このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2002/2/28
稲と水田
14・2・28
今朝の霊夢は、久し振りに、強烈に、ネガに焼き付きそうな場面が映って来た。
其れは、定まった一枚の写真みたいに、動かない状況の一場面である。
其の場面は、水が張ってある、水田の水面に、青く元気に伸び始めた稲の苗が、生えている。稲の大きさからすると、6月から7月に向かう頃だろう。
風が無く、初夏の太陽の光がサンサンと照って、水面に跳ね返り、稲はその光を全身に受けて、全力で生命を成長させている。
私の意識は、その場面を見て「元氣」の言葉を思い出していた。
水田と稲は、日本の文化にとって一番の基礎に成っている物である。
「年」と言う漢字を「トシ」と用いているのも、稲を春に植えて、秋に収穫する作業を一回済ます事を、「ひと年が済んだ」と言っていたのを、「一年」との文字にしたのである。
この事からも解かる様に、日本人の暮らしと、暦には、稲の栽培が、切り離せない様に成っている。
日本の神社の祭りや、生活風習も、稲栽培の作業日程に合せて組み込まれており、「田植え祭り」や「虫追い」「収穫祭」などの、催しの内容は各地で様々だが、基本的な精神構造は皆源を同じくしているのだ。
朝起きて「元氣」の文字に、「米」が付してあるのが気になり、漢語林で調べて見た。
図でも分かるように「氣(気)」は「气+米」で出来ており、「气」は「湧きあがる雲」の象形で「水蒸気、いき」の意味を表す。
「米」は「こめ粒のように 小さいものの意味」とあり、小さい粒で目に見えないような、気の動きを表す文字だと理解ができる。
「元」は「かんむりをつけた人」の象形で、「かしら(頭)の意味を表す」と 載っており、元気で知力も体力もあり、他人を指導できる人の、立ち姿を意味している。
「元気」の、元と、気を、合せて理解すると、人々の尊敬できる人が立っており、其の人の体から、徳のエネルギーが放出されている姿が見えてくる。
肉体(體)が病気では、人々の同情を得る事は出来ても、尊敬を得る事は出来ない。心身とも、健康でなければ、元気の言葉の対象には成れないのだ。
また、漢語林の气部には、次のように記されている。
「きがまえ。气を意符として 氣(天地の間を充たし、自然現象や生命などの元のなると考えられているもの) に 関する文字で出来ている『気、氛、氤、』が有る。」
今朝の霊夢の場面は、その「氣」が真に満ちている場面であった。
其れで、人間の「元」や「允、充」を育てているのは、大地の氣である理・ことが良く理解できた。
今朝のメッセージでは、老子の謂う「嗇 (しょく)に しくは無し」の言葉が、改めて思い返される。
今朝の霊夢には、水田の後に、三つの場面の映像が映されて来た。
其の一つ目は、私が家に帰ると、一日中留守をしていたので、自宅に飼っている小鳥の餌が切れて、目白が死に掛けている。
そして、今にも、止り木から落ちて死にそうな、目白の鳥籠に、自然の目白が遣って来て、元気に挑戦しようとしている。
籠の中の鳥は、反応する元気も、すでに失われてしまっているのである。
二つ目は、プロのカメラマンが私を連れに来て、鉢植えの蘭(デントロビューム系)が数鉢ある所に案内して、私に、カメラのファインダーを覗くように薦めるので、その蘭を良く見ると、葉も花も生き生きとして元気である。
此の二つの場面の映像は、小鳥や自然の生物は、自然の中に住んでいる方が元気であり、鉢植えの蘭は、本来、南方の樹木の上の枝に育つ物で、鉢植えでないと育たない物である。
だから、南方の欄を、日本の自然の中に植えても、枯れてしまうと言う事だろう。
今朝のメッセージは、人間や、他の生物が、何処の場所で育つと、元気になれるか、その適性を、良く観る様に知らせて来たのだろう。
松下電気の、創始者である「松下幸之助氏」は、人の欠点を見るのではなく、長所を探し出して、適材適所に用いた事で有名である。
これから、新しい未来を創造して行くに当り、人間の持ち味や、地球上のあらゆる生命を、如何に生かして、調和を儀(はか)って行くか。
其れと、自然のエネルギーを理解して、人々の幸福を創り上げるかが、私の是からの課題なのであろう。
前にも述べたが、愛媛、広島、出雲地方には、昔は「ありがとう」の方言が無く、「だんだん」がその意味の言葉である。
