作本
14・11・19
今朝の霊夢は、私の妹や、娘達が、「逆さ吊り、磔・はりつけ、首吊」になっていて、其の三人を私が助ける場面だった。
私が、横に居る者に「こんな事を 誰がしたのか」と問うと、「作本」だと云う。
私は、気味の悪い夢を見て嫌になったので、目を開けて、現実世界であるこの世に意識を戻してから、起き上って、トイレに行き、見た悪い夢を忘れて、再び寝床に入った。
朝起きて、其の夢が、何を意味しているのかを、考えているのだが、良く分からない。
妹や、娘達の姿は、夢の中では子供だったが、現実には、大人に成っているので、其れが、現実ではない事は確かである。
「作本」が人の名前だと、私の知っている作本さんは、有機農業無農薬栽培を長く行なっている人で、悪い事をする事が無い人だから、人の名前では無いようである。「作本」とは、「つくるもと」の意味であろう。
今朝の夢の場面は、本人が好んで、其の様な行為をする分けが無いので、他人に因る行為であり、禁止されている犯罪行為である。
今朝のメッセージは、其の様な行為が「作られる本」を、良く考えろと言う事なのであろうか。
今朝の夢の、逆さ吊り、磔、首吊の三種類とも、縄や釘等の道具が必要なので、突発的な行為ではなく、計画的な犯罪行為である。
生物の中でも、人間だけが、自分の仲間に惨い事をするようである。
他の動物には、この様な行ないは無い。
鳥のモズが、トカゲやバッタ等を枯れ木に差しているが、其れは冬場の食料として保存する為だから、人間が食料を乾燥保存するのと同じ事であり、自分の仲間を犠牲にする事とは、全く異なっている。
では、人間だけがどうして、この様な、残虐な行為をするのだろうか。
其れ等の行為が、作られる本は、何なのであろうか。
其れは、文化の悪い面が、現象化する事ではないのだろうか。
人間は、自分の同種の人類の事だけではなく、他の生き物をも守る事が出来る。
其れは、人間の良い面である。
しかし、他の生き物は、生存競争以外の無駄な殺し合いはしないが、人間は生存条件が満たされているのに、余計な殺生をしてしまう。その原因は、何なのであろうか。
私が考えるに、其れは、世間に、其のお手本と成る行為が、在るからだと想う。誰かが、教えなければ知る事は無いし、出来ない事なのだが、架空の事であっても、映画やテレビの映像で其れ等の行為を見てしまうと、人間は、その様な場面が現実として条件が揃うと、自分も行なって見たく成るのである。
例えば、ピストルが有れば撃って見たくなるし、切れそうな刀が有れば何かを切って見たくなる。
単純な事なのだが、人間の大脳は絶えず刺激を求めているので、一度目にした事は、自分も体験して見たく成るのである。
本屋に行くと、思春期の子供達が見る漫画本も、余りにも俗悪である。
其れは、最悪な状況であると言われるモノではないだろうか。
言論の保障がされるのは善いのだが、悪想念から出た情報が、無制限に野放しなのは、罪悪と言わなければならない。
今朝の夢に現れた事が、現実として起きれば、本人達も一生消えない心の傷に成るし、私も人間社会に対して、一生恨みを持つであろうから、一遍に家族が不幸に成る事は間違いない。
神社や、寺院が、幾等数多く建っても、宗教がどれだけ蔓延っても、悪い情報が垂れ流されれば、社会が善くなる事は無いだろう。
今朝の夢は、善い事を拡げる前に、悪い事を止めろと、言う事なのではないだろうか。
「金を儲ける為には、何をしても許される」と言う社会は、早く止めなければ、神様も、人間の存在を必要としなく成るとの、メッセージなのではないだろうか。
今朝の様な夢は、二度と見たくないものである。
18年間の旅が、無駄に成りそうな、今日の夢であった。
静寂の中に生まれてくるモノ、其れは、文化の原点の有り様である。
今朝起きて、自宅前の安房川を見ると、水面に小鴨が一羽泳いでいる。
其れは、今年初めて見る小鴨である。
