このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2002/3/29
そこにあるのでそのままに
14・3・29
今朝の霊夢では、言葉で「そこに あるので そのままに」と、絵も文字もなく言葉だけが告げられて来た。声色も付いていないので、男性の神霊か女性の心霊なのかも判からない。「そこにあるのでそのままに」とは、何を伝えてきたのだろうか。
其の言葉を、私なりに考えると、私が探し出したり求めたりしているモノ、或いは私が待ち続けているものは、「目に見えなくても 手で触れなくても 直ぐそこに存在するのだから、そのままに何もしないで居なさい。」との事に受け取れる。
私の受け取り方が間違っていなければ、私の準備は全て整っている事になり、私が行動を起さなくても、神の計画は順調に進んでいるという事だろうか。
私は此の18年間で、屋久島に住んでいた時とは異なる知識と、人脈を得ている。それは、私が自分の意志で選択して積み上げたものではなく、神が私の身の回りに準備した環境の御蔭で、組み上がって来たものである。だから、私が是からも自分の意志で行動する事さえしなければ、神の計画は順調に進むという事だろう。私はただ、日常を静かに暮らせば良いという事なる。
此の、私の旅が始まった最初の頃は、目に見えない世界からの言葉に従わず、私が動かないでいると、背中を押して来る感触まで有った。今ではその様な事が無くなって、今度は動かない事の方を云って来る様になった。
岡本天明氏の日月神示には「50名集まったら、中の1人は動いてはいけない人。」とある。私が、其の動かないで良い役目なら、神の御役に立つ人が50名揃ったという事になる。
未だ私には、50名の人材の確認は出来ていない。取りあえずは、中心に立って動きを起す役目の人が誰なのかを、見定める必要があるだろう。その人が、誰か明確になれば、「全てのものが 其処にある」と言う現実が、認識されるのではないだろうか。
今朝は、次の場面が現れたが、この事との繋がりが分からないので、別の章に記す事にする。
平成14年3月29日
礒邉自適
2002/3/29
首斗町・ぽんとちょう
14・3・29
今朝の霊夢の場面は三つ有り、三番目の場面は「首斗町」の看板に、ネオンが点いて立っているのが映って来た。
そして、その看板の左側に、山高帽子を被った男性の、首から上の顔が見えてきて、その男性の右目だけが、薄暗い感じの中に見えた。
朝起きて「ぽんと町」を調べてみたら、「ぽんと町の『ぽんと』はポルトガル語の『ポント(州崎)』の意味から来ており、京都府中京区の地名。鴨川の西岸、三条通りと四条通りの間にある。文化10年(1813年)花街として公認された。」 と 載っている。
また「州崎」で調べると @洲が長く河海に突出して、みさきのようになった所 A東京都江東区木場6丁目、東陽町2丁目付近の旧称、遊覧の地で潮干狩りなども行われ、明治22年(1889年)には根津から遊郭(ゆうかく)が移された。と有り 東京も花街が在った場所である。 辞典言泉
福岡市の、博多・中洲も同じ様な繁華街であるので、川の中洲は水商売の地とされていた様だ。
東京の、吉原の成り立ちを調べると、女性達が逃げ出せない様に、敷地の周囲に、堀を廻らし水を溜め、出入口を一ヶ所にして、監視をし易くしたとのこと。その意味からすると、河川の中洲を花街にしたのも納得がいく。
これで「ぽんと町」の意味は理解したが、何の為に、今朝の夢にポント町の看板が出て来たのかが分からない。
看板の文字が、不確かだったので、辞典を見ると「先斗町」と「首斗町」の二通りが載っているが、私が文章の題に「首斗町」の方を選んだのは、夢に首から上の顔が出て来た事と、首斗町の首が一致したからである。
しかし、ポントになぜ、「先斗」と「首斗」を使用したのかは分からない。
私が、興味を覚えたのが、ポルトガル語の「ポント」が「川の洲」であることだ。日本語では、川を跳んで渡ることを「ポンと渡る」と言う。
この言葉の語源がラテン語であるなら、「ポンと渡る」は「川の中洲へ渡る」の意味となり、日本の古代の民族との交流の証しの一つとなる。
と、まあ、是は余談なのだが、未だ、ぽんと町と、顔の関係が分からない。
河川の岸を向う側へ渡る事を、仏教では「彼岸」と言うが、これは人間の煩悩を捨て去る事を言うのだから、花街では、全く逆で、反対側に渡る事になる。
彼岸の、真反対側の世界に在る顔は、何の意味を持つのだろうか。
今朝の夢には、看板と顔が映っただけで、花街の様子や、女性達が映った訳ではないので、花街の事ではないのかも知れない。
花街と、全然関係が無い「洲崎」のことを考えれば、思い当たる事は二つある。一つは、私が屋久島で神懸った時の修行が、安房川の中洲へ泳ぎ渡って、瞑想をしていた事である。
もう一つは、1986年12月30日の夜、高知県中村市の四万十川の河口の中洲で、井上佳子(亡くなった妻)と二名でキャンプをした時に、佳子が夢にて、世界中の人が 奈良市の平城京跡に、何万人も集まって セレモニーをしている場面が映って来たと、私に云った事が有った。
その時は、其のセレモニーが行われていた場所が、何処か分からなくて、私は井上佳子の休日毎に、一緒に同行して大きな神社を訪ね回った。
宇佐神宮、出雲大社、三輪神社、伊勢神宮など大きな神社を、次々と案内したが、佳子は、其れ等の場所が全部違うと云うのである。
佳子は、とにかく広かったと云うので、試しに奈良市の「平城京」に連れて行ったら「此処だ」と云うのである。それで、場所が、平城京だと言うのが判明したのである。
佳子の見た夢を詳しく述べると、平城京に世界中の人が何万人も集まって来ており、会場には幾列もの長いテーブルに、白い布が掛けてあり、次々に遣って来る人達に、佳子が自分の手から、一片の手作りクッキーを、相手の口に入れてあげると、相手は置いてある箱に100円玉を一個投げ入れて行くのだそうである。其れは、正に、キリスト教の聖パンの儀式の様である。
やがて「御輿・みこし」が出されて、大勢の人が賑やかに担いでいる。
その周りには、詰襟の服を着た人達が、何10人も整列して居るのが、見えたとの事である。
佳子が、何処に私が居るのかと思って捜したら、私はこじんまりした「社・やしろ」風の建物の中で、布団に横になっており、瞑想・涅槃の状態だったとの事である。
私は、世界中から、大事な人間が集まるセレモニーには参加しないで、一人で、お釈迦さんの涅槃のポーズで居たらしいのだ。
その佳子の夢で、私は、自分の役目が予想出来る様に成った。
