このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2002/9/20
グリーンレスト
14・9・20
今日は「一人の涅槃」との文章を書き終わって、「グリーンクラブ」と書いたつもりが、「グリーンレスト」と、手は勝手に書いている。
其れは、私には頻(よ)く有る現象なので、早速「レスト」を調べて見た。「レスト」は「レストラン」とか「レストルーム」の「レスト」で、「rest @休息。停止。A音楽の休止符」と、載っている。
有紀書房カタカナ語新辞典
是は、私に起きた現象なので、休息の意味であろうと想われる。漢字の「休」は「人+木」の組み合わせで、「人が木に寄り掛かって休んでいる象形文字」である。其の事からも分かる様に、木と人間のやすらぎは、一番身近な処に位置している。有名なインドのお釈迦さんも、厳しい修行を止めて木に寄り掛かって「休息・レスト」した時に、悟りが訪れている。
樹木は、グリーンの代表である。「グリーンgreen」は「@緑。若い。A緑地」と載っていて、「若い美しい緑」の意味だから、葉緑素が精一杯活動している状況を、描写している言葉だ。
「クリーンclean」も「@きれいな。清潔なAみごとな。あざやかな。」の意味だから、「グリーン」と「クリーン」は、元は同意語の様な気がする。両方を兼ねている日本語が、「青い」とか「清々(すがすが)しい」の言葉ではないだろうか。
「嫌な事を全て止めて 清々(せいせい)する」との事が、「レスト」の意味であり、其れを 新緑の美しい時に行う。此れが「グリーンレスト」の意味だろう。そうであれば、冬枯れの景色では難しい事になる。
東北の、冬枯れの景色の中で、木に寄り掛かっても、精神が引き締まって、逆に余計な事を考えてしまうだろうし、真白い雪景色の中で、清々しく成るのは、又別の状態なのかも知れない。
釈迦仏陀や、イエスキリストの説法の場面には、雪景色が出て来ない。悟りに必要なのは、身を引き締める事ではなく、身を弛める事なのだろう。
道元禅師も「身心脱落」と謂って、身と心を弛める事を教えている。
グリーン・緑の中で、レストして、クリーンな自分に成る。其れに適した季節とすれば、4月から6月の間の、日本の気候は、最適と言えるだろう。
私が、3月5日から自然食を始めて、神の世界に入ったのは、丸3ヵ月後の6月4日(旧暦5月5日)であった。
其の時、屋久島は紫陽花の季節で、時告鳥・ホトトギスや鴬の鳴き声に包まれ、木の葉が出す芳香に含まれた風薫る季節である。
丁度其の季節は、中年の男性が、五月病に罹る季節とも言われているので、グリーンの発するエネルギーは、人間の魂をクリーンにする力が有るのだろう。
屋久島の自然は、年中緑で被われ、木々の中には、秋にも芽を出す種類も有る。年中、「フィトンチット(露、phytoncide)」が、満ちていると言えるだろう。屋久島は、グリーンレストには、持って来いの場所である。
其れは、私が屋久島で生れ育ち、37歳迄生活して体験を積んでいるし、全国18年間旅をして、他の領域も見て回っているので、自信を持って言う事が出来る。
現在は、街の中に在る神社も寺院も、昔は人里離れた山中に存在していたのだ。寺の名前が「○○山○○寺」と付いているのも、其の事の名残りである。
日常の生活空間から出て、山中に在る社や寺に行って、静かな気持ちに成る。
その儀式として、清い水で手足を清め、口をゆすいで手を合わせたり、柏手を打ったりする。それが「レスト」の儀式である。
日常の営みを止めて休息をする、その儀式的な禊ぎの言葉が、「レスト」の外国語に置き換わって来た。
此れは、屋久島の事が、世界に知らされる前触れなのかも知れない。
平成14年9月20日
礒邉自適
2002/9/18
千差万別
14・9・18
今朝は「せんさばんべつ」との言葉が告げられて来て、数枚のA4のレポート用紙が縦に重ねられており、その紙に、上から順番に番号が書かれてあり、横向きに短い単語が続けて書かれていた。
其れ等の単語は、何百か、何千かは分からないが、多く有るとの事が示されて来た。続いて、長くて美しいマネキン人形の足を、一本借り受ける場面が映って来た。
「せんさばんべつ」と、多くの単語、其れにマネキンの一本の足、これらの組み合わせで、私に何を悟れというのだろうか。
「せんさばんべつ」は、辞典言泉では「千差万別」の一つしか無く、意味は「種々さまざまのちがいがある事・千差万別の個性」と 載っている。
縦に並べられた単語は、その個性の事の様である。
其れは、勇気の有る、無し。静かな人、うるさい人。魂の高い人、低い人。等、様々な人間の要素が書き付けられていた様である。
そして、白くて細いマネキンの足は、見た目は美しいファッションモデルの足を意味しており、農作業やマラソン等が出来る足では無い。
其れは、見た目の美しさと、実質の働きの差を、示して来ているのだろう。
今朝のメッセージから、私が感じ取れるのは、様々な人の様子は、皆夫々が役目であって、私がどうこうする物ではなく、全て、其の侭で良いとの事ではないだろうか。
私が、人々を選別するのではなく、自然の働きで、皆が役目を果たしているのである。
戦争をして死ぬ人も、不自然な生活をしてエイズにかかって死ぬ人も、皆自然の働きで、私にはどうする事も出来ないのである。
ファッションモデルが悪くて、農作業が出来る人が良いとの理・ことを、私が言う事も出来ない。
都会の価値観では、ファッションモデルがカッコ良くて、百姓をしている女性は、ドン臭いと思われている気配も有る。
人間の判断基準は、自分の都合に因り、善悪が反対に成って来るものである。左が無ければ、右が意識出来ないし、上が無ければ、下も意識出来ない。
戦争が無ければ、平和の有り難味が分からないのである。
私が、現在の様に認識作業が進んだのは、私の人生は、良い事よりは、悪い事の方が多かったので、悩み苦しんだからである。
