2002/1/28
〇の概念
14・1・28
今朝の霊夢は、何も現象は無いのだが、ただ明るいエネルギーが満ちている状態の中に、自分の意識が在る事を観じていた。
何も無い事と、エネルギーが満ちている事が、同一とは、説明が適確でない事は充分承知の上である。しかし、其れより他に、謂い様が見つからないので、仕方が無いのである。
「〇(ゼロ)」と謂っても、丸く線が引かれて、数字的な〇の文字が書かれているわけではなく、光の中には、見えない卵の様な形が、詰っている感じなのである。
其の卵は、完全な調和を抱えており、宇宙の全ての要素を、含んだ状態なのである。
其れは、宇宙の一切の法則や、物質の源を含んでおり、完璧な状態であると謂える。
チベット仏教に、マンダラの絵が有るが、あのマンダラが現れようとしている原点の、光の卵と説明すれば、少しは、エネルギー状態として感じられるだろうか。
日本の、禅宗の坊さんが、掛け軸や色紙に「○(丸)」をよく画くが、其の意味を大きく拡大して受け取れば、似ているとも謂えるだろう。
しかし、飽く迄も、空間を仕切る枠は無いので、線を引き、形にする事は出来ないのだ。中心も、有る様で無いし、光の広がりにも、行き止まりが無いのである。
其の拡がりには、何処にも中心は無いし、無限に終わりが無いのである。
其れは、無限のエネルギーの運動状態と呼べるだろうか。
とにかく、言葉に拠って定義付ける事は出来ないのである。
其れは、「〇、ゼロ、零、無、極、」と、文字や言葉にすると、全部外れてしまうのである。
ここ迄書いて、中国の老子は、この事を、掴まえていないのだろうかと想い、本棚より「中国の思想 老子・列子 徳間書店発行」を出して来て、本を開いてみた。
すると、最初に開いたページに、21章「不滅のエネルギー」と有る。この文章を読むと、私が今朝、観じた世界の説明がされている。
岡本天明氏の日月神示に、「道院殿老祖様(老子から派生した概念)だけを 内に祭り 後の神は外に祭れ」と有るが、正に、老子の世界は、宇宙の根源に到達した、体験に拠るモノだと言う事が理解できる。
「正に」は、当に、応に、方に、将に、と、五通りも、文字の使用が有るが、
当に、老子の教えは応じていると言えよう。
説明の方向も、対応も、当たっていると確信が出来る。
今日は、老子21章の処を参考に記載しておこう。
奥平卓氏の注釈が付いているが、当たっているとは言えないので、原文の訳だけを写すと、
「孔徳の容は、ただ道にこれ従う。道の物たる、ただ恍(こう)ただ惚(こつ)。惚たり恍たり、その中に象あり。恍たり惚たり、その中に物あり。窈たり冥たり、その中に精あり。その精甚だ真、その中に信あり。古より今に及ぶまで、その名去らず、もって衆甫を閲(す)ぶ。われ何をもって衆甫の状を知るや。これをもってなり。」
徳間書店 中国の思想 老子・列子 奥平 卓 訳
と有り、是は、体験をした者でなければ理解出来ないだろう。
しかし、人間は、皆その世界から生れ、この世界に来て住んで居るのだから、理解は出来なくても、何かの拍子に、瞬間的に、体験が出来る可能性を秘めていると言えるだろう。
人間は、有る事柄が起きて、全てに満たされた時、幸福感に包まれる事が有る。
其の、全てが有る状態が、其の世界に触れている時だ。
その状態を、老子は「ただ恍たり惚たり。惚たり恍たり。」と、恍惚の状態を述べている。
普通の人は、恍惚感は覚えても、その状態を認識し、説明する事が出来ないのだ。老子は、その状態を認識し、言葉として説明が出来ている。
この老子の説明こそ、全てを含む概念と言えるのだろう。
老子が体験し、理解し、言葉にした事が、親鸞には、説明が出来なかったのだろう。
親鸞は、其のエネルギーに包まれる状態に、誘導する方法として、取り敢えず「ナムアミダ仏」と、唱えさせたのだと推測(おもわ)れる。
其れに、他の名号として「南无不可思議光佛」とか「帰命盡十方无光如来」とか書いて、礼拝の対象としてもいる。
其れを「不可思議の光」として、説明出来ない物である事を、表記しているのだ。
密教で謂う「即身成佛」も、本来はこの世界の体験でなければならない。
その事の一部が、男女の性の仕組みである。
しかし、自分の不足の部分が充足され、恍惚感を得ても、其れは体験であり、悟りと言う認識の世界には到達できない。
性の恍惚感は、男女間、雌雄間だけだが、ブッダ(佛)の悟りの恍惚感は、森羅万象全ての関係性に於いて起きるモノ(現象)である。