私を捜してくれた無庵師匠が、私に云った事と、有様が一致するのである。
無庵師匠は、私が目覚めた後「自適さんは、何処にも行かなくても良い。私が大事な人達、総理大臣でも連れてくるから、自適さんは動かなくても良い。」と云っていたのである。
しかし、私は、無庵師匠にその様に云われてから、総理大臣の質問に、答える事が出来ない自分が在ることに気付いて、答えを準備すべき旅に出たのである。
無庵師匠は、私が、車に布団や炊事道具などを積み込んでいるのを見て、「自適さん、どうしたのか」と云うので、「確かめに 行って来る」と答えると、「出て行っても 自適さんを理解する人は 誰一人居ないよ」と云って、止めたのだが、私は其れを押し切って、屋久島を後にしたのである。
1984年6月4日(旧暦5月5日)に、私が目覚めてから、佳子の夢までは一年半だが、私は、役目の大凡の処をイメージ出来る様になった。
井上佳子が夢を見た日から、16年4ヶ月が経過してしまっているが、当人の佳子は、1998年の4月27日に天に帰ってしまった。
佳子の脳を使って、未来を組み立てていた霊は、現在・いま何処の誰の意識に棲み着いているのかは判らないが、何処かに、存在している事は間違いないだろう。
世界中の人に、聖パンをあげる役目の女性が、誰なのかは未だに判らない。
その事が、判明する頃は、私は涅槃の体勢に成れるのだろう。
現在、その候補として、一番近い位置に来ているのが、岡山市に住む「スーリアさん」である。
6月8日、9日、10日の三日間で、スーリアさんを屋久島に案内する事に成った。屋久島の一番大事なポイントに、スーリアさんを立たせてみれば、その答えが見えて来るのかも知れない。
数日前、10月8日の日付が出て来た。
10月8日頃までに、新しい事象の流れが、どれだけ現出するか、静かに見詰めて行きたい。
その意識の目が、私自身の目なのか、今朝の夢に出た「山高帽の片目の男性」の「ポントの目」なのかは、私は未だ、見極めは出来ないままである。
平成14年3月29日
礒邉自適
2002/3/27
意識のセンター
14・3・27
今朝の霊夢は、夢と云うより、現実的な「視覚系思考映像」と言った方が、当たっている様な内容であった。
私の意識は、眠っている状態ではなく、起きている状態に近かったと思える。
大体に於いて、私の思考方法は、言語体系にてではなく、視覚型で行われている事は、自分で自覚している。近頃、特に、夢の中にも、文字や文章が映らなくなり、殆どが絵か、映像が中心である。
今朝の夢は、幻覚と言った方が良いくらいの、強烈な映像であった。
其れは、脳内の、意識の中心が、見えている様な感じであったのである。
其の、映像に現れた形は、自然の中に幾つか現実的に存在し、物質としても万人が確認できる、物の形である。
脳の仕組みや、草木の種子の発芽の形、地球の大陸の形(マントルの流れ)など、其の二つに別れる物の形は、物質の本質の働きや、活動の姿として見えて来る。
私の昨夜の意識は、其の、中心の種子(たね)の部分に存在し、全体を感じていた。其の存在感は、まぎれも無く、何者にも左右される事の無い、中心的存在感である。其の、形の中心に在るものが、宇宙の中心的はたらきの、源泉なのだろう。
新しい星が誕生する時も、左右にジェット気流が吹き出して、中心から光のエネルギーが飛び出すと共に、星が生み出されて来る。
其れは、ちょうど、種子から新芽が芽吹く時、左右に種子のエネルギータンクが開いて、胚芽から、根と芽が出て来る様子と、良く似ているのである。
生物の原点である、植物がそうであり、その植物のシステムから分離した、動物の延長線上の人間に、同じシステムが残っていても、当然の事と言えよう。
男性の精嚢と左右の精巣、女性の子宮と左右の卵巣、其れ等も、種子の左右対称性が進化したものであり、そのシステムを管理している脳も、左右に分かれており、中心には脳橋が存在し、中脳や脊髄・頸髄へと繋がっている。
だから、私の脳が、DNAの遺伝記憶を取り戻して、植物の種子の構造を視覚化しても、何等不思議な事ではない。
植物の、内側に確立された情報の核は、自らが意志を発動するまでは、嵐が吹いても、日照りが起きても、ビクともするものではない。
自らの意志で、温度と水分の情報を監視しながら、季節の到来を待っているのである。
植物の、種子の胚芽の部分は、情報管理をするセンターであり、遺伝情報の格納庫と言えよう。
どんな姿に育って、どんな花を咲かし、実を着けて遺伝情報を残して行くかが、植物の生き方の根底にある。
私達の脳のシステムも、原点は、胚芽と同じシステムなのではないだろうか。
人間の一生も、植物の一生も、基本的な処では、何等変わりは無いのである。
「生命・いのち」とは、このシステムの事を言うのだろう。
インドの釈迦仏陀が謂った、「全ての生命は 身の内に 佛を宿している」との理は、此のシステムの事ではないのか。
佛とは「ブッダ」の事であり、ブッダとは「永い眠りから覚醒した者」の意味である。其れはまるで、種子が目覚めて、新しい根や芽を出す事と、同じ意味ではないのか。
釈迦仏陀や、イエスキリストの目覚めから、新しい価値観が人間社会に拡がった。釈迦や、イエスの思考が、根を張り、枝葉を拡げて来たと言っても、過言ではないだろう。
其れ等の元が、唯一個の種子のシステムであれば、簡単な事である。
現代社会に、身を置く我々は、コンピュータ・グラフィックの映像で、万人がその構造と働きを視覚化出来るのである。
自分が、中心に定まる事が出来れば、左右にどれだけ思考が拡がって、鳥の翼の様に動きを得て、自由に飛んでいく事が出来ても、自分の中の遺伝子の中核は、自己存在を安定させた儘で居ることが出来る。
其処には、人間の感情や言語は、全く必要が無いのである。
宇宙始まって以来の、根本的原理は、絶えず潜在意識の中枢に在って、無限への旅の操縦者となっている。
私の今朝の霊夢は、その操縦者が、自分のシステムを視覚化していたのだろう。
釈迦仏陀の言葉には無いが、佛(本質)は、自分の目を持っていたのだ。
我々人間が、その目を取り戻すには、植物の種子の次元まで、自分を還す事が必要である。
それが、天皇家の新嘗祭の儀式であり、仏教の精進の世界である。
漢字の「謂」が、「言は 胃袋の中の穀物から」との意味で出来ているのも、同じ世界の概念である。
私は昨日、山からヨモギを摘んで来て、餅米の粉と混ぜて、サルトリイバラの葉に包んで蒸して食べた。
ヨモギダンゴは、私の大好物である。甘みには黒砂糖を少し入れた。
ヨモギは、屋久島では「フツ」と言う。