其の「だんだん」の言葉は、神社の拝殿から、神の社までの、16段の階段に関係が有るのではないだろうか。其れは、人間が神の意識に辿り着くまでの、精神的な階梯を意味しているのであろう。
私はいま、神社の16段の階段の、何段目に達しているか、自分では判断できないが、元気を育てている、宇宙の法則に、惟、従って行くしか、他に道は無いだろう。
「自由」の「由」は、「惟、大きなモノに 由(したがう)を 由(よし)」とする意味である。
私も、ようやく自由の意味を、現実の事として、体験する日を迎えたのだろうか。
平成14年2月28日
礒邉自適
2002/2/23
国造り名簿
14・2・23
今朝の夢には、未だ、誰の名前も記載されていない名簿が、映り出されて来た。
今朝の映像の場面では、私が、事務方の年配女性を2名ほど連れて、新しい国造りを話し合う会合に出向いたが、いくら待っても誰も来ないのである。
入口の机の上に有った名簿を開けてみると、未だ、誰の名も記載されていない新しいノートだった。私は夢の中で、何故、誰も参加しないのか考えていた。
新しい国を造ると謂っても、新しい国の概念が定まっていなくて、呼び掛けの文章も出来ていない様である。「国」の漢字の意味は、元字の「國」は「口+或」の組み合わせで、「或」が「ホコ・鉾」の象形で、武装した「村(口・くにがまえ)」の意味からきている。
国が大きくなると「邦(くに)」と区別することが有ると、漢語林には載っている。是までの国の概念とは、軍隊が存在し、その軍隊が管理する範囲が、1つの国と言う事になる。軍隊が大きくなるか、範囲が広くなれば、大きな国と言う事に成るのだ。
現在では、アメリカ合衆国が1番大きな國であり、嘗ては、蒙古やローマ、ギリシャ等が代表的な國であろう。別の角度から考えると、1つの政府が1国家と言う事になる。
「政府・セイフ」とは、「政」は「正+攵」の組み合わせで、正しい教えを意味する。「府」は古字が「府+貝」で、「广(建物)+付(巻物、文書)+貝(金、物質)」を組み合わせてあり、建物の中に法律などの文書と財産が有り、管理するの意味である。
政府とは、「立法」「司法」「行政」が行われる処で、行政とは内閣を頭として行政組織が存在し、国土保全と軍隊の管理、税の管理が行われるものである。
政府の存在は、国民全体の安全と幸福の為に存在する事が、1番の目的だが、必ずしもそうでない事が有るのが、問題である。
現在の世の中を見ても、国民が幸福だとは、とても謂えない状態である。一部の人々は金や資本に恵まれてはいるが、精神的な面でも幸福かと言うと、日夜心配事が多くて、安心できる状態ではないのではないだろうか。
国民全体が不安で居るのは、とても良い政治とは言えないであろう。
「治・チ・ジ」とは、「民の心を柔らかく耕して、安心させる」の意味である。心配が溜まって、心が固くなっているのでは、とても良い政治とは言えないのだ。良い政治が行われるのが、良い政府である。だから、良い政府を創造する事が、新しい国造りと言う事になるのである。
今朝の霊夢には、未だ、其のメンバーが1人も居ない状態であった。
誰かが、呼び掛けを行って、新しい方向性を示さなければ、世界は良い政治が行われる方向には、進まないのではないだろうか。
今朝の私は、其れに付いて、未だ、為すべき手段が見付からないでいる。
平成14年2月23日
礒邉自適
2002/2/21
太公望の採点
14・2・21
今朝のメッセージは、お地蔵さんの後に「太公望の採点」と「出来損ないの長男」と出て来た。
其の二つの意味を、単純に考え合わせると、太公望が採点すると、現代の長男は、出来が悪いと言う理・ことに成る。
其の事を、私なりに考えてみると、上は天皇家から、下は農家や商家まで、跡取りの出来が悪いと言う理・ことに成る。
其の、跡取り息子の点数を決めるのが、太公望と言う事になる。
「太公望・タイコウボウ」とは、釣りをする人の呼び名となっているが、中国に実在した人物らしい。
辞典『言泉』には、「中国・周の政治家。春秋時代斉の始祖。姓名は呂尚という。渭水で釣りをしていて文王に見いだされてその師となり、文王・武王をたすけて殷を滅ぼした。周の祖、太公(古公亶父)が待ち望んでいた賢者という意味で、太公望と名付けられた。」と 有る。
この事からすると、王様の師に成る御仁が、釣りをして遊んで居た事になる。