農作業を行っていたので、色の白い細くて上品な足は、憧れの的である。
だからと言って、そんな細い足の女性を農家の嫁に貰い、畑で土まみれにしては、元も子も無い。農家には、農家にとって、役に立つ女性が必要である。
「千差万別」とは、その様な理・ことを告げて来たのだろうか。
現在の世の中の女性は、大方がダイエットをしたりして、ファッションモデル型に成ろうとしている。農作業型に成ろうと、努力する女性は少ない。
又、今の日本の政治状況では、農業を行っても生活が出来ない。
食料が70%輸入され、国内の農家は苦しい状況にある。何か、大きな社会変動が起きれば、一番先に緊急事態に陥るのは此の日本である。
マネキンの足から、農業問題になってしまったが、これは、私が農家の出だからである。他の人だったら、マネキンの一本の足から、私とは、全然異なる発想をする事だろう。それが「千差万別」の意味かも知れない。
何十、何百と書かれていた種々さまざまな事が、どう判断されるのか。
今朝の謎解きは、マネキンの一本の足からであった。足には、他にも、多くの意味が含まれているのだろう。
足を、一本外されたマネキンはどうなるのだろうか。役に立たないので、捨てられるのか、代りの足が付けられるのかと、余計な事を考えてしまう私である。
平成14年9月18日
礒邉自適
2002/9/16
見神追記
14・9・16
昨日、『見神』と出て来て、知り合いに調べて貰っていた岡山出身の綱島梁川の事について連絡が有った。
「綱島梁川は、岡山県上房郡有漢村市場に、綱島長四郎の長男として、明治6年5月27日に生れる。1892年(明治26年)東京専門学校(現早稲田大学)に仮入学、1895年(明治29年)同校文科を卒業。明治40年9月14日、亡く成っている。」事が分かった。
・綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。
岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。
ウィキペディアフリー辞典 現在記載
其の、綱島梁川が死亡した9月14日は、私が、青少年旅行村に泊った日であり、梁川はキリスト教の洗礼を受けているとの事である。
私を、誘ってくれた平田和文氏も、キリスト教の神父である。
梁川の命日に、キリスト教の神父に案内されて「見神」とのメッセージを受け取ったのは、出来過ぎと言わなければならない。
綱島梁川が、見神の実験を行って神秘体験をしたのは、1904年との事なので、綱島梁川が31歳の時である。
綱島梁川は、34歳で亡くなっているので、想いは強く残ったであろう。
其の綱島梁川は、彼の世に帰ってから、198年の間、霊界で準備をしていた可能性は大いにある。
キリストの力が、ようやく発揮される時が来たのだろうか。
私が、捜し出された無庵師匠も、父親が神父だったとの事。
私の母親も、卒業した学校は愛知県岡崎市にある「金城大学(金城専門学校)」で、キリスト教関係の学校である。
屋久島の宮之浦にも、キリスト教の教会が有り、今年初めて、其の教会に足を踏み入れたのが、9月11日である。
其の夜は、教会長の「日高さん」の自宅で、平田氏と三名で食事をした。
日高氏の話では、屋久島への旅行者が今年に入って、教会を訪れるようになったので、インターネットでホームページを開設する準備をしているとの事。
9月7日に、「今度は はなから」とのメッセージが有ったが、「はなから」が、始まったのだろうか。
昨日の地震の震源地は、綱島梁川の生誕地から近いとの事である。
阪神大地震の時は、何日も前に「アツモリ」との言葉が来ていて、地震の後で判った事は、「平敦盛(たいらのあつもり)」の墓を、地震が通過していて、「アツモリ」とは人の名であり、能楽にも「敦盛」が演じられており、敦盛の霊が強かった事を物語っている。
霊の想念は、地殻のエネルギーとも共鳴するらしい。
そうであれば、「見神」の実験を成功して、31歳の若さで神の世界に接触し、34歳で神の世界に帰った、梁川であれば、私が見神の文章を書いている時に、喜んで、地を震わす事は可能かも知れない。
其の様に考えると、私が辞典で綱島梁川の存在に気付いた事を、綱島梁川自身が、知っている事になる。
桑原、くわばらである。
平成14年9月16日
礒邉自適
2002/9/16
公共事業
14・9・16
今朝の霊夢は、内容に付いて的確な表現が出来ないので、取り敢えず「公共事業」とする事にした。
辞典を見ても、「公共事業」の言葉の前に、其れがどんな言葉で表現されていたのかが分からない。簡単に言えば、部落の共同作業の事なのだが、「共同作業」だけでは、説明不足となってしまう。
今朝の夢は一口に言うと、人間の生活に最低限度必要な、自然破壊を伴う施設の建設、整備の場面であった。
一番目は、直径100mmくらいのエスロンパイプが、土手を三本走っている。其れは、川から、水の流れを、必要な所まで引く為のパイプである。
私は、其のパイプが、何処へ向って引いてあるのか見る為に、パイプの通っている土手へ登ってみた。
すると、パイプの引かれている高さより下は、水が取水出来るので、水田として耕作されている。
私は、パイプの上を跨いで、土手を登ったので、私が立っている高さには、水が届かないので、其処は畑であった。
その畑は、長年耕作が続いたので、土地が痩せてしまい、耕作放棄され、茅畑と成っていて、所々にはグミの木等が大きく繁っていた。
二番目の場面は、川の水を管理する土手の工事場面で、トンネルへの、水の取り入れ口の様子が映って来た。
水の勢いが強いと、土や小さな石は流れ去って、土手が崩れてしまうので、何らかの手法を採用しなければならない。
取り入れ口には、私と、工事責任者が居て、工事は終り、水が勢い良くトンネルの内に吸い込まれていた。