「フツダンゴ」とは、ヨモギの新芽と、もち米の粉と、黒砂糖を練って、「猿取りイバラ」の若葉で包んで蒸したものである。
古代では、人間の事を「青人草」と呼んでいたという。
現在では、スーパーに売られている野菜は、「野の菜」ではなく「ハウス菜」か、季節外れの化学肥料栽培、農毒薬浸け菜である。
本来、野菜は、自然の野原に生えていた物を、人間が食べ易い様に、改良した作物である。改良された現在の野菜は、遺伝記憶が薄く成っている。
其れに、季節を外されて、種子を蒔かれてしまうので、植物の情報データは混乱してしまっているだろう。
そんな野菜を、毎日食べている人々には、宇宙の記憶を取り戻せと言っても、所詮無理な話である。
本来は、私のいまの役目は、寺の坊主か、神社の神主がするべき仕事である筈なのだが、其れ等の人々が役目を果さないので、私に、其のとばっちりが来たのだろう。
出来るだけ早く、寺や神社に、これらの事が理解出来る人達を、準備しなければ成らないし、学校の教師にも、其の理を理解させなければ、教育現場は変わらないだろう。
先ずは、宮内庁のお偉いさんから、目覚めて貰わなければならない。
日本を代表する天皇家は、これ等の伝統を傳承する事が、本来の役目である。日本が、世界に自信を持って誇れるのは、此の事なのである。
食の世界が乱れた現代に於いて、「スメラのみこと・大君」を立ち上げるのは、容易な事ではない。
人類にとって、最後のチャンスとも言える、今回の意識変化を、どのようにして成功させるか、その事が、最重要政策と考えなければならない。
その為には、宇宙意識に覚醒した者と、その者達が活動出来る、この世の物質的センター・施設が、必要とされる。
幸いにして、現在はI.T社会となり、コンピュータ・グラフィックは、視覚を体験した者が存在すれば、四次元情報を三次元化できる技術が確立されている。人類全体が、覚醒できるチャンスが、訪れたと言えよう。
過去に、修行を重ねた聖者達が、ようやく大役を済ませて、安心出来る次元へ至っているのである。
私の役目も、ようやく、終着駅に近付いた様な気配である。
瞑想を続けていると、意識は深くなるが、肉体は運動不足で、私の身体はガタガタに成って来ている。
インドの釈迦は、その事に気付いて、「瞑想」と、歩く為の「乞食・こつじき・托鉢」の両方を、取り入れている。
私も、桜の花の下を、喜びに包まれて、春の日差しに向かって歩き出そう。
もう、答えのデザインは、脳の中にしっかりと納まったのだから。
平成14年3月27日
礒邉自適
2002/3/26
夢の住人達
14・3・26
今朝の霊夢で、ハッキリ解った事がある。
霊夢とは、自分の見ている夢ではなくて、霊界人が、人間の脳を使用して見る夢・イメージだから、霊夢と呼ぶのだと言う事が、明確に理解された。
と言うのは、私は野球を知らないのに、今朝の夢では、体験が無い野球の試合に出されたからである。
私の夢の舞台は、屋久島の自然が土台となり、私の体験と、私に関係が有る人々や、事柄が材料となっている筈である。
其れが、今朝は、私が体験した事の無い、野球場での厳しい特訓を受けさせられたのである。
だから、誰か、野球の事を知っている霊界人が、私の脳を使って、映像を結んでいるとしか考えられない。
それも、私が、自分の事として受け取るように、実に巧妙に仕組んでである。
宇宙の事とかの、現実的でない映像ならば、自分の前世とか、遺伝子の記憶とかのレベルで受け取れるが、野球は近世の事であるので、前世の記憶としては考えられず、自分とは分離していると考えられる。
自分と、関係のない人々が、私の夢の中で野球を始めて、私に認識を送り込んで来て、何を気付けと言うのだろうか。
1984年6月4日に、私の肉体を「貸せ」と遣って来た霊魂の数は、「父親+4311体」であったので、私は肉体を貸している心算でいたのであるが、今朝改めて、霊魂が、私の脳を使用して、私に夢を見させている理・ことが確認出来た。
考えて見れば、脳も、私の肉体の一部であるので、父親が嘘を言った訳でもない。
其の時は、私が勝手に、20年前17歳の時に亡くなった父親が現れたので、懐かしく想い、油断が有ったので、簡単に、霊界人に身を預けたので、あまり深刻に考えなかったから、気付かなかっただけであろう。
夢を見る事は、神霊に体を貸してから始まったのではなく、子供の頃から有った現象なので、私は、あまり変な事とは、考えなかったのである。
だから、今回の事が始まっても、その延長線上に捉えていたので、自分の夢と、霊界人が係わる分と、神様(宇宙の記憶)などの区別を、明確にして来なかったのである。
改めて、その事を考えると、子供の頃の夢は、現在の夢と、似た処が有る様である。
私には、子供の頃から、あまり仕事や、金銭の事が、絡んではいなかった様に思える。
しかし、父親が亡くなってからは、一家の大黒柱として、仕事の事や、経済的な事を、日夜考えていたので、夢も、現実的な事に振り回されていたと想われる。
現に、近頃は見なくなったが、以前、屋久島の山岳に寒蘭を採りに入ったり、海に伊勢エビを獲りに入ったり、鉄砲を担いで、野山や畑の鳥を追いかけて走り回ったりした事は、その後、しょっちゅう夢に出て来ていた。
特に、池で飼っていた鯉が、水が止まって酸欠で全部死んでいた場面と、私のクルーザーが安房川に沈んでいた場面は、私の管理ミスに因るものなので、其の後悔の念が、私を長く苦しめて、屋久島を出ても、数年間は夢に出て来ていた。
18年の旅の成果は、其れ等の、昔の事柄が夢に出なく成った事である。
出家をして、彼岸に渡ったにしても、現実的には、肉体はこの三次元の世界に在って、人間社会に存在するのだから、現実世界の影響を、夢の世界も受けるのである。
私は、今でも、訪ねた家の庭の池に泳いでいる鯉を見れば、40年も前に死んだ、自分の鯉の事を思い出してしまう。
人間の記憶は、時々、何かの切掛けで、昔を思い出すと、脳に、其の映像が再生されて、新しく記憶され直すのであろう。
仏教では、其れが起きない様に山中に住んで、人間社会と縁を切って生活をするのだ。
昔の記憶が蘇ると、悟りの邪魔になるので、全てを忘れるために、激しい修行が行われるのである。
私も、屋久島で約4ヶ月間に亘り、野山に籠り、人間社会との縁を断ち切って、修行をしたのである。
其れからの夢は、私の個人的な事ではなくなり、宇宙の成り立ちや運動、地球の過去の様子と、未来の様子、人類の是からの行方など、全体的な様子に内容が変わり、是からの私の行動や、出会う人々などの、予知的な内容の霊夢と成った。
私は、其れ等の霊夢を参考にしながら、屋久島を出発して、18年目を迎えている。
