このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2001/5/25
OHO 其の二
13・5・25
5月4日の夢に「OHO」と出て来て、続けて「水」と出てきた。
「HHO」なら水の化学式なのだがと憶いながら、取り敢えず「水」を主に考察を続けて、「OHO」に付いては時期を待つ事にしていた。
今朝、瞑想をして居ると、再び「OHO」が出て来て、是は「ゴザ」だと言う事に気付いた。
「ゴザ」とは、草や稲藁を縦横に編んだ物で、編成とか組織、仕組みの事である。
「OHO」を、「オール、ヘルツ、オーソドックス」の、其々ローマ字書きした、最初の頭文字だとすれば、「我が水の道」、すなわち「ウップルイの仕組み」という内容が、浮かび上がってくる。
「我が水の道」とは、水素原子の振動にチャンネルを合わせて、物質の世界を「霊・タマ」振りする事である。
其れが、宇宙を振る事であり、「ウップルイ」と呼ばれたのである。
宇宙を構成している水素が、個体に変るのは、摂氏マイナス273度で、其れが絶対零度とされている。
総ての物質は、絶対零度では「超電導」と呼ぶ性質を持ち、電気を通すことが証明されている。
古代の人達は、その絶対零度の世界に、自分の意識のチャンネルを合わせる事を、知っていたと言う事になる。
総ての物質に、チャンネル出来ると言う理・ことは、縦横無尽に波動を送る事が、出来ると言う事である。
だから、其れを「オール‐ヘルツ」と言って、良いのではないだろうか。
人間の能力は、科学の発達に依存する様になって、しだいに失われて来たのだ。
人間の脳は、絶えず使用していないと、脳細胞の数が減少して行くのだ。
「オーソドックス」な生活こそ、人間性を見失わない生活なのである。
現代の様な、大量消費生活は、物と人間の精神の繋がりを、破壊してしまう。
何代にも亘って、伝えられ、大事にされてきた家具や、宝石等は、思い出と共に、霊的なエネルギーをも伝えて行く物なのだ。
其れは、物質が全て磁気を帯びており、人間の精神的な振動波も、其の物質の中に捉えられて、記録されて行くのである。
神社や、寺院のお札も、本来は波動を伝える為の物であって、欲望を願う物ではなかったはずである。
ヘルツの低い人が、高いヘルツを持つ人から、波動を貰い受ける。其れが「御守り」の原点であったのだ。
「救世主・メシヤ」が現れるとすれば、その者の振動は「オーソドックス」で「オールマイティ」な「ヘルツ」と言う事になるであろう。
しかし、その者が現れても、チャンネルを合わせる事が出来なければ、同調し理解する事は出来ない。
「オールマイティ」なエネルギー(力・フォース)は、テレビの電波の様に、あまねく行き渡っているが、受像器のチャンネルを合わせられないと、受信が出来ないと言う事であろう。
受け手のチャンネルが合っていない為に、其れがオールマイティなエネルギー、すなわち「救世主」である事が解からず、単なる雑音にしか、受け取れないのである。
あるいは、その雑音を、其々が自分勝手に判断してしまうので、現在の人間社会は、調和を失って来たのである。
救世主が現れても、人々がチャンネルを合わせて、同調する事が出来なければ、救世が起きる事は無い。
その理を、イエス・キリストは「その者が現れたときに、理解(チャンネル)できるように、絶えず目(意識)を覚ましていなさい。」と、謂っている。
「OHO」とは、救世主の暗号なのだろうか。
「世界は一つ」とは、「OHO」の振動のゴザが、世界中に編まれていて、私たちは、その上に居ると言う事だ。
其れを、日本では、「神の前に座る」「ゴザの上に座る」と表現し、「有難う 御座居ます」と言う挨拶に、使い始めたのかもしれない。
「御座居ます」が、理解できれば、「頂きます」も、自ずと理解されようと言うものである。
平成13年5月25日
礒邉自適
2001/5/24
手 枕
13・5・24
本日の夢に、「手枕」に続いて「蟻も漏らさない」との言葉が、映し出されて来た。
「手枕」とは、手を枕にして寝る、休むことを意味している。
「蟻も漏らさない。」とは、小さく数が多い蟻を、網の目から逃さないと言う事で、隙間が無いと言う事を意味している。
小さな蟻を、一匹も逃がさない様にするには、起きていて、目を凝らしていなければならない。
それが、手枕をして寝て居て、出来ると言うのは、辻褄が合わない様に想う。
今朝のメッセージが、どう言う意味を、伝えて来ているのか考えてみた。
私は、神の命令に拠って、人探しの旅を17年間続けてきた。
其れは、屋久島で多くの神霊に頼られてから、全国を旅して、神・天が、未来社会の為に、育て準備している人々を探し出し、其れ等の人々の縁を、結ぶ事を、最大の目的としての行動である。
其の旅は、16年半の期限付きであったのである。
それが、昨年(2000年)12月4日で、決められていた期間が、終わったのである。
