自適の生い立ち
私の生い立ちを、アルバムを捲りながら、意識の変わり様を思い出して行きたいと想います。
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2009/10/13
「「谷山神社」」
礒邉家 関係
住
21・10・13
今朝のメッセージには、初めに漢字の「住」の文字が、1字だけ大きく映し出されて来た。
そして、次に、現在始まっている村造りのオーナーが現れて、新しい土地の契約金を支払う場面の映像が現れて来た。
其れから場面が変わり、私は安房川の辺に有る、昔し作家の林芙美子が宿泊して、「浮雲」を出筆した事が有るホテルの2階の部屋に、私が宿泊している映像が現れて来た。そして、窓の外のベランダには、私が35年程前に不動産業を始めた時に、付き合いの有った屋久島パイン株式会社の創始者である角谷氏が、客人と話している姿が在った。
其れは、35年前とは、私と角谷氏の立場が反対に成ってしまっている。35年前は、其の部屋に角谷氏が宿泊していて、私が訪ねて行く立場だったからである。
其れから、景色が拡大されて、目の前の安房川には、新しい橋が海手と山手に二本掛けられて、真ん中の以前の橋の上は、祭りが行われる舞台に成ってしまっているのである。そして、私の自宅が有った通りには、都会の町の中の通りに有る、美しいショーウインドーの有る店が出来ており、其の店の中で女の子達が遊んで居た。
其の様子は、まるで都会が屋久島に移転して来た様な有様である。私は、余りの変わり様に驚いて、山手の橋を渡って川辺を歩いて山の中に入って行くと、川べりの岩の上にカワウソの雌と子供達の死骸が有り、辺りを探して見ると雄のカワウソが居て、其のカワウソは死ぬ直前でふらふらして居た。どうやら、人間の道路工事の為に環境が破壊されたので、生きて行く事が出来なく成ったらしいのである。
今朝の、メッセージの映像の意味は、余りにも極端過ぎて私にも良く意味が解読できない。
先ず、辞典漢語林で漢字の「住・ジュウ」を調べて見ると、「住」は「人+主」の組み合わせで、音符の主は留まるの意味。人が長い間とどまる、すむの意味を表す。字義は@すむ。すまう。「居住」Aすまい。すみか。住居。住所。B住む人。住人。Cとどまる。とどめる。Dやむ。止める。中止する。
[参考]現代表記では「すむ」人間の場合に「住」を用いる以外は仮名書き。「郊外に住む・獣たちのすむ草原」 と載っている。
今朝のメッセージは、「住」と言う文字がヒントに成っている様なので、此の「住」の文字の意味から考えると、山中で死んで居たカワウソの家族の棲家と、文明を謳歌している人間の生活の対比を、示しているのではないだろうか。「カワウソ・川獺」は、漢字では「川+犭+頼」の組み合わせで、「川に頼る獣」の意味であり、正に川が無ければ生きて行けない生物である理・ことを示している。
其の、自然のバロメーターである川獺の一家は死に耐えて行く反面、人間は美しいショーウインドーの有る店内で、子供達を遊ばせながら、母親は買い物を楽しんで居るのである。
其の、両極端な世界から、私に何を掴み取れと言うのであろうか。其れは、昨日の文章に書いた、バス停「磯辺」の内容に関係が有り、私の名前が書かれているバス停で降りる人達に対して、受け入れ方針と言うか、体制を明確にしろとの事なのであろうか。
今朝は、事務所に出て来てPCを開くと、東京に住んでいる男性から、次の様なメッセージが13日3時33分「13333」に届いている。
礒邉自適様へ。
私は九州出身の現在東京都在住の38才のNと申します。これまで独学で精神世界やスピリチュアルな面、宗教や神様の領域とは…を勉強して参りました。神の啓示も数年前より受けております。また、礒邉自適様の存在は数年前よりblogで存じ上げておりました。本来なら屋久島へお伺いしてお話をするべきなのでしょうがすみません。とりあえずメールにて失礼致します。10/10を過ぎまして、もう時間軸も急速に変わり私の直感・直神・ひらめきでいよいよ動きだす時がきたと思います。
すべてを投げ出し一切の執着を断ちワレラのマコトの愛和の國つくりに身も心も捧げるよう…礒邉自適様にどうしても早急にお会いさせていただきたく願います。
