2001/12/20
栞の掟(其の二)
13・12・20
今月13日に、私に告げられて来たメッセージは「茶道」の場面で、岡山のスーリアさんには「元」の文字が出て、西宮の松岡妙子さんには「源」の文字が出たと言う。
三名のメッセージに、共通の意味を探ると「もとにかえる」との事が、示されている様だ。
今月3日の、「栞の掟・しおりのおきて」のメッセージより、10日が過ぎている。
三名が、別々の場所に居て映された内容は、少しずつ違うけれど「もとにかえる」との意味は共通しているので、私は、「倭姫命」の言葉を思い出した。
「倭姫命・やまとひめのみこと」とは、伊勢神宮創建の元に成った斎宮で、奈良の第十一代「垂仁天皇」の娘であり、「日本武尊・やまとたけるのみこと」の叔母さんである。
その、倭姫命の言葉が伝えられているので、次に書き出してみよう。
倭姫のおことば
黒(きたな)き心なくして
丹(あか)き心もち
清く潔く斎(ゆまわ)り慎み
左の物を右に移さずして
右の物を左に移さずして
左を左とし右を右として
左に帰り右に廻(めぐ)る事も
万事違(たが)う事なくして
大神に仕へ奉れ
元(はじめ)を元とし本(もと)を本とする故なり
是は、2000年前に、現在の世の中の弱点を、指摘している様にも思える内容である。
其れは、人間の本質を理解しており、人間が陥りやすい欠点を、知り尽くしているからこそ、これだけの短い文章に、まとめる事が出来たのだろう。
私が、自分の考えを入れて説明するよりは、読む人自身が、何回も読んで口にしていれば、「言葉の力・言霊」で理解できて来るのではないだろうか。
最後の処に「元を元とし 本を本とする 故なり」と有るので、私達三名に告げられて来た事も、伊勢神宮や、奈良の霊魂達に縁有る事なのだろう。
何れにしても、人間の生活や文化、文明の価値観を「反省・かえりみる」する時に、至っているようである。
平成13年12月20日
礒邉自適
2001/12/19
太陽は横に在る
13・12・19
今朝のメッセージは、唯一つ「太陽は横にある」との言葉だけだった。
普通は、太陽は、人間より上に位置するものであり、是まで、上に有る物として、「上(かみ・神)」として崇められて来たのである。
「光」と言う漢字も、「人+火」の組み合わせで、人の上に、火があるとの意味である。
太陽は、何時も、朝昇り、夕方、地平線に落ちて行く物である。
私も、今日まで、太陽は空の上に有る物だと考えて、生活して来た。
其れが、今朝「太陽は横に有る」と告げられて、改めて考えてみると、太陽が横に有ると言うのは納得が行く。
太陽系の惑星運動を見ると、太陽が中心に位置し、他の惑星は円盤上に成って、太陽の横を、平面上に回転している事に成る。
夜の星空を眺めると、土星や木星等も、地球から見て太陽や月と同じ線上に、東西に並んで移動して行く。
私達は、昼間、立って生活しているので、太陽は、頭上に位置していると思っているが、横に成って見れば、太陽は上にあるのではなく、体の横を照らしている事になるのだ。
インドの釈迦仏陀の「涅槃像」が有名であるが、釈迦が横に成っている姿は、北を枕にして、顔は西向きと言う事に成っている。
其のお釈迦さんの姿から、太陽の位置を考えてみると、太陽は釈迦の背中から昇って、腰のバンドの所を通り、西に進み、釈迦の顔が向いている方向に、沈んで行く事に成る。
釈迦の頭は、北に有り、地球と同じ様に、北を中心にしてクルクル回転している事に成る。そして、足は、何時も南に位置したままである。
自分を、太陽を回っている地球だと考えてみれば、頭を北にしながら回転し、365.24日で太陽の回りを、一周している事になる。
そして、人間には、昼間しか当たっていない太陽の光りも、地球の身に成って考えてみれば、24時間、自分の横に有って、何時も自分を照らしていてくれる事に成る。
