2001/4/27
御魂のふゆ
13・4・27
本日4月27日は、亡く成った妻「井上佳子」の四回忌である。
其の所為か 昨夜、寝床に入って眠ろうとしても、頭が冴えてなかなか眠れなかった。
そうするうちに、頭の中に「みたまのふゆ」と言う言葉が出て来た。
「みたま」は、「御魂」だと思うのだが、「ふゆ」は「冬」だろうか。
「冬」は、音読みすると「トウ」である。
日本語の「ふゆ」には、季節としての冬だけでなく、他にも、意味が有るのではないだろうか。
「冬」は「日+夂」でなりたち、「夂」は糸の最後の結び目の形であり、終わりを表していることから、一年の終わりと言う意味を持っている。
これは、単に日付の終わりを示しているだけで、季節の風景や、物事の情景が見えてこない。
「冬・トウ・ふゆ」【解字】合意。金文は、「日+夂」夂は終の原字で、糸の結び目の部分の象形。一年の月日の終わりの季節、ふゆの意味を表す。のち、氷の季節の意識が作用して、篆文は夂+水の合意で冬となった。冬の意味と音符を含む形声文字に終などがある。
【字義】@ふゆ。四季の第四季節。12月から翌年の2月まで。陰暦で10・11・12月の三ヶ月間。立冬から立春まで。Aふゆごもりをする。また、ふゆを越す。Bものの形容。→冬冬。 漢語林より
」
「冬」は、寒くて、草木も全て眠っており、生物の全てが、春の来るのを待ちながら、じっと耐えている季節である。
そして、春になると、草木は一斉に芽を出し、生命を張って活動を始める。
一年を、一日に例えると、冬は夜であり、春は朝である。
そして、夏は昼間で、秋は夕方である。
生き物は、夜眠ってエネルギーを充電する。
動物は、夜眠らなければ、昼に成って行動が出来ないのである。
夜が、大事な時間である様に、冬は生命活動にとって、大事な季節であると言う理・ことになる。
赤道直下の地域には、冬が無い。冬の無い地域の樹木には、年輪が無い。
冬期の、厳しい寒さを知らないで育つ分、暑さに強い仕組みに成っているのだろう。
こう言った地域に住む人達には、冬と言う言葉は存在しないのだ。
とすると、「冬」の語源を、南方に求めても、その意味は分からない。
「御魂のふゆ」とは、人間の魂しいが、冬の季節に在ると言う理・ことだろう。春でもなし、夏でもなし、秋でもないと言う事は、理解できる。
現在、世界中が、精神的に冬の時代であり、人間にとって、活動的な喜びが無い状態と言えるだろう。
何処の国の、誰が、喜びの為の、新しい芽を出させる事が出来るのか、未だ、宗教の世界にも、それは現れていない。
宗教の世界も、未だ、冬の時代の儘なのである。
「夜明け前が 一番暗い」と言う言葉が有る。
是から、世の中は、もっと暗くなって行くのだろうか。
私の立場や、体験の中で感じるのは、日本が世界に先駆けて、朝を迎える国だと言う事である。
長い冬が終わって、明るい暖かい春を、迎え様としている。
私が、そう感じるのは、私の冬が、長かった所為なのかもしれない。
しかし、春を間近に感じているのは、私だけではないだろう。
私には、「後一週間」と言う感触が有るのだ。
本日浮かんだ言葉。
「数学は 経済を動かし 言葉は精神をつくる。
精神は 言葉に拠って動く。 」
平成13年4月27日
礒邉自適
2001/4/26
器は大きく
13・4・26
今朝の霊夢には、幾つかの場面が出て来て、其れ等が、何等かの関連を持っている様であった。
その中の、幾つかの場面を、書き出す事にした。
最初の場面は、私の知らない女性が居る台所で、私が煮物料理を作り始め様としていた。
私が、豆か白い穀物の様な物を、円筒形の鍋に入れて、水を足し、火に掛け様とすると、傍に居た女性が「それでは 煮立った時に 吹きこぼれてしまうから 大きい鍋に換えなさい」と云って、一回り大きい鍋に取り替えてくれた。