現代の、世の中での魚釣りは、如何に大きな魚体を釣るか、数を多く釣るかの競争だが、太公望の釣りと云われるものは、単に魚を釣る為の釣りではなく、瞑想の替わりの釣りである。
魚が食い付くと、外して逃がして遣らなければならないので、釣れると面倒だから、餌を着けていないし、何かが引っかかっても面倒なので、針も付けていない釣りだと伝えられている。
其れは、家に居て、ボーッとしていても仕方がないので、散歩がてら、景色の良い所へ出掛けて行き、唯ボーッとして居ると、他人が余計な詮索をするので、「釣りをして居る」人であるとの認識を与え、他人の関わりを、受けない為の方法なのである。
中国には「悠々自適」の言葉があり、同じ意味が、仏教の「三昧・ざんまい(サマディ)」である。
その「三昧・ざんまい」が、「釣り三昧」等の三昧として、使われている言葉の語源なのだ。
「悠々自適」に暮らしている人が、王様の師匠に成った話が、太公望の伝説なのである。その太公望が、「出来損ないの長男」と言う事は、王様の長男が出来損ないで、王様の跡取りに成る事は、無理だと言っている事になる。
現代の日本国で言えば、王様とは「天皇陛下」で、長男とは「皇太子殿下」の事になる。
今朝のメッセージは、今の皇太子には、出来損ないの点数しか、与えられないとの理・ことなのだろうか。
天皇とは、国の代表であり、表舞台の主役である。
天皇家は、国民の鏡であるので、天皇家がお手本とならなければ、国民は上から下々まで、指針を失ってしまう事になる。
家の長男に生まれると言う事は、先祖の霊の期待も大きいのだ。
それも、本家の跡取り長男ともなれば、尚更の事である。
戦後、日本の伝統や、格式が大いに見直され、改善されたかに思われているが、一番大事な処が、失われてしまった様な感じが有る。
国の伝統、家の伝統を、伝え護るのは「家風」である。
天皇家には、日本を代表して、家風を守り伝える義務があるはずだ。
中国は、文化革命で、その伝統が消えてしまった。
日本も、家督相続の法律が変わり、税法も変わって、長男がその家の家風、伝統を相続する事が難しく成ってしまった。
その事が、長男の意識を確立する事を妨げている。
若し、日本国から天皇家の存在が無くなれば、長男の家督相続の伝統も、消えてしまうのではないだろうか。
霊界にいる太公望も、心配で、釣り処ではないのかも知れない。
平成14年2月21日
礒邉自適
2002/2/20
お地蔵さん
14・2・20
今朝の霊夢には、お地蔵さんが立っているのが、映し出されて来た。
周囲の景色は見えなかったが、お地蔵さんは、淡い草色の上着を着せられており、中着は白で足元まで達していた。其の姿は、明るい色合いの中に、左を向いて静かに立っていた。
地蔵の次の場面には、白胡麻や黒胡麻、粟等の、小さい実の食物が並べられているのが映って来た。
其れは、多分、地蔵さんのお供えの品々だろうと想われる。お地蔵さんは、小さい実で、未精白の食物が好きだとの理・ことではないかと想われる。
「地蔵」を、辞典言泉で調べてみると、地蔵は「地蔵菩薩」の略で、地蔵菩薩は六道一切衆生の苦を除き、福利を与える事を願いとする菩薩。また、特に地獄の衆を強化し、代受苦の菩薩とされる。頭をまるめた僧形で、宝珠を持ち、平安中期以降は宝珠と錫杖を持つ姿が一般化し、多く石に刻まれて路傍に立てられた。 と 載っている。
どうやら、地蔵菩薩とは、人々の苦を肩代わりして、楽にしてくれる菩薩らしい。
人々の生活に、一番身近な場所に、地蔵が位置付けられているのが良く分かる。道路に、地蔵が建てられているのも、旅人の重荷を、肩代わりしてくれるからなのだろう。
地蔵菩薩は、何故、立っているのだろうか。
立っている姿は、何時でも歩き出せる形である。
拝む人の、気持ちからすると、自分の為に、何時でも歩き出してくれそうだし、何時行っても、同じ場所に動かず立っている。
人々の、信仰対象と成れるのは、何時も、同じ場所に動かずに存在している事が重要なのであろう。
昨日は、其処に居たけれども、今日行つたら、居ないと言うのでは、安心の対象には成らない。何時も、同じ場所に存在する事が、人々の安心の的と成れるのだ。
寺社や、仏閣にある仏像は、敷居が高くて、身近ではないし、個人的な苦労を、簡単には肩代わりしてくれそうにない。
その点、道端に立つ地蔵菩薩は気軽である。
仏教の祖は、インドのお釈迦様だが、其の釈迦は、寺社や仏閣にある仏像的ではなく、道端に、雨の日も、日照りの日も、相変わらず身近に居てくれる、そう言う存在ではなかったのだろうか。