中国の老子が、「天網恢恢・てんもうかいかい 粗にして漏らさず」と、謂っているのは「天の網は 粗いようだが 何ひとつ漏らさない。」と言う意味である。其の「天の網」とは、神の意思であり、神は人間一人一人を全て管理し、其の人の事を知っていると、言う理・ことなのである。
私の旅は、その神の意志に因って動かされたものであり、神が用意した人々に出会って歩くと言う事だった。
だから、私の旅は、神の代理としての旅だったと謂うことになる。
その役目が、無事に果たされ、もう蟻も逃げ出せない様に、しっかりと天網が張り巡らされた事を、知らせて来たのだろう。
そして、私は、手枕をして、寝ていて良い事になる。
5月21日には、神武天皇の母親である「玉依毘売・たまよりひめ」の、霊を祭る宮崎の「宮浦神社」で、「山口弘美宮司」と、他七名が参加し、三時間の話し合いを持った。
その時、参加者の一人である「和田さん」が、5月14日に私が動き出す事を、神武天皇のメッセージにより知らされたと云う。
実際に、私は、5月14日に「白土宏氏」の車に便乗して、九州に入ったのだった。
また、「前田さん」には、赤い玉と、緑の玉を持った神が現れ、緑の玉を手渡されたそうだ。
私達の会を、「みどりの会」と名付けたのは、2月9日の事である。
是は、神が、神武天皇の母親である「玉依毘売」に纏わる人間に、緑の玉を授けたと言う事に成るのだ。
私の、人と出会う為の旅は、16年半の約束だった。
神武天皇の東征の旅も、16年半掛かっている。
同じ、月日の数が現れているのだ。神が、人間界に網を被せるには、16年半という年月が、必要なのだろうか。
今年に入ってから、新しい動きが、様々に起きている。
其れは、神が本格的に動き出した証拠である。
私の、長い旅も終わって、手枕の時期を迎えたのだ。
インドの釈迦仏陀が、涅槃に達したのは、80歳になってからである。
霊界での釈迦仏陀の働きのお陰で、私は54歳にして、涅槃の時を迎えられるのだ。
私の所に、現れた「神霊の思頼・みたまのふゆ」」の霊魂の数は、4311体であった。私は、それだけの「神霊の思頼」を受けた事になる。
その体験から、言える事は、「お陰様で」「戴きます」「有り難い」と言う言葉が、重要な意味を持っていると言うことである。
誰から、何を「戴きます」なのか、そして、「有り難い・あることがむずしい」とは、どう言うことなのか、今一度、手枕の夢の中で探っていきたい。
その夢の中には、4311体の霊人や、平成元年1月8日の未明に、私の心臓に飛び込んできた「昭和天皇」の霊も、現れるかもしれない。
蟻も漏らさない仕組みであれば、私も安心して、手枕で、夢の旅を続ける事が出来るだろう。
平成13年5月24日
礒邉自適
2001/5/22
見極める
13・5・22
5月14日に、九州入りして、今日で8日目である。
毎日、南九州を車で走り回っているが、人との出会いや、出来事が順調に起こるので、楽しく時間が経過している。
今朝のメッセージには、「見極める」と出て来たが、見極めるとは、何を見極めるのか、具体的な指示はない。
5月18日の夢には、人差し指が映ってきたので、何かを、指差して、見つめる事と、関連しているのかもしれない。
人を見極めるのであれば、出会う人の仕事や、性格、考え方などを、確かめる事にもなる。
時代の流れを、見極めるのであれば、政治や、経済などの、社会現象を確認することでもある。
「見極める」とは、見て極める事であるので、何を見るのか、見る為の対象物がなければならない。
対象物にも、大きく分けると、目に見えるもの(物)と、目に見えないモノ(現象)がある。
別の言い方をすれば、「物事を見る」で、「物」と「事」を見ると言う事になる。
物を見るとは、物の品質や、位置関係を確めたり、色々な物差しを使って、科学することも含まれるだろう。
一方、事を見るのは「事件」と言う言葉が有るように、時間に拠って組み立てられる行為や、現象であるので、絶えず移り変わっている。
是は、固定しているものと違って、関係している人全員が、同じように見るとは限らない。
歴史が、見る立場によって異なり、見方に拠っては、まるっきり反対に受け取られる事も有るのは、その為である。
今朝のメッセージの「見極める」とは、何を、指示して来たのであろうか。
時代は、いま大きく転換を求められている。其の次期に、小泉純一郎氏が新しい日本の総理大臣となった。小泉総理の人気は、日増しに高まっている。
大臣の「臣」は、大きく見開かれた目の象形で「物ごとが よく見えている」と言う意味である。
小泉氏の父親「純也」は鹿児島県川辺郡東加世田村(のち加世田市、現南さつま市)の出身である。加世田は、薩摩半島に位置していて、薩摩半島は、皇祖「邇邇杵尊・ニニギノミコト」と「木花開耶姫」の出会いの地でもある。
皇祖の出会いの地を、その出自に持つ首相には、日本の政治の原点に立ち返って、土台から考え直して欲しいものである。
また、小泉総理の誕生日は1月8日だそうだ。1月8日は、私にとっても忘れる事ができない日付である。