今朝の夢の内容は、私に「貴方は 野球の才能があるから」と云う、姿の見えない監督らしき人の声が有って、それを聞いている私の意識も、それを当然と受け取ったようで、自然に野球の練習場へ出掛けて行った。
練習場に着くと、何人かが既に居て、練習が始まっており、人数が足りないので、私も守備で外野の位置に着いた。
場面が変って、今度は、私の打順が回って来たので打席に立った。
すると、守備の人達が消えて、私は「どうしたのかな」と思い、周囲を見回したが誰も居ない。
私は、何気なく上を見ると、雲の所に三つの顔の霊(顔だけで体が見えない)が、球を投げてくるのが分かったので、私はバットらしき棒を構えた。
すると、三体から次々に球が投げられて来て、私が球を叩き落しているところで夢は終った。
この夢は、私が無庵師匠に出会ってから、19年の過程を表している様に想える。
私に「野球の才能があるから」と云って来た、姿の見えない霊は、私に「人類を救う役目だ」と云って、私をその気にさせた無庵師匠の役目に思えるし、私がその気に成って、出掛けて行った練習場は、これまでの18年間の旅とも言える。
最初の、守備の期間は、私が旅で受ける「受身の修業」を意味しており、次の打席の場面は、人間相手の試合ではなく、神との勝負で、神に鍛えられる私の姿である様な気がする。
私は、屋久島で農林漁業を営んでいて、一年中無休で、牛の世話や畑の手入れ等をしなければならなかった。其れが、今では、天気の良い日の昼間に、夢がどうのこうのと、書いている。
其れは、余りの変わり様で、私は、人生とは不思議なものであると感じている。
忙しい現代社会で、夢の事などを、気にして書いている人間は、他に居ないだろう。其れは、鎌倉時代の僧「明恵」か、スイスの「ユング」など、数少ない人達である。
私は、学者でもないし、精神科の医者でもない。
それなのに、私が何故、此の様な作業をする状況になってしまったのだろうか。私が選んだとか、好きで行なっていると言う訳でもないのだ。
是も、何物かに操られているからだろうか。
そうであれば、私は起きている間も、身心を使われ、夜寝ていても脳味噌を使用されている事になる。これでは、私自身の人生は、無いと言う事になってしまう。
だが、考えてみれば、其れが、今回の私の人生であるのだ。
そして、私の人生の為に、霊界でも多くの人達が働いており、此の現世でも、55年間私の為に、善悪両方の世界で、実に多くの人達が働いてくれて、私をここまで育てて来ているのである。
私は、此の侭の人生を続ける事が、私の役割を果す事であれば、此のまま前進をするしかない。
私の練習場は、この社会自体なのであろう。
私を、この世界に取り込んだスカウトマン・監督も、今は身近にはいない。
だから、自分で全ての事を、企画して行くしかないのだ。
霊界の様子から、理解出来る事は、私が決定した事しか、霊界も応援もしないとの事だろう。其れは、私が何をどう企画するかも、私一人で決められる訳でもない理・ことを意味しているのだ。
全体的な、流れを創り出している、創造のエネルギーが、其れ等の源泉であるのだ。その源が、どこに隠れているのか、其れは、私も未だ知らない。
其れは、人間にとって永遠の課題として、与えられているものなのだろう。
夢を見させている、仕組み其のモノが、秘密の鍵なのかも知れないのだ。
平成14年3月26日
礒邉自適
2002/3/24
五十鈴川・いすずがわ
14・3・24
今朝の霊夢は、「五十」の数字が知らされ、何かの文章が書かれていた。
そして、場面が変わって、川の景色が映って来た。
処が、其の川には水が流れていなくて、川底が現れ出ている。
其れも、大水が流れた後で、川底の石は、一度全部が流されて、新たに積み上がったものである事が理解された。
其れから、私は山を歩いて居て、一人の女性と出会い、木を見ながら話していると、蝉が泣き出したので「今年は 随分 蝉が鳴き出すのが早いなー」と、二人で驚いている処で夢は終った。
朝起きて、夢の事を考えたが、「五十」と「川」を組み合わせると「五十川」となり、三重県の伊勢神宮の横を流れる「五十鈴川の事かな」と思ったが、夢の川は水も流れていなかったし、余り意味がなさそうなので、文章に書く気にはなれず、手帳だけに記して、雑夢と言う事にして措こうと想った。
処が、手帳を閉じてから、退屈なので、数日前、大洲の亀田氏が貸してくれた本を開けると、開いたページに「五十個の鈴は 天照大神の 寿命を知らせる 暦」と書かれているではないか。
私は、「アレ」と思って、「これは やはり何か 意味が有るのだな」と思い、文章を書き始めている。
其の本は、鳥居礼氏の書かれた「日本超古代史が明かす 神々の謎」日本文芸社発行である。
本の内容は、「ホツマ伝え」と言う古文書に伝えられている伝説で、書き写すと「アマテル神(アマテラスオオミ神)は晩年、伊勢国伊雑宮から終焉の地を求めて宮を遷すことにした。『ミモスソ川(御裳濯川)』のそばのウチ宮である。
すると、そのころ宮の庭に五十本目の鈴木(暦木)が、植えもしないのに自生したのである。アマテル神は『植えないのに 鈴木が自生するのは、自分の寿命を 天が知らせているのだろう。』と思った。
これより宮近くの川を、五十本目の鈴木にちなんで五十鈴川とも呼ぶようになった。 と 載っている。
私の今朝の夢に出て来た、「五十」の言霊と文章は、この事だったのだろうか。
そして、山で出会って、一本の木を見ながら話していた女性は、「アマテル神(天照大神)」だったのだろうか。
私の夢と、この本の内容が、どうして結びついてしまうのか、私には良く分からない。と言うのは、時々こう言う現象が起きるので、その事は文章にしたり、日記に記したりはしているが、其れが、是からの未来世界に関係するものなのか、只の、過去の記憶の整理だけなのかが、良く分からないのである。
私が、朝、起きてする行動と、夢が、なぜ繋がっているのか。
私が、夢を見ても、其の夢の事を忘れて、何も考えなければ、私に夢を見せても、無意味なものとなってしまう。
其れとも、私の行動は、神に決められていて、その計画に添って、私は動かされているのだろうか。
今朝の事でも、私は、本の文章を裏付けする為に、使われているだけなのだろうか。
其れとも、この事が、是からの世の中に、役に立つものなのだろうか。
役に立つのなら良いが、只の過去の霊達の遊び道具にされているだけなら、私は、自分の人生を棒に振った事になる。
夢の中で出会った女性と、一本の木を見ながら季節の話をしていたのだが、その木が「鈴木」と言う名の木なのだろうか。