完成した、取り入れ口は花崗岩の自然石で、一枚板の様な平べったい石が、上手に土に埋め込まれて、水の流れを受け止めている。周囲も、石がコンクリートで捲かれて、丈夫に出来上がっていた。
三番目の映像は、今度は私が、新しく通されたばかりの道路に居て、工事関係者が横に居た。近くには、パワーショベルが一台有って、其処に大型ダンプが道路に敷くジャリを、山盛り運んで遣って来た。
すると、道路が出来たばかりなので、車の後輪のタイヤが土にめり込んで、動けなくなった。
其の車を動かす方法を、運転手と、工事関係者と私が、話し合っている処で夢は終った。
今朝の夢は、人間社会、特に現代文明社会には、なくては成らない不可欠な要素ばかりである。
水田と畑は、人間にとって、一番大事な食料の生産に関しており、エスロンパイプは、水道の普及に欠かせない品物である。
私達が、子供の頃は、女性と子供の一番きつい作業は、其の水汲みであった。それが、エスロンパイプが開発されたお陰で、台所も風呂場も、蛇口を捻るだけで、水が出る様に成ったのである。
水田は、数千年来、同じ場所に米を植えても、土地が痩せる事は無い。
其れは、山から流れて来る水が、ミネラル分や、樹木の落葉から発生する栄養分を、運んで来るからである。
その点、畑の場合は、作物を土地から運び出すだけなので、何年かすると肥料分が無くなり、作物が育たなくなるので、耕作が放棄され、何十年か経ち、再び樹木が繁る様に成ってから、又耕作される。
現在は、化学肥料に頼って、無理やり栽培するので、土地がミネラル不足や、栄養不足に成り、作物も病気に掛かるので、農薬を散布しなければならなく成った。
二番目の夢は、治水をどうするかとの事であろう。
水は、人間にとって一番大事な物である。水が無い所には、人間は住めないし、雨が降り過ぎても、人間の生活は破壊されてしまう。だから、水の管理が一番難しいのである。
「政治」の「治・ジ」の漢字が、「水を管理して、民の心を安らかにする」との意味である事からも解かる様に、昔から、河川の管理が最大のテーマであった事が理解出来る。
人間は、水の有る所へ近付いて生活するのだが、近付き過ぎると災害を受ける事になる。其処の兼ね合いが、難しいのである。
それが、石が上手く使われ、近年コンクリートが発明されて、飛躍的に防災が進んだ。しかし、反面、コンクリートの利用が進み過ぎて、自然環境の悪化が叫ばれる様にも成って来ている。
三番目の夢は、車道の建設である。
中国の風水でも、西方は「白虎(日本では虎がいないので白狐)」が守護神で、道路を意味し、道路は交通であり、即経済でもある。
道路が無い所には、経済は無いと言えるだろう。
中国では、道路の代りに、水路網を完成させてもいるが、これは道路と同じものである。
我が日本国は島国なので、道路よりは、港が先に発展したようである。
今朝の道路建設の場面は、人の手で、スコップやツルハシを使い、人力で土砂を運ぶのではなく、近代機器であるパワーショベルと、ダンプカーが使用されていたので、それくらいは善いとの事だろう。
古代社会では、王様が道路を造るのに、どれだけの人々が駆り出されたものか、想像を絶するモノがある。
重機の発達に因り、税金にて工事が行われる様になり、国民は、重労働から解放される事に成った。
道路は人間社会には、無くては成らない物なのは、間違いないのだが、東京湾横断道路や、四国に掛けられた三つの橋、車の走っていない高速道路等、只の自然破壊と無駄な資源の使用は後を絶たない。
経済を良くする為の道路建設から、建設の為の、道路造りに陥ってしまっている。是は、明らかに、行き過ぎであると言わなければならない。
今朝の夢は、最低限度神が許している、自然破壊の様子であろう。
今朝の様に、三つの場面で具体的にメッセージが示された事は、今迄に無かった様に想える。
私が、霊夢を見る様になったのは、子供の頃からなのだが、18年前の37歳の時より、強力な内容に成って来た。
地球を、破壊し続ける人間に対しての、罰を与える内容の映像が、始まったのである。
その映像を見せられてから、神が、人間を許す条件を探り続けて、18年間旅を続けて来たが、今朝は、その答えらしきものが、示されて来たものと想われる。
今朝の霊夢が、人間を許す条件であれば、其の事を、具体的に守らなければならない。
環境問題が叫ばれ始めて、多くの人達が、環境問題に対して意識を持つ様に成って来た。
それは、良い事だが、依然として、人類全体の活動内容は、自然保護よりは、自然破壊の方に向っている。
その問題解決に、具体的に取り組むべき事が、示されたのだと想う。
私達が成すべき事は、明らかなのである。
現在の政治体制は、其れとは、逆の処で組まれて来ているし、教育も、経済も、同じ流れの方向にある。
私達の今後の行動は、これ等の問題解決にあると想われる。
その為には、神々も、我々に力を与えると言う事であろう。
3000年前の神話である「須佐之男尊・すさのおのみこと」の暴力は、自然破壊を続ける、渡来系の「天津族・弥生文化」に対する、地祇・くにつかみ「土着民族・縄文系」の抵抗運動である。
川を堰き止めて「水田」を造り、山の木を伐って「牧場」を造り、馬を飼う。其れ等の、自然破壊に対して、須佐之男尊は反発し、一生涯、国土に木を植える事を、息子・「五十猛命 (いそたけるのみこと)」と、娘の「大屋津姫命・おおやつひめのみこと」と「抓津姫命(つまつひめのみこと)」と共に行っている。
今朝の夢は、近代文明と、3000年前の須佐之男尊の家族との、中間に位置する内容のものである。
人間と、自然との調和は、不可能ではない理・ことを、今朝の夢は、告げて来ているのだろう。
平成14年9月16日
礒邉自適
2002/9/15
けんしん・見神
14・9・15
昨夜は、屋久島の西側に位置する「栗生・くりお」に在る、「青少年旅行村」のキャンプ場に泊った。