昭和天皇が、1月7日に亡くなって、その夜、日付を超え、1月8日の未明に、昭和天皇の御魂が、私の心臓にいきなり飛び込んで来た。
それから。12年が経ち、干支が一巡した事になる。
さらに、12年後の2012年12月23日には、世界が終焉を迎えると、マヤ歴に刻まれているそうだ。
是からの12年間で、新しい時代を創り上げる事が出来るか。それが、人間に与えられた課題である。
私も、是からの12年間を、しっかりと見極めて行きたい。
私に、物事を見る目が養われているのかは、自分では自信が無いが、見る目を養って行く心構えは、誰にも負けないつもりである。
見る目が、有るか 無いか。其れが、是らの社会で、一番大事になるのではないだろうか。
今朝告げられて来た、「見極める」との言葉は、その事の準備でもあるのだろう。
平成13年5月22日
礒邉自適
2001/5/18
人差し指
13・5・18
今朝の霊夢は、強烈だった。
神の、右手の人差し指が現れて、私を指差していた。
人差し指は、名前の通り、人を指図する際に使う指である。
人を指図すると言うのは、人間を動かす事である。
人間が動く為には、自分の意志か、第三者の意志に拠る、強制が必要だ。
神の意識に通じる者は、他人の指示に従う必要はないが、神に直接通じる事ができない物は、誰かの指示、導きを必要とする。
指導者は、杖か棒を持って方向を示すが、杖や棒が無い場合は、右手の人差し指を使って、人を指し示す。
其れを、示しているのが「人差し指」と言う名称である。
昔は、情報の出処が限られていたので、人を動かすのは、案外楽に出来たのだろうけれど、現在は、あらゆる処から情報が発信され、人はどの情報に従ったら良いのか、判断する事が非常に難しい。
ときには、同じ事柄に対して、全く反対の内容である情報が、流される事さえ有るので、いい歳をした大人でさえ、戸惑ってしまう。
だから、子供であれば、なおさら困惑してしまうだろう。
その結果として、子供達は、社会放棄をしてしまうのだ。
子供達は、金や物より、精神の栄養を求めて成長する。
その、子供達の心を育てる為の栄養が、現在・いま枯れて来ているのだ。
自然が豊かな土地で、自由に育った者は、優しい心を持っており、競争心を持たなくても生きていける。
しかし、都会で生活するには、競争心こそが必要になってくる。
都会で生活する人には、金儲けの方法を、指し示す指に、意識が集中するのだ。その、都会の金儲けの方法を、指し示す指に従った者達が、幸福に成ったのかと言うと、そうではない事が、次第に明らかに成って来た。
人々の意識は、自然に回帰する方向へと向きを変え、アウトドアや自然観察が流行する様に成って来た。
生活の基盤を、都会に置く暮らしは飽和状態となり、満月の後の、月の様に、欠けて行くばかりである。
先日、テレビに「後藤田正晴氏」が出演して居て、「先達が 必要だ」と云っていた。その正晴氏が謂う先達とは、新しい世界へ、人々を導いて行く人の事である。
先達の人差し指こそ、今朝の夢に現れた、人差し指の事であろう。
新しい世界へと、人々を導く指を持った者が現れれば、私も、肩の荷が下りるのだが、さて、どうなる事だろう。
平成13年5月18日
礒邉自適
2001/5/16
貴方は自分で立ち上がった
13・5・16
2001年5月16日午後6時、鹿児島県隼人町にある「薩摩一の宮」である「鹿児島神宮」に10数年ぶりに参拝した。
此処で、幾つかの言葉が、共時性を持って、私の前に現れているので、其れを紹介しておく。
・この神社の御祭神は、神武天皇の祖父「山幸彦・ひこほほでみ」である。
・この日、案内してくれたのは、4月3日に隼人町に引っ越してきたばかりの女性であった。
・同じ4月3日に、奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室の南面に朱雀の壁画が発見されている。
・この日は、「神武天皇祭」の日であり、私は、熊本県阿蘇郡蘇陽町に住む様になってから、毎年この日には神武天皇祭を行っている。
・蘇陽町には、日の宮幣立神宮という神社が在る。
・私が初めて日の宮幣立神宮に参拝したのは、平成元年3月13日であり、その日、私を含めて数人で幣立神宮の境内に着いたその時間に、太陽のコロナが異常現象を起こした事が、新聞報道されていた。
・幣立神宮のもとの名は「日の宮」である。
・私達が、参拝したことに太陽が反応するというのは、この神社の「日の宮」という名が正当なものであることを証明している。
・太陽の化身は、朱雀である。
・神武天皇が東征したときの物語には、太陽を神として祭っていた事が記されている。
・神武天皇の一族が、祭神とするのは太陽神「大日霎貴・おおひるめのむち」である。
・鹿児島神宮に案内してくれた女性は、隼人町に住宅を見に来て契約したのが3月13日であった。
この様に、神武天皇、太陽、朱雀、日付が何度も揃って出て来たのである。