夢に出て来た木は、結構年取った老木だったが、上の方の枝葉は元気で、未だに其の木が成長を続けている事は、其の様子で理解できる。
夢に出て来た女性は、50歳くらいで、背は、私より高めで中肉、衣は薄い紫の鴇色か、石竹色の様な色合いの長い服で、柔らかい布地で出来ていた。
其の女性と、私とは、別段仲が良い訳ではない様だが、話していて気持ちが落ち着く人であった。
1984年11月21日に、磯部町で夢に出て来た神は、天上界の神の姿で上半身だけだったが、今朝の夢に出て来た女性は、普通の人間の姿をしていた。
霊界でも、宇宙の意志から、人間の霊魂まで、様々な段階があるのだろう。
人間界に近くなるほど、地球の自然環境や人間の関係性が、複雑に絡み合ってくるようである。
其れ等の絡み合いの、再秩序を図る為に、私の今世の人生が有るのだろうか。
書いている内に、内容は、私の人生論に成ってしまっているが、今朝の夢は、其れ以上の物は探り出さないで、此処らで終っておこう。
平成14年3月24日
礒邉自適
2002/3/23
三本の剣(つるぎ)
14・3・23
今朝の霊夢は、三本の大きな剣・つるぎが、一枚の写真に写された、画の様に映って来て、再び消えた。
しかし、其れは、何も物語の無い、ただ一枚の絵なので、何を告げる現象・モノなのかが解からない。
そう言う事なので、今朝の霊夢の意味は、私が勝手に考えなければならない。
物語とは、現象を説明する事なので、「現象型理・ものがたり」と書いても、間違いにはならないだろう。
今朝の写真には、言葉の添え書きも、説明も無く、ただ三本の大きな剣が立っているだけだったので、背景の物の姿から、剣の大きさを判断するしかない。
上の図の様な、形の両刃の剣で、高さは10m以上も有りそうで、握る所は下に有った。
カラーなので、後の背景の物には色が着いていたが、剣の方は、日の光が当たって白く輝いていた。
古代エジプトにも、高い石の剣の様な物が立っており、その内の一本が、アメリカに運ばれて、国会議事堂かどこかに立っているようである。
昔の人々が、なぜ剣のような物を、多くのエネルギーを使ってまで、立てたのであろうか。そして、今朝の夢に現れた剣は、何を意味しているのだろうか。
日本の伝説の中にも、「天の逆鉾(さかほこ)」と云って、宮崎県の霧島岳の山頂に、逆さに立てられているのが一本だけある。
古事記では、「伊邪那美命・いざなみのみこと」と「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が国生みの時に、天から海を鉾でかき回して、日本列島を創ったとの物語も伝えられているが、今朝現れた剣は、上向きに立っており、それも三本が三角形に立っていて、一直線には並んでいなかった。
長野県諏訪湖の近くに在る「諏訪大社」には、大きな木の柱が立てられているが、其れは神社の四方であって、一ヶ所に、三本が三角に立てられている物ではない。
二本だと、神社の鳥居と同じで、左右の門柱の様だが、三本が一ヶ所だと、門の意味でもないだろう。
日本の神社でも、何処だったかは忘れたが、三本柱の鳥居が立っている所も有るが、その意味は、私には判らない。
私には、三本の剣の意味を、理解出来る情報は何もないので、皆目見当が付かないのである。
日本の諺・ことわざに、「三本の矢は折れない」と有るが、其れは、三本の矢を纏めたら折れなくなるとの理・ことで、三人の結束を意味している事なので、三角にバラバラで立っている事には関係が無い。
今朝の三本の剣は、其々が大きく立派に立ち上がって、神の光を受ける栄光を現している様に想える。剣は、女性には似合わない物である。
剣は、男性のシンボルであるので、男性の役目を伝えて来たのだろうか。
であれば、三人の人間か、三つの役目が揃った事を告げて来たのだろうか。
其れとも三人が、其々三つの事を、立ち上げろと告げて来たのか、今の処は定かではない。
何れにしても、イメージとしては、明るく元気に、何かが立ち上がった様子を示していると想えるので、吉・よい知らせと受け取っておこう。
平成14年3月23日
礒邉自適
2002/3/22
山の民(サンカ)
14・3・22
今朝の霊夢は、言葉では説明が出来ない。
アメリカの、映画造りのスタッフが皆来てくれれば、コンピューターグラフィックで映像化出来るかも知れないが、絵画を描く修業をしていない私にとっては、絵にする事も出来ない。
それでも、何等かの説明をして措かなければ、明日のメッセージが来ないと考え、夜になってから文章にしている。
昨夜は、8時に部屋に帰って布団の上に座り、五木寛之氏の「日本のこころ4」を読んでいた。
其の内容は、日本人の中の、自由な民であったサンカや、家船で生活する海の人、エタ・非人の歴史を調べて書いてある。
その中で、「サンカ」の処を読んでいると、私の肩が重く痛くなって来た。
それにも耐えて、続けて読んでいると、肩の処で、女の声が聞こえながら、何かに吸い込まれる様に、空間の坩堝・るつぼに入って行く。
その、坩堝である時象の吸い込み口は、私の首の後側に有るらしい。
余りにも、激しくなって来たので、途中で止めて眠る事にした。
どれだけの時間、眠ったのかは判らないが、今までに体験した事がない、イメージの体験の世界に、私の意識は侵入していた。
最初は、何気なく、侵入した其の世界に、女性が一人居る。
家も、大地も、空も無く。ただ、子供を連れた母親が、炭火色の様な光を纏っていて、其の衣の光の繋がりは、闇の向こうまで続いている様だった。
其れから、始めに居た、子供の姿も消えてしまっており、私らしき意識は、その女性に近付いて行った。
すると、其の女性に纏わり付いていた光の衣が、私達二人を包んで来た。そして、私の方の白い帯の様な衣が、その女性のエネルギー体に絡んだ。
すると、受精が行われた様な感じで、その赤い色の物体は、粘着性を持って大きく膨張を始め、その大きくなった粘着物の生命体は、自分の体を周囲の物に絡めて行く。
まるで、幼虫が蛹になって、巣籠りを始めた感じである。
やがて、其の体が、空間一杯を占めると、内側で、音やダンスの情報が生まれ始めて、その情報の塊は、子供を産み始めたのである。
そして、その情報の子供たちは、クローンの様に、同じ情報を持つ光の玉として、外へ飛び出して行くのである。
その時には、私の意識は外に在って、その光の玉が、澤山飛び出して来る所を見ているのである。
私の意識は山の中腹にあり、光の玉の子供達が、山の頂上の火口らしき所から飛び出して、麓の方に静かに降って行くのが見えていた。