同行したのは、9月10日に日本の100名山を66日間で登山した、平田和文氏と、その友人達である。昨夜は、海に潜って魚を捕ったりして、夕食を済ませ眠った。
夢は、誰かは判らないが、大きな人物の顔が出て来て、伝えられて来た言葉は「けんしん」であった。
自宅に帰って、「けんしん」を辞典で見ると、「見神」が、「けんしん」の箇所の一番に載っている。
「見神」とは、『神の示現。本体を心に感じる事。「見神論」神人融合の霊感によって、神を見る事ができるという説。綱島梁川(りょうせん)が、その著「病間録」でこれを説く。』 と 載っている。言泉
それで「綱島梁川」を調べると、『哲学者。評論家。岡山県出身。本名栄一郎。神秘的宗教観に基づく随想を書いて、一部の青年層に大きな影響を与えた。特に「見神」の実験は有名。著に「病間録」「回光録」など。1873〜1907』
とある。
これから察すると、私が泊った施設が、青少年旅行村で、綱島梁川が青年層に大きな影響を与えたと言う処は、何か関連が有りそうにも想える。
関連が有るとすれば、夢に現れた人の顔は、綱島梁川、その人本人だったかも知れない。
私は、「綱島梁川」の名も初めて聞くし、「病間録」と「回光録」なる書物がある事も知らなかった。その知らない人の霊が、私に現れたとしても、私に何かの手掛かりが無ければ、メッセージを解する事が出来ない。
今朝は、場所と、人の顔と、「けんしん」の言葉で、一応の対応が出来た事になる。
梁川の出身地が岡山との事なので、スーリアさんや岡本天明氏との縁も感じられるので、早速スーリアに電話を入れて、本屋か図書館で「綱島梁川」なる人の事を、調べて貰うように頼んだ。
私は、此処一ヵ月くらい、若者達が、何か新しいものを求めている事を感じ、年配の人達よりも、若者重点に流れを創り出した方が良いとの事を、考え始めていた。
と言うのも、若者の方が、無意識の処で、未来を捉えているのを感じるからである。
若者の見る夢が、レベルが高いのである。
レベルが高いとの表現よりは、深くて、内容が重要だと、言い直したほうが良いだろう。私には、そのレベルが良く理解できるのだが、他の人には、何の事か理解が出来ないだろう。
夢を見た本人が、何の事だか判らずにいるのだから、普通の人が其の夢を聞いても、全然理解出来ない世界である。
私は、自分の体験から理解出来るので、説明して上げると、本人も納得して安心する。
無意識の処では、多くの人達が繋がっているのである。
無意識とは、昔の人が「神の世界」と呼んでいた部分に関連がある。
綱島梁川の「見神」も、無意識と接触する為の、一つの方法論であろう。
私が、現在考えている、目覚めの為の「島巡りの宿」も、今朝の夢で、一方向がまた意味付けされた事になった。
平成14年9月15日
礒邉自適
2002/9/10
提出せよ.10.6
14・9・10
今朝の霊夢には、大きな「炭窯・すみがま」の様な、丸くて大きな窯を掘り出す為に、村の有志が集まって、作業をする場面が映し出されて来た。
窯の上部の土を取り去り、石組みで出来た天井の部分の組み石を、順番に取り外して行くのである。
其の石組みは、長年使用されていたらしく、随分と煤・すすが溜っており、石組みも、熱で割れたり、細く砕けたりしていた。
その作業で、窯の上で石組みを外して、運ぶ人達に手渡しているのは、私だった。私が、直接、石組みを外す役割なのである。
夢では、作業は石を取り外して行く処までで、次の作業は映って来なかった。
そして、夢は変って「10・6」の数字が映り、「提出せよ」との言葉が出て来た。
「10・6」は、10月6日の事であると想われる。
10月6日には、大分県の久住高原で、環境についてのシンポジウムが計画されており、私もパネラーとして、参加を要請されている。
「提出せよ」とは、何を提出するのか、具体的な指示は無かったので、私が自分でそれを探るしかない。
夢に出て来た窯は、別に書いている「風 麥東 陶・ふうれんとう」の「陶」に関しており、人々を導く場(薫陶の為の道場)の事を意味していそうだし、私は「礒邉」で「磯部・石部」なので、私の「イシ部」の血筋が、石組みの組み直しを、直接手を出して遣らなければならないとの事だろうか。
「風 麥東 陶」とは、私が受けたメッセージで「風習や 習慣を 今一度練り直して人々を導き教える。」の意味である。
「陶」とは、「登り窯の作業風景」の象形文字である。
「石組み」は「人組み」も、意味しているのではないだろうか。
「風 麥東 陶」とは、「新しき 21世紀の人々のくらしを 創造しろ」との意味であるので、その為の人組みを考えろとの、天界からの指示だろうか。
10月6日の大分県の催しは、環境についてのテーマで行われる。
私を誘って下さったのは、大分県の大野川の環境を守っていらっしゃる、幸野敏治氏「河童倶楽部代表」である。
私が、何を提出するのか、数日間の悩みが出来てきた。
平成14年9月10日
礒邉自適
2002/9/8
おやすみなさいませ
14・9・8
今朝は、中年の女性の優しい声で、「おやすみなさいませ」と告げられた。
今日は9月8日で、京都府亀岡市の大本教の教主「出口王仁三郎」が、「9月8日には 12の秘密が有る」と云った、その日付であるが、他には、中国の毛沢東(1893〜1976.9.11)が、旗挙げをした日でもあり、明治21年9月8日に、大日本帝国憲法が制定された日であり、次の年22年2月に発布されている。
私が知る、是等の事から、9月8日には、何か記念すべき事が起きるのかと、楽しみにして居たのだが、告げられて来た事は「おやすみなさいませ」であり、少し拍子抜けがしている。
「おやすみなさいませ」とは、「する事が終ったので 休んで良い」との意味である。それも、皮肉的な様子は全然なく、聞いた事も無い様な上品な声色で、優しく徳の有る声だった。
其れは、本当に安心して、休める声の調子だったのである。