其の世界は、無意識の世界、潜在意識の世界で起きる現象なので、知識で悟ろうとして、本を読んだり、他人の真似をしたりしても、体験を掴む事は出来ない。
其処のところが問題なので、空海は、最澄に理趣経を貸し出す事を断ったのだろう。
私は、無庵師匠に捜し出されて、食と知識を改めさせられただけで、教えを受けたり本を読んだりはしていない。
唯、悟りの体験が初めに有って、その理・ことの説明をする為に、老子、釈迦、イエスや他の人々が、其れをどう言う風に説明したのか、参考にする為に、本を読む様に成ったのである。
その手本として、現在は、老子の「道徳経」を、座右の書としているだけである。
今日は、老子の本を開くと、一回で21章が開いてしまった。
自分の手が、何故、其処を一回目に開いてしまうのか、その説明は難しい。
私は旅をしている間、本は荷物に成るので、本屋で、数ページ立ち読みするだけで過ごして来た。
大事な理・ことは、いつも一回目で、其のページが開かれてしまう。その秘密こそ、密教の世界であり、ブッダの世界なのだろう。
ゼロであって、全てを含んでいる世界、「孔徳の容(ふかい徳のうつわ)」は、ただ「道(法)」に従う事とある。
私は、今朝未明、その孔徳の深い穴の容に、落ち込んでいたのであろう。
今日は、私の、54歳の最後の1日である。
此の事は、天が与えた、私への誕生祝いか、卒業祝いのメッセージなのかも知れない。
平成14年1月28日
礒邉自適
2002/1/26
アミノ酸結合
14・1・26
今朝未明、自分の意識の、気持ち良さに気付いて、其の現象を潜在意識の中で、言葉に置き換え様と想うと「アミノ酸結合」との言葉が出て来た。
そして、其の言葉を映像化しようと意うと、白い陶器の様に、純粋に存在する物のイメージが、浮かんで来た。
朝起きてから、家の外に出て、島の山岳を観ると、2、3日前に降った初雪が、未だ所々に残っている。
その、冷たい空気の中を歩いて居て、「諺の力」との言葉が出て来た。
「諺・ことわざ」とは、昔から世間に言い習わされて来た、教訓や風刺などを含んだ短句。 と 載っている。(言泉)
「諺」の漢字は、「言+彦」の組み合わせで、「彦」は化粧するの意味で、人生を美しく飾る 教訓を含んだことわざの意味を表す。とある。(漢語林)
しかし、私が今朝、感じた「ことわざ」のイメージは、「言葉の技術(わざ)」の意味の様に想う。
私は、今朝の「ことわざ」の言葉の意味を、宇宙に関わる私達人間が、感じるイメージを言葉に置き換える「能力と技術」、つまり「わざ」と認識した。
「ことわざ」とは、人間と宇宙の「関係性(かかわり)」を、正しく言葉に置き換える能力だと言える。
その言葉の「わざ」に拠って、人類は、文明や文化を発達させて来たのだ。
是から、21世紀の社会を組み立てるに当たって、誰が、正しい「諺・ことわざ」を組み込む事が出来るのか。
其れが、私達に与えられた役割であり、天・神が、人類に与えた課題であるのだ。
私が、今朝感じた「身(からだ)」と「意識(こころ)」の雰囲気を、どう言葉に表現すれば良いのだろうか。
私は、取り敢えず、辞典「言泉」でアミノ酸を調べて見た。
「アミノ酸」は、分子中にアミノ基とカルボシキル基とを持ち、タンパク質の加水分解によって生じる化合物の総称とある。
アミノ基は、第一アミンやアミノ酸に含まれる基。とある。
興味を引くのは、アミノ基( NE2 が酸基と結合して RCONH になった基)をアミドと呼び、アミドとはアンモニアの水素原子の一つを、金属原子で置き換えた化合物、白色の結晶性物質。であると言う事が判った。
今朝の、私の霊夢の体験では、白い陶器状の世界と、スベスベした感触が有った。
私には、専門的な科学的知識は無いので、物質の世界をイメージ的に補足するしかない。
今朝は、私の意識が、自分の存在を確認した次元の所に、辿り着いて居た様な感覚に包まれ、非常に気持ちが良かった。
其れは、白くて、明るくて、静かで、清らかで、感触が良くて、素晴らしく気持ちの良い世界が、アミノ酸が結合した世界だと言う事に成るのではないだろうか。
生命は、蛋白質で出来ている。
その「蛋白質」は、アミノ酸が、酸アミド結合で相互に結合しあって出来ている高分子化合物、もしくは、これを主体とする化合物。炭素、酸素、水素、窒素その他の元素を含む。生物細胞の原形質を構成する主要物質で、生命現象と密接な関連をもつ。と ある。