光は5〜6個ずつ、手の指の様に、枝状に繋がったまま、数多く、次から次へと火口から飛び出しては、四方へ飛んで行った。
其の光の玉が、人間の肉体に侵入した人は、どうやら助かるみたいなのだ。
光の玉は、全ての情報を抱えている、魂の遺伝子の様なものらしい。
まるで、地球のエネルギーである「マグマ」が母親で、新しい天の使いである白い龍の情報を受け取って、受精をし、その妊娠した新しい情報の子供たちを、光の情報として、海の珊瑚の様に産卵しているかの様である。
私が、屋久島で神懸りになった時は、大地の龍が、最後の力を振り絞って、大地から抜け出し、私の肉体に入り込んだ感じだった。
今日は、その大地の龍が、地球救済のプログラム「天の白い龍(情報)」を連れて、マグマの巣に帰り交尾(まぐわった)感じであった。
話しを元に戻すと、山の民であるサンカの事を読んだ事が、原因の様な気がすると書いたが、山の民こそ、文字や神社は持たないが、日本の「神惟の道」を伝えていた人々である。
此の日本列島には、中国や北方、其れに南方の島伝いに、様々な人種が、異なる文化を持ち込んで来て、日本の風土と違う生活を始めた。
中国からは、権力体制社会が遣って来て、それ迄の漂泊の生活から、定住の生活を強いるようになり、自然と共に、自由に生きて居たサンカの人々の生活が、根絶やしに成った。
その事で、山の神である精霊達の依り代である、山の民の存在が消えてしまったので、精霊達は行き場を失ってしまっていたのであろう。
霊界は、現世とは違って、自分の血筋や霊系を大事にする。
霊界では、血の情報だけが、接触の手掛かりなのだ。手掛かりが無くなれば、人間界の一番源の霊魂まで、遡って行かなければならない。
今朝の霊夢からすると、私の霊系は、一番古い時代まで繋がっている様である。
私が辿り着いた、大地の女神は、私の糸と繋がった様だが、未だ、誰とは明確になった訳ではないので、名前を上げる事は出来ないが、宇宙の新しい情報のCDログは、無数に飛び出して行くことだろう。
山の民の、精霊が侵入した人々は、是から、山岳へ意識が向い始めるのではないだろうか。
私は、屋久島で、サンカと同じ様な生活をしていた。
だから、是から、私の意識と同調する人々が、多数現れて来るのだろうか。
人間にも、百匹目の猿現象が、此の日本で、もうすぐ起きるのかも知れない。
平成14年3月22日
礒邉自適

2002/3/20
壊死した踵(かかと)
14・3・20
今朝の霊夢には、私の両足の踵が、紫色に変色して、硬く縮んでいるのが、カラーの映像として映って来た。
私は、是では歩けないと思い、原因が分からないで悩み始めると、「是は 夢ではないか」との意識が生れて、その夢から意識が離れた。
そして、本当に私は目が覚めてしまった。
私は、其の踵の映像に付いて、机に座って文章を書いたり、本を読んだりしているので、「運動不足かな」と考えて、再び眠りに入った。
朝起きて、また夢の事を考えて居ると、旧約聖書の1節を思い出した。
其れは、「知識の実を食べて エデンの園を追い出された人々は、やがて 其の知識のヘビが 自分の踵に噛み付いて 歩けなくなる」と、言う様な内容だったと思う。
私の今朝の夢は、私個人の現象(もの)ではなく、人類全体への警告ではないだろうか。
現在の、世界の情勢を観ると、皆、自分の我欲の為に、他人の事は「おもわず」に、自分勝手に奔走を続けている。
今朝のメッセージは、其の事への、神の忠告ではないだろうか。
旧約聖書の一番大事な教えは、神の意志に反して、自分勝手に知識を増やすと、一番に「所有心」が生れ、二番目に「エゴ(利己主義・我欲)」が生れてしまう。そして、その「所有」と「私」の両方が、神のおもいに反すると、言うものである。
インドの仏教の教えにも、「所有心」と「自我意識」は、双子の悟りの障害だと有る。
確かに、現在の世の中は、「これは 私の物だ」と言う意識が、全ての考え方の土台になっている。誰も、自分の考えや所有物が、神のものであり、神からの一時的な授かりものだとは考えていない。
その考え方が、社会通念になっているので、皆「自分が良ければ 他人はどうなっても構わない」との風潮が広がってしまった。
神から授かった、発見や発明も、自分の財産として考え、金にする事だけを考えているのである。
そして、其の権利が侵害されると、すぐ裁判沙汰である。
キリスト教の国だと思われているアメリカ国に、特にその事が、顕著に現れている様だ。
旧約聖書は、ユダヤ人の宗教であるので、ユダヤ人の欠点を戒めるものであると思うので、ユダヤ人の事を考えなければならないだろう。
キリスト教の基になっているのは、ナザレ生れである、ユダヤ人のイエスキリストの言葉であり、社会主義の基になったマルクスも、ユダヤ人だと聞いている。
現在の経済システムである、有価証券や銀行制度も、ユダヤ人が創り出した、方法だとの事である。
其れに、裁判制度も、自国を持たないユダヤ人が、他国で生きて行く為の仕事として、創り上げた物であり、其のユダヤ人が中心と成って動かしているアメリカ国は、議員の30%が弁護士関係であるとの事である。
考えてみれば、経済も宗教も、弁護士制度も、殆どの基は、ユダヤ人の発想のようである。
と言う事は、ユダヤ人の知識が世界を覆いつくした時、その「カルマ・業」が自分の後へ、一回りして返って来て、自分の踵を腐らしてしまうと言う理・ことになる。
仏教にも、因果の法則と言う教えがあり、其れは「結果には その本になった原因が必ずある。だから 悪い因を創ると 必ず悪い結果が訪れるので 良い因(事)を行いなさい。」と言うものである。
新約聖書のイエスの言葉にも、「善い種子を蒔いた者には、善い収穫がもたらされる。」と、載っている。
今や、アメリカやイスラエルと、パレスチナの、同じ旧約聖書を基とする価値観の人々が、戦争を止められないでいる。
日本も、自国の価値観を捨てて、アメリカと同じ土俵に上がってしまっている。
此の日本には、日本らしき「暮らし向き」があった筈である。
此の侭、アメリカ風のルールに乗ってしまえば、日本人の踵も、カルマ・業のヘビに噛まれてしまい、そのヘビの毒で歩けなくなってしまうだろう。
日本は、「禊ぎ祓い」と「精進・しょうじん」の価値観の国であった筈である。戦後、その良い伝統も、高度成長のスローガンの下に、捨てられてしまった。
戦後、50年である。
病気は、早い内に対処すれば、軽くて済む。日本は、日本の価値観である大調和の社会に、立ち帰らなければならない時に、至っているのだ。
自然と人間が、如何に調和して、生活して行くかを考えて来たのが、日本の数千年の暮らしの伝統である。