此の、メールの発信時刻が意図的なモノではなく、偶然であるなら神の紀・ときを感じずには居られない。何故なら、「3・三」は神の数字であり、3を4つ並べられるのは意図的に遣らなければ出来ない事だからである。其れに、私には阿蘇に有る「日宮幣立神宮」に初めて参詣した時、平成元年3月13日3時33分に太陽神・日神が身体に掛かって来た事が有り、同じ年の9月3日3時33分「1・9・3333」に、同じく「日宮幣立神宮」の境内に有る「地球平和道場」に宿泊して居る時に、「聖徳太子」のメッセージが有り「ようやく 高天原に達した 臨在から始める」と告げられた事も有る。
「天皇霊 其の二 昭和天皇」
http://star.ap.teacup.com/20060505/69.html
「是からが本番」
http://green.ap.teacup.com/20060818/465.html
「円卓会議」
http://green.ap.teacup.com/20060818/1105.html
此の「3333」の数字に付いて、もう少し触れると、「10・十・ジュウ・住」割る「3」は、「10÷3=333333・・・」で永久に割り切れない数字であるので、永遠を意味しており、3で割られて三方に拡がって行く3は、合わすと「999999999・・・」であり、何処かで「神・宇宙・存在」の意思が、人間の「住」を嫌がって振動を止めれば、「0・・・・1」が足されて、「・・・9+・・・1=・・10」が起き、0の将棋倒しが起きて、元の「1・一・はじめ」に返って、宇宙は「0・零・無」に還る理・ことに成る。
其の意味では、昨日、磁力の「元・本・基・素」である芯柱が立てられた事の意味は大きいのである。今朝のメッセージは、此の「世界・事象」が起きている根本原因の摂理を示して来ているのであろう。其れが、人間の自然破壊の行為に因って家族を失い、ヨロヨロに成って死に掛けて居る、「川獺・カワウソ」の姿に集約されているのである。
其の姿は、間も無く人類全体の姿として現れて来るのであろう。其れは、人間の存在も全ての生命も、「時・十気・10」の拡散「10÷3=(3・333)<9<9<9」で三方に広がり、「波動・伊耶那美命・イザ波」の働きの「産物・現象・うつせみ」であり、生存に適した周波数・波動の「住みか」を失った時に、「死・崩壊」を迎える事に成るからである。
此のメッセージは、新しい時代の「予言(預画)」であると、謂えるのではないだろうか。其れは、9月23日のメッセージで、山頂の塚柱を右脇に抱え込んだ時から、新たに森羅万象の動きが、其の塚柱に合わせて、「情報・縁・磁力線」を動かし始めたからかも知れない。そして、其の山頂の塚柱が、昨日は地球の地中深く入り込んで、地殻の磁場の中心に立てられたと謂うか、到達したとの事なのかも知れない。
其れは、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと・イザ凪」の禊から生まれた「3・三神」の働きが、「伊耶那美命・いざなみのみこと・イザ波」の身体に合体したと言うか、本帰りしたとの事なのかも知れない。
私が、雲海の山頂にて「塚柱」を抱え込んだ日は、父方の祖父の61回忌の日であった。
其の祖父は、農業をしながら大工もしており、ボランティア的に神社の修理も行っていたとの事なので、鹿児島市下福本町の慈眼寺公園に在る「谷山神社」にも関わりが有ったのかも知れない。
其の谷山神社を、ウィキペディア辞典で調べると、次の様に載っている。
・「谷山神社」
谷山神社は、慈眼寺公園の北東部の丘陵上にある神社であり、祭神は懐良親王で、摂社に谷山隆信が祀られています。
懐良親王は、後醍醐天皇の皇子で、南北朝時代の南朝の征西府将軍(征西大将軍)として薩摩国(今の鹿児島県の西半分)に入って、南朝方の武将・谷山隆信の支援を受けて北朝方の島津貞久と戦いました。今日の鹿児島市内では身寄ヶ原(みよりがはら)の戦いで敗れましたが、後に九州北部に行き、懐良親王の活躍で九州では一時期南朝が勢力を持つに至りました。身寄ヶ原は後に御所ヶ原と呼ばれるようになりました。
谷山神社がある場所は、元々は江戸時代までの名刹・慈眼寺の敷地の一部でしたが、廃仏毀釈によって慈眼寺が廃寺になった後、昭和3年(1928年)に谷山神社が建立されました。今日では、慈眼寺跡地の慈眼寺公園の一部と言うべき場所にありますので、慈眼寺公園散策と併せてお楽しみいただけます。また、谷山神社は高台にあり、桜島が綺麗に見えます。
・「慈眼寺(じげんじ)」
慈眼寺はかつて鹿児島市下福元町に存在した曹洞宗の寺。現在は市営の「慈眼寺公園」となり、桜や紅葉の名所として市民に親しまれている。