更に、蛋白石と言うのがあり、それは含水ケイ酸を主成分とする鉱物。白色、褐色などでガラス光沢を有した塊状腎臓状。装飾用。美しいものは宝石となる。オパール。と 載っている。 (言泉)
私の今朝の状態は、生命現象の深い所に位置しており、オパール的物質界に、意識が在った事になる。
古い「ことわざ」の書物が「旧約聖書」である。
その大事なところに、最初の人間「アダム」は、神に似せて粘土で創られたと書かれている。粘土は、アルミとケイ素の化合物である。
聖書のことわざを、最初に語り始めた語り部は、私と同じ意識の世界に、旅をした事が有った者ではないのだろうか。
「神」自体は、お喋りをする事は無い。
言葉を創り出すのは、人間の脳味噌である。誰の脳味噌が、創造した言葉を、諺として伝えて行くのか、それが一番の人類の課題であると言えるだろう。
人間の意識が、自分の誕生地を探すとき、その故郷は粘土の海だろう。
なぜなら、その「海」が「産み」であり、無機質から、有機質が産み出された源だからである。
最初に立ち現れたアダムの対象として、肋骨(カルシウム)から「イヴ」が創造されている。
蛋白質の元であるアミドが、カルシウムの構造を作り上げ、生命の元を固定したのであれば、旧約聖書の語り部も、良い処に、意識が位置して居たと言えるだろう。
私は、後三日で55歳となる。
旧約聖書の語り部が、何歳だったのか興味は尽きない。
平成14年1月26日
礒邉自適
2002/1/16

永田岳1880mから見下ろす口之エラブ島
高見へ上がれば良く見える
14・1・16
今朝の霊夢は、屋久島から種子島が近くに見えて、段々と近づいて来た。
そして、最後には、森林の中に生えている、木陰のシダの葉までが、ハッキリ見えて来たのである。
其の私の居る場所には、右側に、屋久島の役場に働いている仲良しの友人が居て、前には、上司の様な年配の方が二名で、何か話をしている。
夢は、其れで終わったのだが、意識で意味を探っていると、今度は、屋久島の海抜2000mの山岳の頂上から、種子島を観た記憶が蘇って来た。
屋久島の、高い山の上から種子島を見ると、水平線の所には無くて、直ぐ手前の目下の位置に見える。
頂上から見ると、種子島の向こう側に、太平洋が広がっていて、水平線が種子島の向こう側に、遠く見えるのである。
私は、屋久島の安房で生まれてから、37歳まで安房に住んで居た。
安房の浜辺から、種子島を見ると、島影は水平線より上に出ていて、ロケットの打ち上げも、山の反対側から発射するので、種子島の山上に上がるまでは見えない。
しかし、海抜2000mの山岳の頂上から見れば、発射台まで見えて、ロケットの背景には広い海が見える。
そんな事を思いながら、朝起きて、今朝の霊夢は、何を意味するのか考えてみた。
夢に出て来た人が、町役場の友人と、役所関係の人の様なので、先日テレビ番組で観た、長野県の田中知事が、役所に働く人と、県民との間で苦労している姿を、思い出した。
其れは、お上の体質と、県民の体質の、どちらを優先するかの問題である。
田中知事の立場は、県民の支持に拠って当選しているので、県民の支持を失うことは致命傷になる。それかと言って、政治は、民衆の言う事だけを聞いていたのでは、わがまま勝手になり、行政は崩壊してしまうだろう。
今朝の夢は、政治を行う者は、高所に立てと、言う理・ことなのではないだろうか。
自然の景色は、晴れている日は、島が近くに見え、曇っている時は、遠くに見える。
人の上に立つ者は、意識に曇りが有ってはならないし、低所に在って、隣の家の垣根を見ていては、全体を管理する事が出来ない。
勿論家庭に在って、一家の柱であれば、隣家との間の垣根も手入れをしたり、修理したりしなければならない。
しかし、国の代表である総理大臣ともなれば、自分の隣国だけを見ていては、政治は出来ない。
地球全体を、視野に入れていなければならないのは、当然の事と言えよう。
そして、その視線も低ければ、アメリカの「ブッシュ大統領」や、「ビンラディン氏」が大きな存在と成って、自分に圧迫感を与えるだろうが、人工衛星に乗って見れば、人間界の事件など、無きに等しいと感じるだろう。
アメリカと、イスラムの価値観の違いの問題に、日本は、振り回されてはならないのだ。
日本は、人類の未来社会はどうあるべきかを、提案をするのが、役目ではないのだろうか。
小泉総理も、外国を訪問するよりも、世界一の名峰である富士山の山頂から、広い海を眺めてみるのが一手かも知れない。
