このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2001/8/31
満ちたら欠ける
13・8・31
今朝の夢には、ファッションデザイナーの「三宅一成」風の洋服を着た、中年の男性が20名程、部屋に集まって居る場面が映し出されて来た。
其の場面は、参加者全員が、俯き加減に無口で座って居り、中のリーダーらしき人物も、同じ様に無口で座っていて、課題に付いて、何も解決策が無い様だ。
私が話し掛けても、誰も返事をしないので、私は家に帰った。
そして、自宅の縁側の所まで来ると、畳の部屋に、若い娘の剥き出しの両足が、太腿まで横に成って見える。
私は、其れ以上見える事に困惑し、引き返して玄関の方に回った。
すると、玄関には、履物が、てんでバラバラに脱ぎ散らかっており、一足の組み合わせも判らなく成っている。
部屋の中を見ると、部屋の方も大変散らかっているので、部屋の中に上がる気がしない。両足が見えていた部屋を見ると、剥出しの足の主は、私の娘であり、横になって漫画本を見ているらしい。
同じ部屋の中に、二人の小・中学生が居るので、私は娘に「誰か」と訊ねると、従妹が夏休みで遊びに来ているとの事。
三人の女の子が、部屋も片付けず、履物も散らかしたまま、横に成って漫画本を読んでいるのだ。私は、部屋に上がる事が出来ず、そのまま外に出掛けた。
出掛けて行った先は、体育館であり、其の体育館は雨漏りがしていて使えず、体育道具も無い。設備が無いので、体力養う事も出来ないのである。
今朝の夢は、これだけで終ったのだが、三つの場面は皆、問題を含んだ映像であった。
私は、朝起きて、其の夢の意味する処を考えて見た。
最初の場面は、三宅一成風の服装をするのは、ホワイトカラーやブルーカラー族でもないし、一次産業の人間でもない。三宅一成の服は高額であるし、着れる人は、現代社会が生み出した職業人が多いので、その様な職業に就いている人達の、職が無く成ると言う事ではないだろうか。
其れは不動産業や、芸能人や風俗業などのサービス産業である。
世の中の、経済の仕組みが変れば、必要のない職業は、消えて行くしかない。余計な仕事は、無く成るとの事であろう。
二番目の場面は、子供達の躾けが、まったく出来ていない事を表わしている。学校には行くので、読み書きは出来て、本は読めるけれども、部屋を片付たり、履物を揃えて脱いで上がる事など、眼中に無い様である。
若い娘が、太腿まで露わに成っているのに平気である。その姿を、年下の娘達も見習っているのである。
日本で、長い間守り伝えられて来た、文化や風習が、立ち消えに成ろうとしているのだ。その事を、どうにかしろとのメッセージだろう。
三番目の場面は、体育館の役割が、機能していないと言う事だ。
経済が落ち込めば、台風が吹いて、体育館の屋根が飛んでも、修理する資金が無いし、一度雨漏りが始まると、中に有る設備も用具も、全部駄目に成ってしまう。そう成ると、男達は、何処で肉体を鍛えたら良いのだろうか。
私は、山や川で遊び、海で泳いだりして子供時代を過ごし、農林漁業を行う事で、肉体を鍛えて来た。現在・いまは、機械の発達で、人間の体は楽をする様に成った。
昔の様に、神社に有る100kg以上の「力試しの石」を、持ち上げられる男性も、居なく成って来た。
女性も、昔は学校が無くとも、母親に炊事・洗濯・掃除を習い、社会に対する躾けを受けて来たのである。その文化が、戦後50年で失われてしまった。
何百年も掛かって、積み上げられて来た日本の良い文化が、たった50年で滅び去ろうとしているのである。
文化は、一朝で出来るものでは無いし、数年で訓えられるものでもない。
親子三代を掛けて、次から次へ傅わって行くものである。其の文化が滅ぶ事を、先祖の人達が、心配しているのであろう。
明日は、旧暦の7月15日で、夏禊ぎの日に当たる。
其の禊ぎと、鎮魂の文化が、お盆の行事になってしまった。
本来なら、本日が禊ぎ祓いが行われる日であり、先祖の霊をお迎えする日である。
昔の人達が、暮らして居た時の祭り日と、現代の人達の祭りの日が食い違えば、本当の「まつり合わせ」である「奉斎」は、起きないのではないだろうか。
今一度、人間の生活環境を、昔に逆登って、考察する必要があるのではないだろうか。
そうする事で、未来の文化が構築出来るものと、私は想う。
平成13年8月31日
礒邉自適
2001/8/29
見えない力(はたらき)
13・8・29
今朝のメッセージには「12月14日 充分満ちる」「土着の霊」と出て来たので、其れを枕元のノートに書いて、再び目を閉じると、映像が映って来た。
其の映像の場面では、底辺の人達が、多方面に存在していて、其れを束ねる男性が現れ、私と、行動を共にする事に成った。
その最初の集まりが、音楽が出来る建物で開かれ、私は舞台の反対側の窓から、その様子を眺めて居た。すると、私にも、竹の楽器が渡され、皆で竹の楽器による演奏が始まった。
賑やかに行っている内に、私が両手に持っている二本の楽器から、とても調子の良い音が出始めた。すると、其れに指揮者が気付いて、舞台の上から、私の出す音に、皆を合わせ始めた。皆が、私に合わせて演奏を始めたので、私は止められなく成ってしまった。
私は、演奏を続けながら、その場面を、ビデオ撮影するのを忘れていた事に気付いたが、自分の手が塞がっているので、ビデオの準備が出来ないで困っている。
すると、底辺の人々を集めて居た男性がやって来て、ビデオを準備しようとするが、やった事が無いので出来ないで居る。