今朝の霊夢は、日本人への最後の忠告であり、また世界を救うべき、神の御情けが示されて来ているのではないだろうか。
平成14年3月20日
礒邉自適
2002/3/19
霊界の師匠
14・3・19
今朝の霊夢には、私を捜し出して、私の人生を変えてしまった無庵師匠の姿が出て来た。
昨日の親友に続いて、霊夢の世界が、変化して来ているのが分かる。
本日3月19日は、私が無庵師匠に捜し出されて、20年目の第一日目である。其れに、今朝、無庵師匠が夢に現われ出たのは、神の儀(はかり)事が、次の段階に進んだ事を、告(し)らせる現象(もの)だろう。
今朝の夢の内容は、私が何処かの建物の内に入って行くと、畳敷きの大広間が有り、その部屋の中央に、大きな白板が立てられていた。
其の白板の前には、生徒らしき10数名の人々が、机に座って居て、先生の話を聴いている。私も、其の中に入って、一番後列の机に座って、其の先生の話しを聴き出した。
其の先生の話しの内容は、是からの社会を、どの様に組み立てるかの事に付いてらしい。先生が、皆に意見を求めたが、誰一人意見を発言する者が居ない。
其処で、何故か、初めて参加した私が、意見を述べ始めると、其の先生が「ようやく 頭が動き始めたか」と、私の、以前の人生の事柄を、知っている様な口調で云うのである。
改めて、其の先生の方を見ると、その先生は、生徒よりは左側の、先生専用の机に座っており、頭には野球帽を被っていて、帽子の前の日差しの部分を下げて、顔を隠しているのである。
私は「誰かな」と想い、左側の机の横を通って、その先生に近付いて行くと、左横の方から、私の弟の「正也」が出て来て、先生の帽子を取って「先生だよ」と云う。
私が、帽子が無くなった、その先生の顔を見ると、私を捜し出した無庵師匠の顔である。
私は、其れでビックリした様な感覚を味わったが、其の先生に云われた、「ようやく 頭が動き始めたか」の言葉の意味に、納得が出来た処で、其の夢は終った。
本日は、無庵師匠に出会ってから19年が経過して、20年目に入る最初の日である。其の初めの日の夢に、無庵師匠の姿が霊夢に現われて、「ようやく 頭が動き始めたか」と云うのは、私が19年間、頭が眠っていたと言う事に成る。
1983年(S58年)3月18日に、屋久島で無庵師匠に会って、其れから私の思考は、師を対象として働いて来た。
特に、1984年6月4日(旧5月5日)に神懸りに成ってからは、自分と、世の中や宇宙との関係を考えるのではなく、無庵師匠を中心とした社会の組み立てを考えて来た。
其の、無庵師匠を中心とした、社会の在り様の考え方は、私の脳が止まっていた事になるのだろうか。
私は、自分の仕事も、家庭も捨て、無庵師匠を護ることが、社会と、人類と、地球を護る事になると信じて、動き回って来たのである。
其れが、数日前、岡山のスーリアさんが「屋久島に 6月8日・9日・10日の日程で 皆で行くから その下準備の為に 屋久島に帰って 様子を見て来てくれ」と云って来た。
私は、そう言われて、数日間屋久島の事を思い出していたら、昨日は親友で、今朝は、無庵師匠と弟の夢である。
私は、1984年6月4日に神の世界に目覚めたと思って、今日まで18年間生きて来た。
其れに、信じられない奇跡が数々起きたので、何の疑いも持たず、神のメッセージに従って来た。
そして、昨年の4月7日にスーリアさんに出会って、私の18年間の行動は間違いなかったのだと、確信を持つ事が出来たのである。
そして、私を理解して下さるスーリアさんと一緒に、屋久島へ8年振りに帰れる事になり、屋久島での数々の、昔の出来事を思い出している。
その、記憶再生の行為が、また新しき夢の世界を創り出している。
是から、屋久島に帰るまでに、どの様な変化と出来事が起こるのだろうか。
私は、18年間の夢から覚めるのか、あるいは、夢の上に、また夢が重なって、後戻りが出来ない世界に、突入して行くのだろうか。
ハッキリしている事は、屋久島で神の夢の内に入った時には、其れまでの人間関係は、全て崩壊してしまった。
残ったのは、無庵師匠と数人の友人だけである。
その数人でさえ、私を理解しているのではなく、其れまでの私を信じて、心配だから、付き合ってくれているだけの人であった。
其れが、全国の旅に出て、現在・いまでは、全国に澤山の友人・知人が出来た。其の人達の中には、私の事を理解して下さる人も、何人かは居るだろう。
その人々が、夢の産物とは、とても思えない。
今度の、屋久島への帰島の旅は、その新しき友人達が、バックに控えての事である。今度は、私の夢が、現実へと転換するのかも知れない。
私が、無庵師匠に捜し出されるまで、夢見ていた理想郷の世界が、18年の時空を抱えて、その時空を育て、新たに始まるのかも知れない。
無庵師匠に出会ってから、19年が経過し、私の夢は、全体の夢として、再び創造へのエネルギーと成って、動き出すのだろうか。
今朝の夢の中では、私は、皆の後の席から話していたが、近い内に、その塾の先生に代わって、私自身が話しをする日が来るのかも知れない。
私の頭が、動き出すとは、どの様な意味なのかは、未だ定かではないが、其れを引き出してくれる人達が、現われるのかも知れない。
今日は、その予感だけを感じて、是だけにして措こう。
平成14年3月19日
礒邉自適
2002/3/18
霊界の親友
14・3・18
今朝の霊夢には、28年前に亡くなった、私の親友が出て来た。
其の親友の名前は、「岩川道夫」と言い、母親が道を歩いていて、陣痛が始まって道路で産れたので、其の名になったとの事である。
其の親友が住んでいたのは、私と同じ村で、私の家の東方向1kmぐらい下流に、彼の実家は有った。
1km離れていても、途中には家が1軒も無いので、隣の家と言う事になる。
都会育ちの人に、1キロ先が、隣と言うのは、理解出来ないかも知れないが、私の住んでいた地域は、戦後に始まった、農業の開拓地区に認められたくらい、戦前は家が無い所だったのである。
だから、子供の時は、何キロ範囲かの子供達が集まって、遊んでいたのである。
その仲間の内でも、道夫は一番頭が優秀で、リーダー格であった。
年令は、私より二学年上だったので、色々な遊びを教えてくれた。
遊びの中でも、道夫が教えてくれたのは、海の魚釣りの仕方である。
何事も、全くのゼロからは出来ないので、先ず、店に「釣針」と「テグス」と「おもり」を買いに行く事から、釣針のテグス糸の結び方、竹山に行って竹を切って来ての釣竿の作り方、暦から、海の満ち干きの時間の計算をする事等を、教えてくれた。
