翁と嫗
オトナの元は翁で オンナの元は嫗です。翁は髭が鳥に見えるくらい伸びた古老で、嫗は子供に温かい声をかけるお婆のことです。
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「翁・おきな&嫗・おうな」
嫗
嫗・おうな
子供達の目標となるべき存在が、完成された大人としての「翁・おきな」であり、その子供達をはぐくみ育てるのは「嫗・おうな」で「翁」と対の存在である。
政治の役割は「嫗」が十分に子育てが出来る環境を整えることであろう。それが水瓶座(アクエリアス)の時代の、神が望む世界であろう。
投稿者: 礒邉自適
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「翁と嫗」
美しい老い方
翁
と
嫗
翁と嫗
12・8・30
「翁・おきな」とは、年老いた男性の事として認識されているが、私はもっと意味深いものが有ると考える。
漢字の「翁」は「公+羽」の組み合わせで、「公」は鳥の首の象形で、首の下に両翼「羽」が着いた形である。其れは、長生きして居る老人が、髭が伸び、其の髭が鳥の羽の様に見えるからだとある。
一方「嫗・おうな」の方は、年配の女性が、優しく抱きしめて温めるの意味で、優しいお婆さんが、子供を優しく抱きしめて、暖かい声を掛ける。の意味らしい。「嫗」を使った単語に「嫗喣・オウク(優しく抱きしめながら育てる)」の言葉が有る。
つまり「嫗」とは、生活の知恵を悟り尽くした「老母・グレートマザー」の事であろう。
「嫗喣・おうく」の「喣」は、篆文で「暖かい息吹を 口でかける」の意味だが、「翁」の、羽の生えた老いた鳥とはどう言う意味合いを持つのだろうか。
鳳凰の化身で、宇宙の真理を伝える「智慧者」と言う意味でも有るのだろうか。
「おきな」は「おてな」から、変化して来ているとの謂われも有る。「おてな」とは「尾手名」であれば、両翼の羽根の其々一枚一枚の働きを意味づけ、名付ける事かもしれない。
翼とは、「助ける」意味も表していると辞典に載っている。「翁」は「公+羽」の組み合わせだから、羽を両方へ広げると、其々の働きに分かれる事になる。其れは、左翼、右翼である。
左大臣、右大臣を、王が左右に並べて改治を行うことが、鳳凰殿の成り立ちであれば、「翁」は大極の成人の意味ともとれる。
日本語の、「おとな」に対応する漢字は、正確なものが見つからない。「大人」は「小人」の対の単語である。「成人」は、智慧が無くても身体さえ成長すれば、成人であるので、全てがオトナと言う分けでもない。
「おとな・(精神的にも 肉体的にも 完成された者)」の意を、表す文字がないのである。
若し、「おとな」が「おてな」から来ているのであれば、「翁」を「おとな」の字に使ってもよいのではないだろうか。そうすれば、「公の為に 両翼を揃える」との言葉の意味付けが出来る事になる。
「揃・セン」は「手(扌)+前」の組み合わせで、手を前にそろえるだから、王が政治を行うのに、手勢・手下を集め、手法・手段を講じる理・ことと考えると、理解が進むのではないだろうか。
漢字が、甲骨文字として使用され始めたのが、五千年くらい前だと云われているが、文字が出来た原因は、人間の生活が其の前から続いていたからであり、人間の暮らしが、人間の目に映り、認識されなければ、象形文字その物が生じないはずである。
漢字は、自然の中で、人間が生活するその姿が、絵と成った物であるので、古代の暮らし向きの文化・文明は、現代の暮らしの中にも、少しは伝え残されているはずである。
其れ等を、思い出しながら、現代社会の人間がどの様に暮らしたら良いかを、再検討しなければならない。
其処に、新しき「翁」と「嫗」の姿が見えてくるのではないだろうか。
・「翁・オウ」【解字】形声。「羽+公」音符の公は、項に通じ、くびの意味。鳥の首の羽の意味を表し、転じて、老人を尊んで言う、おきなの意味を表す。
【字義】@鳥のくびすじの羽。Aちち(父)Bおきな。男のとしより。また、老人の尊称。「老翁」「村翁」
・「嫗・ウ・オウ」【解字】形声。「女+區」音符の「區」は、クルッとするの意味を表す。背がクルッと曲がった女性、おうなの意味をあらわす。
【字義】(一)@おうな。ばば。老女。老婆。「老區」A女・女性。
(二)あたためる。抱いてからだで暖める。
「素戔鳴尊・すさのおのみこと」が、出雲の地でヤマタノオロチから助けて、妻にした女性は「奇稲田媛・くしいなだひめ」で、両親は「足なづち・手なづち」である。
「天津日高彦火瓊々杵尊・ににぎのみこと」の妻である「木花咲椰媛・このはなさくやひめ」の父親は、「大山祇神・おおやまつみかみ」であり、大大山祇神は、美しい娘「木花咲椰媛」に、姉娘の「岩長媛・いわながひめ」を付けて「瓊々杵尊」差し出し「この娘は美人ではないけれど 何でもできる娘だから・・・」と云ったのだが、火瓊々杵尊は岩長媛が醜いので、帰してしまったと伝えられている。
妻として在る事には、美しく姫として在る事と、土まみれに成って畑仕事をする事や、台所仕事で糠味噌臭く在る事とは、両立しない。
其れを、補う為に、父親の大山祇神は、娘を二人一組として差し出したのである。
木花咲耶媛は、全国に神として多方面に祀られているが、働き者の嫁である岩長媛の方は忘れられている。
現代社会は、ますます木花咲耶媛の様に美しく着飾って、細身で肉体労動に向かない女性が大事にされ、多く育っている。
一方、家庭大事の古女房の方は、粗末に扱われている傾向がある。
今のままでは「嫗・おうな」と呼ばれる様な、資格の有る女性は育たないのではないだろうか。
現代社会の子供達が、生きる方向性を失って、不安定に成って居るのも、この辺が原因ではないだろうか。
数千年前から、この危険性を伝えて来たのが「大山祇神」の物語なのかも知れない。
大山祇神とは、「大きな山に住む巳神」で、「木花咲耶媛」は「神籠(ひもろ木、霊諸木)」で樹木を意味し、岩長媛は「磐境・いわさか」で、岩の神事を物語化した物ではないかと、私は考える。
何れにしても、自然の中で、豊かで美しい老後を送る「翁」と「嫗」が存在する暮らしの実現を願って、是からも、行動を続けて行かなければ成らないだろう。
其れは、可能な事だと想う。
何故なら、私が子供の頃は、村の中に縁側で日向ぼっこをする老人が居て、私は其の人達に、昔の事を聞いて回って居たのだし、其れから未だ、僅か50年しか経っていないのだから・・。
平成12年8月30日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2014/10/12
「老後の生活」
理想的な老後
老後の生活
26・10・12
今朝のメッセージの映像は、私が、皇居か神宮の様な、森に囲まれて、世間の人々が立ち入る事が出来ない、広い聖地に在る建物の中に住んでいる場面が、映し出されて来た。