そうしている内に、演奏が終わって、夢の場面も消えてしまった。
其の映像の意味を考えていると、次の映像が映って来た。
部屋の中の映像が映って来て、向こう側に書類棚が有り、其の棚に書類が乗っている。其の部屋は、壁の片面一杯が棚に成っているのである。
そして、私が見ている間・うちに、その棚が見えない力で持ち上げられ、向きを変えながら、こちら側の壁に、置き換えられた。
其れで、書類棚が、ソックリ反対向きに成った事に成る。
この一連の夢が、何を物語っているのか、私なりに考えてみた。
12月14日までは、107日が残っている。
それ迄に、何かが出来て来るらしい。
そして、土着の霊とは、その地方地方に存在している、霊魂の事だろう。
イエスキリストの言葉にも、「其の時には 全ての霊が 墓から蘇る」と有る。
時が満ちて、過去に存在していた御霊が、現在の時間帯に、見えない霊として、蘇って来るのだ。
そして、人間社会に影響を与えると、言いたいのであろう。
正に、現在・いまは、その時節を迎えていると言えるだろう。
神社で唱える祝詞にも、「神魂の思頼・みたまのふゆ」として、その事が、唱え続けられている。
蘇る御霊は、子孫や、縁の有る人々の守護神(霊)と成って、生きている人間と、行動を共にする事に成る。
その事の儀式が、「お盆」の行事であり、神社で行われる「お神楽・おかぐら」であり、「直会・なおらい(神霊と共に食事をする)」である。
その事が、具体的に示されたのが、今朝の映像に映し出されて来た、音楽祭であろう。
「底辺の人々」とは、現代の世の中では、地位や財産に恵まれないで、無名のまま生活をしている人々である。
日本の歴史を見ても、表舞台で権力を握って、地位や財産を保って来た人達は、そう成る過程で、多くの犠牲者を生み出して来ている。
性格がおとなしく、優しい人々こそ、表舞台から姿を消して来たのだ。
その人達と、過去世で同じ境遇に在った、人達の霊が協力し合って、平和でボランティア的な社会を築こうとしているのだろう。
その現象が、いま全国に起ころうとしている。
「土着の霊」とは、ローカルな霊域の事である。出雲には、出雲の霊域で霊の活動の場が有る。
霊界人も、昔し、自分が存在した時間帯の物語を、存在理由として、生きる価値を見出していたので、其れ等の思いを無視する事は出来ない。
過去の霊が生きた社会は、東北、奈良、出雲、福岡、南九州と、其々地方の文化を持っていた。
そのローカルな霊達を、一つの目的の下・もとに集合させる為には、その霊達の想いが一致しなければならないし、その霊達の子孫が、幸福に成る事でないと、協力し合う事には成らないであろう。
其れを成功させる為には、21世紀のビジョンを、明確にして行かなければならない。
その為には、先ず、お互いの存在を確かめる為に、集会を重ねなければならない。
その祭りが、今朝の音楽祭の意味だろう。
楽器が、ピアノやバイオリン、ギター等ではなく、手作りの竹だった事にも、一つの意味が込められている。竹の楽器は、誰でもが作る事が出来、また技術が無くても、即興で演奏が出来る。
それが、底辺の人達が参加できる、理由なのだろう。
竹の生る場所は、稲作が出来る所でもある。稲作の出来る土地や、其処に暮らす人々は、他の国々を占領する事なく、生きて来た人々である。
稲作文化の人達は、自分達が毎年決まった場所で、作物を栽培し、安定した暮らしを続けられるので、闘争心を必要としなかったのである。
現在では、稲作だけで生活する文化が、西洋の科学文明・文化に因って、破壊されてしまっている。その事が、地球規模で、行き詰まりの現象を生み出していると言えよう。
だからと言って、西洋機械文明を否定する理由ではない事は、ビデオカメラで新しい動きを撮影する事が、組み込まれているのでハッキリしている。
新しい動きを、世界中に「治(し)ろしめす」のには、映像の世界は、なくては成らない物なのだ。
最後に、見えない力が、書類棚の向きを変えてしまったのは、情報の向きを変えると言う事であろう。
今迄の社会が、取り込んでいた情報の向きと、新しい情報の収集の方向が、逆になる理・ことを知らせて来たのだろう。
旧約聖書の「自然は 人間の為に存在し、自然を征服し 管理する。」との考えが、世界中を網羅してしまった。その西洋思想が、明治維新で日本にも持ち込まれ、日本の伝統が失われようとしている。
書類棚の夢の意味は、向こう側(西洋)の棚から情報を取り出していたのを、今度は日本側の棚の情報を、向こう側の人達が、取り出せる様にするとの事ではないだろうか。
その事が、12月14日迄に、起きて来ると言う事なのかもしれない。
本日8月29日は、私が現在住んでいる施設の持ち主「白土宏氏」と、大分県日田の山中で出会って、丸10年目の日であり、現在一緒に生活している「西村義明君」は、二年前の今日、四国八十八ヶ所巡りの途中で、白土宏氏に出会って、次の日から此方に来て住んでいる。
現在、私の所に出入りしている人達は、昨年の8月29日に初めて訪れた「富岡秀行氏」の縁で繋がった人達である。
8月29日の縁が、何処の何者に因って、仕組まれているのか、私には判らないが、中国の老子の謂う「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」の言葉が、良く理解できる出来事である。
竹の楽器演奏を指導しているのは、どれみ村の村長である「天波博文氏」かも知れないし、底辺の人々を集めて来たのは、箕田氏かも知れない。