現在の世の中は、釈迦仏陀は、仏教と言う商売の世界の、道具となり果てている。今朝のメッセージは、日常の普通の生活からは、縁遠いものと成ってしまった釈迦仏陀を、「身近な物とせよ」との理・ことではないだろうか。
現在、日本の仏教界で生活をする人の多くが、妻帯して「肉食・邪食」の生活をしているが、釈迦仏陀は粗食を基本としていた。
今朝の夢に、映って来た食物は、肉や魚ではなく、小さな粒の草々の実である。
其れは、現在では小鳥の餌として、スーパーで売られている様な、物ばかりである。
人々を、救える人間と成るには、肉食や化学物質の混ざった食事を止めて、自然な食べ物、それも未精白の物を、食べなければならない理・ことを、伝えて来たものと言えよう。
何事も、基本が大事なことを、改めて感じた、今朝のメッセージであった。
平成14年2月20日
礒邉自適
追記
2月の17日・18日には、鹿児島市の城山観光ホテルで、全日本有機農業研究会の会合と総会が開かれ、18日朝、種苗交換会が行われて、雑穀や自家採取の野菜の種などが交換された。小さい流れだけれども、食の道も繋がっている事は有り難いことである。
昨日、夜遅く帰って来ての今朝の夢である。旅人の道すがらに、静かに立つ地蔵菩薩は、我々人類を、未だ見捨てず救おうとしているのだろうか。
2002/2/20
法則
14・2・20
今朝の霊夢には、水の流れと、「法の則」との縦書きの文字が、映し出されて来た。
夢に映った、「法」の漢字は「去」の上に「学」の旧字体の「學」に付いている、両手の形が付いており、「氵(水)+(両手)+去(裁判に用いた神獣の意味)」の組み合わせで夢に現れた。
・「則」は「刂(刀)+貝」の組み合わせで「貝」は「鼎」(かなえ)の象形で、昔かなえに 刀で重要な法律を刻んだことから「のり」の意味を表す。(漢語林)
・「法」も「則」も日本では「のり」と読み、「おきて・きまり」の事である。
漢字の意味からすると、「法」は、裁判の様子を意味し、儀式の意味と受け取ることが出来る。
其れに「則」は、決まった法律を記す、文書と受け取ることが出来る。
現在では、日本には「憲法」と「法律」の二通りが有る。
「律」も、「のり・おきて・さだめ」の意味に使うが、「律」は「彳(行)+聿」で、「聿」は「手」に卜辞を刻み付ける為の、道具を持っている形で、人の行く道路に、道標を刻み付ける意味に成り、人間の生き方の指針の事だと思われる。
今朝のメッセージは「清い水に 両手を浸し 裁判の儀式を整え 文書にする」との意味だと思われる。
マホメットの教えでも、神への祈りの時は、両手を清め、顔を洗ってから始めるし、日本の古い言葉にも「足を洗う」とか、「顔を 洗って 出直す」とかが有る。
今朝のメッセージは、原点に還って、「のり・おきて・きまり」を創り直せと言う事だろう。
出雲の島根半島には、「十六島」と書いて「ウップルイ」と読む地名が有る。
其の意味は、アイヌ語では「我が水の道」であり、日本語では「宇振い」となり、水が「自分(みずから)」と「宇宙」の関係性を、繋ぐものとの考え方が、伝えられている。
イエスキリストも、釈迦仏陀も、水で我が身を清める事から、宇宙のシステム・大自然の「おきて・きまり・のり」と、繋がっている。
私も、屋久島の安房川に身を浸して、禊ぎ祓いを行った時から、この世界に目覚める事に成ったのである。
今朝の夢は、その原点に、立ち返れとの事なのかも知れない。
原点に立ち返ったとき、21世紀に、どのような法則が必要なのかが、見えて来るのだろう。
平成14年2月20日
礒邉自適
2002/2/16
溶解度
14・2・16
今朝のメッセージには「溶解度」と出て、続いて「エネルギーの変質」と「生体の道導(みちしるべ)」と出て来た。
「溶解」とは、「心のしこりが 溶解して 消えていった」とかに、使う言葉である。今朝のメッセージの意味は、その度合いを考えろと言う事だろうか。
釈迦の教えには「解脱、禅定、三昧」が大事なことだとされ、「解脱・ゲダツ」が一番前にある。
「解脱」とは「この世の すべての煩悩から解放され、迷いのない苦悩から抜け出て、真の自由に達すること。涅槃に達すること。」とある。(言泉)
私の、現在の溶解度が何度であるかは、自分では確かめようがないが、屋久島で18年前に解脱を迎えた時よりは、随分と、その度合いは低くなっていると思われる。