そして其の敷地には、第一線を退いて他に何もする事が無い、70歳前後の老人達が、敷地の清掃や庭の手入れに、奉仕作業として、天気の良い日は毎日来ていた。
そして、同じ年代の女性達が、何処かで、自然栽培の畑を管理運営して居るらしく、私に一人の老女が野菜を届けてくれた。
其れに、男性達も、何処かで乳牛を飼っているらしく、牛乳も届けられた。
最後には、牛乳を届けてくれた男性が、兄弟の精神が少し変しく成ったと言って、私の所に連れて来た。
其の男性は、私の所に連れて来られると、庭先で、何かの芝居の真似を大声で始めた。
其れは、大きな声で台詞を叫びながら、身体で表現をするモノであり、かなり迫力が有る演技である。
其の様子は、自我意識が働いていないので、神憑りで行われている物なのか、単なる精神異常・気が触れている物なのか、判断が出来なかった。
だが、他人に危害を加える物では無いので、精神病棟に隔離する必要はない様であった。
今朝のメッセージの映像が、何を意味しているのか、私には能く理解できない。
其れに、昨日のメッセージの「高木神」の存在や、情報管理の様子との、関連性も定かではない。
今朝の、最後の気が触れた男性の様子は、私が30年前に、此の世界に入った時の自分の様子を思い出させるし、私が其の年の11月22日に伊勢の磯部町で出会った、車椅子のお爺さんの神憑りの状況を思い出させる物でもある。
「定着した画像」
http://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
其の事が、「高御産日神・たかみむすびのかみ・高木神」との関係でも有るのだろうか。
在るとすれば、「老人」や「子供達」に神憑りを起させる働きが「高御産日神」に有り、其の情報も昨日の「コールの塔」から発せられていると言うか、管理されているのかも知れない。
昨日の文章には、黒い塔の事は「Call・コールの塔」と記したが、愉伽さんの文章を見て、「Call・コール」の言葉が示されて来たのは、「ll」が無い「Ca」だけであり、言葉が「コール」だったので、コールを検索して「Call」が出て来たので、「Call」としたのである。
だが、愉伽さんの文章には、・・・エレベーターの人が乗る部分を、「籠(かご)」、英語で「Car(カー)」というそうです。
これは、エジプトのマカバ(マー=光、カー=スピリット、バー=肉体)という概念の、カー(霊・スピリット)に通じるような気がします。「ムスビ・産」+「カー・霊」=「産霊」となります。「Ca」は「カー」・・・
と、書いて有るので、昨日の私の映像に映し出されて来た文字は「Ca・カーの塔」であった事にも成る。
其れだと、昨日の黒い情報の塔は「霊魂・たましいの塔」であると言う事にも成る。
其の様に考えると、此の人間社会に、霊的現象を起させているのは、「高御産日神・高木神」の仕業・しわざであると言う事にも成ってくる。
今朝のメッセージの映像では、私は皇居か神宮の様な所に住んで居て、年配の男女の奉仕を受けて居た。
其れが、どう言う意味を持っているのかは、良くは判らないが、人間は、一般社会での役割を終えてから、彼の世に「大往生・だいおうじょう」する為の、心の準備が必要であり、其の事に対して、此の私の存在が、是から役に立つとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、私の是からの活動は、是までとは全く異なる方向に動き出す事に成る。
其れは、天皇陛下や、神社の宮司などと、同じ様な環境に住みながら、儀式や社会制度に一切関わり無く過ごし、人生の総まとめをしたり、老人達の相手を務めなければ成らないと言う事である。
其れは、私が是まで考えた事が無い世界である。
私は是まで、30年・一世の間、「地球環境」や「神の働き」、其れに是からの経済・経済の事と、子供達の教育や、若者の指導などに付いて考え続けて来た。
だが、今朝の映像の場面は、其れ等の事とは全く関係がなく、死が間近に迫った人達と、世間とは離れた場所で、付き合いをする事である。
其れが、どう言う意味が有るのかを考えると、子供や若者、其れに働き盛りの人達との関わりは、他の人間でも相手に出来るが、彼の世に還る為の心の準備の相手が出来るのは、此の私にしか出来ないとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、其れは、私自身にも、最大の課題であると言うか、是から取り組まなければ成らない、一番の大事であると言う事にも成る。
私は是まで、自分の老後は、ヤケクソ的に「天・神任せで 無頓着」で過ごして来た。
其れは、神の存在・御業を信じる、最低条件であると考えて来たからである。
しかし、今朝のメッセージの内容から考えると、其の考えを改めて、自分の老後は自分自身で演出しなければ、天・神は、何もしてはくれないと言う事であろう。
其れを考えると、私は、自分では一番苦手である、「自分自身の事を考える」をしなければ成らないと言う事に成る。
何故なら、自分自身で実行すると言うか、体験していない事を、他人に勧める事が出来ないからである。
此れは、大変な事に成って来た。
何故なら、其れに付いては、テキストが無いし、老子、釈迦、空海、イエスも其の事に付いては、放棄した儘であるからである。
其れに、無庵師匠や私の父親も、その心境に入る年齢まで生きては居ない。
其の様に考えると、昨日のメッセージの映像で、私が壁板を打って、真っ暗な室内の閉じ籠る映像は、室内が「籠(かご)・Car(カー)」であり、私の意識の乗り物である「車・カー」は、未だ「意識・たましいの旅」を終えてはいない事に成る。
私は、是まで自分の老後を考えるのではなく、若者や子供達の精神が、目標を持って正しく成長する様にと考え、「翁と嫗」のブログを作っている。
どうやら、其のブログを他人の為ではなく、自分の老後の為に、役立てて行かなければ成らないのかも知れない。
「翁と嫗」
http://star.ap.teacup.com/2006o414/
平成26年10月12日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2013/11/9
「縁側で干し柿作り」
理想的な老後
縁側で干し柿作り
今日は 長年の夢であった 縁側での作業が撮影できた。
私も すでに66歳である
もう 翁の気持ちに成っても良いだろう。
投稿者: 礒邉自適
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2011/10/7
「鶴見夫妻の存在」
好い夫婦
鶴見夫妻の存在
23・10・7
今日は、「えひめ千年の森」の事務所に電話を掛けてみたら、電話に奥さんの「恵子さん」が出られ、訪問しても良いとの事なので、五人で向かう事にした。