地球は、太陽の光とエネルギーを、24時間浴びながら、引力と、磁力で、手を繋いでいる理・ことになる。其の様に考えると、太陽は、横に有る事になる。横に有ると考えると、太陽は友達として考える事が出来る。
これ迄は、太陽は上に在るもので、人間は手の届かない物として、神の姿だと考えて来た。エジプトでは「ラー」、イスラム教では「アッラー」、日本では「天照大神」、密教では「大日如来」等として、太陽は光の神だったのである。
一方、北極星の信仰の下に、人々は、北を宇宙の中心と考え、神棚も北側に設置し、北を向いて手を合わせ、祷って来た。其れが、「妙見信仰」や、「北斗信仰」などである。
人間は夜、太陽が無いので、星を眺めて過ごす。そうすると、全てが、北極星の存在する北を中心にして、回転している様に見える。
地動説を唱えた、コペルニクスやガリレオ、ケプラー達は、夜型人間だったのかも知れない。
何故なら、太陽や月だけ見ていたのでは、どうしても我々の感覚では、天動説が正しいと思えるからだ。
是から時々、天気の良い日に、北を枕にして、大地に寝そべって、自分が太陽の横を回転しながら、回っている事を実感するのも、良い行為かもしれないと想えて来た。
私は、屋久島で、1984年6月に、此の神の世界へ入った時に、自分の頭が身体から離れて、自分の左手の掌に乗っているビジョンを見せられ、その左手に乗っている自分の頭が、地球に変わってしまった事が有る。
私の頭が、地球と同一化しているビジョンを、見せられたのである。
そして、私の身体には、大地の龍が巻き着いており、私の頭の替りに、大地の龍神の頭が、私の首の上に着いていたのである。
何年か後に、その龍は、白山を中心にして、地球を巡っている「白山権現」の化身である「白龍神」だと言う事が判明した。
禅宗である、「永平寺」の開基「道元禅師」の護り神も、この白山龍神だとの事である。
悟りとは、自分が、地球の大地のエネルギーと合体して、地球が自分自身であり、広大な宇宙の中を、みずからが永遠に回転している理を、実感する事なのかもしれない。
今年8月8日に、岡山のスーリアさんは、自分が太陽の化身であり、喜びに満ち溢れていて、フト横を見ると、私のシルエットが見えたとの事。
其の事から考えれば、太陽も、地球を横に見ているのかも知れない。
今年の6月15日に、私が島根県大田市に在る「物部神社」に初めて参拝し、神霊と接触が起きた時間、スーリアさんも岡山に居て、自分が恍惚感に包まれたとの事であった。
其の、大田市の物部神社の祭神は、「大国主の命」から国譲りを受けた、「天の火明命(「饒速日命・にぎはやひのみこと・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)」の息子「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」である。
物部神社の神紋は、日を背負った鶴の姿である。愈々太陽の神は、上から横の関係に近付いて来たのだろう。
よく云われる「彌勒の世」とは、彌勒・みろくが「マイトレーヤ・有情」の意味だから、情け有る世の中が訪れるとの意味である。
彌勒の世とは、太陽までが、友達感覚の、有情の世の中に成るのかも知れない。
私達は、太陽が育てた食物を、口にして生きている。
地球が誕生した時から、太陽は、其の気なのだろう。
後は、我々人間が、太陽の有り難さに気付くだけなのだ。
其れが、日本語の「お天道様」との、親しい呼び方の世界なのだ。
13年12月19日
礒邉自適
2001/12/18
経済封鎖
13・12・18
今朝のメッセージには「経済封鎖」と出て来た。
其れは、久し振りに経済の事を告げて来た事になる。
18年前だったか、日付はハッキリしないが「円を上げる」と出て来て、其れから一気に、円高に成った事が有った。