今回、鹿児島神宮で、参拝して二礼二拍手して手を合わせて居ると、「あなたは 自分で立ち上がった。」と言う言葉が出て来た。そして、祈りを済ませると同時に、6時を知らせる神宮の太鼓が鳴り響いた。
「あなたは 自分で立ち上がった。」とは、どのような意味を持つのだろうか。
私は、1984年(昭和59年)6月4日(旧暦5月5日)に、安房川の岸辺で禊ぎ祓いを受けて神の世界に入り、4311体の霊界人に「体を貸してくれ」と頼まれて、半年後に全国の旅に出る事に成った。
其れから、間もなく丸17年になろうとしている。
今日まで、私は、其の4311体の霊魂に体を使用されている存在であり、自分と言うものは無いものと考えて来たのである。
それが、「自分で立ち上がってきた」と言われても、合点が行かない。
其れは、此の17年間、自分の思いとは違った形で、他の存在に動かされて来たものと、私は思って居たからである。自分の意志は、無いものと決め付けていたのである。
改めて、誰の意志に因って、私は動いて来たのか考えてみると、「こうしなさい」とか「こうでなければならない」と言う指示を、受けた記憶はあまりない。
見えない世界の霊界人達は、参考に成る事は、私に知らせたり、現象として起こして見せたりしたが、最終的な判断は、私自身が選択する様に、状況を創り出していたようだ。
其れは、私の意思が無いのではなく、私の決断であり、私の判断に拠って、行動して来たのだと言う事なのだ。
私は、「礒邉自適」と言う人間の立場を、再確認する必要に、迫られているのだろう。
霊界人達は、あくまでも過去世の人達であるので、未来世界の創造に、タッチする事は、神が許さないのかもしれない。
だから、霊界人達は、自分の体験を通して、現代に生きる我々に、智恵を授けているのだろう。
会社の組織で言えば、神霊は顧問的な立場であって、社長の様な決定権と責任は、無いと言う事なのだ。
会社の社長は、代表者であり、責任が伴っている。
だが、会社の顧問的存在は、たとえ社長が経営に失敗しても、責任を求められる事は無い。同じ理・ことが、私と霊界人との関係にも言えるのだ。
私が、間違った行動をとっても、霊界人が責任をとったり、この世の人達が、霊界人達に、責任の所在を求めたりする様な事は、不可能なのだ。
だから、霊界人達は、人間が、霊界に対して、責任転嫁をしない様に、決定的な言い方をしないのだろう。
其れなら、霊界人達は人間に対して、お礼など要求しないはずである。
人間が、勝手に、お供えするのは自由だが、お供えする事を、要求する事は決してない。
若し、要求する物が在れば、其れは、余りレベルの高くない物であろう。
大きくて、立派な神社を建立するのは、神社を管理する人間の、単なる見栄に過ぎないのである。
そして、大きくて立派な建物に、目を奪われている民衆にも、問題が有るのだ。
私は、神の世界に立ち入るまでは、神社に自分の願いをする為に、参拝した事は一度も無かった。
神の世界に入る事と、神社に参拝する事とは、直接何の関係もないようだ。
17年に及ぶ、神の世界での体験でさえ、自分で判断し、選択して来たのなら、私は子供の頃から、全てを、自分の判断と選択で、生きて来たと言う事なのだ。
そうすると、私の判断や、選択を決定させる、要因となったのが、神霊達の行った作戦内の事であったと言う事に成る。
「あなたは 自分で 立ち上がった」と言う言葉を、告げること自体が、私に自覚を齎す為の作戦のようである。
こう謂うやり方が、神が、人間を育てる方法なのだろう。
この言葉は、私自身に、責任が有る理・ことを気付かせ、更に新しい段階へ、私を連れて行くようである。
平成13年5月16日
礒邉自適
追記
社長の椅子に座って居るのは、現代人の誰かであって、過去の世界の霊達ではない。例えば、釈迦やイエスが現代に現れたとしても、何も出来ないと言うことだ。
現代には、現代の世に合った、働きの者が現れて、新しい名で呼ばれなければならない。イエスが言っている様に、新しい酒は、新しい革袋に、入れなければならないのだ。
その様に考えてくると、神の計画に拠って、現代の世に生まれ、聖霊の知恵を授かって、悪霊を除霊しながら、未来を創造する誰かが、必要になってくる。
其の誰かが、2600年のサイクルで出現するとすれば、今から2600年前の「神武天皇」が、その役目を担ったのだ。
その神武天皇の、祖父である「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」の霊魂を祭る神宮で、「あなたは 自分で立ち上がった。」と言う、言葉を受け取ったのは、2600年のサイクルで、同じ役目を継ぐと言う事なのだろう。
やはり、私と言う存在は、人間に、神の言葉を運ぶ、システムの一部なのである。
平成13年5月17日
礒邉自適
2001/5/8
何をもってするか
13・5・8
今朝の夢には、「何をもってするか」と言う言葉が出て来た。
是は、心を定めるのに、何を、心の拠りどころとするかと言う事であろう。