そして、カーナビに住所を入力すると、1時間内で到着する事が判った。
其れは、伊予インターから高速に乗って川内インターで下りると、鶴見武道先生宅は10分の所に位置するからである。
鶴見先生宅に向かい4時30分に到着した。
私も、他の三人も、鶴見先生の自宅を訪問するのは初めてなので、出迎えてくださった恵子さんは、先ず、棚田と水源地を案内して下さった。
鶴見先生の土地の広さは、80アールで、村の一番上の高台に在り、標高500mの棚田からは、素晴らしい景色が展望出来た。
其れから、鶴見武道先生が、書斎に改造している茅葺の建物を見学してから、応接間が有る建物の方に移動して、薔薇のお茶を飲みながら、手作りのオートミールクッキーを食べて、5時45分まで色々話した。
其れに、土産に頂いた、三枚の活動記録のDVD制作の日付が、「2010年6月4日」に成っているのに驚いた。
其の「6月4日」の日付は、私が1984年6月4日、母親の64歳の誕生日に、神の世界に入った日であるからである。
其の日付で、「鶴見武道先生 夫婦」の存在が、神の計画の最前線に在るのだと想った。
平成23年10月7日
礒邉自適
鶴見武道先生の自宅
恵子さんの味噌作り講習会
杉林の手入れ講習日に撮影
投稿者: 礒邉自適
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2008/1/30
「プロジェクト B」
翁
プロジェクト B
20・1・30
今日から、礒邉自適と名付けられた者の、61歳の人生が始まる事になる。
其れは、屋久島の小杉が1000年を過ぎて、一人前の屋久杉と成ったら、梢を伸ばすのを止め、枝の方にエネルギーを回し、胴体を大きくして行く事に、似ているとも謂える。
屋久杉は、老木に成ると、頂きの生長を止め、其のエネルギーを枝の方に回し、胴体を横に広げて行くのである。
其の為に、中心の管理が止まるので、内部は空洞に成って行くのである。
其れを、人生に例えれば、伸びる所まで伸び上がったら、自分自身が伸び上がるのを止めて、自分の心を空白にし、周囲の人材の成長を、支える事である。
其れは、大日如来を中心とする、菩薩の「曼荼羅図」に似ているとも、言えるものである。
其れは、昨日の亀の数字の「5・頭」を休ませ、両脇の「6・手足」を大きく成長させて行くと言う事でもある。
其れを、別な言い方で云えば、還暦を過ぎた人間が、赤い色の服を着て、赤色を視て自分の色気を再燃するのではなく、私心を捨てて「公人」と成り、周囲の人間に日が当る様に、努力を始めると言う事でもある。
其の理に、関係が有るのかどうかは分らないが、今朝は、風変わりな映像が送られて来た。
其の映像は、「ピカソ」と「クレード・モネ」が、共同作業をすれば、直ぐに絵画として、明らかに出来る画像であるが、私には、其の技術が無いので、絵画として現す事が出来ない。
非常に残念な事であるが、若し私に絵画の技術があれば、一朝の映像を絵画にするのに、数日を要する事に成るだろうから、メッセージの受け取り方が、何分の一かに減るので、森羅万象の流転に遅滞する事になる。
だから、私が絵画を描けないからこそ、上手く事が進んでいる事にも成る。
今朝の映像は、先ず、緑色の森の木々の葉の中に、彼方此方、赤い色の葉が混ざっている景色が、ピント外れのボカシ画像で、背景として現れた。
そして、其の画像の中心に、大きな文字が、白縁取りで “ プロジェクト B ”と現れ、更に、其の文字の下に副題として、「リセットが完了した」との意味が書かれており、是から、其の下の画面に、新しい出来事が、入力され始める事が理解された。
其の画像は、日本風ではあるが、西洋の目の意識感覚が、感じられる物であった。
次の場面は、白い無地のバックに「青」と「深緑」の色が現れ、それが無理なく、丸い形の一部分が重なり合っていて、其の手前に、赤い色が丸く、右に飛び出していた。
そして、其の青緑の色と、赤い色の間に、挟まれているかの様に、光輝く女性の顔が、左向きの横顔で現れた。
其の女性の顔こそ、自然の中で発生して来た、動物全体の原質を表現しているもので、雌の霊魂を意味しているのではないだろうか。
其れは、万物の王としての霊魂の現れであり、其の最先端に、人間の女性が存在するとの事であろう。
其れが、何故、青緑が顔の後ろに在って、赤色が手前に在るのか、其の意味は今朝の処は、未だ解からない。
私に理解出来る事は、私個人の第三ステージが、今日から始まるとの事と、宇宙的には、是から「宇宙意識・神・大自然の働き」と、人類の意識が上手く調和し、次元変化が起きるとの、意味ではないだろうか。
今朝は、其の事が理解されたら、「残り五年で、其の調整が上手く行かなかったら、私も失脚する。」との意味が、伝えられて来た。
其れは、半分は脅しの様だが、其の意味には、強い圧迫感は含まれてはいなかった。
私は、少し「天邪鬼・あまのじゃく」的な所が有るので、圧力の掛かる命令的云い方があれば、直ぐに「じゃー 勝手にしたら。」と云って、投げ出す癖が有るから、やんわりと期限を切って来たのであろう。
私は、正直な事を述べれば、自分が好んで、此の道に踏み込んだのではなく、4311人もの霊魂に「神霊の思頼・みたまのふゆ」されて、否応無く24年間従って来ているのである。
今年に入って、自分の写真の顔を、能く視て見たら、昔と違い、老人の顔に成っているのに気付いた。
其れで、遺伝子の機能とは、凄い物であると、改めて驚いている。
しかし、間違いなく、順調に老いて行っている事が自覚出来て、安心感もある。其れは、私には、こんな人生が長く続いては、堪らないとの感情も有るからである。
だから、死にたくないとの気持ちの人には、理解出来ないかも知れないが、好い加減で此の役割を終え、今回の人生を、早くリセットしたいとの意いも有る。
しかし、今朝現れた、女神の様な女性が、此の三次元世界に実在するのであれば、会って見たいとの意欲はまだ有る。
其の感情の発生には、今朝の映像に、両方とも現れた赤色が、効果を上げているのだろうか。
そうであれば、一昨年の夏に、中学の同級生で行なわれた、屋久島での還暦の祝いに、赤い服を着なかった替りに、今朝、赤色の波動が送られて来たのではなかろうか。
今朝のメッセージの意味を考えれば、人類は、まだまだ、生命の神秘を全て明らかにしているとは、云えないと想われて来る。
其れを考えると、神は当分、人間の存在を必要とするし、更なる遺伝子の進化と、大脳の働きを希求しているのではないだろうか。
其の意味でも、私の此の24年間の歳月は、神側にとっても、甚大な意味があったのであろう。
そう想わなければ、此の歳に成ってからの、五年間の集中力は、保たれないであろう。
しかし、私の思考は、屋久島の森の中で育ったものである。
私は、屋久杉が何故、長く生きられるかの秘訣は、縄文杉から学び採っている。