今年に入って、文章を書くのは二度目だが、二度とも、目で見る事の意味が出て来ている。
今年の年賀状に書いた様に、神の目が、現れようとしているのだろうか。
平成14年1月16日
礒邉自適
2002/1/5
神を観てやる
14・1・5
2002年1月5日午後2時22分、言葉が生まれて来た。
其れは「神をみてやる」の単語である。どの立場から、その言葉が生み出されたのか分からないが、確かに、其の言葉は遣って来た。神が、人を見ているのは当たり前である。しかし、「神を見ている」とは、どの立場から出て来るのだろうか。
中国の老子の言葉に、「道から外れると 神霊も力を発揮することが出来ない」と有る。これは、神霊よりも大きな立場に立たないと、出て来ない認識作用である。
インドの釈迦仏陀が、説法をする時には、神霊や龍神も大勢その話を聞きに参加したと伝えられている。この世に、人間の肉体を持って存在する人でも、悟たり、偉大な魂しいを持った人は、神霊をも指導する事が出来るらしい。
と言う事は、神を見てやる事も、出来ない事ではないと言う理・ことになる。
我々の住む、此の三次元には、二通りの世界が重なって存在すると言う。
其れは、我々人間の肉眼の目に見えて、手で触れて確かめられる物質世界と、手で触る事が出来ないが、確かに存在する目に見えない世界の二つである。
人間は、是まで、目には見えない働きの事を、神仏の世界として崇たり、畏怖して来た。見えない働きの世界には、自分達の先祖の霊や、地元に祭る神社の神霊、其れに自然霊や宇宙霊などが有る。悪い例を挙げるならば、恨み霊や、祟り霊等も存在する。
寺の住職や、神社の禰宜職は、其処の場に住んでいる霊魂を供養するのが本来の仕事であって、生きている人間の為に、商売繁盛や交通安全の祈願をする事は、本来の仕事ではないのである。其れ等の、寺院や神社の霊魂を供養する事も「みてやる」事にはなるだろう。しかし、其れは、看護の「看る」に似ており、「診る」事とも似通っている。
私の、本日の感じでは、其れ等の霊魂の供養とは、別の意味の「みる」事がやって来ている感覚だ。其れは、親が、子供の世界を見ているような感覚であり、学校の成績や、運動会の様子を見守る時の感じなのである。
神霊は、人間を静かに見守りながら育てている。其れは、人間の身近な処に存在している働きだ。だが、本日の感じは、其れとも舞台が違っている。
人間を、動かしている神霊を、見ている立場も存在するが、其れよりもまだ高い立場に存在する感覚なのである。
上手くは説明しきれないが、出来るだけの説明をすると、宇宙の意志が、人間を育てる為に、太陽や地球を創造し、人間と、全ての衆生や、物質を働かしている。
其の働きを、人間が正しく認識しなければ、神は 何の為に、此の宇宙や人間を含む世界を創造し、維持しているかが分からず、此の世界が無意味な現象(もの)になるのだ。
だから、誰かが、その宇宙の神の働きを観じて、認識してやらなければならないのだ。其の仕事の役割の意識が、本日 私の中に目覚めたのではないだろうか。
老子や 釈迦は、その意識に目覚めたのだろう。
イエスや、中国の孔子には、その意識は無い。何故かと言うと、イエスや孔子には、未だ自分の行為が有るからだ。
神の働きを観る者は、自分の行動に意識を使ってはならないのである。其れは何故かと言うと、自分が行為をすると言う事は、三次元的であるからである。
三次元で、行為をする者は、四次元の働きを見つめる事は出来ないし、ましてや九次元から十次元を見る事などは出来ないのである。
十次元は、光の速度を超えた、宇宙の外側の意識である。
此の、宇宙の始まりを観ようと思えば、この宇宙の外側に出るしかない。宇宙の外側に出れば、この宇宙の誕生を、最初から観ることが出来るのである。其れが「覚者・ブッダ」の意識である。
釈迦が謂った、「三千世界に 我が在り、衆生一切 我が子」とは、光の領域を網羅しなければ謂えない理だろう。
エジプトの「ラーの目」、ユダヤの「メーソンの目」、日本の「いづの目」、ベトナムの「1つ目の神」など、根元の神の目、意識の目がいよいよ登場するのだろうか。
「スフィンクスの目」が、人間の認識の目の力を、試す時節到来の様である。
平成14年1月5日
礒邉自適
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