私は、声の力とは、凄いものであると、今朝改めて感じている。
私が、今朝想う事は、国の代表を務める王様、「天皇・すめらのみこと」とは、国民に対して、この様な徳の有る一言を発するのが、役目なのではないかと言う事である。
今朝、聞いた声の持ち主が、現実に存在し、国民に対して、声を掛けたならば、どんな人でも、それに従うだろうと想われる。
日本には、「推古天皇」や「持統天皇」など、数名の女帝が存在したが、彼女達の肉声が、どんなであったかは知る由も無いが、今朝の声の主の様には、優しく言葉を掛けられないのではないだろうか。
人間は、権力を持つと、段々と感覚が麻痺して、高飛車に成って来る。
所が、今朝の女性の場合は、そこが違っていた。
今朝の女性の声から、理解出来る事は、徳や地位が無ければ、他人に対して「おやすみなさいませ」とは云えないと言うことである。
まして、自分の人生を棒に振って、18年間、神の働きに身を任して来た私に、「休んで良い」と告げるには、其れなりの、立場に在る者でなければ、出来ないだろう。
18年間、4311人の霊界人達の念いに、身を任して来た私に、「もう 何もしなくて休んで良い」等とは、おいそれとは、言えない事だと想われる。
4311人の霊界人が、納得した上なのか、私の限界を見て、もう是以上は無理だと判断しての事なのかは、私には判らない。
しかし、此処数日のメッセージを、良く検討してみれば、或る一環した流れが有る事が納得出来る。
8月29日 亀が首を長く伸ばし過ぎると 灯台が壊れる
8月31日 山中に篭る為の 道場の様な建物が出る
9月1日 若い女神らしき 5名が現れる
9月3日 「森に従う」
9月4日 慈悲は神に近づく階段・「阿字のさと」
9月5日 ヘリウムの定板(盤)
9月6日 8000年
9月7日 今度はハナから
9月8日 「おやすみなさいませ」
これ等のメッセージを、続けて考えると、
「首を伸ばすのを止めて 山中の建物に篭る」
「若い女神達の使いが来るので 森の法りに従う」
「慈悲は 神の階段だから それらの教えが存在する」
「大日如来の法身の郷を造る」
「8000年振りの創造の時 今度は端・はなの方から始めるので 真中の私には首を出さないでお休みなさい」
この様に受け取ると、私は気が楽に成る。
18年前私に、「人類を救う為に 身体を貸せ」と云って来たのは、4311人の霊体で、其の後、昭和天皇も身罷った日の夜、私の心臓に飛び込んで来て、「我が身 すでにとおく 良き代を 願い奉る」と伝えて来た。
何かを、しなければならないと想っている霊人達は、殆どが男性霊なのだろう。
女性の人達で、世の中をどうにかしようと頑張って、途中で挫折したのは、ジャンヌ・ダルクぐらいの者ではないだろうか。
女性は、平和な暮らしが出来ていれば、あまり文句を言わない様である。
近頃は、消費文化なので、人並みに買い物が出来ないと、ブツブツ言う女性が増えて来たが、自分の周囲に、比べる対象が無ければ、其れ等の事を持ち出す事は無いだろう。
是からは、「何かしろ」との男性のメッセージが来なくなって、休んでいるだけで良いのなら、ようやく私の「悠々自適」の名が、意味を持って来る。
「自適」とは、中国の言葉で「心のおもむくままに のびのび楽しむこと」の意味であり、インドの「サマディ・三昧・ざんまい」と同じ意味を持つ。
ようやく私も、釈迦や、老子の境涯に、達して来たようである。
その事が、釈迦や老子や神武天皇、新しくは空海や日蓮、一休、親鸞等ではなく、女性に依って締めくくられたと言う事が、非常に興味を引く処である。
インドの「シヴァ神」も女性であり、日本の「天照大神」も女性とされているのは、宇宙の根本神が、女性性を秘めているからかも知れない。
中国の老子の言葉に、「雄の立場を知った上で、雌の立場に身を置け」と言うのがある。
その老子の言葉に、今朝のメッセージの「おやすみなさいませ」が通じるのであれば、私は、心から休めるのだが、どうだろうか。
今朝の、メッセージを受けた自宅の部屋は、18年前に、私の師を、「神だから守れ」との言葉が来たのと、同じ部屋である。
無庵師匠を守る事が、自分を守る事だったのだと、途中で気付いたが、18年振りに、今朝はようやく、その言葉から自由に成った様な気がする。
平成14年9月8日
礒邉自適
2002/9/7
こんどは はなから
14・9・7
今朝のメッセージは、「こんどは、はなから」と出て来た。
「今度は 花」なのか、「今度は 鼻」なのか、映像が無かったので判らない。
「花」の方は、意味がなさそうなので、「鼻」の方にて思索を拡げて見た。
「思索」の単語を使用したのは、神が答えをそのまま教えると、人間の脳は何も考えようとしないから、答えを直接には与えないで、人間に考えさせる事に因って、脳の仕組みを整えるのだと思ったからである。
この説明も、今朝のメッセージの答えが分からないので、頭で思索して出て来た言葉である。
「鼻」の言葉から、脳の配線を辿って行くと、鼻は、
1.匂いに関係がある。
2.呼吸・いきを吸う所である。
3.自分の「自」は、鼻の象形で、自分を示すのに鼻を指で示す事から、鼻は自分の事でもある。
4.「鼻はじめ」と言うように、鼻が人間の一番前に有るので、1番鼻先 1番前の意味がある。
5.はなは、端と同源なので、端から始まる事も考えられる。
幾つか書き出してみたが、惟・これと決められる要素が無い。
「今度は端から」と「今度は鼻から」が、同源である事からすれば、中心が定まったので、端の方から始まるか、始められるか、の事であるのかも知れない。
其のどちらにしても、私が中心に成って、何かを、始めなければならないとの事ではない様だ。
何しろ、神の働きは、直接目に見えないので、間接的に探って行くしかない。
それも、「端」か、「鼻前・はなさき」からだと、現場が遠いので、尚更気を配っていないと、何時どこで、誰が何を始めたのかが判断できない。
