悟りへの道
私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
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2009/10/23
「煩悩の世界」
帰命
煩悩の世界
21・10・23
本日10月23日は、私の父親の45回忌である。
私は、父親「礒邉勲」が亡く成った時17歳であり、其れから45年が経ち、既に62歳と成ってしまった。
私は、自分の人生が、この様なモノに成るとは、夢にも想って居なかったが、何となく、自分の役割が何であるのかは、見えて来ている様な気がする。
其れは、人間の意識の世界と言うか、霊魂の存在の不思議である。
昨日、私の意識は光の世界に在り、上空から、金色に輝く地上の「ピラミッド・オベリスク」を、此の世の全てを見通す「プロビデンスの目」として、見下ろしていた。
其れは、人間にとって、究極の世界なのであろう。
そして、今朝の私の意識は、其の、神の光の世界から、一段下にある世界を、覗いて居た。
其の世界は、人間の意識行動と、神の「光の世界」の中間に位置する世界である。其の世界には、引っ切り無しに、人間が願い事をする為に書かれた、絵馬やお札の文字が、届けられていた。
其の文字は、現代文字だけではなく、筆で書かれた草書体の漢字文字や、数字も含まれていた。
私は、草書体の漢字を読めないので、何が書かれていたかは判らないが、人間の願い事が、短い言葉で書かれている事だけは、理解できた。
そして、何が書いて有るのかを気にして居ると、カタカナの単語が三つ映し出されて来た。
其の、カタカナの単語の真ん中の語だけは覚えたので、忘れてはいけないと意い、直ぐに枕元に置いてある紙に書いた。
其れは「リトリップス」の単語である。
今、I・Tで「リトリップス」を検索して見ると、多肉植物の一種であり、其の形は植物の葉の原型の様であり、動物の受精卵が、細胞分裂を始めて二つに別れる様子と同じ形である。
しかし、其れは名詞であるので、「リトリップス」の言葉としての意味が解らない。其の意味を知りたいと想い、検索して見たが出て来ないので、「リトリ」だけで検索すると、リトリートが有る。
リトリート【retreat】 @退却。撤退。後退。A隠居。避難。また、隠居所。隠れ家。避難所。仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分だけの時間や人間関係に浸る場所。
葉肉が、二つに分かれる植物の名である「リトリップス」と、「リトリート」の「隠れ家や自分だけの部屋の確保」の意味を考えると、二つの言葉の雰囲気では「リトリ」は分裂か、別れるの意味が有る様である。
其れを考えると、今朝の「リトリップス」の単語は、三つの中の真ん中に位置していたので、左右・前後のカタカナには、「左右」か「前後」の意味が含まれていたのかも知れない。
其の様に考えると、昨日と今朝のメッセージは繋がりが有り、此処のところ続いていた三つの空間・嶋の事に、関係が有るのではないだろうか。
そう言えば、多肉植物の「リトリップス」の形は、人間の大脳の形に似ているし、新しい成長点が中央から生まれて来るので、其れは、新しい自分の意識であり、左右の情報を基にして、未来を創造する物のイメージがされて来る。
其の、新しい世界を導き出す成長点は、宇宙ロケットの頭の部分の衛星をイメージさせる物が有る。
何故なら、宇宙衛星こそ、人間の行動意識の最先端を意味するからである。
其れは、クリスマスツリーの形と関係が有り、伸びて行く針葉樹の先端は、人間の成長意識に重なるので、神に対する願い事を託すのであろう。
其れは、エジプトの「オベリスク」の意味に通じるし、日本の「天の逆鉾」と同じ概念を、含んでいるのではないだろうか。
そして、其の人間の願い事が、天上の神の光の空間の床下に、突き当たっているのである。
・「オベリスク(obelisk)」は、古代エジプト(特に新王国時代)に多く製作され、神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種。
オベリスクの呼称自体は後世のギリシャ人たちがオベリスコ(串)から名付けたものであり、元来は「テケン(保護・防御)」と呼ばれていた。(テケン?手剣・天の逆鉾)
ほとんどは花崗岩の一枚岩で作られており、四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に細くなった、高く長い直立の石柱である。