それに潮の満ち干きで、魚が移動する通り道、魚が良く釣れる天候の見極め方、魚の種類、餌の捕り方や、付け方等が、自分一人で出来る様に成るまでは、手取り足取りで教えなければならないから、年上に生まれた者は大変である。
現代では、釣竿は、釣具店に行けば売っているが、当時は自分で竹山に行き、自分の体に合った大きさで、年数が経って丈夫で、しかも虫が食って穴が開いていない、真直ぐに伸びた竹を、選ばなければならない。
そして、伐る竹が決まったら、伐り倒して、表皮が剥けない様に気を付けて、枝を落とすのである。
其れから、家に持って帰り、庭に焚き火をして、油抜きをしながら、曲がっている箇所を、焦げない様に焼いて伸ばしてから、元の形に戻らない様に、冷たい水で冷やさなければならない。だから、現代の子供達とは違って、する事が多岐に渉っているのである。
教わる子供も大変だが、その工程で、教える本人も、指導力が自然に養われる事になっていたのだ。
私は、小鳥(主に目白)を何羽も飼っていたが、山に目白捕りに連れて行ってくれたのは、西方向500m位の所に住む、四歳上の「中村一男さん」であり、海の船釣りを覚えさせてくれたのは、港に近いと所に住む六歳程年上の「泊隆章さん」である。
思い出して行くと、次々と、遊びを教わった当時の、状況の場面が甦って来る。
話しを親友の道夫に戻すと、親友は、私が27歳で結婚した時(1974年3月3日)、結婚式の司会進行をしてくれたのだが、其の年の夏、体の調子が悪くなって病院に行き、其の時は、既に癌の最終段階で、秋深まる頃に亡くなった。
家族宛ての遺書には、「先に行って 待っているから」と書かれて有ったらしい。其の言葉は、親友が、霊魂は永遠である理・ことを、確信していたからであろう。
不思議な事に、其の道夫兄は、中学を出て、鹿児島市の谷山(私の父の故郷実家近く)のお菓子屋さんに就職をしていたのだが、ちょうど、私の父が亡くなった時に、故郷に帰って来て、私の良き話し相手になってくれた。
私は、父親が急に亡くなって、一家の大黒柱となったのだが、其れを支えてくれたのが、其の道夫兄であったのである。
そして、5年間一緒に、農業経営に取り組んで、道夫兄は青年団活動で知り合った女性と結婚した。だが道夫兄は、農業経営が上手く行かずに農業を止めて、大阪で仕事を見付けて離島した。
なんと、其の出発した日が、私の父親の5年目の命日の10月23日だったのである。
私は、後で其れに気付いて、「あぁ、そうか。神様が私を助けるために、5年間 道夫兄を与えてくれたのだ。」と、感じたのである。
道夫兄は、其れから数年後に再び屋久島に帰って来て、奥さんの実家である楠川に住んで、宮之浦の港で働いていた。
私が27歳で、道夫兄は30歳に成ったばかりであり、あまりにも若い旅立ちだった。
大阪に出てから、私に何度も手紙が来て、「自適の能力があれば、大阪に出て来れば 大出世する。」 と誘われたが、私には、弟妹が四人も居て、母親も東京育ちで、親戚が一軒も無かったので、家族を置いて一人で島を出る事は、出来なかったのである。
道夫兄が亡くなって、ちょうど10年目が、私の神懸りの年である。
私は、此の世界に入ってから、聖霊に荒野を引き回されたが、最初に連れて行かれたのが、上屋久町楠川に有る道夫兄の墓だったのである。
一緒に海釣りに行って、釣針が海中の岩に引っ掛かって、私が困っていると、道夫兄が海に潜って外してくれたりしていたので、道夫兄は、霊界に在っても、私の守護霊として、父親と共に活躍していたのだろう。
今朝の夢では、私が、何処かの建物に宿泊していて、部屋の中に座っていると、誰かが部屋の窓を「コン コン」とノックする音がしたので、其処を見ると、道夫兄が山登りの格好をして立っていて、大きなリュックを背負っており、装備は重装備である。
私が立ち上がって、窓に近付くと、窓のロックの「取手」を手指で差し示して、「開けて 部屋に新鮮な空気を入れろ」と、云うのである。
私が頷くと、「先に 登っているから」と云って、歩き出し、窓の外には見えなくなった。
今朝の夢は、何を意味するのだろうか。
道夫兄が、夢に現れたのは、今までの夢では、記憶が無い。何故、今朝、出て来たのだろうか。
本日3月18日は、私が、屋久島で無庵師匠に捜し出されて、丸19年経った日である。
だから、無庵師匠に捜し出されて人生が変わってから、本日から20年目が始まる事になるのである。
私が修行をして、神の世界に入ったのは、37歳の時だが、父が死んだのが17歳の時だったから、是も「37年一17年」の20年である。
だから、死んだ父が、20年振りに4311体の霊界人を連れて、彼の世から帰って来た事に、成るのである。
私は今、55歳であるので、後二年で57歳に成る事になる。
父が死んでから、後二年で40年になるのだ。57歳まで、残り二年であるが、其れまでに、人類救済の目処が立つのだろうか。
今朝の、道夫兄の登る山の頂きは、二年後に明確にされるのかも知れない。
今日からまた、新しい神の働きの、流れが起きるのだろうか。
神社の祝詞には「神儀りに儀(はか)りたまいて・・・」と有る。
私は、是からも、肉体が無い為に、意いが実行出来ない、霊界の人達の御杖として、生きて行かなければならないのだろう。
私の役目に、名前を付けるなら、神社に勤務している、神霊を労(ねぎらう)役目の、「禰宜職・ねぎしょく」となるのだろうか。
今朝の夢で、道夫兄は、窓を開けて、部屋に新しい空気を入れる様に私に云った。
是から登ろうとする山は、新しい空気を吸って、呼吸を整えて於かないと、登れないと言う事なのかも知れない。
人間の脳は、大量の酸素を必要とする。是から、私の能力が、オーバーヒートする様な事が起きるのだろうか。
昨日は、彼岸に付いての文章を書いたら、夜のテレビ番組「知ってるつもり」で、「人間、釈迦」と題して9時〜10時半まで、特別番組が放送されていた。
其の内容を観ていると、「イエスキリスト」や「釈迦仏陀」は水浴びをして悟っている事が、一度も出て来なかった。
誰一人、釈迦仏陀や、イエスキリストの真実を、知らないのだろうか。
私は是からも、4300体以上の霊の、労いをして、彼らの念(おも)いを叶えて行かなければならないだろう。
その為には、新鮮な空気がたくさん必要となる。
私は是から、酸素が豊富な山に、登る必要が出て来るのだろうか。
其れは、屋久島生れで、屋久島育ちの私には、当然の事かも知れない。
岡山のスーリアさんが、屋久島の山に登りたいと云い出している。
道夫兄は、その準備の為に、屋久島に、前もって帰って行ったのだろうか。
平成14年3月18日
礒邉自適