2001/9/25
アクエリアスの救世主
13・9・25
今朝の夢は、若い女性に、人類の未来が掛かっているとの事で、その娘さんの父親を、訪ねると言うものだった。
50歳くらいの男性が、其の若い娘さんを知っていて、どうしても、その女性に、役目を担って貰わなければならないとの事である。
その為に、娘さんの父親の、許可を得なければならないので、私に「力添えをしてください」との事で、私は、その父親の住む大きな屋敷へ同行した。
その父親は、立派な和風造りの、大きな建物の座敷に居て、無言の侭である。顔付きや、体にも風格があり、高い魂しいである事が理解され、普通の庶民とは、威厳が異なっている。
大事な娘を、分けが解からない世界には、決して出さない感じである。
私が、付いて行った男性が、事の重大さを、其の父親に説明するが、本人は黙しているだけである。
娘さんを、誰かの嫁にしたいと言うのとは、事が違うから、常識的な話ではない。
そうかと言って、訪ねた男性も、其れなりの地位や、人望も、有りそうな人物なので、無下に断ることも出来ないので、何も話さないのだろう。
時間が経ち、同行の男性も、手の打ち様が無く成ったのか、私に、救いを促してきた。
私も、相手が相手だけに、一般的な話は出来ないので、天命に付いて話し始めた。
人間は、何の為に、この世に生まれて来るのか、其れは役目を担っているからである。
これは、私が言うのではなく、人類にとって不変の約束事である。
人間は、この世での体には、何かの物語が詰まっている。
その理・ことわりを、体の事として、謂っていた様な気がする。
日本では、「命」の漢字を日本語の「みこと」に使用するが、日本語の「みこと」は「御事」の字の意味で良いだろう。
漢字の「命・メイ」は「令+口」の組み合わせで、命令の言葉を含むとの意味である。
「天命・テンメイ」は「天から使命を受けて この世にやって来る」であり、「使命・シメイ」は「天から使わされた 命令を持っている」ことになる。
天命と、使命を合わすと「天使」となり、天使はエンジェルと言う事になる。
私達は、何かの「役目・みことのり」を携えた天使なのだ。
西洋の「天使・エンジェル」は、羽を生やした可愛い子供のイメージだが、ギリシャ時代の神々は、筋骨隆々で羽を生やした男性像である。
イエスキリストは、天使だったと言っても、誰も反対はしないだろう。
其のイエス・キリストも、弟子がイエスをキリストと認めて、付き従わなければ、天使の働きが、現在まで伝えられる事もなかったであろうから、弟子達も、役目を持った天使の仲間だったと言う事になる。
インドの釈迦仏陀にも、10大弟子が「菩薩・ぼさつ」として名前が残っている。
天命や、使命を持った、御使いが、この人間社会に降りて来ても、其れに、気付く人々が居なければ、御事・みことを果たすことが出来ない。
御事が、出来事として起こらなければ、其の時代は変化を起せない。
時代が、変化しなければ、歴史が綴られない事になる。
時代の節目には、必ず、役目の人々が現れると考えられるのである。
今朝の夢の中では、娘さんが大事な使命を持っており、この時代を救う役目なので、認めて上げてはどうかと言う事を、話していたが、父親に返事を貰えるまでは、夢の場面が続かなかった。
是までの2000年間は、魚座の時代だったと意味付けられ、男性主体の、競争社会システムで動いて来たと言える。
戦争や、スポーツ、技術開発競争など、男性の精子運動パターンで、魚の習性のイメージが合っている。其の、魚的習性の、精子運動の競争に負けた物は、卵子に辿り着く事は出来ないのだ。
しかし、その時代は終わったのだ。
今回のアメリカのテロ事件は、魚座の最終的な終焉の花火なのだろう。