先端部はピラミッド状の四角錐(ピラミディオン)になっており、創建当時はここが金や銅の薄板で被覆され、太陽神のシンボルとして光を反射して輝くようにされていたらしい。また、その影を利用して日時計としての役割も果たした。
側面には王の名や神への讃辞がヒエログリフで刻まれ、王の威を示す象徴とされた。大きいものではその重量が数百トンにも及ぶ。
起源は、太陽信仰のヘリオポリスのベンベン石を模式化したものと考えられている。
ベンベンとは、古代エジプトのヘリオポリス(現在のカイロ周辺の街)にある丘のこと。ここベンベンの丘を模した四角錐の石を「ベンベン石」(Benben stone)といい、再生と復活をつかさどる精霊が宿るとされ、後に太陽神ラーと同一視された。ベンベン石はオベリスクの上やピラミッドの頂上に置かれる。
―引用終了― ウィキペディア辞典 現在記載
此の説明にも「オベリスコ(串)」と有る様に、オベリスコは人間の願いを、神の世界に串刺しする物である。
其れは、日本の神話に有る「櫛稲田姫・くしいなだひめ」や、其の夫である「素戔鳴尊」の別名「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」の、「櫛御氣・くしみけ」の名前の「櫛・串」に関係が有り、又、神社で神に奉納する「玉串奉納・櫛玉奉納」の儀式の意味とも通じている。
そして、其の概念が進化したのが、七夕の短冊やクリスマスツリーの飾り付けなのである。
其の七夕の短冊と、神社で願い事を書く絵馬は、同じ概念である。
其れは、文字が開発された事に因って、行われる様に成った物である。
今朝の、私のメッセージの映像には、絵馬や短冊の物の形は見えないで、書かれている文字だけが、映されて来た。
其れを考えると、文字が書かれていたからこそ、私の意識に映り出されて来たのであって、若し文字が書かれていなくて、人間の意識だけでは「目・意識」に認められる事は無いだろう。
しかし、今朝のメッセージの映像では、其の書かれている文字は、神の光の空間の床に当たって、全て下に落ちて行った。
其れは、人間の願い事は、悉(ことごと)く神の光の世界には、受け入れられないと言う理・ことである。
何故なら、神は、人間に「使命・みこともち」を与えて、地上に降ろしているのだから、其の使命を果たさないで、自分の願い事を「親神」に対してするのは、筋が通っていないからである。
日本に伝わる神事は、禊祓いの儀式の伝統に有る。
其れは、自分の罪穢れを祓って、本来の「使命・みこともち」を思い出す事にある。
其れは、インドの釈迦が「全ては 自分の此の肉体に有るのだから 精進しなさい。何物にも 依存してはならない。」と謂っている理と、同じなのである。
だから、神に願い事をするのは、違反なのである。
今朝は、其の理を示す為に、人間の文字に拠る願い事は、門前払いと言うか、一つもカウンターで受け付けられなかったのであろう。
私は、神に願い事をした事は、是までに一回だけしかない。
其れは、私が19歳から始めた農業経営が、牛の価格が暴落して大赤字に成ってしまい、農家としては、屋久島一番の借金を抱え込んでしまった時の事である。
私は、其の為に、二番目の弟「正也」も高校を中退させて農業を手伝わせ、何とか乗り切ろうと考えた時に、「神様 何とか 四人弟妹が一人前に成るまで守って下さい。私の人生は 其れからで良いです。其の後は 神様の為に何でもします。」と、願い事と言うか、神と契約を交わしてしまったのである。
其の約束が有った為に、25年前に告げられて来た、此の神の計画を断れなかったのである。
しかし、其の他には、自分の事の為に、神に頼み事をした事は無いのである。
そして、私は、特別な宗教に関わっているわけでもない。
其の私に、4311体もの「御霊の思頼・みたまのふゆ」が起きたのである。
「御霊の思頼」とは、神社で唱える「大祓い祝詞」の中の一節であり、言葉の通り「神霊の思いや頼み事」を引き受ける事であり、自分の煩悩を、神仏に頼む事でないのである。
だから、現在の人達が、神社で行っている事とは、反対の世界である。
此の私は、25年間、自分の事を一切考えずに、神の命ずる侭に動いて来たのである。
其の結果が、此の三日間の意識の世界なのである。
今朝、私が考えた理・ことは、何故、大天使であった「ルシフェル」が、悪魔の「ルシファー」として、名前を変えられてしまったかである。