要は、自分の心を空白にして行けば良いのである。
そして、周りに存在する菩薩に、光が当る様にして、其の枝が大きく成れば、其の姿を観る事で、自分の「魂・球しい」は大きく成って行くのであろう。
其れが、十一面観音菩薩の姿の意味であろう。
私に、仏像を制作する力があれば、是から、無言で、今朝の女神の顔を制作する作業に入れるのだが、其れが出来ないので、こうしてパソコンに向かって文字を綴る事しか能がない。
しかし、此の作業も、多くの読者が存在すればこそ、エネルギーを頂いて続けられるのである。
少し、感情的に成ってしまって来ているが、今朝は61歳の初日として、読者の皆様に、感謝の念を表明して措きたいと意う。 感謝合掌
何か、挨拶文みたいに成ってしまったなぁ・・・。
まあ稀には、是も良いでしょう。
今朝は、朝から電話が有り、現実的な動きも、着実に進み出した事を、お伝えして措こう。
平成20年1月30日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2007/11/27
「お手本」
美しい老い方
お手本
19・11・27
今朝のメッセージは、未来社会の様子を、神が、少しだけ示して来たように思える映像であった。
其の映像には、私の中学校時代の同級生が三名現れた。
其の場所は、其の内の一人である「白浜繁君」の自宅事務所であった。
白浜君は、現在、屋久島の安房で自動車整備工場の社長をしている。
其の、白浜君の事務所の机に四名が集まり、次の同窓会の準備の打ち合わせを始めた。其れに「白浜」とは、白い砂浜の事なので、「清い場」との意味が有るのかもしれない。
其の場面の様子は、厚紙ぐらいの薄さのパソコンを、机の上に置いて作業をする処である。
其れは、パソコンの性能が格段に上がり、携帯電話をB4紙程の薄さに広げて、全ての情報通信が可能に成る物の様であった。
そして、其のパソコンは、使用した後、机の前方上に張った紐に、ぶら下げて吊るして置けば、テレビ電話の役を果たすらしいのである。
そして、其の紙の様なパソコンは、紐に二枚吊るされていた。
右側の方は、此の三次元世界の人間相手に、様々な情報の遣り取りをするもので、左側の方は「精神的・宗教的」な情報基地一箇所だけと、繋がっている物である。
其の、二つに別けられているパソコンの機能は、四次元世界の情報と、三次元世界の情報を、ハッキリと別けて、宗教の世界と、経済活動をハッキリ分離する事が、大事である理を示しているのだろう。
其れは、私が23年前に、神のメッセージで「四次元」と「三次元」の働きは分離して行なえと、最初に指示された事が、現実世界に物の形で、再び示されて来た事になる。
其の分離は、「経済活動」と「宗教活動」の分離だけではなく、「政治」と「宗教」も完全に分離して、精神的な活動組織には、如何なる宗教の概念も、持ち込んでは成らないと言う事である。
其の宗教的世界は、現在、存在する宗教の事ではなく、正しい教育機関の事である。
本来の教育とは、人間が、如何に正しく生きて行くかに付いて、子供の時から、学習の場を提供する事である。
其れは、正しい言葉の使い方や、社会行動の在り方、其れに、人間として美しい立ち振る舞い・仕種を、身に付ける事である。
そして一番大事なことは、宇宙の真理と、自分の存在意義を確かめて、自分の人生の確立を図る事である。
其の事が、身に付いた者が、社会の指導者と成って、行かなければならないのだ。
其の事は、私が此の世界に入って、一番先に示された事なので、其れに付いては23年前から人々に伝えてあるし、其の準備として、叩き台に成るHPは既に創ってある。
其れは、精神的な世界は「四次元プログラム」で、三次元的な世界は「水素原子管理」である。
其の言葉・単語は、23年前に、私が此の世界に入った瞬間に、其の侭、私の口が無庵師匠に向かって、無意識で発した言葉である。
だから、神が人間に対して、一番認識して欲しい事なのであろう。
「四次元プログラム」
http://www9.ocn.ne.jp/~morinoki/
「水素原子管理」
http://www9.ocn.ne.jp/~morinoki/
今朝のメッセージの映像の場面には、未だ、他にも意味が有った。
其れは、白浜君が、今は自動車整備工場の社長をしているのに、出かける時の乗り物は自転車なのである。
其の意味は、自動車の整備工場が必要無く成るか、皆が出来るだけ、自転車を使用する様に成るとかを、意味しているのだろう。
其れに、情報流通が格段に安く行なわれる様に成るので、人間の行動範囲や社会活動が、少なく成るとの理・ことなのかも知れない。
其れは、省エネ社会が実現すると言う事である。
其れに、故郷の暮らしが、一番大事にされる社会が、再来するとの意味も含まれているのであろう。
そして、今朝は、最後に「お手本」との言葉が伝えられて来た。
其れは、昨日の観音菩薩の右手に関係しているのであろう。
其の意味は、私の生き様が、其のまま観音菩薩の右手の働きをしており、私の生き方其のモノが、新しい人間社会の、手本と成るとの事であろう。
其れは、近代社会において、釈迦牟尼佛や老子の様に、生きる事である。
「釈迦牟尼佛」は、教団を創ったり、宗教的な儀式を行なったりする事を厳禁しているし、「老子」は、惟一自分の考えを、僅か5000字に纏めて残しただけで、弟子の一人も採ってはいない。
其れは、自分自身が、唯 正しく生きただけである。
幸いにして、私は、宗教を起してはいないし、弟子の一人も持ってはいない。其れは、釈迦牟尼佛や、老子の生き方を、お手本にしている事にもなる。
此の23年間は、イエスキリストが弟子に向かって云った様に、説法の旅らしきものもして来たが、是からは、其れさえ必要ないのだろう。
私は、こうして毎日パソコンに向かい、十一面観音菩薩の一面か、千手菩薩の一手を担って行けば良いのである。
其れが、私成りの、手本としての在り方に、成るのではないだろうか。
其れが、24年前に、無庵師匠が私に書いてくれた、メモ書きの意味なのであろう。
ナニモナサザルナ ソノママデヨイ
自 然 無 為
達人が平凡に生くること
こそ本科なり
カンヨウ
必要
こそ道 無庵記
ようやく、孫悟空物語の三蔵法師を超える処まで来たのだ。
もう観音菩薩の掌の中で、のた打ち回る次元を過ぎたのだ。
平成19年11月27日
礒邉自適
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2007/8/8
「魂しいの三段階」
老いる為に
魂しいの三段階
19・8・8
今朝は、28日振りに、自宅で朝を向かえた。
私は、旅の生活が長かったし、現在・いまの自宅も、自分の物ではないので、家屋敷の管理や維持に、気を使う事も無いから、やはり意識状態は、旅の延長の様なものである。