鳥は夢を見る事が有るのだろうか。有ったにしても、私が今朝見た様な夢は、見ないだろう。見るとしても、赤く色付いた宝石の様な、木の実の姿ではないだろうか。
人間が、鳥に近付くには、和歌の世界が良いのではと想う。
自然の、季節の移ろいを観る目は、鳥と同じに成れるかも知れない。
「作本」の言葉が、日本の伝統文化である、俳句や短歌などの和歌・敷島の道に使われるならば、私も、今朝の様な嫌な夢を見る事は無いだろう。
平成14年11月19日
礒邉自適
2002/11/15
大変
14・11・15
今日は、実家の母親の畑に、野菜を採りに行く途中で、父親の墓に参った。
墓で、両手を合わせて祷ると、「大変」との言葉が出て来た。
「大変」とは、「何か大変な事が起きる」と使用する言葉である。
「大変」も「大事」も、漢語の音読みの世界であり、「大事」は「おおごと」と訓読みがあるが、「大変」には、訓読みが無い事に今日気付いた。
「大変」を日本語では、何と、表現するのだろうか。
大変な事が起きた時、日本語で何と呼ぶか考えて見ると、「えらいこっちゃ」と言う言葉が有る。
「えらいこっちゃ」とは、急な坂を上った時に「えらい難儀をした」とか、偉人を「えらいひと」と呼ぶ様に、通常の枠を超えた物事を意味するようである。
漢字の「大変」の「大」は、「大きく 両手両足をのびやかに伸ばした 人の形をかたどり 大きい」の意味を表し、「変」は「變」の略字で、上の部分の「糸言糸」は「つづく」の意味。「攵」は「攴」で「うつ」の意味。「連続するものをたち切ってかえる」の意味。と有る。 辞典言泉
「大変」とは、それ迄続いた事をたち切って、大きく変えるとの意味らしい。その意味の事が起きれば、それまで安定していた人達は、大騒ぎを起こすだろう。逆に、虐げられていた人達は、大変喜ぶ事になる。
何か、その様な事が、起きると言うのであろうか。
人間は、物事が起きても、通常の範囲であれば、「えらいこっちゃ」とは言わない。通常の範囲ではない事が起きれば、天下の一大事である。
私は、18年前その大事を示されて、全てを捨て、未来創造の準備の為に旅に出た。18年間の行動で、其の、人類の災いは止めて来たつもりである。
それが「大変がある」となれば、又考え直さなくてはならない。しかし、18年前に見せられた「全人類滅亡」とは、違う様である。
「大変」と出て来ても、18年前に、神に示された様な危機感は、いまは襲っては来ない。
何かが起きても、私に、直接の災害は無い様である。
私は、冷静で在るけれども、人々が大変と思う事が、是から起きるのだろうか。それとも、何かが始まって、私が、その対処に大変になると言う意味なのであろうか。
どうも、その両方である様だ。
大変な事が社会に起きて、私も、その対処に大変に成ると言う事なのだろう。
しかし、私には、何も動揺が無い。
これ迄の、18年間に遣らされた事を想えば、何事にも、対処出来るものと想われる。
私は現在、家族も、仕事も、財産も、信用も、名声も、全てを失っている。
是以上、失うものが何も無いから、恐れるものは、一事も無いのである。
是から、全てを失う人に比べれば、楽なものである。
そして、私は、自分の体験を話す事で、人々を安心させる事が出来る。
其れが、私が18年間で自信を持った、たった一つの事である。其の事を除けば、私には何も無いだろう。
しかし、何も無い私が「安心立命」である事で、人々を救う事が出来るのかも知れない。
物質で、人々を救う事には限界が有るが、何も無い事を「自由の喜び」と説く事は無限である。
私には、其の事が、たった一つの財産として残った。
私の霊界の父親は、其の理を、私に教える為に、私に38年間の苦しみを敢えてさせて来たのだろうか。
息子や、孫の未来の為に、一時的に、悲しみの渦の中に、家族を落とし込んだのである。是から、その結果が、良い方向として現れて来るのだろうか。
母親も、既に83歳であるので、もうそう長くは生きられない。
母の人生に対する、父の心が示されれば良いのだが、どうであろうか。