大きな鍋にした為に、安心して煮る事ができ、鍋が煮え立っているのを、安心して見ている自分が在った。
この夢の意味は、最初から、大きな舞台を準備して始めないと、途中で対処しきれなく成ると言う事の様である。
時代は、現在・いま大きな節目を迎えており、少々の器では、煮る事(料理)が出来ないと言う、神のメッセージであろう。
次の場面は、私が、林の中に小鳥を捕る罠を仕掛けて、毎日、調子よく捕って居るところであった。
ある日、罠の仕掛けを見に行くと、私の仕掛けを土台にして、誰かが、新しい仕掛けを作っており、私の仕掛けは、全く役に立たなく成っていた。
其の、新しい仕掛けの持ち主は、他にも、澤山仕掛けを作っており、仕掛けの一つ一つが、私の仕掛けより大きくて、強力な物である。
言わば、大企業の力の様なものを、感じる状況である。
私の仕掛けは、いつの間にか、大企業に取り込まれてしまい、何を言っても、取り合って貰えなく成っているのである。
其れは、何時の間にか、私の仕掛けを研究し、何時私の仕掛けを利用して、其の上に、新しい仕掛けを作ったのか、私は、全く気付いていなかったのである。
私が、気付かなかった原因は、私が、自分の世界の中だけを、考えて行動しており、他の動きにまで、注意を向けていなかった所為である。
其の為に、気付くのが遅れ、対応も遅れてしまったのだ。
私自身は、自分のアイデアである仕掛けが、他人に利用されても、一向に冷静で居られたのだが、若し、私に付いて来ている家族や社員・友人達が在れば、彼等は失業したり、財産を無くしただろう。
自分の考えが、自分の処を出て、社会に影響を及ぼす様に成った時には、よくよく注意していないと、思いがけない事が、起きてしまうと言う理・ことを、今朝の夢は教えてくれたようである。
また、今朝の夢の最初には、「津波六回」と「光速に近い考え」と言う言葉を受け取った。
「津波」は、海で起こる大きな波の事で、「光速」とは光の速さであり、光が波動である理・ことは、良く知られている。
海の波は、人間の目にも捉えられる大きな波であるが、光の波は、肉眼では捉えられない小さな波であり、最も速い波である。
この世の中で、最も大きな波と、最も速い波、其れが、何を意味しているのかを、気付くのが私の宿題のようだ。
「極・きわまり」が、段々と近づいて来ている様である。
時間と速度の研究室
平成13年4月26日
礒邉自適
2001/4/16
長年二幸
13・4・16
今朝の霊夢には、「長年二幸」との漢字四文字が映って来た。
其れは、聞いた事の無い言葉であり、何を知らせているのか分からない。
しかし、私に出て来た文字だから、私が考えるしかないだろう。
「長」は、人の髪の毛が長いと言うことを表しており、長老などの「オサ」という意味を表している。長老になるまで、年を重ねれば、二つの幸があると言う事なのであろうか。
「幸・コウ」は、手錠の形の象形文字で、「執・シツ」に対して、手錠がかかっていない状態、「自由」を意味している。
其れは、病気、権力、貧困、寒暑などから自由である事。
気に掛かる、災いが無い事が幸福であると言う意味である。
人間は、長生きをすれば、二つの自由が有る。
其の一つは、子供の時の自由だ。
子供の時は、衣食住は親に与えられ、自分で手に入れる努力を必要としないでも良い。疲れ切るまで遊んでも、何の責任も無いと言う自由である。
二つ目は、子育てを終わって、仕事も後継者に譲り、ゆっくりと余生を楽しむ事ができる自由である。
「福禄寿・ふくろくじゅ」の「寿」が、その意味で、寿命が長い事を意味している。
子供が存在し、寿命の長い老人が存在する社会、其れが理想の社会である。
どちらが欠けても、自然な状態ではない。
両方が、調和して営まれる社会。