この課題で、人々が答えを出すのは、自然と共に在る、女性主体の、平和な社会構造の未来である。
「アクエリアス・水瓶座」の世は、女性の役割が、主体に成らなければならない。
卵子の働きは、精子が辿り着くのを静かに待っていて、自分の内側に取り入れてしまう事である。競争する者を、自分の内側に入れて、新しい命の創造の原因としてしまうのだ。
水瓶は入れ物である。
今度の女神は、2000年間の男性社会の業を、全部取り込んでしまうのであろう。其の為には、男性をその気にさせる、女性の「天使・マドンナ」が出現する必要に迫られている。
其の理・ことが、今朝の夢・メッセージの意味ではないだろうか。
其の娘さんが、何処の国の、誰の娘さんかは分からないが、近い内に見出されるのであろう。
其の事の為に、私も、何らかの役目を、果たさなければならない様である。
平成13年9月25日
礒邉自適
2001/9/24
意識は目
13・9・24
アメリカのドル紙幣には、ピラミッドの中に人間の片目が画かれているし、日本の神話でも、「天照大神」と「月読神」は、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の両目から、誕生したと伝えられている。
伊邪那岐命は、「伊邪那美命・いざなみのみこと」の夫神なので、伊邪那岐命は「男神」だから、「天照大神」と「月読神・つきよみのかみ」の存在は、女性の肉体から生まれた人間の事ではない。
其の、男神である「伊邪那岐命」が禊ぎ払いをした時に、左目から「天照大神」右目から「月読神」が生まれたとあるので、其れは、「意識の働き」が生まれた理・ことを、意味しているのだろう。
因みに、「素戔鳴尊」は、伊邪那岐命の目ではなく、鼻から生まれた事になっているので、視覚に因る意識ではなくて、命の働きの様である。
現代の医学では、「左脳」は理論体系を司り、「右脳」は音楽や芸術などの創造性を司っていると言われている。
人間の左右の脳は、肉体の左右とは、反対方向にクロスされているとの理・ことなので、「左目」から生まれた「天照神」は「右脳」の創造力の働きとなり、「右目」から生まれた月読神は、「左脳」理論や時間経過など、光の世界を必要としない、記憶や情報などの働きを、意識する役目と、言う事になるのではないだろうか。
「創造力」の神である「天照大神」は、素戔鳴尊の暴力を嫌がって、岩戸の中に閉じ籠った事になっているが、岩戸開きの神示には「月読神」は現れない。
其れは、何故なのか。
私が考えるには、「月読神」こそ、岩の世界を司る働きの、神ではないかと言う事である。
ドル札のピラミッドは、岩(花崗岩)を意味し、描かれている人間の目は「右目」であり、月読神の意識を現しているのであろう。
英語では、岩は「ロック(rock)」だが、これが岩門であり、岩戸なら岩の「扉(戸びら)」で、扉をロック(lock)するとの、言葉の音と、関連付けが出来る。
ユダヤの人達の組織を、「フリーメーソン」と呼ぶが、フリーメーソンは日本語では「自由な石工」となるし、ユダヤの有名な家系には「ロックフェラー家」が有る。
ユダヤ民族の文化は、岩から切り離す事が出来ないようなので、ユダヤの神は月読系だと考えて良いのではないだろうか。
日本の、伊勢の磯部町に有る「伊雑(いざわ)の宮」には、ダビデの紋章が有るし、奈良県の天理市にある「石上神社」の物部家の墓には、中心に石を立てて周囲に石を敷き詰めてある。
其の風習は、日本が元なのか、ユダヤ民族が移住して来た物なのかは、判らないが、両方の民族には、共通の概念が有るようだ。
私の名字は「礒邉・いそべ」だが、イソベには他にも「石部」や「磯部」「磯辺」が有る。其のイソベは、元はみな同じで、石の部族の意味なので「石工・石屋」と考えれば、「月読の神・はたらき」の役目の一族で、続柄としては、岩石や岩山を祭る家柄となるだろう。
