2006/4/21
「シャーマンの道程」
写真は広島県葦岳山 中健次郎氏と
シャーマンの道程
15・1・23
世界中の、シャーマンに成った人々には、共通の道程が有り、私も其の道筋を辿って来たので、私の体験が、今後の人達に参考に成ればと想い記す事にした。
普通は、これ等の道は、師に付いて修行を終え、独立して職業とするものですが、私が是から述べるのは、古代にも有ったであろう、原始的なシャーマニズムの世界である自然発生的な現象です。
1.師との出会い
人間は、どんな人でも母親の肉体から産れ、母親の手に依って育てられ大きく成ります。ですから、少年時代は普通の人間社会で育つ事に成ります。
其れが、ある時、本人が求めるか、又は求めなくても、必然の事として、導き手と成る人物との出会いが起きます。
詰り、引き金としての人物が現れるのです。
私には、其れが1983(S58)年3月18日に有りました。
2.食を正す
佛教にも、精進とかの言葉が有る様に、酒、煙草を止め、肉食等の邪食を止めて、身を清める事が要求されます。此れは、神道でも、キリスト教でも、同じ意味の訓えが有るでしょう。
3.家族との別れ
釈迦やイエス、モーゼ等、宗教の基に成った人々は、皆 家族と離れて修行に入ります。家庭が存在しては、神との接触の妨げに成ります。
私も、妻と子供三名が居ましたが、別れなければならなくなりました。それも、自分の意志とは反対の出来事として、霊の力が働いて、その様に成ってしまいました。
私の、個人的な感情としては、大変悲しいく苦しい事でした。
釈迦も、同じ様に家族を棄てていますが、釈迦は私と違って、自分の意志で棄てていますので、覚悟が違うようです。
道元、空海、日蓮、一休等は、最初から家族を持たない様にしています。家族と、共に暮していては、其の事が意識から離れないので、悟る事は出来ないのは明らかです。
4.水での禊ぎ
家族と別れ、食を制御し、一切の仕事等の行為を止め、清い水の流れる場所で水浴の儀式があります。
それは、ナザレのイエスも、インドの釈迦も、日本の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、避けて通る事は出来なかった事のようです。
私には、それが屋久島の安房川で1984(S59)年6月4日(旧暦5月5日)に起きました。
5.聖霊に満たされる
釈迦牟尼仏、イエスキリスト、伊邪那美命も、水浴びの後に、神霊との接触が起きています。
日本の伝統を傳えている天皇家の儀式では、大嘗祭には同じ意味の儀式が行われている様ですが、実際に聖霊(天皇家の場合は先祖代々の祖霊)が降臨しているのかどうかは分かりません。
だが、世界の王室で、其の様な儀式が行われているとは聞きませんので、日本の皇室だけが、似た様な儀式を傳えていると見受けられます。
私の場合も、水浴びの後、自宅の畳の部屋で4311体の霊が肉体に憑依して来るのが見えました。
日本の古神道では、「神魂の思頼・みたまのふゆ」が起きると表現されています。古代では、当然の儀式とされており、佛教の虚空会の儀式も、同じ内容を示すものだと考えられます。
6.荒野をさ迷う
ナザレのイエスが聖霊に満たされた後、荒野を40日間さ迷い歩きますが、これはモーゼもマホメットも行っており、日本の出口王仁三郎や役行者、空海等、神通力を持つ事に至った人達には、全て起きた現象のようです。
日本の、巫女達や神憑りの女性達にも、此れと似た様な現象が伴っています。
私には、6月4日より11月まで五ヶ月間、屋久島の山、川、海で修行が行われました。私の体験からすると、さ迷い歩くのは本人の意志ではなく、憑依した霊魂が自分の遣り残した事を、現世の人間の肉体を借りて、続ける事の現象だと想われます。
私自身も、自分の遣りたい事ではなく、自分の知らない事を、毎日身体が勝手に動いて遣り始めるので、私は自分の肉体が行う事を、只驚異を持って見詰めているだけでした。
今の私は、霊が行った行為が、自分の体験と重なって、不思議な体験を積み重ねた事に成ります。
自分なのだが、4311名の霊人達の思いや頼みが一体化した自分なので、本来の自分ではない自分であると言う事に成ります。
其れが現在の私なのです。
荒野をさ迷うのは、それ迄の現世の自分から離れ、それまでとは異なった舞台で、新しい役割を演じる為の、稽古を積む事と説明出来るでしょうか。
私の場合は、それが長く続いた様です。
7.石の記憶に触れる
モーゼ、イエス、マホメット、王仁三郎、空海、役行者など、皆が岩山に導かれています。そして、岩から、何等かの記憶を取り出している様です。