其れをも、今朝伝えられて来た「長年二幸」は、意味しているのではないだろうか。
「幸・コウ・さいわい・さち・しあわせ」象形。
甲骨文でもわかるように、手かせの象形。執が、手かせにとらえられた人の象形であるのに対して、手かせだけの象形で、さいわいにも手かせにはめられるのを免れて、しあわせの意味を表す。
【字義】「@さいわい。さち。しあわせ。幸福。Aさいわいする。幸福をもたらす。さきわう。Bさいわいにして。運よく。ありがたいことに。Cかわいがる。いつくしむ。Dめぐみ。いつくしみ。Eこいねがう。希望する。Fみゆき。天子の外出。
漢語林
平成13年4月16日
礒邉自適
2001/4/12
水(あか)取る
13・4・12
今朝の霊夢は、真っ赤な文字で「水とる」から始まり、平仮名の「ち」そして漢字の「糸」と映ってきた。
「ち」は「知」の草書体であり、「糸」は「織る」という意味が現れていた。
私は、其の意味を、「水をとる」が「知」の原因で、其れが「基に成って 意識の組み立てが 起きている。」と 言うことだと解釈した。
朝起きて、早速 山の湧き水を飲んでみた。
そして、意識を探って視るのだが、さしたる意味は浮かんで来ない。
答えが出ないので、今度は風呂で禊ぎをした。
そうすると、水は「あか」と読み、「水とる」は「あかとる」と言う意味である理・ことが理解できた。
夢に出て来た、文字の色は、赤色だったので「赤い あかをとる」と言う意味になる。
英語でも、水を「アクア」と言う様に、是は、大陸の言葉に、語源を持っているのだろう。
「アカ」とは、屋久島では、漁師が船底に溜まった水をそう呼び、「船のアカを汲み出す」と言う。
また、人間の皮膚代謝も「アカ・垢」と言う。更には、田舎の人が都会に出て、「あか抜ける」と言ういい方もある。
漢字の「垢」は、土埃・つちぼこりが、右腕に溜まっている様子を表している。
「アカ」の言葉に、共通しているのは、汚いもの・不必要な物と言う事である。
釈迦仏陀の訓えである「八正道」の中にも「塵を払って 垢を除く」と言う訓えが残っている。
「水(アカ)をとる」とは、自分の心身に着いた、汚れや垢を、取り除くと言う意味であろう。
そうすれば、正しい「知」を得る事が出来、「意(こころ、おもい)」は正しく「糸」として、織り込まれて行くと言う理・ことだろう。
「知」の漢字の意味は、「矢を神に返して 神の言葉を 受け取る」と言う理・ことである。そして、その「意(おもい)」が織り込まれた状態が、「魂しい」なのである。
今朝の夢には、続きが有り、私が港に出掛けて、必要な竹を船から外すと、船は岸から離れて行ってしまった。
私は、竹を外すのに、船を岸に繋いでいたロープまで外してしまったのだ。
そして、流れて行く船を見付けた、持ち主(若松さん)が遣って来て、船を岸に戻した。
私は、其の船主に怒られるかと思っていたのだが、持ち主は、私に何も云わずに、何処かに去って行ってしまった。
そして、私は、拍子抜けして、しばらく水面を眺めて居た。
その時、自分の中に起きて来た「意(おもい)」は、持ち主に迷惑を掛けた申し訳なさである。若し、持ち主に怒られていたら、謝って、事が済んでいただろう。
そうすれば、「申し訳なさ」と言う心は、生じていないだろう。
世の中は、迷惑を掛ける者と、掛けられる者の両方で、成り立っているのである。
現在の世の中は、全てがお金で処理されている。
だから、心が育たないのだ。
特に、アメリカの様に、全てを法律で解決しようとすると、「申し訳ない」と言う心は邪魔なもので、不利なものと成ってしまうらしい。
戦後の日本も、次第に、其の様に成りつつある。
人間の作った法律は、神の智慧ではない。
其れは、物質に拠る、判断の世界である。