私は子供の時より、学校に行くよりは、屋久島の山頂の岩の上で、昼寝をするのが好きだった。
屋久島は、全島花崗岩の島であり、昔からの言い伝えでは、「山から 山の峰は神様の通り道だから、峰で昼寝をしてはいけない。昼寝をすると、神様に取り憑かれるから。」と言われているが、私はその掟・おきてを、冒していた事になる。
私は、その頃から、「ロック・岩」に意識の「ロック・鍵」が掛かっていたのだろう。私にとっては、意志は「石・いし」なのかも知れない。
私が、一番気になるのは岩山である。
屋久島の家の畑から、太忠岳の天柱石(高さ、周囲とも30数メートル)を見ながら育った。
九州の高千穂の峰には、「天の逆鉾(さかほこ)」と呼ばれる、神が降りると告げられている尖った石が立てられ、祭られていたそうだが、屋久島の太忠岳の天柱石は刀の先にソックリで、神話の元になったのではと、想われるくらいである。
古代社会には、学校が無く、文字も無いし、お金の世界も無かった。
人々は、頭で何を考えながら、生活を続けたのであろうか。
私は、自分が、屋久島の大自然の中で育ったので、自分の感覚からすれば、意識の始まりは、自然を見ている「自分」の確認意識からだったと思う。
私の記憶の土台は、両親の姿は、屋久島の自然の中で働いている姿であるし、自分や学校の思い出も、屋久島での自然との繋がりの内にある。
人間の記憶回路は、自然の事物と、其れを見ている自分と、その関係性との、三つの働きが、記憶の土台と成っているのである。
その記憶の故郷を辿っていくと、原始の森と、其処を流れる川の清水と、それを見ている、私の自覚が有る。
私は、屋久島の原始の森から、意識を築いて来たのである。
其れが、700万年前の猿時代の記憶からなのか、人間の時代なのかは、自分の、昔の肉体が見えないので、定かではないが、確かに以前、大自然を意識で捉えていた、自分の記憶が蘇って来る。
私の意識は、目で、物を見る視覚の世界から、始まったのであろう。
私は、是まで、54年間生きて来て、いま整理された意識に残っているモノは、自分の存在理由を知る為に、真実を求める心、自分は何物なのかと言う理・ことを、知りたいとの心である。
「求める」との言葉は、日本語では「元の目を得る」の意味であり、原初の意識に「目覚める・仏・ブッタ」に成る事を、求める意味なのではないだろうか。
そして、「治める」の「おさめる」は、「長(おさ)の目」を、「治(し)ろしめす」との事ではないだろうか。
「オサ」とは、長老とか、部族の指導者の事である。
指導者と成って、一族を治めるには、原初の意識に目覚めた者である事が、条件だったのではないだろうか。
原始の宇宙誕生の次元まで、意識が目覚めれば、大自然との共鳴現象が起きる。其れが「ブッタ・目覚めた者・佛」であり、「スメラの命、スメラの大神」である。
ブッダの目は、第三の目と呼ばれ、額の奥に位置する「松果体」の事である。
其の、「松果体・ショウカタイ」は、「珪素(シリコン)」の結晶で出来ている。
其の「珪素」の振動が、岩にロックされたとき、自由な石工・メイソンは、宇宙原初の意識へと繋がるのである。
其れが、インドの「ヨーガ」の意味であり、日本の「むすび(産霊)」や、英語の 「リリジョン・religion・宗教(再び神と結ばれる・神に返る)」の意味でもある。
「意識は目から」其れが、私の18年の旅から導き出した答えである。
一昨日の夢に現れた責任者が、あらゆる価値観を、左や右に取り去って、最後に一つの箱が残った。
その箱を、一人の人が持ち、後には、もう一人の霊的な姿が、付いているのが見えた。