ハッキリしないのは、出て来る人達が、人間そのままではなく、光の霊体として出て来るので、守護霊か、過去世の霊が、生きていた時代の姿なのか、役割が理解出来ても、人物その者は明確ではないのである。
天波博文氏の事は、時々メッセージに出て来る。
7月13日には、「天波・ドラマ」と出て、8月26日にも私の夢の中に現れた。
五年前(1995年11月2日)には、「天波=翟(てき)」と出た。
翟は、おどりあがるの意味だが、【字義】はキジの意味で、尾の長いキジの事だ。翟とは、長い尾羽根の事で、その羽根で作った舞楽に用いる道具も言う。
日本の相撲で使用される、行司の手にする軍配団扇も、元は鳥の尾羽根ではないだろうか。飛行機の尾翼と同じ意味で、右か左、東が西を、決めるの意味で、方向を定める働きを、表していると考えられる。
天波の働きは、踊りの有る祭りで、時代の方向性を、探る事にあるのだろう。天波が、東南アジア製の竹の楽器を使って、演奏会を始めてから10数年に成る。
ようやく、天波の本番が近付いたのかも知れない。
(天波がドラマとは 物語を作る人の意味だろうか。)
7月13日、天波と同じ日に「箕田=ケントウ」と出た。
「ケントウ」なら「健闘」が箕田氏には合っている。健闘とは、不利な条件にも屈せず、一生懸命がんばって戦う事(言泉)とある。
箕田氏の性格と、実際に行っている事は、今日の夢の内容と辻褄が合ってくる。
29日は、旧暦では、最後の日の意味で、詰まるの意味を持つと、何かで読んだ事がある。
私の、謎解きの旅も、終わろうとしているのかも知れない。
後は、反対向きの書類棚が出来上がるのを待とう。
12月14日(忠臣蔵討ち入りの日)迄に、何が充分満ちるのか楽しみである。
平成13年8月29日
礒邉自適
2001/8/28
積産物・積在者・(4068)
13・8・28
今朝のメッセージは「積産物」と出て、次に「積在者」と有り「4068」の4桁の数字が出て来た。
其の言葉は、あまり聞いた事の無い言葉なので、私なりに解釈してみた。
「積産物」とは、「産まれて積もった物」なので、新しい世の中を作る為に、必要な物は、準備されて積まれていると言う事だろう。
「積在者」は、新しい世の中を創造するべき人材が、4068人用意されてあるとのことだろうと、私は受け取った。
私には、物事が、良い方向に進んでいるとの考えが、根本に有る。
私は、17年前の1984年6月4日(旧暦5月5日)に、神のメッセージを受けて「神惟の道」を歩き続けて来た。その成果が、実ったと言う事だろうか。
天(神)は、人間を育て、自分自身を認識しているのである。
その天(神)が、自分の為に育てて来た人間が、金や物に意識を奪われて、24時間、夜も昼も、人間社会の事だけに意識を使用している為に、天(神)が人間の頭を使おうとしても、人間の頭に空きが無いので、困っているのだろう。
「宗教家」も、信者の事や、施設の運営の事で、頭が一杯なので、天(神)の計画など聞く余裕が無くなっている。
その結果として、現代社会は、行き詰まりの様相を見せてきている。
物質には恵まれていても、子供達は、未来を明るい、希望有る物とは感じていない。だから、新しい希望ある社会を築く為に、人材も物も必要なのだ。
今朝のメッセージは、それらの事が、揃って来たと、伝えて来たのだろうか。
今朝は、「10・23」との数字も出て来た。
10月23日は、私の父親の命日でもあるが、9月1日から、私達が始める動きが、10月23日に反応を起こすと言う事だろうか。
今朝は、天波博文氏や、スーリアさんからも電話が有った。
其の二人も、心の準備も出来ている様である。
数日前には、漢方医の大村雄一先生が、屋久島から電話を掛けて来た。
愛媛や、岡山も、動きが現実化して来ているし、東京の動きも起きそうなので、「積在者」の言葉が、意味を持つ事が理解できる。
四年前に、出雲の安部忠宏氏に出会って、出雲の神々と接触した事で、国造りのプログラムが動き出したのだろう。
「積産物」の中には、出雲の「大国主命」の出雲大社や、「須佐之尊」の須賀神社、其れに愛媛の「少名彦命」の少名彦神社も、物の内に入るのかも知れない。
「積在者」の中には、昔の霊魂が、含まれているのかどうかは分からないが、含まれてはいないにしても、現象界の人間に、守護霊として働いているのは間違いないだろう。
今年中に、何が起きるのか、期待は深まるばかりである。
平成13年8月28日
礒邉自適
2001/8/27
大黒天
13・8・27
今朝の夢では、何十人かの人達が集まり、話し合いが行われた。
其の話し合いには、私の知り合いも、多く参加していた。
夜の夕食と、宿泊場所が三ヶ所に分けられ、私は、自分の知り合いの少ない会場に居た。立食の会場に、人が集まり出しているが、私は台所の方に行って、水道でおしぼりを絞っている。
控え室に居た、年配の偉い人三名も、時間が来て会場の方へ出ていった。
私は、自分が台所にて、一人でおしぼりを絞っている事を、不思議に思うと、「大黒」の文字が筆字で、大きく出て来て、其の夢は終わった。
朝起きて「仏教いわく辞典」で調べて見ると、「大黒天」は、始めは戦闘の神、「軍神」として崇められた神だったが、後に「福徳」と「台所の神」と成った。
我が国では、「伝教大師」が初めて比叡山に祀り、後世には七福神の一人として頭巾を被り、右に小槌、左に袋を背負い、米俵の上に乗った姿につくる。