旧約聖書には、蛇の勧める知識の実を食べると、善悪を判断する心が生まれ、神の楽園を、追放されたとの説話が有る。
今朝の夢は、「世の中の 垢を取り去り 知の糸を 取り戻せ」と、言う事なのであろう。
最早、都会の思想は、行き詰まってしまって、自然へ回帰する事が求められている。
今後は、田舎のアカを落とすのでなく、都会のアカを、落とさなければならない。
都会の垢が、取り除かれた時、人間は、本来の姿に返る事が出来るのだ。
イエス・キリストは「その時には 一番先の者が 一番後になる」と謂っている。
逆に言えば、一番後を、遅れて歩いて行く者が、一番先に立つ事になるのである。その人達こそが、田舎での生活が、似合う人達なのだ。
赤絨毯の文明は終わり、自然の緑色の野原が、人間の幸福の道と成るのだ。
それなら、私は一番先に、歩く事には自信が有る。
神が、其れを望むなら、私は 何の迷いもない。
田舎で育つ、1958年6月11日は(11歳)
平成13年4月12日木曜日曇り
礒邉自適
2001/4/11
経営(經營)
13・4・11
4月9日の朝を迎えたのは、神戸市の「兜山・かぶとやま」が見える、山の上に有る「佐藤亮掌氏」の自宅であった。
神戸には「頭・こうべ」の名のごとく、兜の形をした「兜山」が有る。
其の兜山は、御神体山であり、山の神の「戸(あたま)」からメッセージが発せられる。
この日の朝は、幾つものメッセージを受け取った。
最初に、出て来たのが「経営」と言う文字だった。
「經・ケイ」は縦糸を表し、すじみち、道理、おさめるなどを意味している。
「營・エイ」は、部屋が澤山有る屋敷の周囲に、篝火を巡らすと言う事を表しており、いとなみという意味である。
「經營・ケイエイ」と言う言葉は、営み、経済をつなぐという意味である。
文字の次に、受け取った映像は、二人の光の人型が、箱を運んでいる所だった。
箱の中身は、袋を結んだ形の生き物であった。そして、其の生き物の名前は「キティちゃん」の様な言音であった。
其の箱には、担ぎ棒が付いているのだが、それは箱の上に着いていた。
「御輿・みこし」が、担ぎ棒の上に、箱が乗った形であるのに対して、其の箱は、担ぎ棒の下にぶら下がる様にしてあるのだ。
其れは、其の生き物が、神の反対に位置する物であると言う事である。
其れは、「人間」は「神」を持ち上げ、「神」は人間の「財」を下げて、運んでいる事になる。
どうやら、人間が創っている金銀などの宝は、神が運ぶ荷物であるようだ。
其れは、人間は、神の荷物を、生産するのが役目である理・ことを示している。
そして、其の為なら、神が人間に、必要な物を、全部与えると言う理・ことなのだろう。
其れ等の事を考えると、お金とは、人の為に有るのではなく、神の為に存在する物で、神はそのお金を通して、人間を使っている事になる。
どうやら、お金は、人間を神が使う為の、道具であるようである。
神は、人間の動きの能率を上げる為に、人間の目には見えない神の働きを、お金と言う形で、人間の目に見える様にしたらしい。
どおりで、人間はお金の為なら、どんな事でも必死でやり遂げるのだ。
「府・フ」と言う漢字は略字であり、本当は「府+貝」の組み合わせである。
家の中である「广 」に、「付」と「貝」が、澤山有ると言う様子を表している。
「付」は、経典・巻物の事で、「貝」は財の事である。
「府+貝」とは、建物の中に、経典や巻物などの書類と、金銀玉の財が澤山有って、それを管理して、出し入れする役所を表しているのである。
「政府」とは、其の公の機関を言うのである。
この意味からすれば、釈迦や、老子や、孔子は「付」を創り出し、王様は「貝」を集める事を役目とし、「政(役所)」は、其の管理をする場所であると理解できる。
今朝の夢は、新しい「経営」を起こし、継続させる事を意味している。