其れは、私が、まだ屋久島に住んでいて、無庵師匠に捜し出されて、しばらく経った頃だった。
其の事は、無庵師匠に「円を 上げると 云って来たけど」と伝えている。
其れから、屋久島を出て40歳に成った時だから、14年程前に成るが、当時奈良に住んで居た野草社の「石垣雅設氏」と数名で、大阪市の「笹倉玄照氏」を訪ねた帰りに、「経済を 三年で ドンと落とす」と告げられて、其れから三年すると、本当にバブルが崩壊し、現在まで、その余波が続いている。
私に出て来るメッセージは、「円が 上がる様だ」とか「経済が 落ちる様だ」とかの言い方でなく、「円を上げる」とか「経済を落とす」とかの、決定的な言い方で出て来るのである。
其の言葉使いから、考えられる事は、霊界で一番強い権限を持っている存在が、私に付いていると言う事に成る。
どうやら、私にメッセージを伝えて来る神霊は、宇宙本霊の系統であるらしい。
其れは、この世的に言えば、本家筋と言う事に成る。
其の存在から、今朝は「経済封鎖」と告げられて来たのである。
しかし、何処の国を経済封鎖するのか、日本国なのか、世界中なのか、何時なのか、何年間なのか具体的には示されなかった。
経済封鎖と出て来て、映って来た場面は、茶道の場面であった。
其の場面は、膝と膝の間に、やっと茶道具が置ける程の畳の部屋で、主人と客が茶を立てて飲んでいた。
その場面から察すると、経済封鎖も、人類に対する制裁ではなくて、救済の方法の一環らしい。
日本は、戦後一貫して、経済成長に取り組んで来た。
そして、経済成長を成し遂げて来た一方で、精神的な面では、最低の様相を呈している。
日本が、一千年来、築いて来た世界に誇る文化は、その中身を失い、茶道や書道等の「道」の心構えさえ、名札が付けられ商品化されてしまっている。
本来「道・ドウ」とは、心の道であって、金や権力が通る路ではない。倫理のみちなのである。
茶道、花道、弓道、剣道、柔道等、日本の文化の道は、全て、心構えを養うものであった。其れが、現在では、生活の糧であり、経済の仕組みと成り果ててしまっている。
道の世界は、本来、道具の善し悪しには、左右されてはならない世界なのである。経済が崩壊すれば、物の価値も、本当の真価を問われる事に成るだろう。
経済封鎖が起これば、日本国民が一番困るのは食糧である。
日本は、食糧の自給率が30%しか無く、世界一危険な国である。
朝食、一つ取っても、「米、味噌汁、沢庵、いわし」であった物が、「パン、卵、ハム、牛乳」と成っており、其れ等の生産は、全てを輸入穀物に依存している。
だから、経済封鎖が起これば、西洋形の生活をしている者達は、朝、目を覚ました時から、困窮する事に成るのは、火を見るよりも明らかである。
日本は、経済封鎖が起これば、世界一不安定に成る国になってしまった。
自由気儘に育った若者達は、果たして、どの様な行動を、其の時に採るだろうか。
余程、指導者がしっかりしていなければ、統制が出来なく成り、パニックに陥るだろう。だからと言って、中国の天安門事件の様に、鎮圧する事は、我が国の自衛隊には出来ないだろう。
今朝のメッセージは、神の計画が、いよいよ最終段階に入って、指導者の在るべき姿を、整える様に、知らせて来たモノと考えられる。
今朝のメッセージは、私の17年6ヶ月間の、神事の修行から判断すれば、其れは当たっていなくても、何にも無で、済まされるとは考えられない。
今朝は、私だけでなく、岡山のスーリアさんも、西宮の松岡妙子さんも、是と似た様なメッセージを受け取ったらしい。
日本国中には、同じメッセージを受け取った人達が、澤山居る事だろう。
早く、全国ネットワークを完成し、情報交換の場を、準備しなければならない時を、迎えている。
平成13年12月18日
礒邉自適
2001/12/13