また大黒は、大国に通じる為「大国主命」と混同して、同一神と見なされるに至った。大黒天は、飲食を豊にする台所の神でもあるので、寺院の庫裡を護っている僧侶の妻(梵妻)を、俗に大黒と呼ぶ様になった。 と 載っている。
今朝の夢は、私が台所に立って居て、大黒と出て来たので、台所の神が「大黒」だと言うのは辻褄が合う。
不思議な事に、この文章を書いている時に、私の住んでいる道場主である「白土宏氏」が、血糖値を計っているので、私も此処2、3日体調が悪いので、試しに計って見た。すると、220もある。
四国に来て、一年に成るが、自然農法も止めて、玄米自然食も止めて、食事を他人に合わせて、肉や魚を食べ、人に貰うお菓子等も食べているし、昨年の冬から、文章を書き始めたので、運動もしていない。
體は正直なもので、完全に病気の状態に成っているのである。
今朝のメッセージは、他人に合わせてのパーティ料理や、外食の危険性を伝えて来たのだろうか。
今日から、また畑を始め、玄米自然食に切り替えなければならないと、感じている。
明日からは、文章を書く事より、正しい暮らしを実行する方に、移るのかも知れなし、事が始まっても、皆と、同じ食事の場に出ない様にとの、事なのかも知れない。
神仏の働きは、私の体を使用しながら、あらゆる実験をしている様である。
平成13年8月27日
礒邉自適
2001/8/25
纏める
13・8・25
今年の5月28日に、メッセージで「8・31」と出て、何千人かの中核が選ばれると出て来た。
8.31とは、8月31日の事だと思われるが、月、日の指示は無かった。
8月31日迄に、新しい御世を創る人達の中核が、決まると言う事だろうか。
今日は、8月25日なので、8月31日まで残り6日である。
本日を含めると、残り一週間なので、大事な7日間となるようだ。
今朝の夢には、私の知っている、全国的に有名な女性(Tさん)が現れた。
名前は、その人の名前なのだが、姿は、光の存在であり、座ったまま 笑った様な顔をして、一切身動き無しで居るのである。
私は、共通の関係者である、千葉県の男性(S氏)の話題を出しても、返答が無いので、話し掛けるのを止めた。止めたところで、其の夢の場面は終わった。
今朝の夢が、何を意味していたのかを考えて居たら、8時前になり、今日会う約束していた西田氏が、仙波さんと言う人を伴って、事務所に遣って来た。
そして、芳我さんと、四名で話し合っていると、西田氏が「一心会」で勉強を積んだと言いだした。
私の、夢に出て来た女性も、「一心会」を土台にして、世の中に出た人である。これで、夢の共通性が出て来た。「一心会」とは、一つの心の会である。
私達が、始めようとしている「みどりの会」のテーマも、「心は一つ。する事は 手分けして」である。
今朝の夢の意味は、「心は一つ」との事を、意識せよとのメッセージだと思われて来た。
その事を考えていると、「まとめる」の言葉が浮かんで来たので、まとめるを漢語林で調べて見ると、次の様に載っている。
「纏・まとめる」は、糸と廛は帯に通じ、おびるの意味。ひもをおびる、まといめぐらすの意味を表す。 纏の【字義】@まとう。まつわる。からまる。めぐる。Aくくる(括る)。たば ねる(束)。しばる(縛)。
国訓 @まとい。竿の先に種々の形の物をつけ、その下に馬簾などを下げたもの。 昔は陣所の目印に、江戸時代以降には消防組の印として用いる。Aまとめる。
辞書に、書いてある事から察すると、ひもで物をくくる、束ねる意味から、人を纏めるなどに、使用され始めた様だ。
そして、日本では、人を纏める目標として「纏い・まとい」が作られ、人を集める為の示(しるし)として、纏いが使用される事になって来たらしい。
纏は、大名行列にも使われているので、その歴史は結構古そうである。
私達の「みどりの会」も、目印として、何かの纏が必要なのかも知れない。
中核の人達が、決まるのであれば、心を一つにする、何かのデザインが必要となってくるだろう。
現在の人々は、紐付きは嫌うであろうから、コンピュターのネットワークと、ホームページの画面に現れる「纏」のイメージ次第で、うまく行くと思われる。
平成13年8月25日
礒邉自適
2001/8/24
有名無実
13・8・24
今朝のメッセージに映し出されて来た映像は、私が自分で作った、竹笛を手にして歩いていると、其れを見た笛の名手が、声を掛けて来た。
其の人も、自分で笛を作っていて、私の為に演奏をしてくださった。
そして、私にも、笛の吹き方を教えてくださるのだが、私が吹いてもちゃんと鳴らないのである。
そして、その人に付いて行くと、その人の演奏会が、山上の大きな建物で開かれるので、多くの人々が山道を登って来ている。
その人の演奏は、様々な笛で行われて、素晴らしいものだった。
私は、其の人の自宅に招待されて、家族や一族の若者にも紹介された。
息子さんや、娘さんと、その従兄弟達にも紹介され、顔もしっかりと見詰める事が出来た。
子供達や、従兄弟達の顔も賢そうで、みな似た処が有り、さすが伝統的な家柄だと感じたのである。
其の家系は、何代も続く、笛の演奏者の家柄だったのである。
大きな会場では、演奏が始まる前に、其の人の父親であるお爺さんが、籠を手にし、福運を招く小さな品を、花咲爺さんみたいに撒いていて、人気を得ていたので、その事が理解出来たのである。
其の日は、自宅に泊めて貰い、次の日、男衆が皆出掛ける時、私に「どうするか」聞くので、私も一緒に出ると返事をし、壁に掛けてあったコートを取って、腕を通した処へ、其の有名な方の奥さんが現れて、私に、相談が有ると言うのである。