旅と、違う事と言えば、移動を考えないで良い事と、朝起きて見える景色が、固定している屋久島の風景だと言う事である。
其の自宅に、帰って来て第一日目の、今朝のメッセージの映像は、人間の精神世界を、大きく三段階に別けて、考える必要が有ると言う理・ことである。
其れは、下から上へ、数字的には「1・10・100」で、1は、幼児期から子供時代の事で、人間が、他の動物とは違う事を学んで、人間らしく成長する段階である。
10は、人間の大人として成長した段階で、一人前の「大人・成人」として、其々が、自分の役割を果たして行く世界である。
そして100は、此の三次元の「事柄・業・カルマ」から卒業し、神霊の世界と協力しながら、宇宙意識を進化させる段階である。
此の様な、段階・ステップ・プロセスの区分は、教育の世界でも、宗教の世界でも、あまり具体的には、説明が成されていない様に想われる。
人間の意識は、誰かが、言葉として表現して広めなければ、社会全体の常識・通念として、認識する事は出来ない。
今朝のメッセージは、私に、其の役割を、果たせとの事ではないだろうか。
昨日は、奥宮である社・やしろが三社、90度の角度を持ちながら、四角の一辺だけが、接触している映像が映されて来た。
其れが、何を意味するのか解らなかったが、今朝のメッセージに絡めて推測すると、どうやら、人間の意識の成長と、神霊の関係を示して来ている様である。
人間は、他の動物とは違い、肉体をただ遺伝子的に、継続すれば良いとの事ではないようである。
一昨日は、頭裏にフッと「蛋白質の合成期間」との言葉が横切り、昨日、朝出発の際に、仏壇の前に座ると、「いのちのかぎり」と言葉が一言有った。
「いのちのかぎり」とは、其の言葉が示す様に、私に生命ある限り、此の大役を果たせとの事であろう。
しかし「蛋白質の合成期間」とは、意味が良く解らない。
私の理解範囲で言えば、「遺伝子・DNA」は蛋白質合成の基に絡んでいる様だから、蛋白質の合成期間と云えば、「遺伝子の情報が 新しく組みなおされ 進化を即す期間・時間・トキ」と、考えられない事でもない。
其れは、人間の意識が、釈迦や、イエスや、老子だけではなく、全ての人類が、其の段階の認識が出来る様に、遺伝子の持つ情報が「進化・目覚め」を、現在・いま起こしているとの意味ではないだろうか。
現在では、「シンクロニシテイ」と言う言葉が一般化しつつある。
其れは、生物には、時間空間を越えて、意いが通じるチャンネルが在って、潜在意識で繋がっており、意識の共有が成されているので、其の度毎に共鳴現象が起きるとの事である。
其れは、野鼠が、餌が豊作に成ると大繁殖し、其の数が維持出来なく成ると、一部の数だけ残して、後は集団自殺をし、種の存続を図ると言う現象でも、明らかにされている。
又、海の小魚は、凄い数の大群だが、先頭の一匹が方向を決めるのではなく、群れ全体が瞬時に一匹の乱れも無く、方向転換する事からも、其の集合意識は確認されている。
他にも、海中の珊瑚が、ある夜、時を図って一斉に産卵する事や、山中の赤蟹が、無線機で連絡しているかの様に、一斉に集団行動を起こし、海岸に下りて来て産卵する事など、沢山の実例が有るのである。
其れが、人間だけに、備わっていないとは言えないだろう。
其の能力が、人類にも備わっているとすれば、是だけ数が増えて、全体の存続が危ぶまれているのだから、何等かの動きが現れても、不思議な事ではない。
其れに、神霊が絡んでいるのであれば、尚更である。
其の一環として、私も動かされているのかも知れない。
其の様な事柄を考えれば、事は、最終段階を向かえているのではないかと想われて来る。
私に起きた現象も、並みの現象ではないし、人間の増え方も、尋常なものではないのである。
鼠の、集団自殺の様な現象でも起きない限り、人類は、地球の資源を食い潰し、環境を破壊してしまい、人類どころか、他の地球生命全体まで、道ずれにして、全滅してしまいかねないのである。
だから天・神は、地球のバランスを図り、神の意志の現れとしての人類を、残したいのである。
其の為には、未来型の人間を、育てる必要が有るのだ。だから私に、色々な体験を積ませて、認識を深めさせているのだ。
其の最終段階と言うか、物事の始まりと言うか、其の区切りとして、私に、色々な事を始めさせようと、しているのではないだろうか。
其の始まりの段階として、今朝は、人間の成長プロセスを、イメージ化しろと示唆して来たのであろう。
しかし、其の様に示唆して来ても、私は、何一つ専門的な分野の、資格を持っている分けでもないので、具体的な何かに、直ぐに取り組む事は出来ない。
私の実力と云えば、様々な現場を見て来ているだけである。
其れを、生かせる事と言えば、人材を繋ぎ、全体の流れを、或る方向に導く事である。今朝の処は、其のぐらいの事しか、頭には浮かばない。
とにかく神は、当たり前の人間(霊留・ひと)を残して、自分の意識の糧を得たいのであろう。
平成19年8月8日
礒邉自適
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2007/7/7
「ふるとりを殺す」
美しい老い方
ふるとりを殺す
19・7・7
本日2007年7月7日は、「七夕」の日だが、今朝のメッセージの映像には、天の川に羽根を拡げて、橋を掛ける「鵲・かささぎ」ではなく、尾の短く飛べない「隹・ふるとり」の姿が出て来た。
隹・ふるとりは、「鶉・ウズラ」や「ヤンバル・クイナ」の様に、尾が短くて空を飛べない鳥の事である。
今朝は、其の隹が野山に沢山居るので、其れを長い棒で叩いて殺し、其の隹の毛を毟って、脳と臓器をミンチにし、フロッピーの形の枠に詰め込んで、冷凍庫で凍らせる映像が現われた。
其の行動は、私自身の意識であり、殺した隹の数は20〜30羽も居ただろうか。
其の作業が済んだ後、空白な画面が現れて、其処に、新しい情報を入力しなければ成らない事が、示されて来た。
そして、其の情報は、格コナーが必要な様で、横型の黄金比の四角な画面の中が、「4・6・8・16・32・」と数を増やしながら、区切られて行くのが示されて来た。
其れは、人間の意識を、新しく枠(コーナー)決めして行く、作業の様である。
今朝の映像の、最終的な場面では、沢山増えた其の枠組みの中の、一番左の上に「翡翠・かわせみ」の様な服を着た男性が、一人座って居るのが、カメラ屋で現像を頼んだ時に付いて来る、インデックスの様にプリントされていた。
其れ以外の、枠の中は未だ空白で、何のプリントもされていないのである。
其れは、左上の始まりである一番目の席に、翡翠・ひすい色の服を纏った「翁(鳥の形に見える老人・長老)」が、座っている事を意味している。
是まで、世界中に伝えられている伝説で、人間を救いに現れる神は、白い服を着て、白くて長い髭を生やし、頭髪も白くて長く、仙人みたいな姿で、現れる事になっている。