その箱の中には、今回の、アメリカ国とイスラム圏の価値観の対立を、解決をする答えが入っていた。
其の箱の、蓋を開けるのが、私の役目なのだが、私には、未だその答えを読みとるだけの知識が無く、開けられないまま夢は終わった。
その答えのヒントは、自分の顔だと言う事までは分かった。
アメリカの、有名な大統領リンカーンの言葉に、「40歳になったら 自分の顔に責任を持て」が有る。
イエスキリストや、釈迦仏陀が、どんな顔をし、どんな眼差しをして居たのかは知る由もないが、彼等の目には、戦いではなく、悲しみが満ちていただろう事は、良く理解できる。
其れは、何故かと言うと、私の父親や、私を捜し出して、この様にした無庵師匠も、何時も悲しみを内に秘めていたからである。
其の、二人の表情を思い出す時、聖人とは、慈悲の涙を隠して生きるものだと理解出来る。
「愛」の漢字の意味は、語る事ではなく、行動する姿を意味している。
自分の顔を作るのは、自分の目が、何を求めて捉えるかと言う、一言に尽きると謂えよう。
今回のアメリカのテロ事件では、ブッシュ大統領と、ウサマ・ビン・ラーディン氏の顔が、一日に何回もテレビに映し出されている。
彼らの目には、何が映し出されていて、意識は何を土台にして、働いているのだろうか。
先人達の悲しみは、彼らには通じないのであろうか。
私の悩みは、彼らの憎しみの上に育ちつつある。
神が、夢の中に、差し出した箱の中身を、自信をもって取り出し、私の答えと合わされる日が、何時になるのかは、未だ、予想が付かないままの日々である。
エジプトの「スフィンクスの目」は、未だ閉じられたままであろうか。
平成13年9月24日
礒邉自適
2001/9/12
バミョン・心
13・9・12
今朝のメッセージには、「バミョン」と「心」と、二言だけ知らせが有った。
しかし「バミョン」が、何語で、何を意味するかは分からない。
今朝のテレビニュースを観て居て、昨日書いた「食の乱れが 不幸のはじまり」の文章が、的を射ていた事が分かった。
昨日、テロ攻撃で破壊された世界貿易センタービルも、ペンタゴンの施設も、大きな施設である。
世界貿易センタービルは、ビジネスを管理する世界一の施設であり、ペンタゴンは世界一の政府の建物である。
つまり、両方が物質に執着している人達の、世界一のシステム本部である。
精神的に、「ひと・人間・霊宿」の心を失った人達が、都市を創り出し、その物質の世界に、虜に成っている人達の意識の権化が、破壊された二つの施設である。
何故、其の、アメリカを象徴する二つの施設が、攻撃されたかと言うと、アメリカのユダヤ資本主義が、イスラムの人達の世界まで汚染したからである。
イスラム教の教えでは、利息を取ってもいけないし、力は、金ではなく神だからである。
ニュースの中で、ブッシュ大統領が「アメリカは 自由を 守らなければならない。」と云っているが、人間の本当の自由は、金や宗教などから、自由である理を言うのである。
其れは、人間が勝手に創った法に従うのでなく、大自然の道に従う理である。大自然の、道に従う生き方には、大きな都市や、集中的なシステム管理は、必要がない。
新しい21世紀社会は、中央管理形社会でなく、横繋がりのネットワーク社会である。その中心には、道の働きの教えが一つ有ればよい。
それは、人間でもなく、法でもなく、ひと「霊宿・ひと」に拠る、叡智の情報システムである。
神が、計画している社会は、物に支配される人間社会ではなく、神の存在を「心」に置いた、物を正しく管理する社会である。
一番大事にしなければならないモノは、神が、永遠の時を掛けて創造した、人間の肉体・此の「體・からだ」を、管理する事である。
人間の體を管理するには、依食住と環境が一番大事である。大きな施設を要する都会は、人間にとっては、一番悪い環境と言わなければならない。