と言うのは、あれから18年間、地球と人類をどのように救うか、其の事ばかりを考えて、頭の中は環境問題と、探し出した人達の事で一杯に成っているからである。
だから、とても溶解して、解脱の状態であるとは謂えないのである。
私が、屋久島で18年前に、解脱を迎えた時には、草木や、小鳥達とも、意志の疎通が出来たし、宇宙と感応していたので、花や物が、空間から現出したり、消滅したりしていた。
私自身の肉体からも、農薬などが分離して、手の指の関節や、小便から小さな玉に成って出ていった。その頃に比べると、感応度は半分程であると言えようか。
しかし、その頃は、感応度は高くても、知恵が少なく、理解度は低かったと思われる。
と謂うのは、今に成って、その頃起きた事が、何だったのかが良く整理ができて、納得が行くからである。
「解脱」を果たした頃は、ただ奇跡の連続と、宇宙が始まってからの、記憶の蘇りを覚え、其れを記憶するだけで、大変な作業であったから、理解が追いつかなかったのである。
其れから、18年が経過して、是までの旅で仕入れた知識で、私に起きた出来事を、ようやく普通の人々に、伝える事が出来る様に成って来ている。
ようやく、釈迦仏陀の様に、説法が出来る状態に近づいたと言えようか。
是までの18年間の旅は、その準備期間だったと言えよう。
もちろん、解脱を迎えるまでの、37年間の人生経験が、土台に有るからこそ、其れも可能なのである。
私は、屋久島で、37歳まで自然環境に恵まれ、仕事としては農林漁業の第一次産業に携わってきた。
その経験がなければ、解脱も浅いモノとなったであろう。
父親が、早くに他界したために、父親の役割も、若いときに体験してしまっている。私は、子供も七人居るが、離れて暮らしていても、冷静に対処する事が出来ているのは、其れ等の体験を、既に済まして居るからである。
現在は、ただ宇宙の意志と、それに伴っている聖霊達と共に、「時節因縁・一大事因縁」の完成を願うばかりである。
其れは、「佛・ブッダ」の「三昧・ザンマイ」の境地と言えようか。
「三昧とは、雑念を離れて 心を一つの対象に集中した状態をいう。
この状態に入るとき 正しい智慧が起こり、対象が正しく捉えられるとする。」とある。 (言泉)
私は、現在、その「三昧」の状態にはあるのだろう。
「解脱」の、次の段階の「禅定・ゼンジョウ」は、在家得度を済ませ、短い期間で通り過ぎた。
完璧とは言えないが「真悠護法居士」の名を受けて、日夜、衆生救済に頑張っていると言えよう。
一日一日が、大事な事象を迎えているので、一大事因縁の人達を、結んで行かなければならない「時節・トキ」なのである。
現代社会は、生活様式が複雑で、「座禅・三昧」の余裕が有る時代ではないのだ。
今朝のメッセージには「生体(生態)の道導べ」と「エネルギーの変質」とも出て来ている。
「エネルギーの変質」とは、悟りの状態、魂の覚醒が生じた時に、人体の生命エネルギーは変質し、森羅万象と一体となるので、其の理・ことを意味しているのだろう。
其の様に成った時が、「ブッダ・覚者」の状態で、体のエネルギーは、宇宙本体のエネルギーと合体してしまうのだ。
其の事が起きると、すべての生命体と「いのち・生命」が一体となり「衆生一切 我が身」の、「スメミ親」の心境と成るのである。
それが、釈迦の説いた「ブッダ・佛」の状態なのである。
今朝のメッセージは、其の「佛・ブッダ」の役目や、佛の状態を、意識させる為のものだったのだろうか。
今朝の夢の続きは、学校の研究所へと変わり、二つの研究室の教授が、内容が判らない私を、心より温かく迎え入れてくれていた。
私は、化学や、物理や、哲学はサッパリ分からないが、大学の教授の中には、私の謂うコトを、理解できる人達が居るらしい。
今朝の夢に、現れた二名の教授が、霊界人ではなく、この世に実在する人物であると信じて、この道を進んで行きたいと想う。
平成14年2月16日
礒邉自適

2002/2/13
定着期
14・2・13
今朝のメッセージには、「定着期」との言葉がやって来た。
昨日の「中止」に続いて、「定着期」との言葉からは、何かの物事が、安定しようとしている事が理解できる。
何が定着するのか、何を定着させれば良いのか。
それは、意識の、あるレベルの定着化だと思われる。
現在の日本の状況は、全ての面に於いて、不安定に成っており、急激に何かが起きて、体制が崩れれば、人々はパニックを起こしかねない。