イエスキリストの物語にも、イエスは最後の夜、丘に登り、石の側に行って一晩中祈って居たと有りますから、イエスは岩から、何等かの指令が出て来るのを待っていたのでしょう。
聖霊に満たされて、岩山に導かれ、様々な事を教えられていますので、また岩から答えが出ると想ったのではないでしょうか。
モーゼも、シナイ山で神に岩の石板を授かっていますし、出口王仁三郎も岩穴に何日も泊り込んでいます。
日本の古い神社は、岩山が御神体であり、神社の中心の社には丸い玉石が、御神体として置かれています。
私も、聖霊に満たされた後、私の弟の一歳の子供や、師の四歳の子供に、小石を手から手に渡されました。
子供達は、石を私に渡しながら、メッセージを伝えるのです。
それも、子供の言葉ではありません。
子供の体を聖霊が借りて、私に命令を下すのです。それは、文字やハッキリした言葉ではありません。殆んどが、テレパシーの様な伝達方法です。
思考の中に、直接意味が伝わって来るのです。
神と、人間の間には、石が特別な働きをする様です。
神霊と、人間が、石のレコードを、一緒に聞いている様な状態です。
石が、宇宙の記憶を、司っていると言えるでしょう。
8.旅
一応の、宇宙の記憶を自分の意識に取り込む作業が終る頃には、霊達も其れなりの落ち着きをするので、現実的な事の方に意識が向きを変え、現代の人間社会に対しての、認識作業が始まります。それが、全国への旅の始まりです。
旅をする事で
㋐霊達が 自分の生活していた過去の情報を取り戻す。
㋑霊達が 自分が嘗て行動していた領域を 案内する役目をする。
㋒過去の世と 現代の世の 善し悪しを検討し 対策を考える等。
私自身も、国内の地理や人物、建物、生活様式、生産物等、様々な情報を手にする事が出来ました。
9.社会
一応の現代社会の認識が済むと、未来社会を創造する為の企画が始まる。
私の肉体を使って、新しい社会を創る為の準備を始める。
㋐宗教的な改革
㋑政治の在り方
㋒経済の在り方
㋓人間の生活習慣の改革
㋔環境保全対策
など、様々な準備を企てる作戦が組まれる。
私は、霊界が企てる事を 概略覚え込まされる。
10.祷り
旅が終り、本人は動かずに、回りが動く為の中心と成り、全体を見守る役目と成る。
これが、古代社会の「王」や「天皇・スメラのミコト・大君」の役目のようである。現代の天皇家は、其の名残の様な存在であろう。
仏教の寺院や、神社の建物は、其の伝統儀式の副産物と想われる。
旅が終ったシャーマンは、スメミマとして社会全体が調和する為の中心人物として祈りの段階に至る。
その人物の働きの名が「御稜威・みいつ」の働きである、シャーマンの親分的存在である。
昔は、大きくは国、小さくは各村々に、其の様なシャーマンが存在していたと想われる。
11.聖、仙人、仏陀
シャーマンの上に、「聖者」や「ブッダ・仏」が存在する。
其れは、現象世界で人間の姿での最上級の存在である。
その人物は、人間界の事ではなく、大自然全体の調和を計る立場の者である。
全宇宙の意志を受けて、神の意志がこの世界に通じるように、無の心で自然無為を貫き通す。
この者が存在すれば、宇宙全体の存在意義も保たれ、宇宙全体が安定し、宇宙の存在目的が全うされるのである。
シャーマンの道程として書き始めたが、内容は中途半端な物となった。
しかし、一応の思索の手掛かりには成るだろう。
シャーマニズムと一口に言っても奥は深い。
何故なら、森羅万象は一時も止ることなく流転しているので、シャーマンの立場も一過性なので、此れと言った、定着的な事柄を指し示す事は出来ない。
無理やりに、それを定着させようとする事は、自然の法則(ダルマ・道)に反する事になる。
残されるとすれば、神社の社の16段の階段としてであり、天皇家の家紋とされている、16花紋のマークとしてくらいであろう。
その16の内容は、シャーマン自身が、その時代の現象に合わせて認識し、組み込みを行っていくものであろう。
その為にこそ、聖霊の働きを天が支え、人間を在らしめているのである。
私が、これらの事を文章に記すなど、18年前までは、誰一人も知る由も無い。
「お釈迦様で ご存知有るめー」と言いたい処だが、これは、全て「お釈迦さん」の御存知の事かも知れない。
何れにしても、今回の輪廻の舞台としては、役者の働きは、上手に進んでいるのだろう。
シャーマンとして、その人数を確認する事が必要なのか、シャーマニズムの復活として、一口に言い済ます事で良いのか、今の私には、判断が出来ないが、一応の文章が書けた事で、私の役割は果せているものと判断する。
「嗚呼 肩凝った」これは 私の本音である。
平成15年1月23日
礒邉自適
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