私が、自分で視ている事が出来る場所や分野などは、全体のほんの一部でしかないのである。
テレビ番組や、新聞等を見なければ、世界で何が起きているのか尚更判からない。
其れなのに、私に「ハナから」と伝えて来ると言う事は、私の顕在意識に、物事の詳細が把握されていなくても、事は進んで行くとの事だろう。
私は惟、存在を続けていれば良いとの事なら、肩の荷が、軽く成ったと言う事が出来る。
私は、自分の役目をようやく果たす事が出来、是からは、ゆとりを持って生きて行く事が、出来るのだろうか。
そうであれば、私も、他人が出来ない大役を、熟・こなした事に成る。
是からは、全体的に、周囲から物事が出来上がって来るのだろう。
私は惟、ゆったりと過ごして居れば、良いとの事だろうか。
神が、それを許すなら、有り難い事と、受け取らなければならない。
平成14年9月7日
礒邉自適
2002/9/6
8000年
14・9・6
今朝のメッセージは、「8000年」と出て来た。
他には、何もなく、只の8000年なので、何を意味するのか分からない。
9月4日で、私が神の世界に入ってから、6666日経過している事が判明したのは、前記して有るので書かないが、何か、月日に関係する秘密が有るようだ。
漢字の、「易」と言う文字は「蜥蜴・とかげ」の象形文字で、「変える、改める」の意味を持っている。
私が、自分を変化させたのが、1984年6月4日で、旧暦では5月5日であった。
私は、新しい自分を生き始めて、今日で6668日目となる。
今日は9月6日で、文字の形からすれば「69(巴・ともえ)」で、其れは道・タオのマークでもある。
タオのマークは、二匹の蜥蜴が元に成って出来ている。
9月6日に「8000年」との数字が告げられたと言う事には、タオ的な意味があるのだろうか。
三年前に、666年周期の事は書いたが、日本の歴史が大きく変化したのは、西暦0年、666年、1333年と2000年間に三回有る。
現在の西暦2002年は、四回目の666年を過ぎている事になる。
「易」は「変化する」の意味だから、「易」で変化を見てみると、2000年間に666年が三回有り、2000年毎に見て行くと、4000年、6000年、8000年となり、8000年の数字が出て来ない事もない。
一万年前に地球に異変が起こり、富山湾は一万年前に沈んだ事が確認されている。
12000年前には、アトランティス大陸が沈んだとの説もあるので、4000年周期もあるようだ。
8000年の数は、4000年周期だと2回分、2000年周期だと4回分、666年周期だと12回分となる。
12回というと、「12」の数字も大事なので、何かのサイクル的な物事が起きるのだろうか。
昨日は「ヘリウムの定板」とメッセージが来て、宇宙の波動情報の事を書いたが、年月も考えて見れば、大きな周期率で捉える事が出来るので、波と言えない事もない。
8000年の数は、4000年、2000年、666年の周期を含む事になり、三つの周期の波を抱え込んでいる事になる。
インドの「ヒンズー教」の教えにも、時代周期が取り入れられており、クリタユガ、トレータユガ、ドバーパラユガ、カリユガと四つの周期が繰り返されると伝えられているらしい。
地球の生物は、いかなる物も、ある周期で生滅を繰り返している。
其れが、宇宙の法則であれば、歴史も周期で動いていると考えられる。
8000年前と言えば、縄文時代と呼ばれている文化の始まった頃である。
日本に住む、古代の人達に、8000年前どんな意識が芽生えたのだろうか。
中国4000年、エジプト7000年、其れよりも、古い時代である縄文土器を見ると、人間の意識に、何かの創造性が起きた事は明らかである。
今回、8000年振りに、何かの切っ掛けで、新しい価値観が生まれ、新しい文化が始まるのだろうか。
一昨日には「阿字のさと」との言葉が告げられて来た。
「阿字」とは「物事の始まり」を意味し、「ビルシャナ仏(大日如来)」も意味している。
「ビルシャナ」とは、「宇宙の真理の本体」との意味である。だから、「阿字のさと」とは「宇宙の真理の郷」と言う事にもなる。
私には、8000年前に何が有ったのか、知る由も無いが、私達人間に、新しき意識が齎・もたらされると想うと、なんだか楽しく成って来る。
私も55歳に成ったので、現在の世の中では、古い人間の部類に入るだろう。
子供達や、若者の中に、8000年振りの、新しい創造力を持った者達が居るのだと想う。
私達の役割は、その子供達の意識の芽を、育てる事にあるのではないだろうか。
決して、今までの教育の様に、子供達の伸びる芽を、摘み取ってはならない。
8000年とは長い年数である。
8000年振りの事が、始まるのであれば、これからの10数年間は、人類の未来にとって、大事な時間だと想う。
私達が、その大事な時間帯に存在する事は、非常に喜ばしい事と言わなければならない。
是から、何が起きて来るのか楽しみである。
平成14年9月6日
礒邉自適
2002/9/5
ヘリウムの定板
14・9・5
今朝の霊夢は、見渡す限りの広い場所で、行き止まりが無い場面一杯に、同じ波形の波板が続いている、映像が映し出されて来た。
そして、言葉は「ヘリウムの定板」と出た。
私は、此処のところ、数ヶ月か、数年か、「波形」とか「ヘリウム」等に付いての事を、絵で見たり記事で読んだりしてはいないし、他人と話してもいないので、情報過多に因る処の、夢ではないと思う。
突然の、波の夢なので、これもやはり無意識の世界からの、メッセージかと考えペンを持った。
夢の原因を無理に探れば、昨夜、何気なしに、自宅前の安房川を見ると、橋の上で数名が魚釣りをしていて、私が見ている間にも数匹が釣れたので、何が釣れているのか見に行ってみた。
釣れていた魚は、平アジの子供で、15pくらいの屋久島では「エバ」と呼んでいる種類だった。
何匹か釣れるのを見物していると、行き成り大きな物が掛かった。