私が、着たコートを、再び脱いで座ると、奥さんの顔がハッキリと映って来た。顔を確かめてから、隣を見ると、同じ位の年格好の女性が居た。
其の女性は、奥さんの仲良し友達の様である。
奥さんが、私にその人を紹介してから「実は 二人の知り合いの娘さんが 父親の世話をしていて 嫁に行くのが遅れ 結婚相手を捜している」との事である。
「アホな人でも 善い男だったら 嫁に行く。それも 農家が良い」と言っているらしい。
私はしばらく考えたが、急には心当たりが無いので、探す事を引き受ける返事をしたところで、其の夢は終わった。
そして、「有名無実」の言葉が出て来たのである。
今朝の、夢の物語と「有名無実」の言葉の意味は、何だろうか。
「有名」とは、夢に出て来た一族が全国的に有名なので良く分かる。
だが、「無実」の方は「実が無い」だから、笛の一家に当てはまるのだろうか。
実際に、笛の演奏では、国内に知れ渡っているのだから、「実・ジツ」は有りそうなのだが、其れが「無い」とは どう言う事なのだろうか。
そう言えば、その人の奥さんが、御主人ではなく、私に相談を持ち掛けて来た事が、答えを知る手掛かりなのだろう。
御主人は、笛の世界では有名でも、現実の社会では、役に立たないとの理・ことだろうか。
そうならば、考え方に付いて、江戸中期の社会思想家「安藤昌益」の存在がある。
「安藤昌益」は、出羽の出身で、儒仏の説を否定し、全ての人が農耕で生きる自然世を理想とし、生産物の国家管理を説いた人である。
安藤昌益の考え方は、芸術や歌舞音曲も一切必要ない、自分の手で、作物を作り、生活をする者だけが、正しい生き方であると謂っている。
安藤昌益の全巻が、今、農文協で中国語に訳され中国に渡ろうとしている。
中国も、国民の意識が物質中心主義に流れ、政府のコントロールが効かなく成りつつある。
ソ連や、共産主義の崩壊での、人心の乱れを食い止める為に、新しい思想が求められているのだろう。
今朝のメッセージは、娘が農家に嫁ぎたいと云っている事からすると、農家を建て直す事が、実を取る事だと伝えて来たのだろうか。
私の父親が、屋久島に渡って来て、農業を生業とする農家と成り、私を農家の子として育てた。
その事にも、神の仕組みが有るのだろうか。
今朝の私の夢を、他の誰かが見た場合「有名無実」の受け取り方が、各個人で違ってしまうだろう。
私が、持っている「安藤昌益」の情報は、神が与えた16年半の旅で知り得たものである。
私の16年半の旅は、神のメッセージを受け取る為の、情報基盤整備の為だったのかも知れない。
私は、色んな人生体験を重ねて来たが、プロと言える様な事は一つも無い。
只一つ有るとすれば、神の意識を、夢や言葉で受け取れる事だろう。
是は、他に、誰かプロフェッショナルが現れるまで、私が続けなければならない事なのだろう。
平成13年8月24日
礒邉自適
2001/8/24
遊び心が本当の心
13・8・24
今朝のメッセージに、「あそびこころが 本当のこころ」と出て来た。
其の、言葉の中では「本当」だけが、中国からの輸入の言葉で、「あそび」も「こころ」も、日本の言葉である。
「あそび」の「こころ」が、何の「こころ」か、本当に当たる言葉を捜してみる。
「本当」を、日本語読みすると「もとに あたる」と読む。
「本に当たる」とは、根本の事である。
是を、日本の古い言葉で探ると、「根の国・島根」が出て来る。
大陸から、「素戔鳴尊」が辿り着いた国が、根の国・島根である。
島根は、「出雲の国」と呼んだ方が、覚えが良い。
其の出雲の国は、「大国主命・おおくにぬしのみこと」が国造りをして、天津族の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」に、国を譲った国柄である。
出雲には、古い言葉が澤山残されている。
・「ひと」は「人」ではなく「霊留・ひと」である。
・「ありがとう」と「ごめんなさい」等の、新しい言葉は無く、「だんだん」である。
・「くまくましき谷」が、神の宿る土地であり、・「すがすがしい地」が、人の住む土地である。
出雲の言葉には、仕事に仕える人の言葉が無い。
全てが、部落共同体、氏族支え合いの言葉だ。
言葉が、「あそび」で出来ているのである。
出雲の言葉は、コミュニケーションの言葉であり、ビジネスの言葉ではない。
人間は「霊留・ひと」として、全ての暮らしは「おかぐら・神楽」なのだ。
生きる事を楽しみ、あそび感覚の時、人の言葉は、心の素のままに現れるのだ。
現代社会は、ビジネス社会だから、全てが、駆け引きの手段に、言葉が使われている。
何の「すがすがしさ」も「くまくましさ」も残って無い。
人間の、本当の真心の言葉は、神と共に在る時、神楽の状態の時が、真実の言葉である。
「神楽・かぐら」とは、神霊と共に、遊ぶ時の言葉だ。
我々人間は、この地球に仕事をしに来ているのではなく、神の為に、生を楽しみに来ているのだ。
その、遊びの心の状態に、真実の言葉が交わされるのである。
その証拠が、子供達の遊びの言葉だ。
彼らには、駆け引きの心は無い。我々成人が、子供の心を取り戻す時、真実の言葉が蘇るのだ。
その場が、神社のお祭りで、お供え物を、神霊と共に食べる「直会・なおらい」の食事である。
「直に会う」とは、誰と会うのか。
それは、「産土神・うぶすなかみ」であり、「氏神様・うじがみさま」と言う、先祖の御霊なのである。