イエスキリストは「あなた方は 自分の十字架を・・・」と、謂ったとの事である。
仏教では、「仏像」や「曼荼羅」を、心の拠りどころとしている。
共産党員は「赤旗」を、アメリカ人は「星条旗」を、軍隊は「武器」を、板前さんは「包丁」を、仙人は「杖」を、心の拠りどころとしている。
そして、現代人は、殆どの人が「お金」を拠りどころとし、若者は「携帯電話」を拠りどころとしている。
これ等は、皆、人間の弱さを表している。
イエスキリストが言った「十字架」とは、心の十字架であって、磔の十字架ではない。
釈迦牟尼佛が謂ったのは、仏像ではなく、自分自身という「仏・ブツダ」の事である。
イエスや、釈迦や、老子が謂ったのは、物質に執着してはいけないと言う理・ことである。
彼等が謂ったのは、宇宙の大自然の働きを、心の拠りどころとしなさいと言う事である。
現在の宗教では、一番大事なこの宇宙の働きを、大事にすると言う理・ことが伝えられていないのである。
其れは、何故なのか。
其れは、真実の教えは、宗教家にとっては金に成らないからなのである。
人々が、宇宙に目を向けて、真実に目覚めれば、信者として金や物品を奉納しなく成るからである。
宗教家は、人間の心の弱さを、巧く利用して、生活を続けているのである。
しかも、其の心の弱さを利用する事を、代々受け継いで、生活の拠りどころとしているのである。
心の拠りどころとするものを、偶像や祭具などの物に置く事に拠って、宗教家は生活(経済)の拠りどころを得ているのだ。
宗教の開祖とされている、イエスキリストも、釈迦仏陀も、自分の手には何も持っていない。
「何をもってするか」其れは、心に、何時も存在する何かを、明確にすると言う事であろう。
其の何かとは、資本主義、社会主義、共産主義などのイデオロギーではない。
其れは、確かな「言葉」である。
私は、毎日、朝方夢に出て来る映像や、頭に浮かんで来たりする「文字」と「言葉」を常に気にしている。
文字は、言葉を刻む為のものであるから、其の主体は言葉である。
言葉がなければ、宇宙の働き、大自然の仕組みは、人間の意識に、認識する事が出来ないのである。そうであるからこそ、言葉を心の拠りどころとして、その言葉が気枯・穢れない様に、生活しなければならないのだ。
考えてみれば、簡単な事なのでる。
言葉を大事に扱うだけなら、お金も、財産も、必要ないではないか。
言葉は、大宇宙、大自然の働きと、人間の意識の架け橋として、登場したものだからである。
私達は、今一度「言葉」と「神・宇宙」の繋がりの処・次元に、立ち返り、心の依り処を、確認し直す必要があるのだ。
其の事を、中国の老子は「名付けてはいけないが、名付けなければ認識のしようがないので、仕方なく道と名付けよう。しかし、道と名付けたら、もう固定されてしまうので道ではない。」と謂っている。
旧約聖書には、「始めに言葉ありき。言葉は神なりき。」とある。
古の偉大な人達は、言葉が、最大の力である事に気付いていたのだ。
インドの釈迦も、「人は 行くと 物事に出会い 言葉を使い始めるので、行く事を止めて 言葉の生じる前の次元まで かえりなさい。そうすれば、人は自由になれるのです。」と訓えている。
人間は、言葉に因って心を縛られている事になる。
言葉とは、危険なくらい拘束力が有るのだ。
イエスキリストは、言葉を使って「愛」が大事だと説いている。
しかし、愛は、対象物を意識して発生するものだ。
釈迦や老子は、まず、自分を知ることを、優先せよと言っている。
自分の心が、定まらないうちに、他に働きかけると、他にも、自分にも、危害を加える事に成りかねない。
老子は、その言葉の理を知っていて、只の一人も弟子を持たなかったのである。其れは、弟子を持つと、其の為に、自分を見つめる事が出来なく成るからである。
その老子が、一生かけて整理した言葉が、5000字から成る『道徳経』である。
今朝の私は、この老子の5000字の言葉を、心の拠りどころとしていると言った方が、気が楽である。
平成13年5月8日
礒邉自適
2001/5/7
岩が明るい
13・5・7
今朝のメッセージには、「岩が明るい」に続いて、「平易」と言う言葉が出て来た。
「岩が明るい」とは、岩戸が明るいと言う事だろう。
「平易」は簡単なこと、たやすいことであるので、「岩戸が明るい、簡単だ」と言う意味の、メッセージであると考えて良いだろう。
其の言葉で、私の気分は、随分と楽な感じに成って来た。
是までの事を考えると、少々拍子抜けがする感じである。
全てが、上手く行っている証だろうと思って、素直に受け取る事にした。
「岩が明るい」と言うのは、普通の人には、何の事か理解できないだろう。
普通の人には、岩に太陽の光が当たっているくらいにしか、想像できないのではないだろうか。
古代の人々は、岩には電気による磁気が和している。集まっていると、感じていたのである。
「イワ」の、イは「イカヅチ」のイで、電気や雷のことである。また、同時に「イナビカリ」「イナホ」のイでもある。