ここ迄書いて、逆に考えれば、天国の父の方が、大変苦労をしたと言う事なのかも知れない。私は、4311体の聖霊に見守られながら、今日まで旅を続けて来て、大変なのは、私だけでは無かった事が見えて来た。
やはり「おかげさま」が、最高の言霊の様である。
「おかげさま」の言葉を理解出来る人達には、「大変」も「小変」で終わるのかも知れない。
平成14年11月15日
礒邉自適
2002/11/11
中間子理論を超えるもの
14・11・11
今朝の夢には、小柄な日本人で、眼鏡を掛けた、60歳代の男性の上半身の写真が出て来た。
その写真は、書類に貼られている物で、其の書類には、小さな文字で文章が書かれており、数枚が有る事が判った。
文章の題は「中間子理論を超えるもの」で、内容は、中間子理論を踏まえての、新しい理論が書かれているらしい。私には、其の男性が誰なのか、中間子理論がどんな内容なのかは分からない。
朝起きて、辞典言泉で「中間子」を調べて見た。
「〔中間子〕電子と核子との中間の質量をもつ素粒子。湯川秀樹によって存在を予言され、のち宇宙線中に発見された。μ(ミュー)中間子、π(パイ)中間子、k(ケイ)中間子がある。」と載っている。又〔湯川秀樹〕物理学者。東京出身。小川琢冶の三男。京大、東大教授。京大基礎物理学研究所所長。中間子の理論的解明を行い、昭和24年(1949)日本最初のノーベル物理学賞を受賞。著「素粒子論序説」など(1907〜81)」 と 有る。
私の家にある資料では、写真の人物が「湯川博士」であるか、そうでないのかが判らないので、本屋に出掛けて見た。
湯川博士の写真とかは見当たらないので、「雑誌Newton(ニュートン)2002年12月号」を見ると、「宇宙『99%の謎』・ダークマターとダークエネルギー」とのテーマで、30ページに亘って文章が載っているので、其れを買って来て読んで見た。
私は数年前に、宇宙には、陰のエネルギーが存在して「陰の場・シャドーグランド」と名付けられている事を知り、日本語の「お陰様」の言葉が的を射ていた事を知ったが、数年間の科学者の努力で、其れ等の世界が解明され続けている事を改めて知った。
真空の中が「ダークマター・暗黒物質」と、「ダークエネルギー・暗黒エネルギー」で満たされていると言うのである。
「人間の目に見える物質、星などは、宇宙の密度のほんの1%で、99%はダークマターとダークエネルギーで満たされている」と 載っている。
この記事の内容からすると、電子とか、核子とか、中間子とかの物質の捉え方は、宇宙の数%の世界の話になってしまう。
この雑誌の記事の理論からすると、宇宙の星や銀河は、ダークマターとダークエネルギーの満ちた中に、1%存在する僅かな物質に過ぎない。
そして、私達人類や、他の生命も、其のダークマターのエネルギーの中に存在しているので、其のエネルギーが消えると言う事は、私達の肉体も同じに消えてしまう事になる。
と言う事は、私達人類は、全身の殆どが、ダークマターと、ダークエネルギーに支えられている事になる。それからすると、日本人の「お陰様」の挨拶は、理に適っていた事になる。
日本人の先祖は、陰の存在の力を知っていたのだ。其れは、どうしてなのだろうか。
私の体験では、テーブルの上に、いきなりお金が出て来たり、船で海に行ったら、いきなり空中に鳥が何百羽も現れたり、魚が生じたりした。
其の現象は、私ばかりでは無く、私と縁が出来た人にも起きたのである。
其れ等の現象から、考えられるのは、この宇宙は二重構造に成っており、普通の日常の生活の裏側に、もう一つの世界が重なっていて、そちらの世界の方が力を持っており、私達が日常生活している此の世界は、鏡に映っている様な、仮の世界なのだと想われる。
鏡に向って、化粧をしている住人が、鏡の向こう側にも住んでいて、私達人間は、其の住人が化粧をした姿が、鏡に映っている存在なのだ。