『三国名勝図会』等によると百済の僧侶・日羅によって飛鳥時代の頃に建立されたと言われるが、その後の経緯は明らかではなく、存在が確実になるのは応永年間に島津久豊によって再興されたときからである。天文11年(1542年)には島津貴久によって福昌寺18世・代賢和尚を新たに開祖として迎えて伽藍が建立され、曹洞宗寺院へと転じた。その後、18代当主島津家久の菩提寺となって「慈眼寺」と改名する。
実質的な薩摩藩祖の菩提寺と言うことで大変に栄え、一乗院、宝満寺と共に「薩摩三名刹」と言われた。
しかし、明治期の廃仏毀釈の為に完全に破壊された。現在では跡地は公園となり、入り口に残る仁王像や公園に点在する石仏ぐらいしか跡を偲ぶ物は残っていない。
・「懐良親王」
「懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう)元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日)」は、後醍醐天皇の皇子である。母は二条為道の娘。南北朝時代、南朝の征西大将軍であったことから征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
・「日羅」
「日羅(にちら、)?−583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。父は火(肥後)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登。
父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王から二位達率と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が百済に不利な内容であったため、同年12月に百済人によって暗殺された。
―引用終了―
是等の説明を見るのは、私も初めてなので、谷山神社に「後醍醐天皇」の皇子である
「懐良親王・かねよししんのう」が祭神として祭られている事を初めて知った。其れに、僧「日羅」が飛鳥時代に活躍した人物との事で、聖徳太子が女装までして会う行動をした人物との事である。是で「後醍醐天皇」や聖徳太子が絡んでいる「先代旧事本紀大成経」の関係性がまた深く見えて来た。
「日羅」
http://momo.gogo.tc/yukari/kodaisi/umayado/nitira.html#note
メッセージの内容からは外れてしまったが、今朝のメッセージから私が感じた事は、人間を存在せしめている宇宙意識が、私の中に侵入して来ており、人間の全ての「カルマ・業」を、全部「自分・私」の「モノ・現象」としている事である。
其れは、釋迦牟尼佛の言葉に有る「衆生一切吾が子」の心境の、背景に有るモノと同じ世界なのではないだろうか。其れは又、神が何処かに在るのではなく、全てが自分の関わりに於いて、存在しているとの感覚である。
其れは、私が25年前に神の世界に入って、宇宙の神秘に触れ、自分が生かされている感謝の念に包まれて、涙を流した時とは違う感覚の世界である。25年前は、宇宙の存在が母親の懐を感じる様なモノ・世界であったが、今朝の其れは、其の時とは向きが反対で、自分の意識が全てを見守っていると言うか、全ての事・事象が自分の所為・責任に於いて、存在しているとの感覚である。
其れは、両親に暖かく抱かれて育った子供が、成長して親の立場に成って、今度は全てを見守って居ると言うか、管理をしている様な世界である。其れは、「天皇・すめらのみこと」が人民の事を「おうみたから」と呼ぶ事に、通じているのであろう。
其の意識の本が、昨日のメッセージの映像に有った、磁力の中心と成る磁石であり「縁・紀」のコイル線を巻き付ける棒の存在なのである。其れこそが、新しい御世を開く為の、神の座標軸と成るモノなのであろう。そして、其処から発せられる磁気が、神の働きなのである。そして、其の地球の芯から発せられる磁気と共鳴して、思考を創造し、森羅万象に影響を与えて行くのが、「すめらのみこと・皇帝・天皇・みかど」の働きである「みいつ・御稜威」なのであろう。
しかし、私の是までの25年間の学びから理解できるのは、其の役割を果たすのは、大変な事であると言う理・ことである。だからこそ、「御霊の思頼・みたまのふゆ」との言葉が有るのだろう。
平成21年10月13日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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