ワは、「ワアワア騒ぐ」と言う様に、擬声語として使われ、たくさん集まる、集合していると言う意味である。
したがって「イワ」とは、宇宙の情報が集積していると言う意味になり、現在のCD-ROMの磁気情報と同じ事である。
岩の方が、人間の作ったCD-ROMより情報量が多く、しかも、生きているのである。
人間の作った情報は、記憶されたままであるが、岩の方は、唯今の事象を捉えて、絶えず進化しており、宇宙の状態を映し出しているのである。
其れは、テレビ番組の同時中継の様なものだ。
だから、岩が明るいとは、未来が明るいと言う理・ことであり、明るい未来の情報が整備され、世の中は良くなり、未来社会の創造は容易く成ったと言う意味であろう。
古代社会では「岩鏡」と言って、花崗岩の丸くて平面のある岩を、情報を映す鏡と考えていた。そして、その岩鏡を、祭祀の場所として利用していたのである。其れが、「岩戸開き」の物語として伝えられているのである。
古事記の伝える、岩戸開きは、「天宇受賣命・天の鈿女の命・あめのうずめのみこと」の踊り・ストリップで、お笑い場面を演じて、「天照大神」を騙して外に誘い出している。
だから、天照大神が、納得して出て来た分けではないので、肉体は、外に無理矢理引っ張り出されても、心が岩戸の中に残された侭なのである。
だとすると、心の闇が、其れから数千年続いて来た事になる。
それが、今朝「明るい、平易に成った」と言う事は、私達の努力が実ったと言う事だろう。
私達を、突き動かして来た、岩戸開きの神々の神霊達は、ようやく望みを果たしたと言う事に、成るのではないだろうか。
私も、4311霊体に肉体を使用されて、散々な目に合った。
16年半と言う期限つきだったので、何とか今日まで持ったが、もう是以上はまっぴら御免である。
私だけならまだ良いが、母親や妻、子供達、親類、友人達、数え上げたら切りが無い程、周囲の者迄巻き込んでしまったのである。
これから、その人達に説明をして、理解してもらうのも大変な作業である。
其れを、平易だと突然言われても、すぐに納得する分けには行かないと謂うのが、今の私の心境である。
そう謂いながらも、幾分ほっとしている自分がいる。
ま、良いか‥‥。
平成13年5月7日
礒邉自適
2001/5/6
冒険
13・5・6
昨日が、端午の節句で、男の子の日だった所為か、今朝は、子供達が冒険をする夢を見た。
其の映像は、小学校の低学年の男子四人が、三日間、道をさ迷って、海岸に辿り着いて、海で行き止まりとなり、その後ろの崖を登った所で、身動きが出来なく成ると言うものである。
そして最後には、大人に助けを求めると言う夢だった。
何故か、彼らが海岸を歩いている時に、二歳くらいの幼児も加わっていて、その子が、水溜まりで倒れて、溺れそうになるのを、助けながら進むのである。
私は、夢の中では、彼等の一人に成って居るのではなく、映画を観る様に、彼等の行動を見ているだけであった。
朝起きてから、「冒険」の漢字を漢語林で調べて見た。
・「冒・ボウ」は、「かぶり物をして 目を覆っている形で、目が見えない状態で進むことから @おかす A向こう見ずに進む、押し切ってするの意味。
・「険・ケン」は、「人にきびしい緊張を与える山の形で、けわしいの意味を表す」。と 載っている。
「冒険」とは、正に、今朝の夢に出て来た子供達の、行動そのままである。
知らない場所に出かける事は、向こうが見えない状態で、押し切って進むことであり、夢の中の子供達が行き着いた場所も、まさに険しい崖であった。
この夢が、何を意味しているのか考えてみた。
子供達、特に、男の子には冒険が大事であると言う理・ことである。
現代の世の中は、幼児期から、文字に拠る情報を詰め込んで教育する。
だから、子供達の頭には、過去の、他人が経験して来た情報しか、記憶されていかない。だから、自分の体験に因るところの情報は、皆無である。
社会が平和で、自分が生きて行く舞台が、過去の人達と同じであれば、その人生も過去の人と同じく、上手く進んで行くであろうし、同じ演技をしていれば其れで良い。
しかし、一度、舞台が変わり、台本が無くなったらどうなるだろうか。詰め込んで来た情報では役に立たず、かえって過去の情報は、邪魔になるばかりである。
机の上で学んだ事は、新しい現場では、何の役にも立たないのだ。
ちょうど、ケージの中で何万羽と飼われている鶏が、外に出されると、数メートル先にある餌の所まで、歩いて行く事が出来ずに、死んでしまうのと同じである。
現在の、30〜40歳代の人達は、受験戦争の真っ只中で、育った人達である。そして、其の人達の子供は、自分の冒険をする処か、父親の冒険話しさえ、聞く事が無くなっているのだ。
頭を黄髪に染めたり、イヤリングをしたりする事は、男子の冒険ではない。
他人を真似る事は、既に其処に形として有るものを、真似るのであり、創造する険しさが何処にもない。それは、冒険とは、ほど遠い処に在るのだ。