真実の言葉は、先祖と共に生きる為に、絶対的に必要な物なのだ。
それが、今日の、私の「あそび」の言葉であり、私と、神霊とのコミュニケーションなのである。
平成13年8月24日
礒邉自適
2001/8/23
幸福の女神は金星
13・8・23
今朝のメッセージには、五重の輪が出て、中心は金色に輝いていた。そして「幸福の女神は金星」と出て、金星のレコードとの意味が知らされて来た。
朝起きて、旺文社発行のコスモスで「金星」の説明を見てみた。
金星は、女神の名を付けられた星で、225日掛かって太陽の周りを一周し、自転にかかる日数は243日で、金星の一昼夜は118日。
金星を造り上げている物質は、高温で溶けてしまう酸化物の地核。鉄、マグネシウム、ケイ酸塩。それに鉄ニッケル合金で出来た核。以上3つの成分で出来ている。と 載っている。
金星は、鉄、マグネシウム、ケイ酸塩が、星の外側を包み込んでいるのである。
是は、金星から出ている波動は「鉄・マグネシウム・ケイ酸塩」の振動波であると考えて良いだろう。
「ケイ酸塩」を辞典言泉で調べて見ると、二酸化珪素と金属酸化物との塩、地核の主成分。一個の珪素と、四個の酸素で囲まれた正四面体の原子団を基本に、多種多様に結合して、鉱物や岩石を形成。一般に融点が高く、融解したものが冷却するときガラスになりやすい。と 載っている。
これ等の事から、何故、金星が「女神、ビーナス」として考えられて来たのかを、考えて見た。
弘法大師空海は、四国の室戸岬で修行中、金星が口の中に飛び込んで悟った事に成っている。金星は、中国では太白星と呼ばれ、太白神は陰陽道で方角神の名「太白星の精」で、大将の象を有し兵凶を司る。 言泉より
金星は、ヨーロッパでは「ルシフェル(ルシヘル、ルチフェル)」と呼ばれ、「悪魔、魔王」に成ってしまっているが、是は、光の天使が人類救済の為に地上に降りて、反面教師の役割をしている理・ことの、解釈の違いである。
其の働きは、日本では「国常立の神」であり、「不動明王」の姿であり、東北地方の「ナマハゲ」の姿である。
人間の魂しいを、強くする為の、導きの姿を表現する方法として、反面教師の役割で存在を続けているのである。
今朝のメッセージは、金星が女神であり、幸福を齎す星であり、その情報が、レコードとして記憶されているとの理・ことの様だ。
私の直感で判断すると、金星は、人間の意識に、古代より影響を与え続けて来ている様である。
アメリカ大陸の、ユカタン半島に住んでいたマヤ族は、金星を一番大事な星としてカレンダーを作っている。
中国、日本、ヨーロッパ、アメリカ大陸、みな其々に、金星を自分の意識の対象として、是まで考えて来ている様である。
金星は、太陽を神と考える勢力に次ぐ、信仰のされ方をしている。
私は、太陽は「心・精神」として捉え、金星は「物・物質」を司ると、考えられたのではないかと想う。
女性は、宝石や衣服に興味がある。
男性の様に、戦いや、天下国家とかには、興味がない。
女性は、見える世界に対して、意識を使っている。だから、金星は、女性心理とマッチしているのではないだろうか。
女性は、子供を産み育てる為に、家や食物など、様々な物質が必要である。
男性の様に、槍一本持って出掛け、何日も家に帰って来ない生き方とは、根本的に違っている。
普通の母親は、子供を育てるのに、必要な物が満ちていれば、それ以上の物は望まず、愛と信頼の為に生きて行くのだ。それが、ビーナスの姿である。
権力者の妻が、時々政治に関心を示し、国を滅ぼして来たが、其れは、数えるくらいの事で、根本的には、女性は平和を愛している。
男の様に、戦いの為に、戦うと言う事は無い。
金星は、物の安定を願う事を、私達人類に、シミュレーションして来るのではないだろうか。
弘法大師空海は、書や、薬や、ダム建築などに、自分の能力を発揮している。弘法大師の、宗教の対象である「大日如来」は、インドの「ビルシャナ」の訳で、ビルシャナとは「宇宙の真理の本体」と言う意味であり、この宇宙の全物質は、ビルシャナの本体・身であると教えている。そして、その身には、意識が宿っていると言うのである。
金星も、宇宙の物質であるから、ビルシャナの身の一部と言う事になる。
金星の構成物質はケイ酸塩で、一個の珪素を、四個の酸素が囲んだ正面体だとの事。
これは、一人の女神を、四人の四天王が囲んで、守護する形に似ている。
四天王が護るのは「帝釈天」であるが、帝釈天は、天上界の王で、万民の善行を喜び、悪行を懲らしめる神である。
この形からすると、珪素の働きが、女神の働きなのかも知れない。
仏陀の、第三の目は「松果体」の事だが、松果体は、珪素・シリコンが松の実の形に、結晶している形から来ている。
人間の、額の奥に有る「松果体」と、珪素・シリコンのチャンネルが同調した時、空海の言う「虚空蔵菩薩求聞持法」の秘密が明かされるのである。
金星は、虚空蔵菩薩の化現であるとの事なので、空海は、其の金星と同調して、開眼したのだろう。
金星の女神の波動こそ、男性の本来のパワーを解放するのだろう。
それでこそ、不動明王にでも、ルシフェルでも、太白の精にも成れるのだ。
今朝の映像に現れた、五重の輪の、中心の金色は、家庭の中心、母親の姿なのかも知れないのである。
平成13年8月23日
礒邉自適
2001/8/21
手作り佛 唯一
13・8・21
今朝のメッセージには、「分岐点に立つ」と「手作り佛 唯一」との言葉が告げられて来た。「分岐点に立つ」は、別紙に書く事にして、「手作り佛 唯一」に付いて考えてみた。
