悟りへの道
私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
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2009/10/25
「神手の夢枕・かんだのゆめまくら 」
般若波羅蜜の智慧
神手の夢枕・かんだのゆめまくら
21・10・25
今朝のメッセージは、どうやら昨日のメッセージの映像で、握り潰されたコップと、2センチぐらい残っていた液体に、関係が有りそうである。
今朝の映像には、私が夢の中で、時々通る、目的地に行く時の近道で、山越えの狭い曲がりくねった道が現れ、何時もは誰も居ないのに、今朝は、山越えの峠の入り口の所に、通せん坊の棒が渡されていた。
私は、黙って其の棒を外して、通り抜ける譯・わけにも行かないので、近くに建っている、木造の家の方に歩いて向かった。
すると、其の建物の方から、教会の門番の様な黒い服を着た、細身で長身の男性が此方に向かって歩いて来た。
そして、其の男性は、「此の土地は 個人所有なのだが 他人が勝手に通り抜けるので 今後は通り抜け禁止にする事にした」と云う。私は、事情を話すと、今後は、此処を通らない様にする事を条件に、通してくれる事に成った。
私は、其の男性に、平地のルートで、どの道が良いかを尋ねると、21号線ルートが近いと云う。すると、近くまで来て居た其の男性の妻が、「36号線も有るよ」と教えてくれた。
私は、二人にお礼を言ってから、通せん坊の棒の所まで引き返して、棒を外して車の所に行くと、もう一台後ろにトラックが来ていた。
私が、其の車の方を見ると、運転して居るのは25年前に離婚した前妻「名越美代子」で、美代子は結婚した頃の年頃の姿であり、其処が通れる事に成ったので、喜びを表す笑顔の表情で此方を見ている。
私は、何も云わず、自分の車に乗り込んで出発すると、妻の車も後ろに付いて来た。そして、麓まで下ると、広い国道が走っており、バックミラーで後ろを見ると、前妻の車は左折のシグナルランプが点滅している。
私は、右折の合図をして、道路の右側に避けた。
そして、通過して行く、前妻の運転する平ボディの4tトラックの荷台を見ると、荷物は全部降したらしく空であり、荷台にはロープの様な物しか乗っていなかった。其のトラックの荷台には、「神田の夢枕」との会社の名前が書いて有った。
私は右折して、出掛ける前に、スーパーの駐車場に止めて有った、古いバイクを積み込んでから、妻の行った方向に引き返した。
そして、町の中に着いて、誰かの家の中に上がって、亡くなった方の命日の法事の儀式に参列した。
其の、民家で行われている、法事に参加して居る人間は、私の他は、家族だけの様である。私は、事情を知らないので、仏壇に向かって「南無妙法蓮華経」を唱えると、其の家の人に「此処は 南無阿弥陀佛だよ」と注意された。
私は、しまったと想って、「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と唱え様としたのだが、「なむあみだぶつ」を言い馴れないので戸惑っていた。
私は、法事が終わってから、しばらく、座敷でお坊さん達と話して居たが、トイレに行きたく成ったので、その場から離れる事にして、其の場面は終わった。
そして、次に行った先は、ドレミ村の代表である「天波博文氏」の知り合いの会社の事務所であった。
其処には、3〜4人の男性社員が居て、会社の仕事が終わってから、天波博文氏の家族と、会社の人達も一緒に、夕方の食事に出掛ける事に成った。
私は、天波博文氏が、其の会社に遣って来るまで退屈だったので、其の会社に有った魚釣りの、竿や糸や鉛で遊んで居たので、慌てて、其れ等の品物を片付けて、皆の後に付いて行った。
今朝のメッセージの映像の場面は、是だけである。
私が、今朝のメッセージで感じた事は、人間は、精神的な世界を極める為には、誰も他人の居ない山岳に、登る必要があるが、平地には平地での、旅のルートが有るとの理・ことであろう。
其の、ルートして、男性に21号線と教えられたのは、弘法大師空海の命日は21日なので、弘法大師空海の意識ルートを意味しており、奥さんが「36号線ルートも有るわよ」と云ったのは、釈迦仏陀の弟子であった「弥勒菩薩・みろく・36」の思考ルートを、意味しているのではないだろうか。
私が、今朝の映像の中で、仏壇に向かって唱えたのは、日蓮上人が唱え始めた「南無妙法蓮華経」の題目である。
何故、私が「南無妙法蓮華経」を唱える事に成ったかと謂うと、今朝の夢に出て来た妻「名越美代子」の影響である。
私の前妻の父親は、屋久島の創価学会のトップの立場であり、公明党所属の町議会議員でもあった。そして、天波博文夫妻も、創価学会の会員である。
私は、其の「名越美代子」と結婚してから、妻の父親に勧められて、創価学会に入会したのである。
其の縁で、1984年の3月13日の夜明けに、「神だから守れ」との声が聞こえ目を開けると、太陽が太平洋の水平線に、半分顔を出していたのである。
其の「神だから守れ」との神とは、私を捜し出して、此の世界に入れた無庵師匠の事であり、其の無庵師匠を守る為に、全てを掛けた事が、現在の自分を創り出す・鍛え上げる事に、繋がったのである。