嘗て、ちり紙パニックが起きた事からも解かる様に、日本は島国で、海に守られて来たので、社会的混乱に対する心構えが育っていない。
食糧の自給率が30%しかない上に、円高に伴って、中国などの外国から多種類、大量の野菜等が輸入され始めている。
其の為に、日本国内の有機農家も、増えるどころか、生き残れない状態と成りつつある。
国債が暴落し、円安が、必ず訪れるとも云われ始めた今日、食糧さえも買えない時が来ようとしている。現在の日本国民には、その為の心構えも出来ていないし、国の政府自体にもその準備はされていない。
では、どうすれば良いのか。其れは先ず、パニックを起こさない為の、精神的指導者の養成と、現実的な救いの手段を用意する事であろう。
幸い、インターネット社会が準備されつつあり、広範囲に情報の遣り取りをする事が、可能に成って来ている。
政府が無策でも、優秀な人間が協力し合って、別の協力体制を作り上げる事が出来れば、政府に替わって、国民を救済する事が出来るだろう。
また、その新しき情報網が政治家を動かし、目覚めさせる事も出来るのではないだろうか。
現在の宗教家は、現世利益の為に日夜働いており、大局的な目で物事を見つめて、人々の指針になろうとする者は少ない。
過去の、教祖の教えを研究していても、安定期には役立っても、いざと言う時の有事の際には、何の役にも立たないだろう。
私達の、日常の暮らしの身の回りには、余りにも、多種多様な情報が乱れ飛んでいる。
世が乱れた時、一番大事なのは、どの情報が正しいかを、選択する見識眼を備えることである。その為には、正しい情報ネットをつくり、絶えず、偽りの無い純粋な情報把握をして、意識を整えて措くことが大事である。
その為には、何処かに、情報センターを立ち上げ、何が起きても、その動揺を抑えるだけの力量を、備えなければならない。
その為には、中心的人物が力強く、しかも安定していなければならないのだ。
今日の自民党政府には、その力は無いだろう。
小泉総理を支えるのではなく、其れを利権構造が潰しに掛かっている。
最早、日本経済が立ち直るべき方策はない。
良い対策をとる為には、出来るだけ早く、現在の経済システムが崩壊し、新しき人達で、新しき仕組みを創造するしかないだろう。日本から、一番先に資本主義が崩壊すれば、一番に新しき価値観が出来る可能性は高い。
日本の文化は、2000年の永い伝統を持っている。
その土台が、存在する間は、何が有っても、日本国民は、立ち上がる事が可能である。
アメリカンドリームは、浅い眠りの中の夢だ。
その夢も、行き詰まりを見せているようで、ソルトレイクのオリンピック開会式には、アメリカ先住民の人達を表に出してきた。
開会式のテーマは「心の内なる 灯をともす」であった。
部族の長老の挨拶も、「この世界には意味があり 人々には皆 使命がある」との言葉が述べられた。そして「鷲は 創造主の使い」だと、世界に向けて放送されたのである。
日本は、2660年前の神武天皇東征に因って、歴史が始まっている。
神武の手にする弓に、天から金の鷲が降りて来て止まった事から、新しい歴史が動き出したのだ。
私が、この世界に入る切掛けも、ある朝、ホトトギスと鷹が迎えに来て、始まったのである。
中国の古い文献にも、世の変わり目には、「禽鳥・きんちょう」が天の氣を受け取り、禽鳥が人間を動かすと有る。真に、その時節が、訪れたと言えよう。
私は、ホトトギスと、鷹が訪れてから、既に、19年目の春を迎えようとしている。
長い旅の、終着駅に着き、宇宙のメッセンジャーの金鷲は、その羽根を収める時を迎えたのだろう。
飛鳥(あすか)とは「飛ぶ鳥も 羽を休めて 泊まる宿」の意味である。
日本の祭りの、御神輿の屋根に止まる鳥は、その鳥の意味であり、神社の鳥居は、其の鳥が来て泊まる、止まり木なのである。
正しい意識の者が、正しい言葉で、神の使いの鳥を呼ぶとき、新しい創造主の使いの鷲は、その姿を現すのだ。
その鳥の意識は、定着する場を、得たのであろうか。
平成14年2月13日
礒邉自適
2002/2/12
中止
14・2・12
今朝は、霊夢は無く、起きて服を着替える間、脳の中から「中止・中止」と、何回も出て来た。辞典で「中止」を調べると「途中で止めること」と有る。
何かを、止めなければならないようだ。
朝、岡山のスーリアさんからも電話が有り、「胸が静かに成り 気持が良い状態だ」と云って来た。