鏡に向って、化粧をしている存在が、鏡に映る姿を失敗だと思って、鏡の前から立ち去れば、必然的に鏡に映っていた姿も消えてしまう。
例えが、不味い様だが、私達の存在は、ダークマターとダークエネルギーが映し出している仮の姿であり、宇宙・神が創り出している芸術作品なのであろう。
神が、自分のエネルギーを使用して、自分の姿を創り出しているのである。
私達の姿は、宇宙のエネルギーからすれば、1%でしかないのだ。物質として現れている其の1%が、神が自分を知る為の道具なのである。
神は、全質量の1%を、自分の化粧道具として使用していると言えるだろう。其の化粧品の中に、電子も、核子も、陽子も、中間子も入っているのだ。
神は、自分の意志で、鏡に映る世界にも、物を創造したり、消し去ったりしているので、私の身の回りにも、不思議な現象が起きたのだ。
其れ等の、現象の元となっているのが、ダークマターではないだろうか。
暗黒物質は、あらゆる所に充満しているので、神の意志が働けば、暗黒物質から、現象世界へと転じる事が出来るのだろう。
日本人の先祖は、私達の住む、此の現象世界全てが、そうして出来ている理を知っていたのだろう。
其の理を、西洋の科学者は、必死になって解明しようとしているのだ。
今朝の夢は、誰かが、西洋の価値観を使って、其の理・こと証明しようとしている事を、伝えて来たのかも知れない。
今朝の夢には、続きが有って、私が緑に囲まれた研究所を訪ねて行って、受け付けで事情を話すと、其の施設が、私を受け入れてくれた。
場所の名は「流山倫理研究所」と教えられ、木立の中に、幾つもの建物の屋根が見えていた。
受け付けに現れた男性が、文章に出て居た人物かどうかは分からないので、中間子理論と倫理研究所が繋がっているのかは分からないが、科学分野と精神分野が、統合される日が近いのだろうか。
平成14年11月11日
礒邉自適
2002/11/9
たけのこむら
14・11・9
今朝の夢の場面は、私が友人と二名で打ち合わせが済んで、建物の外に出ると、60歳ぐらいの男性が一人、此方に向かって歩いて来て、私に道を尋ねた。
其の男性の、歩き方が変なので足元を見ると、両足が変形していて、随分と歩き難そうである。其の男性の行き先は、「たけのこ村」と言う名であるらしい。
其の村への行き先を、私は知っている様で、「丁度この人を 其方の方に送って行くので 通り道だから乗せて上げますよ。車を取って来ますから 此処で待っていて下さい。」と云っていた。
村に行く、其の男性の目的を訊くと、其の村には「ひこ」達が住んでいると云うのである。私は、其の人の目的が判って、「ひこ達とは どんな人達だろう。」と想いながら、其の夢の場面は消えた。
「たけのこむら」と「ひこ」が、言葉だけで、文字が出て来ないので、意味が解らない。
「竹の子村」なら竹林が有る村で、竹の子の産地とも考えられるが、夢に出て来た人の目的は、物質的な事は関係が無い様で、「ひこ」の方に用が有るらしいのだ。
足の不自由な人が、車も無く、徒歩で遠くから遣って来るとは、余ほど魅力がある人達が住む「むら」の様である。
不自由な体の人でも、受け入れてくれる人達の村とは、どんな処なのであろうか。
今日は、屋久島では、「第14回屋久島ウォークラリー」が催され、島外からも多くの人達が参加して、宮之浦岳を目差して登っている。
昨日は、安房地区を会場として「世界杉環境サミットin屋久島」が開かれ、宇宙飛行士の「毛利 衛氏」が特別出演され、宇宙から見た緑の事などを話された。
他には、アメリカのセコイヤ・キングスキャニオン国立公園管理事務所管理者「メアリー・アン・カールトン女史」や、栃木県日光東照宮宮司」「稲葉久雄氏」、栃木県今市市長 「斉藤文夫氏」ら八名が、パネラーとして壇上に上がり、屋久島の代表として「日高雲平氏(屋久島共用林組合長)」が、屋久島の植林地の現状を報告された。
司会は、屋久杉自然館館長の「日下田紀三氏」であった。