今朝のメッセージは、其の前妻が、晴れ晴れとした顔で、幸せそうに運転するトラックの荷台が、積荷を下ろして空に成っていた事と、其のトラックの荷台の枠には「神田の夢枕」と、明るい水色で書かれていた事に、深い意味があるのだろう。
其の意味を考えると、昨日のメッセージの映像にあった、神の手がコップを握り潰した事と、1リットル入りの透明なボトルに、2センチ程黒い液体が残っていた事に関係が有り、私に残っていた「カルマ・業・濁り・血液」が、「神田(手)かんだ」で握り潰されと言うか、浄化・消去されたとの意味なのではないだろうか。
其れに、私のメッセージの映像は、「神の手に成る夢枕」であるとの事なのかも知れない。
「神田の夢枕・かんだのゆめまくら」とは、「神手の夢枕・かんだのゆめまくら」であるとの事だろう。
歴史を振り返ってみても、是まで、夢枕で多くの人達がヒントを得て、ノーベル賞を貰っている。
其れに、夢枕に神が現れた事を切っ掛けとして、多くの人達が、宗教の教祖に成ってもいる。
其の現象を考えると、神は、夢枕で科学を発展させ、人間の精神世界も導いている理・ことに成る。
だから、自分の家に神棚や仏壇を設置して、神仏を身近に引き寄せるのであろう。
私は今朝、其の事に対して、遠近法が関係有ると想った。
何故かと謂うと、高い三角形のオベリスクを建てる事は、神を遠くに設定する事に成り、五体投地は自分の身体の中に、神を呼び込む事に成るとの理・ことである。
何故なら、神を遠く、高くに置く事は、何時までたっても、「神」が自分の中には入っては来ないからである。
反対に、川池で沐浴をして、皮膚感覚の世界に神を感じれば、神は、自分の内側に入って来る。
だから、仏教の教祖である「釋迦仏陀」や、キリスト教の教祖である「イエスキリスト」や、日本の神道の元である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、皆、水で禊を行って、神の働きを生み出しているのである。
アジア大陸の屋根である、チベットのシューメル山・スメル山に、五体投地で近づく事は、其の理に、無意識であっても近づく事に成るのであろう。
其の理を、無意識で取り扱っているのが、インドのリンガである。
リンガは、女性器・ヨニの真ん中に、男性器が立っている物である。
其れは、中国の「道・タオ」と同じ考えであり、現在の機械になくては成らない「ボルト」と「ナット」の組み合わせである。
其れを、自分の中にイメージする事は、自分の中に、三角を入れる事で有り、「凹凸・陰陽・雄雌」の働きを、自分の中で、統合する事に成るのである。
其の、単純な「陰陽・色」の世界を、難しく説いているのが宗教家である。
其れに、宗教を興している者は、殆どが、思い込みの世界に住んでいる者達であり、他人に迷惑を掛けている事に成る。
だから、中国の老子は「精神的な理・ことを 他人に云っては成らない」と謂っているのである。
精神世界は、自分の中に、三角形を取り込む事であり、他人の存在は関係が無いのである。
其の三角形こそが、昨日のメッセージの映像に現れた、三つの器・皿の関係性なのである。
其の三つの器とは、三つの島の理・ことであり、其れは、「見る者」と「見られる物」と「其の関係性・理」の、三角形の三つの関係性なのである。
今朝のメッセージの映像では、私は、もう山の上には上がらないで良いとの理・ことであり、麓に、三角形の関係性を創出して行けば良いのであろう。
其のルートは、弘法大師空海の思念を選んでも良いし、弥勒菩薩の働きに従っても良いとの理・ことであり、どのルートを選ぶかの選択権は、人間自身に与えられているとの理・ことであろう。
そして、私の最終ゲートに、前妻「美代子」が姿を現して、晴れ晴れとした笑顔で、積荷が何も無いトラックを運転して居たのは、私だけではなく、何の落ち度も無いのに離婚された妻も、役割を無事に果たした事を示唆しているのであろう。
其の様に考えると、私を此処まで運んでくれた、霊界の神霊達と、此の世の人々に、感謝しなければ成らない。
老子の謂う、「嗇(しょく)にしくはなし(神は 種子を蒔いて 育てて 収穫する。其れより 他に無し)」の言葉の世界が、改めて理解できて来る。
そして、全ては、自分の脳内の出来事であるとの理・ことである。
人間は、自分の意識で、全てを創り出しているのである。だから、他人には何等関係が無いのだ。
今朝は、朝まで、色々な理・ことをイメージして居て、宿舎を出て車のエンジンを掛けて、時計を見たら、時刻は9時27分「9+(999)」であった。
何かの結論に達した事は、間違いないのであろう。
今朝、私が想った事は、屋久島の「鯛ノ川・登龍の滝」から、中瀬川までの地域を、新しき村造りの地域とし、昭和55年に村造りで天皇杯を授与した事を、もう一度実現する事である。
其の事の為に、昨日は、私に残っていた「カルマ・業・穢れ」を、神が代わりに処分してくれたのかも知れない。
平成21年10月25日3時33分
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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