昨日の事件で墜落した飛行機に、日本人が一人乗って居た。一人だけとだと言うので、その名前「久下季哉」を、漢語林で調べて見た。
其の名前の漢字の「季」が、「禾+子」の組み合わせで「穀物の霊に粉して 舞う 年少者の様」と有る。
日本の伝統は、稲を神として祭り、大事な「新嘗祭」や「大嘗祭」は、稲米を食べて稲魂を口にする儀式である。
「季」は、純粋な子供に「稲魂」が宿る事を意味している。
「哉」は、はじめる、はじまる、はじめの意味で、「哉」の「口」は語気を表現すると有る。其れで「季哉」の名の意味は、「稲魂の霊の 言葉を 強く はじめる」と成る。
性は「久下」であるが、「クゲ」が「公家・公卿」の事なら、公の家の出身者。
おおやけ人・天皇と、天皇を中心とする朝廷が、その事の役目だと言う事に成る。
今朝のメッセージの「バミョン、心」とは、公の心の意味。
金や建物など、権力的な物質社会から、執着を離れた者・出家した者、最高道徳者の魂の者を、意味しているのかも知れない。
13年9月12日
礒邉自適
2001/9/11
食の乱れが不幸の始まり
13・9・11
今朝の夢は、30歳くらいの障害者の娘の居る婦人が、大きな施設を建てているが、運営が上手く行かないで困り、私に相談に来ている場面だった。
私の結論は、本人が邪食をしていた為に、精神障害者の娘が産れ、その娘の為に大きな福祉施設を建てたが、其れも立ち行かなく成り、母親娘共に行き詰まっているとの事らしい。
この原因は、本人が食べる事に無神経であったが為に、全て人生が狂ってしまったと言う事である。
この夢から学ぶ理・ことは、自然の生活を実行し、天の道に適った生活をしていれば、健康な子供が生れ、30歳くらいの娘だと子供が産れているだろうし、本人は孫と遊んでいれば良い年令でもある。
皆が、身心共健康であれば、福祉施設も建てる必要が無いので、経営に苦しむ事も生じない。現代の世の中は、全てがこの様な原因で行き詰まりを示している。
身心が健康な人々が造った世の中は、病気も揉め事も無いので、医者や弁護士が必要無く、犯罪者が出ないので警察も必要ないし、裁判所も必要がない。多くの施設が、必要無いのだ。
警察署や、裁判所等の、公の大きな建物や、病院等の施設も本来は必要が無い事になる。現在の世の中は、本来なら必要の無い物が多過ぎるのである。
食の乱れに因って、精神が乱れた人達が多くなり、学校に殺人者が入り込んだり、知らない人から突然切り付けられたりする。
日本の伝統は、長い間「食国の祭り事・おすくにのまつりこと」と言って、食べる事が一番大事とされて来たのである。現在の世の中は、其の大事な理・ことわりが、一番疎かにされているのである。
天皇家の存在は、日本の伝統の「食国の祭り事」を守り伝える事が役目である。その為の行事が、11月22日から23日に掛けて夜通しで行なわれる「新嘗祭・にいなめさい」の儀式である。
その意味が、平成の皇室には伝えられていない様に見受けられる。
国民の、手本と成るべき役割の家から、伝統が捨てられてしまえば、誰が国民を正しく導けようか。
日本の最大の問題は、指導者不在という事にある。
正しい指導者が、存在する体制を、早く、構築する必要に迫られている。
それが、今朝のメッセージの意味ではないだろうか。
平成13年9月11日
礒邉自適
2001/9/10
瑞穂
13・9・10
今朝のメッセージは長く続いた。
昨日、姫路の山田氏の「やすらぎの里」に行って、其処に集まっている霊魂や情報に触れた為に、縁ある時象が付き従って来たのだろうか。
昨日、別会のスーリア-サロンに出席して、山田氏が左側に座って居た。