現在の世の中は、先進国の論理で管理されている。
その論理とは、詰め込み教育の中から育ってきた人達が、創り上げたものである。
発展途上国も、自国の長所を伸ばすのではなく、先進国の後に従う形での発展を、目指して進んでいる。
先進国が、行き詰まりを見せている現在、其れを目指して進む事は、悪い意味での冒険である。
冒険の果てに、救世主は現れず、進める処まで進んで、その文明は崩壊するのである。
世界中に残されている遺跡が、その理・ことを物語っている。
大事な理・ことは、新しい道を、切り開く事が出来る若者を、育てられるかどうかに掛かっている。
未来を、創造出来る人材を育てるのは、やはり教育である。それも、現代の詰め込み教育ではなく、冒険ができる場と、最後に行き詰まった時に、救いの手を差し伸べる事ができる、方法を知っている師・達人に拠る、教育が必要なのである。
今のところ、子供達が冒険できる環境は、整備されていない。
其れに、そう言う場が必要である理・ことを、政治家や行政も理解していない。
時代は、大きく変化しようとしているが、舵取り役の政治家は、その舵を取る事が出来なく成っている。
彼等は、若い時代に、冒険の中で知恵を体得して来たわけではなく、更にそう言う師に育てられた分けでもないのである。
冒険は、一人ではできない。其れは、何故かと謂うと、一人で未知の世界に踏み込んでも、不安だけが増大して、前進する事ができないからである。
冒険を共にする友と、場所、さらにサポートするエネルギーが、必要なのである。
我々は、天地自然の子であり、大きなサポートの力は、何時も働いている。
後は、人間社会側の準備だけである。
60代、70代の人達の中には、冒険心の有る人達が、まだまだ残っている。その人達の、心の中に灯っている冒険心を呼び起して、若者の支援に回さなければ成らないだろう。
IT社会の到来は、其の為の大きな布石と成るのだ。
有情の世界が、弥勒の世である。何も心配する事はない。
惟、冒険したい者が集まれば良いのだ。
子供達は、その為に、未来から此の地球に来ているのだから。
平成13年5月6日
礒邉自適
2001/5/5
日系展
13・5・5
今朝は、霊夢に「にっけいてん」との言葉が出て来たので、取り敢えず漢字で「日系展」と当てて、考えて見る事にした。
私の活動の一つに、「みどりの会」の活動が有る。其のみどりの会は、世直しの会として機能させたいと考えているものである。
日本には、世界に類を見ない価値観が存在する。
其れは、古代から「大和の国」と呼ばれている様に、自然と人間が調和して、生活すると言う考え方である。
特に、天皇制度と共に、天皇陛下が直接行う、植林や田植えの儀式が伝えられているのは、貴重な文化遺産である。
その他にも、日本には固有の文化や産業が有る。
日本には、自然素材を利用した、物作りの文化が発達している。其れは、何世代も亘って受け継がれて、現在に至っている生活風習なのである。
其の、完成度の高さが評価されて、現在、多くの外国人が、日本の伝統文化や技術を学びに来ている。
日本に在る、世界の最先端を行く電子技術は、是までの、長い物作りの伝統と言う土台に、支えられているのである。
何代にも亘って、技術を伝えると言うのは、其処に籠る魂しいも、継承されている事にも成るのである。
しかし、此処にきて、大量生産、大量消費が良いとされ、手仕事に拠る処の技術の伝承は、途絶えようとしている。
大工さんが使う「鋸・ノコ」や「鉋・カンナ」の刃も使い捨てが流行し、目を立て、刃を研ぎながら、何年も使い続ける品質の高い刃物は、売れなくなった。其れに合わせて、伝統を守り続けて来た「鍛冶屋さん」の仕事が連鎖的に無く成り、跡継ぎが育たないので、技術は途絶えようとしている。
これは、鍛冶屋さんに限った事ではなく、伝統技術全般に言える事である。
技術の世界は、言葉や書物で伝えられる物ではない。達人の身近に接して、その一部始終を目にして、長い年月を掛けて、習得して行くものなのである。
日本国は、海外からの圧力に因って、文化が全面的に破壊された経験を持たない。
したがって、長い時間を掛けて、独自の技術を発達させる事が出来たのである。
是は、日本国の財産であると言えよう。
其れに対して、現在行なわれている日本の教育は、知識の詰め込みに片寄りすぎて、心身を鍛えなければならない技術習得の世界が、置き去りにされてきた。
本日は5月5日で、男の子の端午の節句である。
男子の體・からだは、机にしがみ付いている様には、出来ていない。
長い年月を掛けて、自然の中を駆け回る事で、男性の「魂魄・コンパク」は進化して来ているのである。
日本人は、長い間、自然の中で生活しながら、自然の素材を生かして、物の世界を創造してきたのだ。
日本が、世界に向けて、自信を持って発信できるのは、この技術の分野ではないだろうか。
「日系展」とは、其の文化を、世界に展示して、「多くの人々に 知ってもらえ」と言う事ではないだろうか。
