2001/1/31
麗積・うるづみ
13・1・31
今朝の夢には、未だ青く、新鮮で、姿の揃ったトマトが、容器の中に幾つも入っている所が映って来た。
其の場面が、どう言う意味なのか、夢の中で考えていると「うるづみ」と言う音と共に、「麗積」という漢字が現れた。どうやら、「麗積」を「うるづみ」と読むらしい。
朝起きてから、其の漢字を漢語林で調べてみた。
「麗・レイ」は、美しい角が出揃った 鹿の形に象り うるわしい、つらなるという意味を表す。
「積・セキ」は、農作物を集める、たくわえる、つむという意味を表す。と載っている。
すると、「麗積」とは「うるわしく つむ」と成り、其れは「うるわしくつらなる 農作物を集める」と言う意味になる。トマトの夢は、この意味を表すのに、ふさわしい夢だったのだ。
しかし、赤いトマトであれば、豊かな収穫なのだが、青いトマトであったのはどう言う意味であろうか。私は、夢の中の青いトマトの意味を考えてみた。
青い内に、収穫する事に意味が有り、赤く色づいてからでは、使えないという事が考えられる。
青い内は、葉の緑に守られて目立たないが、赤く色づいて熟すると、よく目立つと言う事もある。
果実は、種子を育むものであり、熟して赤や黄色に色付く事に拠って、目立ち鳥に食べられる。
果実の種子は、鳥の糞に混じって、別の場所へ運ばれ、発芽して其の土地に根づき、新しい命の循環を始める。
青い果実は、緑色なので葉の陰で目立たず、味も不味いので鳥は食べない。
この時点では、青い果実の中の種子は未熟であり、未だ鳥に食べられるわけには行かないのである。
此の時の種子は、新しい遺伝情報をどんどん作っている最中である。其れに比べ、赤く熟した果実の中の種子は、もう完成してしまっているのである。
そうすると、青いトマトを集めると言うのは、新しい情報を次々と受け入れる余地のある、若い人達を集めると言う事になるだろう。
今朝のメッセージは、「青い果実である 青年達の魂しいに 核となる情報を 植え付けよ」と言う事だろうか。
私の旅は、16年半に亘って、中高年の人々と出会い、老人から知恵と霊魂を受け取り、時代を動かせる、中年の人材を揃える事にあった。
これからは、青年男女を集めて、未来創世の種子を、育てる時期に成ったと言う事だろう。
「麗積(うるづみ)」とは、角(才覚)の揃った人材を、積み上げると言う理・ことであると、受け取っておこう。
平成13年1月31日
礒邉自適
2001/1/29
今日のことば
13・1・29
本日1月29日は、私の54歳の誕生日である。
其の誕生日の日に、どんなメッセージが来るかと思っていたら、夢は悪い場面ばかりであった。
大地震で、大地が揺れ動き、家が崩れて行く。書画骨董が燃える。津波が押し寄せ、山の崖を登る。其れから、友人が麻薬を栽培していて、其れを販売し、追われる身となる。思い出しても、何一つ良い処が無い夢だった。
そして、朝起きて、この夢を思い出しながら文章を書いていると、ハッと気づいた。
其れは、此の一連の夢に於いて、私は当事者ではなく、第三者の立場で見ていた事である。
失った家も、焼けた財産も、私の物ではなく、津波に追われて崖を登るのは、中年の女性で、私はただ手を貸しているだけだ。
法律を犯したのも、私ではない。夢の中の私には、所有物も恐怖感も病苦もない。自分自身には、一切不安の無い状態なのである。
現実の私は、17年前、屋久島に全てを置いて、旅に出ているのである。
其れからは、所有心を持たず、自分の物、自分の考え、地位、名誉、家族など、所有する事に因って、守らなければならないと言う物が、一切ない状態を続けて来た。其の、無所有の状態が、17年続いた事で、潜在意識からも、所有と言うプログラムが消滅したのだろう。