其れは、妙見神社の祭神「御祖神・みおやかみ」の姿であり、「白髭神社」の祭神でもある。
南米の、アステカの文明が、遣って来たスペインの兵隊を、無抵抗で受け入れて滅んだのも、其の伝説の為である。
処が、今朝の翁は、白い服ではなく、翡翠・かわせみの様な風情であり、光輝く美しい色をしていたのである。
其れは、人類は是から、翡翠・ひすいの様に、美しい御霊に成れる理・ことを、示唆しているのではないだろうか。
人間は是まで、白くて純粋な物に憧れを持って来た。
其れは、西洋の純白の「ウエデングドレス」や、日本の花嫁衣裳の「白無垢・角隠し」の風習にも現れている。
他にも、神社の「神主」の姿や、侍の切腹時の「死に装束」もそうである。
其れは、人間の魂しいが汚れ易いので、絶えず、心身を清めて措こうとの考えから、生まれたものであろう。
しかし、冬山の「雷鳥」や「雪ウサギ」と、北極の「白熊」や「白狐」の様に、真っ白い銀世界の中で、身を護る為に、白い姿を採っている動物と違って、温暖で自然豊かな土地に住む鳥は、競って美しい色彩をしている。
其れは、自分自身が生を楽しむものである。
其の鳥の様に、生き様としているのが、羽根飾りを身に着けて、踊りの儀式をするネイティブ・アメリカンや、アフリカ大陸の、身体に化粧をする原住民達であろう。
しかし、今朝のメッセージの意味は、昔の人達の風習に、還れと言うものではなく、是までには無い、高い魂しいのレベルに、達せよとの事のようである。
其の為には、古い鳥は皆殺しにして、新しく生まれ変われとの理・ことの様である。
漢字の「進化」の「進・シン」は、日本語の「すすむ」に当てられているが、進は「行+隹」の組み合わせで、隹が前に進む事を意味している。
だから、今朝の映像に「隹・ふるとり」が出て来た意味は、私に、過去の世界を捨て去り、未来に向かって進めとの意味もあるのだろう。
隹部 部首解説 ふるとり。舊・キュウ(新字体、旧。ふるいの意味)の字に用いられている隹・とりである事から、「ふるとり」といい、鳥と区別する。隹を意符として、鳥に関する文字ができている。
「隹・スイ・サイ」【解字】象形。甲骨文でよくわかるように、尾の短いずんぐりした小鳥の象形で、小鳥の意味を表す。
【字義】(一)@とり。尾の短い鳥の総称。Aふふどり。きじばと。(二)山の高大なさま。=崔。 漢語林より
(鳥は、嶋・島と同じで、無人島に群れで生息する、空を飛ぶ鳥の象形文字)
しかし、古い鳥の記憶は、全部切り刻んで冷凍庫にしまい、使用するなとの事である。
其れこそが、神社のお祓いの意味や、花嫁の「白無垢・角隠し」の姿が意味する処ではないだろうか。
しかし、そうするには、花嫁を向かえ入れる為の、新しい家が必要である。
其の家には、全てを捨てて、自分の所に嫁いで来た花嫁を、幸福にする為の、準備が整っていなければ成らないのだ。
其の条件を整える為に、新時代の構想が必要との事であろう。
其の条件とは、子供を産み育てる為の環境と、衣食住の整備である。
環境には、身近な家庭環境から、地球全体の環境まである。
其れに、教育環境や社会環境まで、環境の概念は幅広いものがある。
其れ等の格環境を整える為に、新しき鳥(翁)の頭脳が、必要であるとの事だろう。
日本の御神輿の上には、鳥が止まっているし「天照大神」の使いも鶏とされ、エジプトの太陽の船の舳先に立つ水先案内の神も、トキの頭を持つ「イビス・Ebisu・恵比寿」神であるし、マヤ文化の、時間の操縦士の臍から生える、生命の木の梢に止まっている神も、鳥である。
世界中で、鳥・隹は、神の使いとして考えられて来ているのだ。
今朝は、其の神の使いである隹・ふるとりを、皆殺にして、新しき鳥を生み出さなければ成らないのでる。
其の為には、鳥の様な頭を持つ、翁を捜し出さなければ成らないのである。
其れが、「猿田彦命」の御霊を持つ御仁なのか、「少彦名命」の御霊を持つ御仁なのかは分からないが、一昨日歩き始めた彼と、関係があるのだろう。
是まで、天使は、子供か女性の姿(天女)が一般的で、悪魔は男性として考えられて来た。
しかし、人類の進化を齎して来たのは、羽根を持つ男性の年寄りで、悪魔とされている姿である。
だから、本当に実力の有る大天使は、男性神なのである。
若し、母親がそんな怖い存在で、幼い子供の前に立てば、子供がショック死するかも知れない。だから、子育てをする女性は、こころ優しくて、身体も柔らかくなければ成らないのである。
映画の世界でも、悪魔の様な悪者が出て来なければ、面白くないし、ヒットする事も無い。
どんなに、格好良い主人公が現れても、極悪人が登場しなければ、主人公は「スター・輝く」者には成れないのである。
だから、母親を主演女優賞に輝かす為には、助演男優賞を授与される様な、骨太の悪魔が登場する必要が有るのだ。
(ツルリとした 白い肌の背中の男性では 駄目なのである。)
しかし、今朝のメッセージは、昔の事は、みな殺して、情報を冷凍しろとの事なので、其の様な悪魔の登場する物語は、必要無いとの事だろうか。
確かに、日本には、西洋の悪魔の概念が導入されるまでは、悪魔は存在しなかったし、仏教で「不動妙王」や「鬼」が導入されるまでは、鬼も存在しなかったのである。
日本の伝統である「神惟・かんながら」の訓えは、唯、自分の罪汚れを祓えば、神の分霊として、自分の命・みこともちが、表に現われるとの教えである。
其処には、悪魔も、鬼も、地獄も無いのである。
悪魔とか、鬼とか、地獄の存在は、人々を正しい道に導く為の、方便にしか過ぎないのである。
今では、其の方便の方が、言葉や絵で、強く前に押し出され、本来の神の世界が、表舞台から幕裏に隠されてしまっているのである。
其れは、民衆が皆、明るくて幸せな世界に目覚めてしまえば、宗教家や、哲学者が、失業する事に成るので、世の中を暗いモノ・現場に、仕立て上げて来た為である。
其れは、私の様に目覚める者が沢山出て、イエスや釈迦の様に、働かず、税金も納めず、政治に無関心に成れば、政治も国の体制も、崩壊してしまうからである。
特に、民衆が全部目覚めてしまえば、全部の宗教が消滅するので、寺院や協会等の施設も必要なく成るし、宗教家が皆失業してしまうだろう。
だから、宗教家は、皆が真実に目覚めてしまえば、困る事に成るのだ。
(イエスや、釈迦は、宗教施設を造って成らないと訓えているので、本物なのである。)
しかし、何等かの「業・わざ・カルマ」がなければ、人間社会は機能しなく成る。だから、神は、IT社会を人間に与えたのであろう。
もう、環境の良い場所を破壊して、大きな宗教施設を建設する、必要は無いのである。
お寺は、お釈迦さんの教えである経典を、保管する為に建てられた物であり、お堂は、経典を勉強する為の学校の教室である。
其れは、最早、自宅のパソコンの部屋の中に、引っ越せる物である。
