
谷山の磯部蕎麦の店に張っていた インドの物の神、ガネーシャ神」の絵の前で
心を掴む
14・6・2
今日は、ふと頭に「心を掴みとる」との言葉が浮かんで来て、能く考えて見たら、其れは、意味不明な言葉であること気付いた。
「心・こころ」は、目に見えないもので、形の無いモノであるし、「掴」の漢字は「手に 武器を持って 実感を得る 意味」だから、「心を掴む」とは、文法上は誤りと言う事になる。
「つかむ」は、「掴」の他に「摯・攫」と有るが、みな手に物をつかむ事を表現している。
「心を掴む」とは、現実的には不可能な事だけど、「彼女の心を掴みたい」との想いは、現実感としては、重みを持って存在する。
何故なのだろうか。
それだけ、男性にとっては、女性は物として捉えられているのだろうか。
私は、男性なので、女性の立場は分からない。
女性も、男性に対して、その様に想えるのだろうか。
男性は、女性に対して、物品を贈り物とする。
女性がプレゼントを貰って喜ぶと言う事は、女性も、同じ様な精神構造を有していて、物が、相手に対して代理の役割を果たしているのだろうか。
確かに、物は、手に掴んで「有る」と言う実感を、持つ事が出来るし、目にもチャンと見る事が出来る。
その事で、相手の行為が、現実感として捉えられるのだろうか。そうであれば、大きな勘違いが、有る事になる。
男性が、真実の心を持っていなくても、高価な贈り物をすれば、勘違いをして騙される事になる。
そう言えば、その手の話しは、よく耳にする。と言う事は、騙されている人が、澤山存在する事になる。
この様に考えると、益々「心を掴む」とは、どう言う事か、理解が難しく成って来る。
恋愛では、互いの誤解で始まっても、関係が出来れば子供が産れ、子供の世話に追われている内に、その様な原因は、どうでもよく成ってしまう。其れは、赤ちゃんの存在が、二人の心を掴んでしまっているからである。
此処まで書いて来ると、「心を掴む」の言葉が、現実的な事になって来た。
人間にとって、赤ちゃんの存在は、心を掴んで、離さないモノなのだ。
赤子は、目で見てもとても可愛いし、抱く事で存在の実感もあり、泣かれると「嫌」と思うほど、邪魔な存在にもなる。
其れに耐えられるのは、自分の遺伝子を伝えているからであろうか。それとも、人間や生物の本能から、来るものであろうか。
しかし、考えて見れば、此れは、心を掴まえられているのであって、心を掴み取った事には成らない。
「心を掴む」とは、自分が、相手の心を、掴み摯らなければならないのだ。
その事に、成功していると想われるのは、テレビコマーシャルで、物を売っている業界である。
確かに、彼等は、人々の心を掴んで、物を売り付けている。
しかし、其れは、物に厭きてしまえば、心は離れてしまうので、永久に心を掴んだとは言えない。物で得たものは、物が無くなれば、離れてしまい、元の状態に戻ってしまう。
逆に、永久なものから考えれば、イエスキリストや釈迦仏陀の存在は、数千年もの間、人の心から離れないで、存在を続けている。
彼等は、何故、人々の心を掴んで、離さないのだろうか。
それは、物ではなく、永遠のテーマが対象だからであろう。
しかし、其れも、現代人の我々が、心を掴まえられているのであって、心を掴み取った事にはならない。
物を使わずに、相手の心を掴み取る事が、可能なのだろうか。
それは、自分が、イエスや釈迦の様に成るしかないのだろう。
これは、難しい問題である。
イエスの様に奇跡を起すか、釈迦の様に、正しい説法をするしか、他に手段が無いのか。今日の処は、答えが出ない。
私には、奇跡も起せないし、金も無く、言葉を使う実力も無い。
今日の処は、告げられて来た言葉に対して、降参である。
後二日で、1984年6月4日の神懸かりから、丸18年である。
新たな難関に、ブチ当たった様だ。
平成14年6月2日
礒邉自適