其れは、人間界での宗教のドグマに拠るもので、石工・メイソンの神である「ルシフェル」の存在が、都合の悪い宗教団体(キリスト教・イスラム教・?)が在ったからではないだろうか。
其の、宗教団体・組織が何であるかは別として、ルシフェルが、何故ラテン語の「光を運ぶ者」から「悪魔・ルシファー」に変わってしまったのであろうか。其の原因には、光の天使「ルシフェル(ルチフェル)」は、人間を救う為に地上に降りたとの説が有る。
其の説から考えると、私の意識は、今朝、其の二の舞を起こそうとして居た事に成る。
其れは、人間の願い事が、全部、目の前で光の床に当たって、跳ね返って地上に返って行くので、私は、其の願い事を読み取ろうとして居た。
若し、私の意識が、其の願い事の内容が読み取れたら、私は、其の事を叶えて遣る為に、せっかく辿り着いた光の部屋を出て、再び、地上の人間世界に降りてしまったかも知れない。
其の、私の弱さと言うか、優しさを、神が配慮して、文字に書かれた願い事の意味が、理解出来ない様にしたのかも知れない。
確かに、其の内容を、私が理解出来れば、其の人間の無限に尽きる事の無い「願い事・煩悩」を解決する為に、私の意識は、再び地上に、落ちてしまう事に成ってしまったかも知れないのである。
其の様に考えると、家族まで捨てて、他人の事に関わってしまうと言う、此の私の弱さと言うか、優しさは、「ルシフェル」の働きに因るものなのかも知れない。
其れが、「自由な石工・フリーメーソン」の、本来の意味なのではないだろうか。
確かに、自由な身に成らなければ、地球の岩石と意識の交流は起きないし、イエスキリストの様に、岩を相手に、祷る事(帰命する)も出来ないであろう。
大本教の教祖である「出口ナオ」の言葉にも、「岩がモノ言う時が来る」と有る。
確かに、私には、其れが25年前に現実として起きたのである。
其れは、岡本天命に告げられた日月神示に有る「148(石屋)の救世主が 日本から現れる」が、真実であると言う事にも成る。
確かに、私には、25年前に、全島が花崗岩である屋久島の岩山と、何万ボルトの高圧電線に関係して、他人に説明できない様な事が起きた。
だから、其の体験から、「石工の秘儀」の内容が能く理解出来るのである。
・「石工の秘儀」には「岩の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナモ・dynamoを 正しく応用する事であると知るとき 彼は 結社の神秘を学びとり ルシフェルの力は 彼のモノと成る。」と有る。
私は、其の理・ことは、25年前から体験を通して感じて居たのだが、昨日と今朝のビジョンで、其の世界がどう言うものであるのかが、能く理解出来た様な気がする。
何故、古代から、岩山が信仰の対象と成り、日本の古い神社の「奥の院」の社の御神体が、全部丸い球石であるのかの理由も、良く理解できる。
其の球石は、人間が作った「仏像」や「神具」等よりも、真実を伝えているし、効力を発揮しているのである。
そして、「オベリスク」の存在は、日本では諏訪神社などの「御柱」と成り、仏教では花崗岩の墓石と成り、カナダでは「トーテムポール」と成っているのである。
其の、オベリスクや、墓石や、トーテムポールに、文字や絵が刻まれるのは、七夕の竹やクリスマスツリーと同じ物なのである。
其の、文字や絵を書いて、神の願い事をする人間の行為は、人間の煩悩を意味している。
仏教には「煩悩即菩提」との言葉が有る。
其の意味は、次の様に説明されている。
・「煩悩即菩提」原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより悟りが得られるとされていた。
しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。
したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。
この色(しき、物質的)の世界は空であるが、それ自体がすべて真如の表れである。したがって悟りを妨げる煩悩も真如の一面から現れたものである。したがって煩悩を離れて菩提は得られない。また逆に菩提なくして煩悩から離れることなはい。これが煩悩即菩提であるとする。
なお、煩悩即菩提といえば、矛盾する言葉が「即」でつながっていることから、煩悩=菩提、煩悩がそのまま悟りである、と考えられやすいが、これは誤解であり、危険と言われる本覚思想につながるため、間違いであると言われる。あくまでも紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩があるからこそ苦を招き、その苦を脱するため菩提を求める心も生じる、菩提があるからこそ煩悩を見つめることもできる、というのが煩悩即菩提の正しい語意である、と言われる。