北を背にして
13・12・13
今朝のメッセージは、私のリュックのカメラバックに、「N」と、アルファベット文字が一文字書かれた紙が、貼って有った。
「N」は、磁石の北を意味し、「バック(背)」に北の方位を示すNが書かれていると言う事は、「北を背にして」と言う意味に成る。
北を背にすると、肉体は南向きに成り、太陽の動く方向を見る事にも成る。
中国の皇帝は、椅子に正座し、南面して、身動きしない事が要求されていた。
「帝(みかど)」の仕事は、天と地の間に立って、人類の代表として、人間と天地の情報をつなぐ事である。
今朝は、私に其の役目をするように、伝えて来たのだろうか。
今朝の夢では、Nの文字が写る前に、私が、桶に入っていた水を、通路に撒いたので、其処を通る人が滑る場面があり、何故か、桶の水には、私の精子が混入しているのである。
朝起きて、私の精子が入った水を、何故通りにブチ撒けたのか、その意味を考えていた。
すると、朝8時頃、西宮の松岡さんより電話が有り、「奥さんが 夢を見て騒いでいるので 少し話し相手になって下さい」と云うので、奥さんと電話を替わった。
奥さんの夢は、元気の良いロボットを妊・みごもって、とても楽しくて仕方がない状態だと云うのである。
私は、其の松岡さんからの電話で、今朝の夢の内容が理解できた。
其れは、男の性と、女の性の役割を、伝えて来たものであると言う事である。
男の性は、生命の遺伝子を伝え残す為に、精子を出来るだけ多く、撒き散らす事にある。
其れは、植物や動物でも同じであり、自然な営みである。
精子とは、自分の遺伝情報であるから、自分の情報を出来るだけ多く、多方面に伝え残そうとする、男性・雄の本能の働きと言えよう。
だから、男性は権力を欲しがり、政治家や、宗教家や、文筆家等に成って、自分の情報を出来るだけ広げようとするのである。
其の行動は、本能からのものだから、男性の、潜在意識の根本活動エネルギーを、占めていると言えよう。
私の今朝の夢は、男性の活動エネルギーが、潜在意識と成って現れたものだと理解出来る。
一方、松岡氏の奥さんは、元気そうな子供を懐妊する事で、幸福感に満たされたと言う。
それも、ロボットだとの事。ロボットは、日本語にすれば人造機械人間で、物質的現象を意味している。
女性の欲求は、宝石や家や服等の物質に対するものが主であり、男性の様に、権力や誇りや栄誉等の、目に見えないものには、あまり興味は無いのではないだろうか。
動物の雌にとって、最大の現象が、自分の腹を痛めて、子供産み出す事である。女性が、一番幸福感に満たされるのは、衣食住等の生活物資の条件が満たされた状態で、好みの男性の情報を取り込み、その情報が物質化され、自分の腹の中で、確実に確かめられた時ではないだろうか。
私と、松岡さんの奥さんが、同じ朝、夢に見た物は、自分の性の根本意識と言って良いだろう。
今朝のメッセージの意味は、男性と、女性の立場は、平等ではなく、其々が異なる性を生きてこそ、調和が生まれ、この地球の生命の営みが、創造され続けられるとの理・ことではないだろうか。
其の欲求が抑えられなく成った時に、様々な問題が起きて来るのである。
其の法・ダルマを諭したのが、インドの釈迦仏陀で、其の訓えが「仏教」として日本に伝わって来ている。釈迦仏陀は、全人類が皆、悟って、ブッダに成る事を教えている。
その悟った姿が、N・北を背にして、南面した仏像の姿であり、日本にも、中国から朝鮮を経由して伝って来た、「帝・みかど」の役割であるのだろう。
N・北を、背にする理の大事さを、悟る人々を、何人育てられるであろうか。
其れが、是からの、私に与えられた課題であるのだ。
平成13年12月13日
礒邉自適
2001/12/4
金剛薩埵(こんごうさった)
13・12・4
今朝のメッセージは、言葉で「こんごうさつた」と出て来た。