仏教の訓えや、旧約聖書の教えにも、神仏と共に在る為には、無所有でなければならないと説かれている。其れは、宇宙の「法・ダルマ」や「道・タオ」を、悟るには、所有心が有ってはならないと言う理・ことである。
所有心が無く成った時、其の人の心は、天地一切の根本意識と繋がって、その人の自我意識は、神と一体に成るのである。
その意識に至ったものを「覚者、ブッダ、仏」と呼ぶように成ったのだ。
ブッダとは、自分が「覚者」だと言う表面意識が無い状態なのである。
平成13年1月29日
礒邉自適
2001/1/17
旁
13・1・17
今朝、微睡んで居ると、平仮名の文章の中に、漢字が一つ有る映像が浮かんで来た。その漢字は「旁」と言う字である。
朝起きてから、漢語林で其の文字を調べて見た。
「旁・ボウ」は、あまねく広がる、左右に広がるという意味。
「旁」は「凡+方」で成り立ち、「凡」は広がる、散るの意味。「方」は音も表し、左右に広がるという意味を表す。したがって「旁」は左右に広がった部分、かたわら、あまねし、ひろい、あまねく、広くの意味を表す。と 載っている。
最初に、此の字を考えた人の意識に立てば、物事をあまねく広げるには、自分のかたわらである右手側と左手側に置く人間が、重要であると言う考えが見えてくる。
此処から、「まつりごと(政治)」を行う者が、左右に置く人物、左大臣、右大臣の成立が見える。
統治者が、「さて(左手)どうしようか」と、左側の人物に相談し、うて(右手)の人物に「手を打て」と命じる。と言う場面が思い浮かぶ。
古代中国では、戦争と葬儀の時だけ、右大臣が上手・上座であり、平和な時は、左大臣が上手に座したらしい。
右大臣が、陣頭に立つ時は人の生命が失われ、物が壊れ、田畑が荒れる時であり、左大臣が立つ時は、人民は豊かに暮らし、音楽や芸術が盛んになり、精神文化が築かれる時なのである。
たとえば、問題を起こしたオウム真理教の教主は、左手に左翼の早川を、右手に右翼の木部を据えた為に、テロ集団と化してしまったのである。
旁に配した人間が、テロリストだったので、テロを散じる結果となったのである。これは、自分の旁に、どのような人を配置するかで、方向性が決まると言う例である。
今回の世界維新は、地球環境と生命がテーマであるので、其れ等の問題に関わっている人達が中心となる。
其の一人が、愛媛大学農学部森林教育研究所の「鶴見武道助教授」である。鶴見助教授は、奥様と共に、青少年が体験学習をする現場としての村造りを考え、すでに「千年の森をつくる会」を10年にわたって運営している。
愛媛大学では、青少年と共に、人と森林の関わり方について研究しながら、大学の演習林で現場教育にも力を注いでいる。
「人と森との関わり方」は、日本では、既に3000年の長きに亘りノウハウが蓄積され、日本の伝統として根付いている。その技術や、考え方が、地球の未来を救う手がかりと成ると言う点で、鶴見武道助教授の研究は21世紀の社会造りには欠かせないのである。
私は、鶴見武道助教授とは平成11年12月23日に、千葉県のご自宅で初めてお会いした。鶴見武道助教授は、私が一番求めていた人材であるので、私も全面的な応援をお約束し、今日までお付き合い頂いている。
本日私は、其の鶴見武道助教授に会う事に成っており、朝の夢に出て来た「旁・ボウ」は、私が鶴見助教授の片腕に成り、また、鶴見武道助教授が私の提案する21世紀社会造りの片腕になるという、言ってみれば相互協力するという示しだろうか。
そして、私の16年の旅の中で知り合った人々が、大きな役割を持って、世界の表舞台に現れる事に成るだろう。
私は、是まで、シックハウス問題に取り組む、建築家の「相根昭典氏」、自然農法の「川口由一氏」「赤峰勝人氏」、祭りの「小川亮一氏」「柳瀬宏秀氏」、実にさまざまな人々に出会って来た。