私は、段々と、エネルギーが変調を起こして来たので、場所を替わって貰った。山田氏は、平成3年7月2日に「暗闇聖人」とのメッセージを、貰ったとの事である。だから、闇の世界に、強力に繋がっているのであろう。
私は、そのエネルギーをダビングしたと言うか、受け取った事に成る。
私は、自分の個人的な業・カルマは、屋久島での潔祓いで全部済ませてある。
私が、17年間、全国を動き回って来たのは、自分の修業の為ではなく、天界のプログラム(神議・かみはかり)の為である。
其の、天界のプログラムの中に、私が、出会った人達の役目が関係しており、見えない世界に存在しているのであろう。その内の一人が、山田氏なのだ。
山田氏は、精神的な活動を20年も続けているので、多くの霊達との繋がりが出来ているのであろう。
だから、私の「肉体・からだ」が変調を起こすのも、無理の無い事である。
今朝のメッセージは、解読に何日も掛かりそうなので、最初の場面だけを解こうと思う。
最初の場面は、深い緑色の水面に、只一本の白い穂が、種子を飛ばして、既に筋だけになっていて、葉は何も付いていなかった。其れは、稲穂が実を落としたのと同様の姿である。
水の上の穂を、異なる文字で書けば「瑞穂」である。
日本列島は「豊葦原瑞穂の州・とよあしはら みずほのくに」と呼ばれ、水に恵まれて葦原が多く、水田開拓には条件が良かったのであろう。
特に、日本列島は火山列島であり、花崗岩や、火山運動に因る噴出物が多く、ミネラルを多く含んでいる鉱石も、量的には少なくても、種類としては、博物館程に多いと聞く。
特に、金や、銀は、400年くらい前は、世界の金銀の流通を支えていた程である。其の中でも、佐渡の金や、岩見の銀は、特に有名である。
多くの種類の、鉱物が産出すると言う事は、多くのミネラルが有ると言う事にもなる。ミネラル(希少鉱物)は、雨水に因って、岩石から溶解し、河川へと流れ出す。
水田は、その水に支えられているので、何千年も、同じ土地に稲を栽培しても、連作障害が出ない奇跡的な植物である。正に、稲は、神が人間に与えた、作物なのだ。
ミネラルのバランスが、良く整っている作物を食べれば、心身は健康でバランスがとれてくる。
心身のバランスの良い人の、精神から発せられる言葉は、正しい意識を伴っている。その理を、明確に表している文字が、漢字の「謂」である。
「謂・イ」は「言+米+肉」の組み合わせで、字義は「言うのは 肉(胃袋)の中の穀物である」との意味である。
是は、謂の文字は、「人間の意識は 自分の食べた食物から来る」との考え方から、出来ている理・ことを示している。
この考え方が、日本の天皇家の「天皇・スメラのミコト」の傳統となり、新嘗祭や大嘗祭の儀式を、此処まで長い間伝えて来ている。
「新嘗祭・にいなめさい」とは、その年に収穫された米を、人が神霊と共に食べる儀式である。
神霊とは、先祖代々の霊魂のことで、新嘗祭の儀式は、其の霊魂と共食・直会(なおらい)をする事である。
その儀式に因って、天皇の言葉は、万世一系の代表の言葉として、氏族全体の意識の要と成り得るのである。
神社での儀式の後、御供用の食物を、皆で食べる事を「直会・なおらい」と言うのも、其の儀式から来ているのである。
水田の稲の魂は、大自然の「神・はたらき」と、人間の霊魂とを結ぶ、大事な働きを司っているのである。
神社の注連縄が、稲藁で作られ、「むすび(産霊)」の心象と成っているのも、其の為である。
稲魂が、神霊である理・ことを伝えているのが、稲荷信仰であり、正月にお供えする「鏡餅・かがみもち」も、その意味を伝承するものである。
其れは、「代々(橙・だいだい)」「稲(餅・保食・うけもち)」に恵まれて、「子孫(裏白羊菌・種子)」が多く、家財を「譲って(譲り葉)」「喜ぶ(昆布)」との教訓を伝えるものだ。