他には、「システムズ400倍」「大量生産の暁には 君の努力が 報われる」「ジュニア・システムズ」などが出て来た。
朝「こんごうさつた」を辞典で調べてみると、「金剛」はダイヤモンドのことを金剛石と言うように、最も固い物の意味である。
「金剛薩埵」は仏教用語であり、胎蔵界曼茶羅では金剛部院の主尊。金剛界曼茶羅では羯磨会37尊、理趣会17尊の一。 と 載っている。
「胎蔵界」とは、我々の住む三次元世界の事で、「曼茶羅・まんだら」とは、本質を有するもので、道場や檀などを意味するとある。
「金剛界」は、四次元的光の世界であり、その道場のシステムの一尊が、物質界である三次元の道場システムの主尊となっている。
其の、胎蔵界曼茶羅金剛部の主尊の名が、どうして今朝出て来たのであろうか。
最も「剛尊(つよいみこと)」が、この世に現れて、何を、しようとしているのだろうか。
「システムズ」とは、複数のシステムとの意だが、それも「400倍」との事である。
そして、大量のシステムを生産した暁には、私の努力も報われると出て来て、更に「ジュニア」の「システム」も複数と出て来た。
子供達のシステムまで、複数造らなければならない様だ。
そして、其のシステムも、最も剛さを持った組織、曼茶羅でなければならないらしい。今朝は、最剛の曼茶羅を、大量に生産しろと伝えられて来たのである。
私は、今日12月4日、神の世界に入ってから丸17年半が経った事に成る。人捜しの旅が、16年半続いて、愛媛県の中山町に住んで1年が経った。
是で、役目が終わるかと想っていたら、今度は「システムズ 400倍」である。それを、実現しない限り、努力が報われないと来た。
これまでよりも、大変な御用を受け賜る事に成った様である。
釈迦仏陀や、弘法大師空海、日蓮聖人、一休禅師に良寛和尚などが、誰も遣った事のない事を、私に押し付けて来ている。
果たして、私に、そんな事が出来るのだろうか。私には、全く自信が無い。
無いけれども、一番面白そうな事ではある。
これ迄の、17年半の旅の事を考えれば、遣って遣れない事ではないと想う。
金剛界の曼茶羅は、見えない世界で、既に出来ているのであろう。
そうでなければ、私に、現実世界のシステムを400倍も創れと、告げて来る理由が無い。
是までの17年半の修行で、神仏界の遣り口は、見え見えである。
準備万端整えて置いて、私を動かし、私が行った様に思い込ませて、私を使っているのである。
17年半前に、私の肉体を借りに来た霊魂の数は、4311体であった。
その後、昭和天皇をはじめ、何人もの霊が加わって来ている。其れ等の霊が、皆で動き回って、準備を整えているのだろう。
霊界人は、我々と違って、飯を食ったり、眠ったりする必要が無いだろうから、さぞや能率が良いのだろう。
其の様に考えなければ、私一人が、どうしてそんな大事を受け取れ様か。
幸いにして、岡山の「スーリア・サロン」のメンバーや、愛媛のメンバーが動いてくれている。
私は、其れ等の方々に、ただ頭を下げて頼んで行くしかない。
霊界の人々は、姿が見えないので、頭を下げて頼んでも、此の世の人間の目には見えないし、声帯も無いので、声で知らせる事も出来ない。
握手をしても、霊的な手は、人間の手を素通りしてしまう。
よく云う、「手も 足も 出せない」のが、霊界人である。
霊界人が、此の世に対して出来る事は、人間の意識の内に上手に入り込んで、本人には気付かれない様に、意識をコントロールする事だけである。
私の、是迄の体験からすれば、それは間違い無い様である。
それにしても、今朝のメッセージは、相当きつい内容である。
17年半の努力の結果が、今朝のメッセージである。しかし、私し以上に、神仏の方が大変なのであろう。
ま、観念して、受けるしか無いか・・・。
平成13年12月4日