しばらく、釣り人が遣り取りをして、水面に上がって来たのはボラだった。
釣り人である本人は、ボラは嫌いらしく、ガッカリしている。とりあえず、橋の上に釣り上げたので、私が「いらないのならくれ」と言うと「いいよ」と云う。
私は、帰島してから、家の前の川を見て、ボラがいつも泳いでいるので、ボラの洗いを食べたいと、二ヶ月間意って居たので、直ぐ家に持って帰り、三枚におろして薄切りにし、氷水で洗って酢味噌を作って食べた。
18年以上前に、食べた切りだったので、懐かしい味である。
わさび醤油でも食べてみたが、私にはやはり酢味噌味の方が好みである。
さて、ボラと夢に、何故、関係が有るのかとの事だが、私は、自分が食べた物が、夢に影響を与えるので、夢を見ると、昨日何を食べたかを、直ぐ考えるのである。
昨日や、一昨日には、他に特別な物は食べていない。
安房川のボラだけが、20年振りに食した、変わった物なのである。
漢字の「謂」という字は、「いう」とか「おもう」とかの、訓読みが為されるように、「言うのは 胃袋の内の食物」と言う意味の文字である。
古代の人達は、自分の無意識の世界に、食物が影響を与える理・ことを知っていたのだ。
私も、18年前に修行を始めたのは、玄米自然食・マクロビオティックをする事からだったので、其の事は、良く理解出来ている。
日本の天皇家は、台所を「御饌殿・みけどの」として一番大事にし、食物を「ケ・氣」として神事を続けている。
ボラを食べた事が、夢の原因であれば、其の理由を探らなければならない。
私がボラを食べた事で、ボラの意識が生じるのであれば、ボラが何を食べているのかも考えなければならない。
ボラは、川の石に付いたコケが主食であり、コケの栄養は、山から水に因って運ばれて来る、ミネラルや木の葉等からの栄養である。
木の葉は、太陽のエネルギーを吸って成長する物である。
其の太陽は、ヘリウムの核融合で、エネルギーを出している物である。
其のヘリウムは、水素から生まれている。
(太陽活動・・ここでは熱核融合によって物質から エネルギーを取り出す熱核融合反応が起こり、水素がヘリウムに変換されている)
ボラが住んでいる川の水は、水素と酸素がくっ付いた物である。
一応、物質的には関係性を繋いでみたが、これでは理由が判然としない。
物の繋がりと、エネルギーが確認されても、何処から情報が生れて、記憶に繋がるのかが明確ではない。
其れ等の事は、私も科学的に証明出来ない。
未だ、学者達も研究をしていないのではないだろうか。
科学の世界で、証明されなくても、漢字を見れば、当たり前の事として伝えられているし、日本の一番古い天皇家の儀式でも、其の事が大事とされ、続けられている事から察すれば、其の世界が有る事は、間違いないと受け取るべきであろう。
仏教の世界でも、「無意識の無意識」と言う世界が、一番上に考えられており、衆生救済に現れるという「弥勒菩薩」が住む「兜率天(とそつてん)は、上から12番目の世界とされている。
人類を救うの、どうのと言う次元より、12段階もの上に、無意識の世界が考えられているのは、どうしてなのだろうか。
其処には、深い秘密が隠されている。
其の秘密を探るのが、密教の世界であり、西洋のカバラの世界でもある。
日本では、有名な「弘法大師空海」が、その世界を一番極めた人であろう。
密教の世界でも、密教食と呼ぶ食物が考えられているし、禅宗でも台所が一番大事と考えられている。
宇宙の神秘を探る為に、何故、食物が大事かと言うと、食物自体の持っている情報が、宇宙の真理に一番近いからであろう。
コンピューターが発達し、電子顕微鏡が出来て、遺伝子の解明も進んで来た。それに因って、生命の仕組みが、理解される様にも成って来ている。
しかし、遺伝子の仕組みはどんどん解明されても、何故、その様に遺伝子が働くのかは、何も解明はされていない。
もう少し突っ込んで言うならば、卵子と精子が受精をすると、2→4→8→16→32→・・と細胞分裂を繰り返し、60兆もの細胞を持つ人間にまで成長する事は、誰の目にも見える様に成ったが、一個の卵子と、一個の精子から、何故人間に成るのか、其の働きは未だ分からないのだ。
唯一解ったのは、遺伝子が、情報を伝えるのに欠かせない物だという、簡単な答えでしかない。
未だ、解明されていない世界の謎に、一歩近付くのが、今朝の霊夢ではないだろうか。
「ヘリウムの定板」とは、何を意味するものであろうか。
「ヘリウム」は、言葉ではハッキリしているし、「定板」とは文字からすれば、「定まった板」なので、これまた意味はハッキリしている。
しかし、辞典を見ると、漢語林にも言泉にも、「定板」等の単語は載っていない。「定板」との言葉は、有りそうなのだが、未だ概念が無いらしい。
未だ概念の無い単語が、どうして私に、告げられて来るのだろうか。
其れが、無意識・神の世界の不思議力である。
「定板」だけでは、何の定板かが分からない。だから「ヘリウム」と明確に言って来ている。そして「ヘリウムの定板」でも判らないので、一面の波を見せて来ているのだ。
夢の順番としては、絵が前であり、言葉が後である。
其れが、何故かを考えて見ると、言葉は同じ単語でも、人が異なれば、概念も人によって違って来る。だが、映像は、言葉の様に人に左右される事がない。
だから、前に絵を見せて置いて、言葉の意味が人間側の想念で、ずれない様にしてあるのだ。
今朝の霊夢も、波の板が映っていなければ、「定板」との言葉が、スンナリとは理解出来ないだろう。
前置きが、随分長くなってしまったが、夢が、何処から遣って来るのか考えて貰う為に、食物の事など書いてみた。
今朝の霊夢が、単なる雑夢では無い事を、理解して貰う必要が有るのだろう。
私が知る限りに於いて、「ヘリウムの定板」を解き明かしてみたい。