その人達を、結ぶ役割が私なのであろう。
祭りとは、本来「まつり合わせる」と言う意味であり、大和の和の精神を表している。和とは、「和御魂・にぎみたま」の「和・にぎ」で、にぎわう、にぎやかの「にぎ」である。
21世紀を創るのは、神ではなく、我々人間が、自分自身の行動に因って創るのである。楽しく、にぎやかに、自然と共に暮らす人々が増えれば、未来は明るいものとなるのだ。其の様に、暮らす人々の姿を、神は喜ぶのである。
心のエネルギーも、金や物も、神が人間に与えたものである。
其れ等を、神の顕現の為に使う事で、私達人類の顔も、輝きを取り戻す事が出来るのだ。
平成13年1月17日
礒邉自適
2001/1/16
贅沢なクラシックカー
13・1・16
15日の朝の夢は、木や皮で内装された贅沢な車に、数人の仲間と乗って、何処かへ出掛ける場面であった。
他の車が、どんどん追い越して行くので、こちらもアクセルを一杯に踏み込むのだが、全然スピードが出ない。しかし、仲間は別段気にするでもなく悠然と構えていて、まるで貴族の様である。
夢の中で、私は「こちらは カーレースに参加している分けではないのだから スピードは関係ない。速く走るのは レースカーに任せておけばよい。」と思っていた。
朝起きて、この夢の意味する処を考えて見た。
おそらく、新しい未来を考える私達の仲間は、速く進むことは考えなくて良いと言うことだ。
20世紀は、戦いと競争の世紀であった。
また、これまでの2000年間は魚座の時代であり、魚は泳いでいないと死んでしまう事からも、競争の時代であったのだ。
精子が、競争を建て前としている事からも、男性原理の時代だったと言えるだろう。しかし、是からの2000年間は、「アクエリアス・水瓶座」の時代である。
流れ落ちて来るモノを受け止め、精子の様に泳いで来るモノを、待って受け入れる時代なのである。老子の謂う、「谷に身を置く」時代である。
老子は「人は 皆 競争して 山の頂を目指して登っているが やがて 疲れて谷間へ転がり落ちてくる。だから 知恵有る者は 最初から谷に身を置くのだ。」と 謂っている。
また老子は、「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置く。谷は 玄牝である。」とも謂っている。
老子は、2600年前に、人間の行く末を見通していたのだ。
イエスキリストも、「その時には 一番さきに進む者が 一番後になる」と謂っている。
イエスキリストが謂う「その時」が、現在であるのなら「一番後の者」、すなわち、昔ながらに自然に任せて暮らしている者が、一番大事にされると言う理・ことを示唆している。
私の見た夢は、一番ゆっくり進む、贅沢な人々と言うことを意味している。
自然の素材で出来た、人の心の籠もった物の中で生活する。其れが、一番人間の精神を安らかにし、また競争をしない事で自分のペースが守られ、神に与えられた役割である「存在」の意味付け、神の現れの認識ができるのだ。
モーゼの謂った、「休息」の大事さが、良く理解できると言うものだ。
何も、慌てる事はない。只、神の身である此の大自然を楽しみ、神の情けに気づき、神の心を言葉にする事を、一番大事と心がけて居れば、私達の進む方向は自ずとはっきりし、安心立命できるのだろう。
ともかく、夢の中に出て来た人達と出会い、夢の中に出て来た車で、旅をしたいものである。
平成13年1月16日
礒邉自適
2001/1/14
麻薬
13・1・14
今朝は、変な夢を見た。
他人の家を訪ねると、男性が二人居て、話しているうちに「これを食べませんか」と、飴の様な物を渡された。其れは、茶色で芋飴ぐらいの大きさで、あまり堅くなく、植物のエキスを固めて、甘みをつけた感じである。
私が、其れを口入れて噛んでいると、不思議な感覚がやって来た。
