2006/4/21
母が語る父の事
15・1・19
母が、父の事を話す時、其れは母の心に残っている、夫の残像である。
私の父は、母が43歳の時に、49歳で此の世を去っている。
私は、その時17歳で、未だ、第2反抗期の真最中だったので、父の哲学的な薫陶を受けてはいない。
父が、何を考えていたのかは、母の話す事を参考にするしかない。
母が語る、父の話の幾つかを、思い出して記してみようと意う。
・父は「自分が死んだ時は 灰は野菜畑に撒いてくれ 野菜を食べて生きているのだから せめて灰だけでも畑に返したい」と、謂っていたとの事である。
・父は、松峰区の区長だったので、区の行事を取り仕切らなければならない。敬老会の行事を終えて帰って来ると、「あんなにまで 長生きしたくない 他人に迷惑を掛けてまで生きるのは 嫌だ」と謂っていたと言う。
「49歳で死んだので それが適った」との 母の話だ。
・父の悩みは「年を重る程 頭脳が良くなる」との事で、段々と話し相手が居なくなる事が、苦しかったらしい。
父は、生きていれば、大正3年生れだから90歳だろうか。長生きしている人の、約半分程しか生きてはいないが、人生50年で、十分この世の体験を済ませたものと、私は推察する。
残された母と、私達五人の兄弟姉妹は、決して楽とは言えない、子供時代を過ごしたが、其れは、私の人生の土台と成っているのだから、今更文句を言える事でもない。
私も、後10日で56歳に成るので、父親より6歳は、長生きした事に成る。此の年令に成って、ようやく自分の父親が何を考えていたのか、心境が理解出来るように成って来た。
人間が、生きて行くと言う事は、他人や、自然に対して、迷惑を掛けて行く事でもある。
私もこれ迄の人生で、どれだけの事を、他人に対して行って来たのだろうか。
自分が、善意だと想って遣った事も、相手にとって見れば、迷惑だったかも知れないし、山や海や川に対しても、生き物達に対しても、もの凄い迷惑を掛けて来ている。
50年前に、私の父は、その理・ことを、もう知っていたのだろう。
父が、母に対して、どれだけの憶いを語る事が出来ていたのかは分からないが、村の人達には、そんな話は通じなかっただろうし、まして10代の息子達にも伝えられる事ではない。
父は、亡くなる前の数10日間、鹿児島の病床で何を考えていたのだろうか。私は、17歳で未だ大人ではないし、一番下の妹は未だ5歳であった。
そんな小さな子供を残して、此の世を去らなければ成らないのである。
父の無念が、現在・いまの私を突き動かしているのだろうか。
私は、自分と父の想いが、同時に成仏する事を、是から、遣って行かなければならないだろう。
私も又、父の生前の気持ちと同じ処にある。
父と、少し違う処は、話し相手に成ってくれる人達が、何人かは存在していて、私のガス抜きをしてくれている事だ。
現在の処、父親の時代の様に、家族の衣食住を、整えなければ成らない立場でもないので、思索を練る時間もある。
父親が死んで、38年が経っている。
母親の憶いの内に、どれだけの父親の残像が残っているのかは、計り知る事は出来ないが、16名の孫の存在は、新しい思い出を創造し、母の苦しさも、少しは薄らいでいるのではないかと、勝手に想像している私である。
平成15年1月19日
礒邉自適
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