2000/8/23
無常折檻
12・8・23
今朝「無常折檻」との、聞き慣れない言葉が頭に出て来た。
朝起きて「折檻・セッカン」を、辞典言泉で調べて見ると、以下のように説明されている。
「中国前漢の朱雲が 成帝を強くいさめて 怒りを受け、朝廷から引きずり出されようとした時に 檻につかまったため、その檻の手すりが折れたという漢書に見える故事による」厳しく叱ること。転じて、責めさいなむこと。「子を折檻する」
こうしてみると、「折檻・せっかん」の言葉が持つ意味は、あまり喜ばしい場面ではない。
「庁」の漢字を調べて見ると、「庁」は「广+丁」の組み合わせで、「广」は建物の屋根の意味であり、「丁」は「聴」の略字であり、元字は「广+聴」の組み合わせで、「建物の中に 聴く人が居る」ことを表す象形文字である。
此れに拠ると、役所とは、国民の云う事を能く聴く所であり、叱る所ではないらしい。
叱るには、叱る側の事情がある分けだが、叱る行為と権力は有史以来、二人三脚を続けている。
「無常・ムジョウ」を調べて見ると「現世における 全てのものが すみやかに移り変わって、しばしも同じ状態にとどまらないこと。特に生命のはかないこと」と有る。
私の父「礒邉勲」は、私が17歳の秋に、49歳の若さで亡くなったが、私は父親に叱られた記憶が一度も無い。
父は、戦後中国から引き揚げて帰る時、「不見猿・不言猿・不聞猿(見ざる 言わざる 聞かざる)の三猿の置物だけを、大事に持って掃って来ている。
そして、その置物を、自分が何時も座る場所の頭上に、板を打ち付けて其の上に安置していた。
家の中には、其の他には、正式には、神棚も仏壇も置かなかった。
もちろん、神社や寺に参拝する事は一度も無かったし、子供達に其れを勧める事も無かったのである。
父親は、49歳で亡くなったのだが、其の時私は未だ、17歳だったので、反抗期の真っ最中だった事もあり、父親から、生前に、是と言った教えを受けた記憶が、残念ながら余り無い。
だから、父親の無常観について、聴く機会も無いままであった。
ただ、小学校4年生の時「自適よ 人が走ったからといって つられて走るな」と、云われた言葉が記憶に残っている。
「無常折檻」の意味は、此の、只今の森羅万象の現象世界は「道・神」の現われであり、其処には「徳・法」がおのずと備わっているのであるから、その道の働き・徳に、任せて居れば、誰かが誰かを叱る事も無く、檻の取手が折れる損害も、起きないと言う理・ことだろうか。
付け加えて措くと、父親が叱らない分、母親が代わりに、しっかりと叱ってくれた。
しかし、何で母親に叱られたか、其の原因を一つも覚えていないのは、子供だった私にとって、母親に叱られることは、苦痛ではなく楽しみだったのかも知れない。
本日53歳の8月23日に「無常折檻」と頭に出て来たのは、何の意味が有るのだろうか。
父の命日が10月23日で、祖父の命日が9月23日だから、23日は先祖の月命日である。
其れを意うと、私の命日が11月23日に成れば幸いだと想う。
私は、今朝のメッセージを「生成化育」其の侭に、鏡であるから、其々が自分を映し見れば良い。
そう受け取る事にした。
平成12年8月23日
礒邉自適
2000/8/9
みんな頭がおかしい
12・8・9
釈迦牟尼佛は、教団を作ることを許可していませんし、イエスキリストも「神は 建物には住まない」と謂って、旅を続けて教えを伝える事だけを云っています。
老子は、天の働き・道の徳を説明して、天の徳・道の働きに、身を処す理だけを伝えています。
これ等のことから考えると、現在の人々は、「皆 頭が変しい」と言うしかありません。世の中に、積み気枯れが充満しきったのでしょう。
釈迦牟尼佛が謂う様に、末法の世の中と成って、衆生皆が「無明」に陥ったとしか言えないでしょう。
今こそ、大祓祝詞に伝えられているように、祝詞を唱えるのではなく、祝詞に書かれて有る通りに、実行すべき時節に到っているのです。
それが、今朝現われた「卩+芰」の文字の意味でしょう。
平成12年8月9日
礒邉自適
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