礒邉自適
2001/12/3
栞の掟
13・12・3
今朝の霊夢には、「栞の掟・しおりのおきて」の文字が、黒く大きく書かれているのが映って来た。
「栞」の漢字は、先日 倫理研究会の「万人幸福の栞」(丸山敏雄・明治25年5月5日〜昭和7年3月7日)の本の題名から、「栞」の文字が気になって調べていたので、万人の栞の事かと思ったが、それとは違うイメージが現れて来た。
私は、世界自然遺産に登録された、屋久島で生まれて37年間育ったので、栞の文字の意味が、良く理解出来る。
「栞」は「木+幵」で、山中を歩く時に迷わない為に、木に刃物で削った傷を着けながら進む事を意味し、「幵」は、その削り傷の象形である。
「栞(カン)」は、日本語では「しおり」と読んで使用されているのも、「枝折」から来ている様だ。
刃物が無い時は、小さな木の枝を、進行方向に向けて折って、道しるべとする事を言い表している。
山中に分け入り、道無き道を歩く時は、看板も立札も何も無いので、行きは良いが、帰る事が出来ない。その為に、帰路として印を残して措くのである。
今朝のメッセージでは、その「栞の掟」と出て来て、栞を付けるのに、掟が有るとの理・ことを言って来ている。
「掟」は「手+定」の組み合わせで「定」は、家屋の柱が真っすぐに立っている事を意味し、「さだめる・さだか」の意味で、掟とは「手法が正しく明らかにさだまること」を意味している。
「栞の掟」とは「道しるべが 正しく定められること 又は 定めること」を、神が求めて来たことになる。
今朝は、私に与えられた使命が、ようやく見えて来た様な気がする。
21世紀の人類社会にとって、現在・いま何が必要なのか、其れは新しい「栞の掟」なのだ。
世界人類全体に通用する、栞を定めると言う事は、どう言う事なのであろうか。
世界には、何千と言う「生活方法・くらしむき」がある。
現代の、世界の問題は、ある大国の「くらしむき・価値観」が、地球の隅々の民族にまで、押し付けられて来た事にある。
今回の、アメリカとアフガンの問題も、元々は、アメリカの「資本主義」の価値観と、ソビエト連邦の「共産主義」の価値観が、アフガニスタンを舞台にして衝突した事が原因としてある。
其の、根本的な原因を私が考えてみると、問題を起こす政治的指導者が、「栞」の意味を知らないからだと想える。
栞とは、前に進む為に必要なのではなくて、帰る時の為に必要なのである。
栞が無ければ、道に迷って帰れなくなるのだ。
山中を進むと言う事は、何かの目的を持って、未知の世界に踏み込む事である。未知の世界に、踏み出して行く者は、元気で賢い男性数人である。
森の向こうには、平らで肥沃な土地が有るかも知れないし、自然の食糧が豊富に有るかも知れないのだ。
または、森の向こうは砂漠で、人が住めないかも知れないし、崖で進めないかも知れない。其れ等の情報を、一族の元に、持って帰らなければならないのである。
森の中に踏み入る事は、進む事ではなく、帰る事が目的なのである。
行った先に、新天地となるべき土地が見つかれば、今度は移住の為に、再びその栞が必要となってくる。その時の、栞の役目は、今度は、進むべき方向を示すものとなるのである。
栞とは、大勢が一遍に移動して、帰る必要が無い時には要らないし、また敵に追われて逃げる時に、栞を残すと追撃されるので、その場合は、出来るだけ残さない様にしなければならない物でもある。
此のくらいで、栞の意味は、理解出来ると思うので、何故「栞の掟」と出て来たかに付いてに戻りたい。
私が想うには、一口に言ってしまえば、栞とは「元に帰る為に必要」だと言う理・ことに成る。
イエスキリストの言葉にも「其の時には 一番先の者が 一番後になる」と言うのが有り、人類は、行き詰まりを迎えて、元に帰らなければならない時が来ると有る。