これらの事は、NHKの番組や、雑誌のニュートン等に載っている事なので、本当は、其の放送の日付や、雑誌の所在をハッキリしなければならないが、何しろ、私は旅を続けていた為に、其の資料を、持ち合わせていないので、お許しを頂きたい。
又、間違いも有るだろうが、皆様の、旅の手掛かりに成ればとの想いから、書いているので、それも重ねてお許し願いたい。
宇宙には、全ての物事の原因が詰まっている。
その物事の始まりは、水素原子と名付けられた、質量に因るものである。
およそ、宇宙に存在する一切の現象・モノは、このエネルギーに因るものであり、全ての物質は、この水素なる物が、どう組み合わさるかで、姿を異にしている。
その水素なる物が集まって、ヘリウムなる物に成り、燃えているのが太陽である。私達地球の生物は、皆この太陽のエネルギーが無ければ、存在する事は出来ない。
この理は、世界中の宗教を見れば、その概念は、同じである事が分かる。
しかし、その太陽の光は、目には見えても、働き自体を、直接目で見る事は出来ない。
だから、その見えない世界の不思議を知ろうとするのが、宗教の世界である。
インドの概念では、全てを一にする働きがあり、それに繋がる事に成功した者を、「ブッダ・仏陀」として尊敬して来た。
その「ブッダ・覚者」が見た現象が、この「ヘリウムの定板」であろう。
宇宙は、全て、波動で出来ていると言う。
それを、中国では「玄の響」とも云うし、日本では「音・ね」とも「言葉・ことのは」とも言う。
宇宙は鳴っているのである。
その波の振動を、シヴァ神との神名で説明しようとしたりもして来た。
ブッダとは、この宇宙の振動の「定板」に接触した者の事なのだ。
現代物理学と、仏教との間に、「大統一場」と言う言葉が生れて来ている。
この「統一場」の「バ」は、波に置き換えても良いものである。
今朝の、霊夢の波の場は、この「大統一場」として表現も出来るのだが、それでは説明がしにくいので、「ヘリウムの定板」として来たのだろう。
御存知のように、水素ヘリウムを冷やして行くと、マイナス273度で超伝導体となる。私達の生活に合わせて、水が個体に成る温度を0度とし、水の1gを1kgの重さと決めてある。
しかし、宇宙のレベルで捉えると、水温度に比べれば、マイナス273度が宇宙の0度となる。宇宙温度0の時、水素原子の振動は、全ての物質の中に存在する水素原子と、共鳴を起すのである。これが、超伝導の世界である。
ブッダと成る・成仏とは、この超伝導の周波数に、アクセスする事なのだ。
人間の体も、ほとんどが水で出来ている。
体の水が、超伝導状態に成れば、全宇宙と繋がる事に成る。
そうなれば、動物と植物の間に、境界は無い事になる。その状態を、釈迦は体験し、皆に説明をしようとしたのである。
しかし体験が無い者には、この事は、現実感を伴わないので、中々理解が難しい。
それで、手っ取り早く理解させようと考え出されたのが、「第三の目」と言う額の奥に位置する目である。
額に、目が有る訳ではなく、映像がマブタに浮かぶので、額に意識の目が存在するとされているのである。
これは、エジプトでも、ユダヤ(イスラエル)でも同じである。
其の第三の目の位置に、何が有るかと言うと、珪素・シリコンの結晶が「松毬・まつかさ状」に成っているので、松果体と名付けられているのだ。
珪素とはシリコン・Siで、高純度なものは典型的な半導体として、ダイオードやトランジスターに使用され、コンピューターにとっても、無くてはならない物である。
何故、第三の目と呼ばれる位置の、珪素・シリコンが大事とされるのか。
それは、水素の情報も、集積回路の役目の物が無ければ、意識上に乗せられないからである。
逆に言えば、珪素に因って、生命現象は管理されて来たと言えるだろう。
珪素は、磁性を帯びやすく、又失い易いという。
人間の頭脳が、情報を得易く、又失い易いのも、珪素の特性と一致していて面白いではないか。
シリコンは、現在、最先端の技術で、超伝導の材料として利用されようとしている。シリコンの磁性の働きが、利用されようとしているのである。
宇宙の情報は、アカシックレコードとの名でも呼ばれている。
その宇宙のレコードを、読み取る為の針は珪素であり、波がヘリウムの振動であれば、今朝の夢は、宇宙の仕組みの一部分を、現して来たものと言えよう。
私の額のシリコンが、何処から情報を受け取ったかと言うと、安房川のボラからという事になる。
そのボラは、安房川の花崗岩の石に付着した、川苔を食べている。川苔には、珪素が澤山含まれている事だろう。
私の遺伝子の仕組みが、苔の持つ時間と共鳴して、数十億年前の記憶まで、還ったのかも知れない。
昨日は、私が神掛かりを起こして、アカシックレコードに接触してから、6666日目である事が、偶然に判明した。
そして、私が釣りを見に行ったら、一匹だけ突然にボラが釣れた。
其れらの現象も、「大統一場」で管理されているとすれば、神の名で呼ばれている宇宙の情報系は、巨大コンピューターにて、システム化されていると言えるだろう。
水も、苔も、魚も、人間も、同じ周波数のレコード盤上に、乗っている事になる。全ては、その神の意志・情報に因って、営まれている事になる。
其れを「南無阿弥陀佛」と呼ぶか、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」と名付けるか、「エホバ神」と云うか、夫々の勝手であるが、自分の行動が、ヘリウムの定板から外れていれば、やがて滅びる運命にある。
私の記憶が、宇宙の情報を、何処まで遡る事が出来、その情報の整理をして、未来社会の枠組みをどう出来るのか。
それが、私の今回の人生の役目であろう。昨夜のボラは、神の一部であり、神のメッセージ其のものであったのかも知れない。
それは、佛の存在を信じる者しか、理解が出来ない世界である。
アカシックレコードが、「ヘリウムの定板(盤)」との名で、呼ばれる日が来るかも知れない。
平成14年9月5日
礒邉自適