2006/4/20
三人の父
13・1・11
私は、現在「三番目の父」と考えている方の所で、生活して居る。
一番目の父とは、私が17歳の時に他界した、自分の実の父親の事である。
私が、母親のお腹に宿ったのは、父親の故郷である鹿児島市の谷山町だったそうだ。
私の両親は、中国の満州から、21年4月24日に山口県長門市仙崎港に引き揚げて来て、父親の故郷である谷山(現鹿児島市)の実家に帰り、昭和21年8月3日に鉱山の仕事で屋久島に渡って来ている。
屋久島の、東南に位置する安房地区の、一番山手に当る矢本岳の麓で、私は昭和22年1月29日午前3時頃、礒邉家の初子として生を受けた。
其の矢本岳は、林芙美子の小説「浮雲」の文章の中に出てくる、「硯を立て掛けた様な山」として登場している。
其の、矢本岳の山麓に広がる農場に定住した父は、黒砂糖の工場を建設し、地元の人達と馴染んで事業を行って居た。
私は、其の、黒砂糖工場のサトウキビを圧搾するディーゼルエンジンの音や、汁を煮詰める煙や、湯気の匂いの中で育ったのである。
私が、生まれ育った実家の裏山は、直ぐ国有林であり、大きな木が繁っており、メジロなどの小鳥が、巣を掛けて雛を育てていた様な、自然環境である。
実家の前方には、他人の家が一軒も見えず、サトウキビ畑とサツマイモの畑が広がっていた。
サツマイモ畑で、芋の収穫をしていると、野生の鹿が、サトウキビ畑の中から飛び出して来る事も有った。
そんな環境の中で、私は17歳まで育ったのである。
そして、私が17歳の秋、父親は過労から風邪をひき、急性肺炎を起こして、49歳であっさりこの世を去った。
幸いにして、私は中学卒業後、直ぐに、父の農業を一年半手伝っていたので、父親の死後、母親と共に働き、四人の弟妹を育てたのである。
亡く成った父親が、中国から持って帰った物が二つ有った。
其れは、一つは中華鍋で、もう一つは「不見不言不聞、見猿・聞か猿・云わ猿」の三匹の猿の小さな像である。
私の父親は、料理が好きで、中国・満州に居た時は、地元の人々とよく宴会を開いていたらしい。
終戦の時には、満州の人達が「引き揚げずに 中国に残りなさい」と、皆が泣いて止めたと聞く。
そんな父親だから、屋久島に住んでからも、地元の人々と良い友人関係を築き、私の家には、よく人が集まって来ていた。
その頃の事で、私が子供心によく覚えているのは、父が家で飼っていた豚を、集まって来た人達が屠り、外に有った露天の五右衛門風呂で熱湯を沸かし、其の熱湯の中に屠った豚を入れて、毛を剥いでいた様子である。
其の時の豚肉の味は、はっきりとは記憶に無いが、近頃の豚肉の味とは確かに違っていた。
そんな私の父親は、集落の役職を七つ程引き受けていた。
私の父親は、他人の相談事にもよく乗って居たので、そんな父親を見ながら育った所為か、私も、父と同じ様な付き合い方を、他人としている。
ともかく、私が、世界自然遺産に登録された屋久島の自然の中で37年間育ち、自然と人間の繋がりを、深く体験できたのは、両親が此の屋久島で、私を生み育ててくれたからだと深く感謝している。
周囲の環境全てが、人工物である都会で育って居れば、私の人格は、今とは全く異なったものに成っていただろう。
私の父親は、机に向かわない私に、「勉強をしなさい」と云った事が一度も無い。其れは、現在の社会では、考えられない事ではないだろうか。
私の父親は、「学校は 子供の世界だから 大人が顔を出してはいけない」と謂って、一度も小学校・中学校を通して、学校に現れた事は無かった。
其の様な父の静けさは、私の気質に大きな影響を与えている。
二番目の父とは、人生の転機を齎してくれた人で、私の恩師である「土肥無庵(秀基)」である。
私は、其の土肥無庵師匠に1983年3月18日に初めて出会い、84年6月4日(旧暦5月5日)私を真理の究明への旅へ、送り出してくれたのである。
其の無庵師匠は、屋久島に住んでいた人ではなく、屋久島に土地を買い、その土地を切り開き、神社風の建物を建て、私は、其の無庵師匠の家で丸三ヶ月間「精進」の世界を、実行したのである。
其れは、完全な自然食・マクロビオティックの世界で、私の肉体全体の浄化をし、価値観の転換が行われたのである。
無庵師匠は、奥さんと共に、私の為に数ヶ月間の時間と、エネルギーを注いで下さったのである。
私の父親は、生活の根本を私に教え、無庵師匠は、都会の文化や物の素晴らしさを、教えてくださったのである。
そして、三番目の父とは、現在お世話になっている「財団法人福岡緑進協会」の代表である「白土宏氏」である。
白土宏氏は、福岡の財閥の家に生まれた方である。其の白土宏氏は、祖父や父親が、太平洋戦争の頃まで、様々な人達を、精神的にも、経済的にも支えていた様子を、身近に見て育ったとの事である。
其の白土宏氏の生き方は、屋久島の農家に生まれ、自然の中で育った私の様な者とは、全く違う育ち方をしており、言葉の使い方や、他人を動かす方法が、是まで私が知っている人達とは、全く違うのである。
私は、現在53歳であるが、この三人の父の働きから、三様の学びを得て、一人の大人としての人格を築こうとしている。
日本の神道では、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊ぎ祓いから生じた子に「三貴神」が在る。
其の「三貴神」とは、一人目は「月読の命」で夜の国を治め、二人目は「天照大神」で昼の光の国を治め、三人目の「素戔鳴尊・すさのおのみこと」が、海原を治める役目となっている。
私の謂う三人の父親は、実の父親が、自然の波動を読む力を育ててくださり、二番目の父である無庵師匠が、太陽の光で見える物の世界の見方を教えて下さり、現在、三番目の父が、人を動かす行動と言葉を、教えて下さっているのだ。
この三つの働きが、身に着いて、初めて「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の神の名の、「ナギ(凪)」の状態が、保たれるのではないか。
古事記では、伊邪那岐命の上には、まだ15段階の神が存在する理・ことに成っている。
日本の神社の、神の住む社の階段は、下から上の社まで16段が有る。其れは、この神の数と同じである。
私の、人生の旅も、ようやく其の上がり段の、一番下の場である「白砂の地面・イソの段」を通過して、神の世界の一段目に、辿り着いたと言う事だろうか。
しかし、其の考えや、思いも、祓わなければならないのである。
何故なら、これ等の考えも、「積み氣枯れ・罪穢れ」の一つかも知れないからである。
平成13年1月11日
礒邉自適
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