「佛・仏」とは、インドの言葉である「ブッダ」の音を、漢字に置き換えたもので、ブッダとは漢字の「覚者、めざめたもの」の意味である。インドの釈迦が、6年間の修行の末「成仏(ブッダに成る)」したので、この言葉が始まっている。
「手作りのブッダが 唯一」とは、手作りのブッダが唯、一人しか居ないとの意味である。この意味は、どう言う事であろうか。是は、ブッダを何者かが造った事に成る。それも手造りで、唯一人しか無いとの事だ。
其れは、多数の人間を、一度に「ブッダ・仏陀・佛・覚者」にする事は、出来ない理・ことを意味している。
2600年前も、釈迦仏陀以外には、ブッダと成った者はいないらしい。
其の釈迦の言葉に、「2600年後に 弥勒菩薩が下生するまで ブッダは現れない」と告げたと残っている。
何故、2600年も、時が経過しないと、ブッダは現れないのか。
其れは、ブッダとは、人間の努力では生まれない理・ことを、伝えている。
其れは、宇宙の時間が2600年満ちなければ、ブッダ誕生のチャンスが訪れないとの理を意味している。
ブッダとは、宇宙の働きが生み出すものであり、人間の都合で生まれるものではないと言う事である。
人間が、いくら努力をしても、仏陀には成れない。
仏陀・ブッダとは、宇宙が、自分の意志をみずから現わそうとして、唯一人の人間を教育して、ブッダにまで「そだてあげる」のである。
其れが、手造りの意味である。
だから、ブッダとは、人間の力では、成れない事を意味している。
其れを、理解できる事が、ブッダの証拠・あかしでもあるのだ。
釈迦仏陀が、2600年の時が経過しなければ、次のブッダは現れないと言えたのも、自分の存在が、他には在り様が無いと、自覚出来たからである。
釈迦仏陀の謂ったと言う、有名な言葉に「天上天下唯我独尊 ・てんじょうてんげ ゆいがどくそん」が有るが、その意味は、唯一の者で、他には存在しないとの、明確な認識から発せられた言葉である。
だから、世界中に、仏陀・ブッダは「弥勒下生」までは、存在し得ない事に成る。
もう、世界中の現在の仏教には、釈迦の教えは残っていない。
全ての人々が、無明に落ち込み、真理は、誰も理解していないと言う事である。
釈迦仏陀は、自分の意志では寺院を建てていないし、経を唱えたり、線香を立てたり、蝋燭を灯したりもしていないし、勿論、仏像など拝んだりはしていないのである。
釈迦仏陀は、唯意識を自分の内側にだけ向けて、全ての行為を止め、自分の記憶を、宇宙誕生時まで遡っただけである。
その事が、現在の仏教では実行されていない。
人間が、自分の意識を持ち続けて居る間は、宇宙意識が、其の人に介入する事は出来ないのだ。
全てを捨て去って、執着を離れ、宇宙意識に身を委ねた者しか、佛への門を潜れないのである。
その理・ことは、「イエスキリスト」も「財産を持っている人が 永遠の命に入るよりは ラクダが 針の穴を潜る方が易しい」と謂っており、何かの物や、者に、心が捕らわれている者は、絶対に覚者には成れないと謂っている。
釈迦仏陀と、イエスキリストに共通している事が有る。
其れは、両方とも、水浴びをして悟ったと言う事である。
其れは、日本で言う処の「潔ぎ祓い」なしには、ブッダには成れない理・ことを証明している。
其れに、日本の神道の元に成っている「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをして、神々を生み出している。
日本語の「みずから」を、「自ら」と書いているけれども、本当は「水から」が正しいのかも知れない。
日本の神道では、神社に参拝する時や、神が棲む岩山に登る前に、手前の川で身を水で潔ぐ事が、一番重要とされているのも、その為である。
「分岐点に立つ」は、我々人類が、最早分岐点に至っており、潔ぎ祓いなしには、此の峠を越えられない理・ことを、意味しているのではないだろうか。
その答えは、唯一の手造りの佛が、知っているとの事であろう。
神(宇宙)手造りの、唯一人の「ブッダ・佛」が、私達人類の未来を開く鍵を、持っている事に成るのである。
其れは、手造りの人こそ、現場の事を、知り得ているからである。
人間の、先生に付いて、教育された者は、人間界の事しか理解していない。
人間界に生きている者は、人間界の事しか知り得ていないのである。
だから、神の世界、神の謀り事に付いては、理解していないのだ。
唯一の佛を捜し出し、其のブッダの知恵に縋るしか、他に救われる道が無い、時節を迎えた事を、今朝のメッセージは伝えて来ているのだろう。
外は、台風11号の大雨が、地面に繁吹(しぶき)を上げている。
「水」の存在と、「みずから」との言葉には、佛の世界では、境目が無い。
今朝の霊夢は、台風11号が持ち込んだ、現象・モノかも知れない。
平成13年8月21日
礒邉自適
2001/8/21
分岐点に立つ
13・8・21
今朝の霊夢には、「分岐点に立つ」と出て、次に「手造り佛 唯一」と出て来た。其の意味は、「時代は 分岐点に来て 其処に立つ 唯一の手造りの佛」と言う事だろうか。
岡山市玉島出身の「岡本天明氏」に、千葉県の麻賀多神社の境内に有る、「天之日津久神社」で降りた「日月神示」には、次の様に有る。
・キの巻20ページ・「岩戸開いて 一つの王で治める。神のまことの世に致すのであるから 神は心配ないなれど・・・」。
・同53ページ・「この方 祀るのは 天の日継の家ぞ。祀りて 秋立ったら 神いよいよ烈しく 臣民の性来によって 臣民の中に 神と獣と ハッキリ区別せねばならん事になりて来たぞ。」。