神社は、元々自然の中のパワースポットに「お籠り」する為の小屋であり、雨風を凌げれば、それで事足りる物であったのだ。
其れが、大きな施設を建設する為に、其の場が破壊される事に成れば、其の場の気がバランスを失い、元も子もない事に成るのである。
其の点、屋久島は未だ、大きな宗教施設も無く、大きな宗教教団も無い。
有るのは、各集落に在るお籠もりが出来る程度の、最小限度の建物だけである。
其れに、屋久島は丸い形の周囲130kmの島で、内側の80%は国有林で保護されており、民間人が手を出せない様に成っている。
だから、今後も、山の頂が破壊され、神社が建てられる事は無い。
本来の「山岳信仰」は、高い山の上に登る事で、気圧が低下し、自分の脳味噌が圧力が下がるので、脳が開放され、磁気の発信アンテナである「尖った岩」の珪素周波数と、自分の松果体(シリコンの純粋結晶)のチャンネルが、同調し、宇宙のバイブレーションと共鳴現象を興す事の為である。
だから、イエスも最後の夜は、岡の上に登り、山頂に有る岩の側で祈っていたのである。其れに、モーゼ、マホメット、役行者、空海、出口王仁三郎等、岩場に呼び出された者は、事欠かない。
其の点に於いても、屋久島は神の島であると言えるし、仏教の「閻浮堤・えんぶだい・須弥山」とも考えられるのである。
そうでなければ、此の様な私の行動も、生じないであろう。
屋久島の山岳には、鳳・おおとりが羽根を休めているのではないだろうか。
其れが、飛鳥・あすか・安宿(飛ぶ鳥が安らかに休む宿が有る良い地の意味)の、本来の意味である。
今朝のメッセージは、ルシフェルや、鳳凰や、鳳が長い旅を終え、暫くの休息を、屋久島の花崗岩の山頂でとっているとの事なのかも知れない。
其の、翼有る物が、再び飛び立つ事が、フェニックス・不死鳥の伝説の元なのかも知れないのである。
今日は、神の方から、私に、短冊に色々書き込めと、請求して来たのだろうか。
七夕の行事でさえ、パソコンの中に移転させられたのだろうか。
そうだとすれば、子供達が夢・ロマンを失いそうだから、其れだけは反対して措こう。其れに、宴会の口実が一つ減る事にも成るではないか。
今日は、此の文章を書き終わって、事務所に向う為に、自宅の鍵を掛けようとして居たら、愛媛県大洲市の「亀田氏」より、数ヶ月振りに電話が有り、数日前、伊予市大平曽根に大鷦鷯(おおささぎ)神社と言う変った名前の神社を見付けたと云って来た。
其れは、今朝のメッセージと、ピッタリ合っている。
亀田氏は、大洲市に在る「少彦名神社」の御陵の、門番的存在である。
やはり、少彦名神も、しっかりと働いている様である。
隹部 部首解説 ふるとり。舊・キュウ(新字体、旧。ふるいの意味)の字に用いられている隹・とりである事から、「ふるとり」といい、鳥と区別する。隹を意符として、鳥に関する文字ができている。
「隹・スイ・サイ」【解字】象形。甲骨文でよくわかるように、尾の短いずんぐりした小鳥の象形で、小鳥の意味を表す。
【字義】(一)@とり。尾の短い鳥の総称。Aふふどり。きじばと。(二)山の高大なさま。=崔。 漢語林より
七夕の日
平成19年7月7日
礒邉自適
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2007/6/18
「翁・おきな」
翁
翁・おきな
19・6・17
昨日は、「饗宴祭・みあえのまつり」のテーマに相応しく、昼過ぎに「阿蘇品喜文君」が飛び魚漁の帰りに、自宅に立ち寄り、飛び魚40匹と、ダツ3匹を置いて行ってくれた。
すると夕方、中島智子さんが、上光君の車で「どうしても 先生に会いたく成ったので来た。」と云って、自宅に遣って来た。
私は、丁度タイミングが良いので、朝のお告げの説明をして、お祝いの食事会をする事にした。
献立は、飛び魚の刺身と腹子の煮物、其れに、飛び魚とダツの塩焼きと、前日に作って居た、地鶏で人参やジャガイモを煮た煮物等を出して、島の神に喜びを示した。
たった三名での饗宴祭の直合いだったが、それでも一応の儀式には成ったのであろう。
其の効果が、現れたのかどうかは分からないが、今朝のメッセージの映像は、先ず、老人が座って居る姿が出て来て、其の姿が、鳥の首の形に変わった。
其れは、翁の漢字の意味を表して来たものであろう。
翁の漢字は、「羽+公」の組み合わせで、音符の公は、頂に通じ首の意味。鳥の首の羽の意味を表し、転じて、老人を尊んで言う、おきなの意味を表す。
【字義】@鳥のくびすじの羽 Aちち(父)Bおきな。男のとしより。また、老人の尊称。「老翁」「村翁」 と 載っている。 漢語林
正に、今朝のメッセージの映像は、翁の事を、示して来てものである事に間違い無い。
次の映像は、太陽の光を浴びている、植物の枝が映って来た。
其れは、小さな葉の広葉樹の枝か、其れらしく見える、海草の枝の様な物で、植物が、宇宙で一番大事な存在である理を伝えるものであった。
其れを、別な表現で言い表すと、宇宙生命には、太陽(水素ヘリウムの核反応)の光・エネルギーを、無機質から有機質に変える「みどり」の働きが、一番大事・重要である理・ことわりを、伝えて来ているものである。
此の地球の生物は、木の葉や苔や海草などが、太陽の光を利用して、有機質を生産する事から生じているものである。
だから、みどりが存在しなければ、生物の存在も無いし、動物が生きる為の酸素も、食料も無い事に成る。其れに、緑の森が無ければ、水の循環も、うまく行かなく成るだろう。
今朝のメッセージは、翁とは、人間だけの都合で、物事を考えるのではなく、宇宙全体の事柄を踏まえて、思考を進める者である事を示して来ている。
そして、翁の考えの基本には、地球生命の存在の理・ことわりが、在る事を示して来ているのだろう。
其れは、人間が思考のターゲットに、何を選べば良いのかをも、指示して来ているのだ。
現在社会に身を置く、人々の多くは、人間が創り出した金銭感覚の中にドップリ浸かって居て、生命の存在意味や、成り立ちなどを、気にしている人は、格段に少ない。
其れは、翁の価値観からは、大きく外れている世界で、暮らして居る事に成るのだ。
今朝のメッセージの意味は、「本来の 人間の立場に回帰せよ。」との、神の指示ではないだろうか。
翁の姿が、鳥の首の形に成ったのは、単に、髭や髪が伸びて、鳥の様に見える姿の意味だけではなく、宇宙の意思の現れである「鳳凰」の思念をも、意味しているのではないだろうか。
人間とは、此の宇宙で、今の時間帯を生きる、最先端の姿をしているのであれば、宇宙の意思を、絶えず、自分の意識の内に置いて於かなければ成らないのである。
そうする者が、此の地球に一人も居なく成れば、宇宙は存在意味を失うのである。
人間の体は、人間の存在だけで組み上がって来たものではない。
此処まで、体が出来上がる為に、36億年もの年月が掛かっているのである。