スーリアさんも、私と同じく18年前より、神霊の影響を受けて、家庭に負担を掛けながら「神惟の道」を進んで来ている。
其れが、今朝は二人とも、胸の中が澄んで、何かをしなければな成らないとの気持が、消えている。其れは、何故なのだろうか。
2月9日に、スーリアさんが代表を務める「スーリア・サロン」のパーティが、岡山市のアークホテルで催され、60名の人が参加した。
色んな人達が全国から参加して、一人一人が自分の「おもい」を述べて、無事に終わった。
其れで、一応の雛形が出来たのだろう。
後は、その型が伝播して行けば良いと想う。
私が愛媛に住んで、1年7カ月が過ぎた。
私の動きで、幾つもの人々の縁が結ばれ、新しい動きが起きてきた。
大洲市に有る「少彦名神社」も、地元の人たちが動き出して、新しい氏子が名乗りを上げて来ている。私の役目も、一つの段階を終えたのだろう。
私の、18年間の旅の体験から謂うと、一段落が終わると、次の舞台が用意されており、次の段階に進んで、また、次の働きを行うと言う繰り返しが、是まで続いて来ている。
今回の「中止」の言葉が、胸の内から出る事が、何を意味するのかは、私には今の処は判らないが、新しい動きを、自分から起こす事は、してはいけないような気がする。
18年間掛けて、各地で行って来た事が、時節を迎え、私が手出しをしなくても、自然に・自発的に、起動を始めるのかも知れない。
イエスキリストの言葉にも、「今日1日を 一生懸命に生きたら、明日の事を考えないで 休みなさい。明日の事は、明日の朝、目覚めたトキに待っている。」との意味の教えがある。
私も「しなければならない」との気持を捨てて、何も求める事なく、新しい朝を迎えようと想う。
平成14年2月12日
礒邉自適
2002/2/11
9700万人
14・2・11
本日2月11日は、建国記念日である。
今朝の霊夢は、光の扉に向かって、左と右から、多くの人々が列となって進んで行くのが見えた。そして、その数が9700万との事だった。
15年前には、何万人かだったので、随分と救われて、光の世界に入る者が増えた事に成る。
今朝は、その他にも、盛り澤山のイメージが映し出されて来た。
其の中には、神が滅ぼそうとしている人達には、手を差し出して、救おうとしてはいけないらしい意味も含まれていた。
その説明の映像には、太陽の日射しが強くなって、植物でさえ、生き残れない状況になっており、人間は建物の内で、サングラスを掛けて居るが、其れでも生き残れない様なのだ。
此のまま、人口が増え、化石燃料を使いながら、地球の残り少ない緑を破壊して行くと、生物が生き残れない、地球環境に成るらしいのである。
そして、優秀な軍隊の将校らしき人物が、映り出されて来て、人殺しの訓練をしている人達は生き残れない、人殺しをして勲章を貰った人達は、帰り道を知らないとも示されて来た。
他にも、幾つもの場面が映って来て、生き残る為の方法が示されたが、文章には表現しにくいので書かないけれど、大事なことを一つ言うなら、日本の、洗練された生活文化の様式を、世界に伝え残す事を、是からしなさいとの理・ことである。
自然を大事に守り、自然の素材を、上手に活かして使う日本の文化は、世界に誇れるものである。
其の事は、日本の若者より、外国の若者の方が興味を持ってきている様で、日本の各地に、和紙を漉く外人や、陶器を焼いたり、中には茅葺き屋根の技術を覚えている人達まで居る。
それらの現象からも、日本には、神の救いの条件が澤山有るのだろう。
今朝のメッセージには、六人部屋のタコ部屋が映って来て、一人一人に個人部屋を与えなさいと有り、個人のプライバシーを守ってあげないと、人間形成が上手く行かないとも伝えられて来た。
他にも、様々な条件が示されたが、其れは、現実的な現場で、実践として現して行きたいと想う。
9700万とは、約60億人居る人間の中の、100人の内「1.6人」しか救えない事を意味している。
地球の環境を守りながら、調和を保って、生きて行く方法を、早急に組み立てないと、サバイバルゲームと成って、人類は、大変な状況を迎える事に成るのであろう。
日本は、国債が暴落して円安になれば、食糧やエネルギーの輸入が出来なく成る。
30%の、食糧自給率しかない此の日本は、世界一危険な国に成る事は、火を見るより明らかなことである。
これから、日本をどうするか、それは、私一人ではどうする事も出来ない。