昔は、学校も無いので、本や、映像で教育する事が出来なかった。
だから、教えは、物に託して、大事な儀式のお供え物、つまり、物の姿を、道理を伝える為の、道具としたのだ。
「瑞穂の州・みずほのくに」の傳統とは、実に道徳的レベルが高かったのである。それは、一天皇家の儀式ではなく、全ての国民に、共通の認識だったのである。
ただ一般庶民は、天皇家や神社の神主と違って、日常の暮らしの為に、毎日働かねばならない。その為に、一番先祖の霊系の強い家に、祖霊との「結び・儀式」を任せたのだ。それが、スメミマの働きの聖王である。
「聖王・すめらのみこと・ひじり」の存在は、日常の生活全般に渡って、皆に面倒を見て貰い、本人は、宇宙の原初から連綿と伝わっている、「天津日継・あまつひつぎ」の霊を、我が霊として、祭祀を続ける事の為にある。
其の傳統は、シュメール文化の考え方であり、佛教に伝わる得度式も、古神道の伝統である「大嘗祭」の禊ぎ祓いの儀式も、同様のものである。
また「覚者・悟った者」である「仏陀・ブッダ」も、スメラノミコトの別の名である。
古代では、部族毎に「スメラのミコト・帝王・みかど」が存在したのだ。
現代社会の様に、力の強い部族が、他部族まで支配下に入れて、自分の流儀を押し付ける事は、其の伝統には反しているのである。
権力に因る支配構造は、放牧民族か、海族の民族風習に因るもので、静かな山村にて生活する人々の、生活方式ではない。
今でも、水辺で稲作をしながら生活している人々は、穏やかである。
たとえ、武器を持っていても、其れは自分達を守る為であり、他部族を襲撃するものではない。
西洋の王家は、多くが海族の子孫であり、ジンギスカンの行動などは、放牧民族の典型的なものである。
民族が飼っている家畜を見れば、其の理・ことが良く判る。
西洋と、モンゴルは、馬を飼っている。
「馬」は戦いに向いているし、水辺には向かない動物である。一方、水文化は「牛」の文化である。水牛を使って、水田を耕作する場面が、瑞穂の文化である。
中国の老子は、横向きに画かれた老牛の背に乗り、右手に巻物を持った姿で画かれている。其の牛は、一歩も前進しない老牛であり、老子が手にする者は、弓矢や刀ではなく、経典である巻物である。
それも、多品ではなく5千文字が書かれた一本の巻物である。
稲魂と、共に暮らす、民族の叡智の代表者、それが「老子」の姿なのだ。
其処には、血生臭さい臭いは一切無い。
老子の道徳経には、「スメラのミコト」の心構えが、5000文字の中に、全て収められている。
日本の「天皇(ミカド・スメラミコト)」が、何故、稲の苗を自分でお手植えをし、山に木の苗を植林するのか。其れは、此の、水の惑星地球で生活する為の、基本的な教えを実行して見せ、国民の「目的・目のまと(心象風景)」とする為なのである。
天皇家にも、是まで多くの間違いが有った。しかし、日本の伝統を維持する為に、儀式が大事な故にこそ、天皇家も存続出来たと謂えるだろう。
「瑞穂の洲」の傳統が、是から世界を立て直す為の、新しい価値観として、いま蘇ろうとしているのではないだろうか。
平成13年9月10日
礒邉自適
2001/9/5
凝
13・9・5
今朝のメッセージには、「凝・ギ」の漢字が現れてから、次々に映像が映って来た。
朝起きて、「凝・ギ」の字を調べると、辞典には「凝」の字は見つからなかった。
有るのは、「擬・儗・礙・癡・嶷」の五文字だけである。
「疑」は、元は左側の 扁だけの文字で、甲骨文では人の形で、人が顔を上げ、憶いを凝らして、じっと立つ形にかたどる。
金文では、それに「彳+止と牛」が加わり、人が分かれ道に立ち止まって、のろまな牛のようになる。の 意味を表す。 (漢語林)。