―引用終了― ウィキペディア辞典
此の文書の中の、[「煩悩」と「菩提」は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)と言い、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。] の内容を考えると、今朝のメッセージで告げられて来た、多肉植物「リトリップス」の形状が気に成る。
其れは、二つに分かれているが、二つではないとの説明を、生物の形として現しているからである。
其れは、人間の大脳の仕組みとも同じ形状であり、両方に分かれているからこそ、巧く機能しているのである。
其の様に考えると、神・天上の神の世界と、地上の人間界とは、両方が「而二不二(ににふに)」の関係であって、どちらかが欠けてしまえば、両方の世界が消えてしまうと言うか、成り立たないと言う理・ことに成る。
だとすれば、「ルシフェル(光の世界)」の世界と、人間の煩悩・願い事の世界は、双子であり、どちらも欠かせないと言うか、両方が求め合いつつ、支え合っている事に成る。
其の間柄を保つのが、「キリスト」や「如来」や「聖者」達の、役割であるのではないだろうか。
そして、其の関係性を形にしたのが「オベリスク・串」であり、日本の「玉串奉納」の儀式の意味なのであろう。
そして、其の玉串に通す球が、仏教の坊主が瞑想して居る周囲に、配置されている「如意宝珠」なのであろう。
「瞑想」とは、目を閉じて「冥府」を想う理・ことである。
其の「冥府」の中心の存在こそが「天帝」であり、其の天帝の意識を地上世界に現すのが「現人神・皇帝・みかど」の存在なのである。
其の「ミカド」こそが、ユダヤの王なのである。
其の「ミカド・帝」は「プロビデンスの目」を、有していなければ成らないのだ。
其の目を有した者こそが、「天照皇大神・あまてらす素目おおかみ」や「ラーの神官」の働きが出来るのである。
そして、其の者は、人間のカルマ・業である願い事を、決して取り上げては成らないのである。
何故なら、此の宇宙のシステムは、人間サイドに有るのではなく、神・天の側に主体が存在するからである。
其の存在が、人間の願い事に耳を傾けて居れば、神の働きを停止させてしまうからである。
其れを、そうしないのが「大日如来」の姿なのである。
何故、現在・いま世界中が、精神的に行き詰まっているかと言うと、其の原因が民主主義に有るからである。
何故かと言うと、民主主義には、神が主体であるとの本来の考えが、消されてしまっている。
「民・ミン・たみ」の漢字は、「目+矢」の組み合わせで、戦いに負けて、矢で目を潰された奴隷の意味で、眼暗・盲人を意味しているのである。
だから「民主主義」とは「目暗主義」の意味であり、「プロビデンスの目」とは反対の世界なのである。
・「プロビデンス」(Providence、プロヴィデンスとも表記)は、キリスト教における概念。「すべては神の配慮によって起こっている」ということである。日本語では「摂理」(せつり)、「神の意思」と訳される。用法等によっては、「天帝」とも訳される。
ウィキペディア辞典 現在記載
昨日と、今朝の意識までに、私が到達するのには、25年の月日が掛かってしまっている。
私の人生に取っては、一番の働き盛りの25年間を、此の事の為に棒に振ってしまった事に成る。
しかし、老子、釈迦、神武天皇、ピタゴラスの、長年の念いを考えれば、私の25年間の時間は短いのであろう。
25年前に、4311体の霊魂の先頭に、私の父親が、20年振りに冥府から帰って来て「お前に 苦労を掛けたのは お前の精神を 鍛える為であった もう心配ないから 此の人達に身体を貸せ」と告げられ、何とか、聖霊との共同作業で、此処まで実情を持ち込んで来た。
私は、此の三次元世界では、全てを無くしてしまったが、昨日、上空から光の目で、地上に立つ金色に輝く「オベリスク・串」を眺めて居た。
其れを考えると、此の私は、冥府に金字塔を立てた事に、成るのではないだろうか。
父親の45回忌に
平成21年10月23日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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