其れは、その時には、一番先を進んでいる様に見える者が、一番後になってしまうと言う意味である。
現在では、科学技術が進んで、宇宙に人間が住めるかとの感じを、皆が持っている。だが、人間は、此の地球の地上に住む、身体の仕組みの生物であるので、宇宙空間に住む事は、決して幸福には繋がらないのである。
寧ろ、其れは、過去の時代に行われていた島流しの刑よりも、条件が悪いと言わなければならない。
地球人類は、地球に住むと言う根本的な価値観を、今一度顧みなければならない時を迎えていると言えよう。
現代人の、文化・文明は、先に進む事だけを良しとして、根本へ帰る事を「古臭い」と云って、馬鹿にする傾向がある。
先に、進みっぱなしで、元に帰る事など夢にも想わないようだ。
人類が、地球に住んで幸福感を覚えられるのは、素晴らしい環境と共に、存在する時である。
私への、今朝のメッセージは、人類が新しい未来を築く為に、未知の世界に、栞を付しながら進み、答えを探し出して、皆の元へ、帰って来なければならないとの理・ことを示しているのだろう。
幸いに、私は、精霊に見守られながら、既に17年間もの旅を続けて来た。
様々な人々に出会い、新しい技術や、価値観や、体験等に触れ、21世紀の枠組みを造る心構えは出来ている心算である。
私の踏み込んだ、未知の森が、神の創造した空間であり、私の意識の中に組み込まれた「栞の掟」が間違いでなければ、皆は、私に付いて来てくれるものと信じる。
私が入り込んだ森は、私が、自分から捜して歩き出した森ではなく、神が用意して、私を放り込んだ森である。私は、其の森から、17年半の月日を掛けて出て来た事になる。
神の森に放り込まれたのは、1984年6月4日(旧暦5月5日)であった。其れから、今月12月5日で、17年半になるのだ。
明日、明後日と、大事な動きが有って、文章が書けるのは今日だけである。
今日が、部族の内から、新天地への移住希望者を募って、準備を開始する日になるのだろう。
今日は、午後三時に九州から、友人である「天波博文氏」が四国入りし、情報センター設置の話し合いが行われる。
12月5日は、私の住む中山町の「みどりの道場」で、関係者の初めての会合を開く事になっている。
前月11月22日の「新嘗祭」の日には、岡山市の林原家本宅に宿泊した時に、「バージン・ロード」とのメッセージが有った。
私は、誰も歩いた事が無い道を、歩き出さなければならないようだ。
神が用意した、夢の中の森では、道を踏み外さない様に歩けても、60億人の人口を抱える地球の上で、現実的に栞を定める事は、並大抵の事ではないだろう。
しかし、22日のメッセージには「君の歩き出す道は 南面して 静かに座っている事である」とも、出て来ている。
私のする事は、椅子に坐して南面し、北を枕にして眠り、是迄17年半旅を続けて、刻んで来た栞を、何処に刻んだのか、思い出す事なのかも知れない。
誰も、歩いた事の無い道だけれど、神の世界の森では、其の務めを無事に果たしたとの実感を、私は充分に感じている。
11月16日には、「全権を委任(まかす)」と出て「道を 実現するのが人間の役目 人間は道に生きて 道は人間にて実在する」とも出て来た。
私には、解らない理・ことが、まだ無限に有る。
しかし、私には、其れを心配する気は無い。
屋久島で生まれ、中学校しか出ていない私が、此処まで遣って来られたのは、私個人の力ではなく、天地の存在と、神(宇宙意識)と、過去の時代を生きた精霊と、現代の世を生きる人々の、力に因るものである理・ことは、しっかりと認識できている。
だから、是からも、何の問題も無く、神の「おもい」は、実行されて行くであろう事は、間違いないのだから・・・。
平成13年12月3日
礒邉自適
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