正確に言うと、疑は誤りで、「人+牛+止」の組み合わせが、本当の形だそうである。
其れは、のろまな牛が、のろまな子供に、変化したものの様である。
「疑」の漢字は、立ち止まって判断に苦しんでいる様子を、表しているものらしい。
「冫(にすい)」は、元は「 」でヒョウの音で、氷の結晶をかたどるとある。氷は、元は、冰の字形であり、水が固まるとの意味である。
「凝」は、氷の上で、人が顔を上げ、じっと立って憶いを凝らしている。と言う意味に受け取れる。
足下が氷っている事は、周囲も寒さで凍っている事になる。氷の世界で、どちらに進んで良いやら、分からなく成っている人が居るとの意味なのだ。
この意味は、現代社会の世相を、現しているのではないだろうか。
現代社会の様相は、経済も、政治も、教育も、みな行き詰まって、方向性が見えない状態である。正に、氷原に立つ人のイメージが、私にはハッキリと見える。
では、何故、神は此の様な文字を、私に送りこんで来るのだろうか。
神の世界で、計画が有るならば、その計画を、見せて下れれば簡単である。
それにも関わらず、ヒントだけしか示さないのは、それなりの理由があるのだろう。
中国の老子の言葉に、「嗇(しょく)にしくはなし」と言うのが有る。
其れは「天は 種を蒔いて 育て 収穫をする それしかない」と言う意味である。
天の働きは、私達人間を育て、出来上がった「魂しい」を、収穫する為にあるが、育つ事は、作物の方の努力に有ると言う理・ことである。
太陽の光も、水も、空気も、条件は全て与えるが、育つこと自体は、作物自身が日夜休み無く、行なわなければ成らないのである。
其の事を、人間に当て嵌めると、答えを「天・神」は解かっていても、人間自身に決めさせると言う事である。
そうしなければ、人間の魂しいは進歩しないし、生活能力も向上しない。
若し、「天・神」が、全てを行なってしまえば、人間は、赤ちゃんの意識のまま、肉体だけが成人に成ってしまうだろう。
そして、全ての問題を、「天・神」の所為にしてしまうのである。
今朝のメッセージの場面は、何も情報の無い氷の世界に、人間を立たせている。
是までは、様々な情報を与えながら、育てて来たが、是からは、周囲の条件が何も無いまま、人間自身が、道を選んで歩き出せと言う事なのだろうか。
その理由は、「神の為に」と言う当て擦りを、人間にさせない為ではないだろうか。
人間は、「神の為に」と言いながら、余りにも、神の意志に反する事を、是まで続けて来た。
神が、人間に望んでいる事は、人間は、自分の為に生きるべきであり、どんな問題も、自分の手で解決する様に求めている。
其の為に、人間に、全ての自由を与えてあるのだ。
私達は、この地球を大事にし、自分の肉体を大事にし、自分の魂しいに対して、尊厳を持たなければ成らないのである。
その様な人間を創る事が、本当の神の目的であり、その目的の為に、人間を此処まで育てて来たのである。
氷の世界は、其処に佇む人間が、自分で好きな方向に、歩き出せる理・ことを、暗示しているのではないだろうか。
平成13年9月5日
礒邉自適
−追記−
昨日「凝」の文字が出たので、私は、其の文字の意味を考え続けて居た。
そして、今日、夜に風呂を浴びると「じっとたたずむ」との言葉が現れ「凝」が「たたずむ」と読むことが思い浮かんだ。
其れで「顔を上げて 冰の様に たたずむ」の、その姿が、何を意味するかも理解できた。顔を上げてたたずむとは、空を見上げている姿である。空を見上げるとは、宇宙に繋がるものでもある。 平成13年9月6日
「凝」http://www17.ocn.ne.jp/~yjj/yjj/top.html
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