会場には、屋久島の島内の中学・高校生が大勢参加し、毛利さんの話術で楽しい時間を過ごした。
昨日の杉サミットが、直接今朝の夢に関係あれば、「杉の子」と出そうなものである。そうでないのなら、今日の「宮之浦岳ウォークラリー」に関係が有るのだろうか。
「宮之浦岳ウォークラリー」は、屋久島風に言えば「宮之浦岳たけまいり」である。其れから言うと「たけのこむら」は、「岳の子村」なのかも知れない。
今朝の夢の場所は、山深い人家の少ない場所で、川沿いの谷間に、少し開けた場所が在り、村役場の建物と、小学校の庭らしき広場が有った。
川の橋の向こう側に、一日何便かの、少ない回数のバスが着く停留所が有り、「たけの子村」は、其処より更に、川沿いを上流に登った、緑深き場所であった。
この夢から連想すると、「たけのこむら」は「岳の子」「山の神の子の村」と言う意味なのかもしれない。
そして、其処に住む「ひこ」達とは、「彦」達であり、「ひこ」とは、日本語の「ひと(人)」の「ひ」と、同じ言霊(ことだま)を含んでいる。
日本語の「ひと」の意味は、「霊(ひ)とどまる・霊留まる」の意味である。
島根県出雲地方では、今でも妊娠したら、「霊(ひ)が宿(と)どまっしゃった。」と云っている。
これらの事からも分かる様に、古代から妊娠する事は、先祖の霊が宿ったと考えられていたのである。其れから考えると、「ひこ」とは「霊子」の意味と考えて良いだろう。
岳の子村に住む、「霊子達・ひこたち」を訪ねる人が、私の夢に出て来た事が、何を意味するのだろうか。
昔から、屋久島の山々は、神々の住まいと考えられて来た。
島民の平和な暮らしは、山の神様の許可無くしては、有りえなかったのである。
今日のウォークラリーには、私は参加しなかったが、9月23日に行われた、山の神に参拝する「岳参り」の行事には、私も参加した。
今日は、船も欠航する荒天候である。
頂上まで、果たして、何人辿り着けるか分からない。
屋久島の人々が、「岳参り」として山に登るのと、「ウォークラリー」として、島外の人々が参加するのには、気持ちと言うか、心構えと言うか、何かの違いはあるだろう。
多分「岳の子村」が存在し、其処に住む霊子・彦達が居たとすれば、ウォークラリーの人達とは、精神的な価値観が違うのではないだろうか。
今日、登山に参加した子供達が、どう言う価値観を、自分の中に育んで行くのかは分からないが、私の子供の頃とは違った気持ちで、寒い山道を歩いている事だろう。
今朝の夢に出て来た、村を訪ねる男性が、現実として、私の処に道を聞きに来たとしても、未だ、其の村へは案内できない。
今朝のメッセージは、その様な村が、何処かに在るから探せと言う事なのか、是から創れと言う事なのか、其れとも霊界には、既に存在すると言う事なのかは、今の私には分からない。
私の知る処では、その様な、仙人らしき人達の住む村が在るとは、聞いた事が無い。私としては、現実としてその様な村が存在し、霊子・彦達が居たら良いのにと想うだけである。
追記
漢字の「道」という字は、「行+首+手」の組み合わせで出来ている象形文字である。字義は「自分のイメージと違う考えを持つ相手の首を刎ねて 手に提げて進む。清める。」との意味である。「道路」の単語の「道」は、「人の目には見えない意識(こころ)のみち」であり、「路」は「足+各」で「各々決められた所を足で歩く」の意味だから、「肉体(からだ)が歩くみち」である。漢の時代と、日本の先祖の価値観が、同意であった事が良く分かる。
日本の「大三輪神社(奈良県三輪山)」や、「三神神社(滋賀県御神山)」は、山が御神体で、神社は只の拝殿にすぎない。
これらの価値観からすると、人間は、山岳が生み出す物であるとの考え方は、昔から有ったと言う事になる。
中国の、有名な孫悟空の物語も、岩山から生れた事に成っている。
これらの事からも分かる様に、人々の心・魂の故郷は、山麓(やまふところ)に在ると、考えても良いのではないだろうか。
平成14年11月9日
礒邉自適