男の子達に、未来の夢として、物作りの世界を伝え残したいと想うのは、私だけではないだろう。
神の世界でも、そう望まれている様である。
平成13年5月5日
礒邉自適
2001/5/4
OHO 其の一
13・5・4
今朝の夢には「OHO」と出て来て、続いて「水」と言う文字が出て来た。
更に、それらに続いて「世界はひとつ」と言う言葉が出て来た。
「OHO」が、「HHO」なら水の化学式であり、水との結び付きがはっきりするのだが、今のところ、何を示しているのか良く分からない。
しかし、「OHO」が非常に大切な意味を持っていると思われるので、あえて文章の題をOHOとした。
後日、意味がはっきりする事を待とうと想う。
さて、「水」と「世界はひとつ」と言う、二つの言葉で連想されるのは「素戔鳴尊・すさのをのみこと・須佐之男尊」の世界である。
古事記の物語で、黄泉の国から帰った、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊ぎから生まれた、三番目の神が「須佐之男尊」で、海原を治める事を命じられたとある。
其の「須佐之男・スサノオ」とは、「苆の尾・穂」であり、現在の言葉で言えば「命の鎖り」の事である。
海から誕生した「DNA・遺伝子」の「生命の鎖」、その生命の繋がりを、古代の人達は「スサノオ」と言い当てたのであろう。
「海」とは、「産む」と言う意味を込めて、「ウミ」と呼ばれていたらしい。
さらに、「宇宙」を「高い産みの腹」と言う意味で、「高天原・たかあまはら」と呼んでいる。
古代の人々は、星々や、生命の生まれる不思議さを、人間の誕生に準・なぞらえて、感じて居たのではないだろうか。
其れは、縄文時代の「女神像・土偶」を見ると、良く理解できる。
女性の肉体は、豊穣の象徴でもあったのだ。
そして、子宮は、海で育まれた生命の過程を、其の儘受け継ぐ物である。
生命は、水が在る事で、営みを続けられるのである。
地球上の如何なる生き物も、水無しでは生存できないのである。
水の無い星には、生命も存在しない。
地球は、「地の球」と言うより「水の球」と言った方が良い程、水に恵まれた星なのである。
夢に出て来た、「水」と「世界はひとつ」と言う言葉は、「生命は ひとつの世界」と言う理・ことなのだ。
現在の、地球の環境汚染は、人間の生命だけでなく、地球の全ての動植物に悪影響を与えている。その汚染は、人間にのみに責任が有るのだ。
「世界はひとつ」と言う考えは、神の愛であるとも言えるだろう。
60億の人口が、このまま環境破壊を続けて行けば、地球上の生物は、大打撃を受けるだろう。
しかし、人間は、神に与えられた智慧と、自らの手で、創り出してきた技術を持っている。
地球環境の、水の循環を取り戻す事は、決して不可能な事ではない。
須佐之男尊の働きが、人間に、その努力をせよと、促しているのではないだろうか。
今朝の夢には、続きが有る。
白黒のまだら模様の野うさぎが、道路に澤山出て来て、車が走れなく成っている。其の原因を調べると、大繁殖した野うさぎが、野山の植物を食い尽くして、食べる物が無く成ってしまったのだ。
今朝の映像では、野うさぎの全滅は、時間の問題であった。
其の野うさぎを、人間の事だとすれば、全てを食い尽くして、人類も滅びるか、皆と協力して、地球の環境を取り戻すか、選択可能なぎりぎりの処まで、現状は来ていると言う事である。
神話に有る、須佐之男尊の暴力とは、我々人間の行動の事なのである。
古代から、人間は、河川を堰き止めてダムを造り、山の木を切って牧場にして馬を飼い、太陽を祭って、自然を克服する儀式を行っていた。
須佐之男尊は、2700年前に自己反省をして、其れ等の行為を、最初に止めた人なのである。
須佐之男尊と、その息子の「五十猛命 ・いそたけるのみこと」は、日本全国に木を植えて回ったと伝えられている。
さらに、様々な木の苗や種子を、外国から持ち帰ったとも伝えられている。
今に残る、イチョウやハゼ、ケヤキなどは、その中の一つなのだろう。
戦後、日本の自然の山は、どんどん雑木が伐採され、杉の木ばかりが植えられてきた。これは、本来の植生から云えば、非常に不自然な事である。
動物の世界と、植物の世界は、全て、繋がりを持っているのである。
我々人類も、其の生命の一部であり、全体の調和を失えば、人類が永遠に存在する事は、不可能に成ると言えるだろう。
その意味でも、「世界はひとつ」であり、その世界は「水」の影響下にあるのだ。
其れに、従わなければ、夢に出て来た「野うさぎ」と、同じ運命を人間も辿るしかない。
これが、今朝示されて来た夢の意味であろう。
是は、世界自然遺産に選ばれた、屋久島の大自然の中で、37年間育って来た、私ならではの、夢の世界である。
大都会の中で、生まれ育った人達に、同じイメージが伝わるかどうかは分からないが、地球全体の事を膚で感じて、判断する事が重要なのだ。
平成13年5月4日
礒邉自適