無力な私が、何を是から出来るか、神に教えて貰いたいものである。
建国記念日・岡山市にて
平成14年2月11日
礒邉自適
2002/2/8
10円玉
14・2・8
今朝の霊夢には、10円玉が一個だけ出て来た。
一昨日、昨日と続いて、私の関係する人と場所に、大きな転換が訪れ、どうなるかと気を揉んでいたが、今朝は10円玉が出て来て「何だろう」と考えている。
「玉」は、丸いの意味で、円も丸い理・ことを表している。
数字の「10」は、「十・とう・ジュウ」で、完成の意味の「トウトウ完成した」とかに使用する様に、「十分・ジュウブン」の意味を持っている。
「十分丸くなった」、「完成した」との意味が、今朝の知らせなのだろうか。
他には、何もメッセージはなく、10円玉が一個映って来ただけなので、他に意味を探りようがない。
今朝の映像は、私の身の回りの変化に対して、私が動揺しない様に、全て丸く収まっていると、示してくれたのであろうか。
天の動きと、私は、相互扶助の様な関係に有る。私が居なければ、天の意志を受け取れないし、天の働きを認識する者がいない事に成る。
天・神は、人間界に認識をする者がなければ、働きが無意味になるので、まず天の働きを認識できる者を、育てる事から始めるのである。
人間界に、其の者が準備出来てから、全体を動かし始めるのだ。
其の者が、新しい「座標軸」となり、神の計画の「ウツシ」が、この現象界に現れて来るのである。
其の者が、日本語の「現人神・あらひとかみ」で、別の言葉で言えば、聖書で言う「義人」であり、新しい「王」でもあるのだ。
其れを、質量的に説明すれば、新しき「特異点」とも言えるだろう。
物が動くとき、中心的存在がなければ、皆バラバラに散ってしまい、物事の完成が出来なくなる。
天の座標軸であり、また物質面での特異点に、選ばれた者の名が「メシヤ」であり「王」である。
インドでは、2600年ごとに「転輪聖王(チャクラ・ブルティン)」が現れると言う。日本では、丁度、神武天皇から2600年が経過している。
正に、その時節を迎えている事になる。
此処で言う「王」とは、権力を持って民を搾取する王ではなく、一切、所有物を持たない「聖なる王」の理・ことであって、軍隊を持って、囲いを作る「國(国)」の意味の王ではない。
簡単に言えば、ブッダとなった釈迦に、国の政治を任す様なものである。
「天・神」が育てた人物が、天の意志の通りに、此の世を創造し、民を導き、その様子を認識し、情報として天に送り、また其の天から、新たな情報を受け取って、民や物を動かして行くのである。
その人物の名が「聖者」であり、日本語では「霊(日)知り」の役目である。
だから、天と人間には、切っても切り離せない、関係性が有ると言う事になる。
中国の老子は「天は大なり、地も大なり、そして人も大なり」と謂っている。天と、地と、人が、一体と成り、調和してこそ、人類に平和が齎されるのである。
処が、現代の世の中は、人間の欲望だけが先走りしており、天の意志を受け取る者が少ない。居たとしても、それは煩悩を抱えたまま、霊界にいる霊に動かされて、宗教や権力を欲している者である。
「天・神」は、一度に二人の王を育てる事はない。
何故なら、二人の王を立てる事は、わざわざ問題を起こす様なものであるからだ。
「座標軸」とは一点であり、「特異点」も一点である。
一個のピストンを動かすのは、一個の軸でしかない事と同じである。
人間でも、馬でも、昔から「旋毛(つむじ)」が二箇所有るものは、喜べないのと同じだ。
中心が、一箇所に在ってこそ、円は丸くなる。そして、その中心が動かずにジィーッとして居てこそ、渦は強く回り出すのである。
今朝の10円玉は、一個だけであった。
中心的役割を果たすには、どのようにしたら良いのか、そのマニュアルは無い。「芯」と言う漢字は、「草の心」で出来ている。芯とは、葉の細い蘭の一種の理・ことらしい。芯とは、出来るだけ細いほうが良いらしい。
西洋の言葉に「ホッカムリのカミソリ」と有り、其れは余計なモノを全て削り取って行き、最後に残った芯が真実であるとの意味らしい。
余計な情報を、全て削ぎ落として純粋な立場に成った時、其のコトが理解できよう。
日本の「神惟らの道」も、「みそぎはらい」が原点であり、釈迦の教えも「精進」である。
ますます「聖の道」は、険しさを求めている様である。
平成14年2月7日
礒邉自適