神は、人間に、新しい経済システムを与えようとしているのである。
経済を支える物は、貝、金、石炭、石油、電気製品、ITと移り変わって来た。
21世紀の産業は、何が主流に成って来るのか予想も付かない。
金は、紙幣に代わり、現在ではコンピュータの中の数字が、あちこち移動しているだけである。
其れは、全世界が停電にでも成れば、瞬時に消えてしまう様な、儚い物なのである。
神が、人間に創らせようとしている、経済価値とは何なのか。
今日の処は「キティちゃん」のような物であったとしか、言えない状態である。
平成13年4月11日
礒邉自適
2001/4/3
水の流れ(十六島)
13・4・3
昨日、「日本えびねの会」の「水口氏」に出会った所為だろうか、今朝の夢は、山から水を引く場面だった。
私は、屋久島で、新しい水田を、何カ所か開墾した事が有る。
だから、水田に、水を取り込む作業を体験しているので、其れが夢の舞台と成った様である。
夢の内容は、山中の川から、水路を掘って、麓まで水を流す作業を、数人で行っているというものだ。
作業グループのリーダーは、水に関係する仕事をしている、会社の社長であった。
処が、そのリーダーである社長が、いつの間にか居無くなってしまったのである。社長が居なく成っても、作業そのものは継続して行われたのだが、水路が完成しても、水が一向に流れて来ないのである。
リーダーの居無いまま、作業グループの人達が話し合い、結局は他人の水路を利用していたのが原因で水が流れて来ないのだから、自分達で本川から水路を作り、引き直そうと言う事になった。
そして、其の夢は、そこで終わった。
私が、屋久島で、水田に水を引いた時の、取水口は「みなくち」と呼ばれていた。
昨日、会った「水口健さん」は、全国のえびね産地の山々を巡っている人である。そして、屋久島の山にも、30年くらい前に、よく行ったと言う事であった。
水口氏は、えびね業者組合の理事長で、えびねの展覧会では何度もトップの賞を取っているらしい。
「えびね」は、鉢植えにするので、毎日の水の管理が大変な作業である。
彼の名前も「みずのくち すこやか」である。
水口さんには、水の神と、山の神が憑いているのかもしれない。
屋久島の、山の神のご縁で、出会ったのだろうか。
今朝の夢は、「旧経済の流れが止まるので、新しい経済の流れを作れ。」と言うメッセージなのだろうか。
出雲には、「十六島(ウップルイ)」という地名が有る。
アイヌ語に「ウップルイ」と言う言葉があり、日本語では「我が水の道」という意味であるらしい。
此の16と言う数は、天皇家の16弁の菊の御紋に通じるものがある。
「十六島」の言葉の持つ意味は、16方向に独立した現象世界を作ると言うことであり、天皇が「あまねく照らす威光」の事を「御稜威・みいつ」と称し、其れが「菊の御紋」に象徴されているのである。
其れが、「大君・スメラミコト」の働きであり、役目なのである。
「スメラ」とは、「スメル・統べる」に関係が有り「スメル・シュメール文化」の言葉で、「葦の生える地を治める」と言う理・ことを意味している。
私は17年前、屋久島で神の世界に入る為の禊ぎをした時に、「水素原子管理」と言う言葉を受け取っている。
水素原子とは、この宇宙の物質を組み立てている、全てのエネルギーの根幹をなすものである。
今朝の、私の夢は、そのエネルギーの流し方を、暗示するものだったのだろうか。
世界の経済は、満ちる処まで満ちてしまった。
後は、一気に欠けて行くばかりである。
早く、新しい「みいづ」の働きを、起こさなければならない。
神武天皇祭 平成13年4月3日
礒邉自適
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