自分の中の記憶が蘇り、二人の意見と、私の言っている事が段々とずれて行き、仕舞いには、武器を手にして戦おうとするまでになった。そんな感じが、しばらく続いて、段々と薬の効果が薄れてくると、自分の行動が変しいのに気付いてきて、三人の関係も元に戻った。
良く、其の場の事を振り返って見ると、変に成ったのは自分だけなのである。
相手の二人は、私の変化を試していただけで、私がどんな事を、心の奥に抱え込んでいるかを取り出す為に、その薬を飲ませたらしい。
私自身も、自分のとった行動を振り返り、人間の脳の記憶と、自分の思い込みの世界に、気付いた様であった。
人間は、普通の人でも、酒を飲んで酔ってくると、自分の意見を強く主張する様に成り、他人の意見を聞かなくなって来る。
人間は、一旦信じて、記憶に閉じ込めた考えは、なかなか変わらないものらしい。たとえ、それが間違いであっても、それ以上の強い刺激と成る情報を受けなければ、前の情報は訂正されないようだ。
自分が気付かなくても、小さい子供の頃に記憶した情報は、どこかに残っており、其れが行動パターンの深い所に関わって、その人の人生に影響を与えているらしい。
自分の親が、子供を殴る育て方をしていれば、また自分の子供の育て方も、殴る方法を使うとの事。其処には、善悪の価値判断は無く、ただパターン化された行動が、繰り返されているだけである。
麻薬は、その潜在意識を表面化させる働きを持つのだろう。そして、逆に麻薬を使って、新しい体験を与えたり、教えたりすると、其れは潜在意識に取り込まれ、容易には取り除けない事になる。
その例が、オウム教で洗脳された人達が、社会復帰できない理由ではないだろうか。
古代社会では、シャーマニズム的に、いろいろな麻薬効果の有る物が使用されていた様だが、其れは人間の記憶の中の、古い時代の関わりを思い起こす為の、大事な儀式であって、快楽を追及する為のモノでは無かった筈である。
煙草も、自分をごまかす為のものではなく、本来はアメリカ大陸に昔から住んでいた人達の、大事な儀式に使用されたものであり、日常的に吸うものではない。
四六時中、吸っていたのでは、イザ儀式と言う時には、もう刺激的に効果が無い。
現代人は、煙草を日常化された行動パターンとして、繰り返しているだけで、何の意味も無くなっている。
肉体にとっては、最大の環境破壊でしかない。
又、哲学者のマルクスが「宗教は麻薬だ」と謂ったのも、「日常化されたパターンは、人間の行動をマンネリ化させ、意識は眠った状態になってしまう。眠った状態で、毎日決った生活パターンを繰り返していると、どんな悪政が行なわれていても、意識はそれを正そうとは働かない。」との理・ことを、謂ったのではないだろうか。
イエスキリストは、十字架の上から「天の父よ この者達を許してください。この者達は 自分が何をしているかさえも 知らないのですから。」と云っている。
自分を磔・はりつけにして、あざ笑っている人達が、自分の行動さえ自覚出来ていないと、観察しているのである。
現在では、殺人を犯した人の精神鑑定が行われたりしているが、殺人を行わなくても、お金の為ならば、どんな行動でも採る人は、同じ状態の人と言わなければならない。
現代社会に蔓延している、雑誌やテレビなどを見ても、未来を担う大事な子供達の魂しいや、身体の成長に対して、何の責任も、その自覚さえもない。
其れ等の事を考えると、インドの釈迦仏陀の謂った「無明」の時代と言えるだろう。
現代社会は、あらゆる現象・ものが、人間の意識を麻痺させる様にできている。此の、麻痺状態を目覚めさせる、麻薬が無い物だろうか。
平成13年1月14日
礒邉自適
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