・同9ページ・「日の光は 神のこころ稜威ぞ。神のやり方は 日の光。臣民ばかりでなく 草木も喜ぶやり方ぞ。」
・ 下巻218ページ・「日本精神は 真中精神、末代動かぬ 精神であるぞ。三千世界の大掃除であるから、掃除するには 掃除する道具もいるぞ。人民もいるぞ。今の有様では いつ迄たっても 掃除は出来ん。益々けがれるばかりぢゃ。一刻も早く 日本から、日本を足場として 最后の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは 人民かわいそうだから、くどう申しているのぞ。」
等、色々な角度からのメッセージが出ている。
此の神示に拠ると、神に拠る立て分けの時代が来て、正しきコトを治ろしめす者が現れて、神の役目に立つ者を、救い上げる事が示されている。
私は、1983年3月18日に無庵師匠に探し出され、「自適さんが 世界を救うのだ」と云われ、無庵師匠の言う通り仕事を辞め、家族と別れ、師の導きで修行を続けて、岡本天明氏と同様な神掛かりが起きて、現在・いまの人生模様と成っている。
其れから、神の命ずる儘に16年半の人捜しの旅に出た。
昨年の12月5日に、神が示した、約束の16年半の期日が満期と成り、其れから、新しい動きが起きて来ている。
私は、自分自身では、何も知らないので、ただ神の働きに、我が身を委ねているだけである。全ての流れは、神の力に因って動いている。
私にとって、「日継の神(ひふみ神示)」は、疑う余地の無い程、しっくりと理解出来るものが有る。
上巻の144ページには、「次の四(よ)の種だけは「字」に埋めておかねばならんのざぞ。それで 神がくどう申しているのぞ。種は落ちぶれていなさる方で守られているぞ。上下に 引繰り返ると申してある事近付いて来たぞ。種は 百姓に与えてあるぞ。種蒔くのは百姓ぞ。」
と有り、「次の四の種だけは 字に埋めておかねばならない」、「次の四」とは次世(代)の事であり、其れは文字に隠されていると出ている。
旧約聖書にも、始めに 言葉ありき。言葉は神なりき。神の名は 「72」と有り、「72」の文字は、神だと言っている。
私が感じるのは、私達が日常身近に使っている言葉こそ、神の姿なのだと言う事だ。
弘法大師空海が興した「真言宗」でも「マントラ・真言」と言って、言葉こそが「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の本体だと言っている。
日本の神社でも、「あ・阿」と「うん・吽」の狛犬が、鳥居を護っている。
「あ」から「ん」までの「あ・い・う・え・お」の母音と「あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ」の子音の、文字を使った言葉が、神の本体だと伝えられて来たのだ。
その、神である言葉を思い出す為に、意識を一度空白にする必要があり、御手洗で手足と口を清めるのである。
御手洗には、手を洗う水溜めに「心洗」と彫られている。
心を洗うとは、正しい言葉を使える様に、執着を離れ、心を無心にする理・ことである。そうする事で、自分の意識は宇宙意識と合体し、自分の中に、宇宙意識の目が立ち現れて来るのである。
その目が、「源始の目・モト目」であり、「いづの目」「籠目・かごめ」と呼ばれている意識の目である。
「初」「始」の漢字を、「はじめ」と読むのは「ハジまりの目」を意味しているのだ。其の目に、目覚めた者が「覚者、ブッタ(仏陀)」である。
其の「見覚めた者・ブッダ」を、日本の古神道では「スメラの命」と呼び、その者の体の事を「ミマ」と呼んで来たのである。
「すめみま」とは、「素目・すめ」を持った「清体・みま」の事で、「帝・みかど」の理・ことでもあるのだ。
其の「覚者・ブッダ」は、「自ら 目覚めた者」と呼ばれるのである。
「自ら」とは、「水から」と同義語である。
昔の人々には、水こそが、自分の記憶を取り戻してくれる、唯一のモノだったのである。旧約聖書には「神は 水を 天と地に 分けた」と有る。
近代科学の世界でも、宇宙の全ての物質は、水素原子が素と成っている理・ことが、解明されている。水は、全ての物質の原質なのである。
インドでは、目覚めた者を「ブッダ、仏」と呼んで来た。
其れは、水の原子振動に還る事である。我々人類が、永久に求めて止まないのは、その原始の意識・元の目である、水の意識への回帰なのである。
インドの釈迦仏陀も、イスラエルのイエスキリストも、覚者に成る直前に、水浴びをしているし、日本の神道の元祖である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、小戸のあわぎ原で水浴びをしている。
其れを、日本では「禊・みそぎ」と言って、一番大事な儀式として伝えて来た。その事が、現在では、神社や寺でも実行されていない。されているとしても、其れは、自分の能力を高める事が目的であり、自分を無にして、神に全てを委ねる事ではなく成っている。
現代社会の人間は、殆どの人々が、自分の事しか考えていない。
日継神示に出ている、神と獣を分けるとは、利己主義の人々を、振り分けると言う事だろう。
唯一の「ブッダ・仏陀」が現れれば、其の時は、人の心は、両方にハッキリと別れ始めるであろう。
其の日が、近付いている事を、今朝のメッセージは伝えて来ているのだ。
次の世の種は、既に、解き明かされたのだ。
平成13年8月21日
礒邉自適