物が見える目も、音が聞こえる耳も、匂いを嗅ぎ分ける鼻も、食べ物の味を感じる舌も、人間自身が考えて創り出して来たものではないのである。
其れ等の理・ことわりを、突き詰めて行けば、人間にとって、何が一番大事な理であるかが、自から見えて来るのである。
其の、人間にとって一番大事な理が見えれば、我々は、どの様な暮らしをすれば良いかは、明瞭・はっきりとして来るのである。
そして、其の第一義には、生命の尊さが自覚されて来る筈である。
人間の生命は、36億年の時間と、DNAの記憶を抱え込んでいるのである。36億年前に、岩のミネラルを溶かして利用し、細胞を造り始め、やがて太陽の光を利用し形を変え、様々な姿に変化しながら、動物へと形を変え、情報管理の為に脳を発達させ、声や言葉を生み出し、現在の人類の姿と、成って来たのである。
現在・いまの地球生命は、地球の46億年の年月だけに因って、生まれた物ではない。其れは、太陽系の50億年より更に遡って、137億年の宇宙の誕生まで、起源を遡るのである。
其の、生命の成り立ちを考えれば、自分の存在が如何に尊く、大事な物であるかが見えて来るのである。
其の理に気付けば、価値観が大きく変わり、小さな物事への拘りなどが消えて、意識は自由に成り、調和の大事さに気が付き、周りの環境にも、敏感に成って来るのである。
其の調和に気付いた者こそ、翁と成り、人々に真理を説き、此の世を去っても、彼の世で聖霊として、永遠の世界を生きられるのである。
其れが、釈迦や、老子や、イエスの訓えの真髄なのである。
そう成る過程として、男性には、旅の行程が必要なのである。
翁とは、行く者・行者の行程を経て、ウォーキング-ディクショナリーを体得した者の呼び名であろう。
日本には「可愛い子には 旅をさせろ」との諺・ことわざが有る。其れは、正に「行く者」の基礎訓練と成るものである。
昔から、人類は、男性にとって旅が大事である理・ことを、自覚して居たのである。
其の対象として、女性が無意識に、白馬に乗った王子様が、自分の所に訪れるのを夢見るのであろう。
其れは、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」に見初められた「「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。別名神阿多都比売・かむあたつひめ」や、「須佐之男尊・すさのおのみこと」に助けられた「櫛稲田姫」の伝説に、色濃く反映されている。
其れこそが「タオ・道」の真髄なのである。
今朝のメッセージは、「タオ・道」や「ダルマ・法」を悟った者は、既に、人間の意識を超越して、鳳凰と意識が合体している事を、知らせて来たのではないだろうか。
其の翁とは、此の世に身を置いて生きながら、既に意識は、御嶽の「まつばんだ」に参加して「ミタケ-オアシンス」の世界に居るのである。
イエスや、空海の旅は、中断したままで、現在・いまも続いているのであろうか・・・。
平成19年6月17日
礒邉自適
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2007/5/5
「ようこそ「お爺ちゃんパブ」へ」
翁
ようこそ「お爺ちゃんパブ」へ
19・5・5
本日は、新暦の5月5日の節句で子供の日である。
其の日に因んでか、今日は「お爺さん」が課題に成って来た。
私は、未だ、一度も会ってはいないが、次女に二人目の子供が誕生したと聞いているので、二人の孫の祖父である事に成る。
しかし、今朝のメッセージは、自分の孫に対する「爺・ジー」の事ではなく、世界人類の「お爺ちゃん」に成れとの命令の様である。
始めに、何処かの大学のキャンバスの様な所に車で着き、研修が出来る建物の中に入って行った。
其処は広い教室で、既に2〜3百人程の人々が集まって居た。
私は、右側の一番後部の席に着いて、男性教授の話を聞いて居たが、大して感銘を受ける話の内容ではなかった。
帰る時間に成って、私は女性教授に、何かの機器が入った箱を貰った。
其の機器は、通信に使う物か、観測機器の様な物である事を感じた。
そして、其の女性教授は、私の事が気に入ったらしく、私の居る所に、色々な話を聞きに来ると云って、去って行った。
私は、教室から外に出て、建物の敷地を後にし、木々が植えられているキャンバスの中を、駐車場の方に向かって、歩いて行ったのだが、敷地が広過ぎて、自分の車が何処に止めてあったか、判からなく成った処で、其の場面は終わった。
そして、次の場面は、私の車が、新しい白いワンボックスカーに成っていて、私はその車を運転して、是から、旅に出発するところだった。
其の車は、改造されており、左ハンドルの車で、右側の助手席には、椅子は無く、生活に必要な「鍬・クワ」や「鎌・カマ」らしき道具の、木で出来た柄が何本も、箱の中に立てられていた。
そして、最後に、私がカフェテラスの様な店に座って居るのが映り、頭の上の壁には「ようこそ お爺ちゃんのパブへ」と、看板に書かれているのが見えた。
今朝のメッセージは、私が、もう大学で勉強したり、研修に出掛けて学んだりする事が終わり、逆に、大学の教授が、話しを聞きに訪ねて来る次元に、達したとの事ではないだろうか。
其れも、男性教授ではなく、女性教授なので、生活・くらしに関する内容に付いてと言う事かも知れない。
そして、是からは、大きな建物に多くの人が集まって学ぶのではなく、通信機器が在り、地球環境の観測データー等の情報が集まれば、個々に学ぶ事が出来、未来に向かって進み出す事が、出来るとの事ではないだろうか。
其れと、私はこれから、自分の自宅に住むのではなく、改造車に必要な物を積み込んで、移動して廻るとの事かも知れない。
そして、私の行く先々が「ようこそ お爺ちゃんの パブへ」の店に、成るとの事ではないだろうか。
其れも、車のハンドルが、左ハンドルであったのは、日本だけではなく、外国にも出かける事に成るとの、意味を含んでいるのかも知れない。
何故、私が居る所が、学校や道場の様な所ではなく、カフェテラスかパブの様な所なのだろうか。
其れは、イエスキリストが謂った様に、一緒に食事をする事を、意味しているのではないだろうか。
其れも、「最後の晩餐」ではなく、是からの新しき未来社会を、創造する為のものである。
日本には、「同じ釜の飯を食った仲」とか「分かった 俺の息の掛かった者を遣る」とかの言葉が有る。
其れは、同じ場で、一緒に食事を摂った人間は、仲間意識が強まる理・ことを意味している。
人間は、同じ空間に居て、同じ物を食べ、互いが吐いた息を吸い合えば、波動がダビングされ、共通意識が生まれるのである。
其れは、イエスや釈迦が、仲間と一緒に旅をした事に、繋がるものでもある。
ただ、今回の動きが、イエスや釈迦のときと違うのは、男性が弟子と言うのではなく、女性が中心に成ると言う事である。
其れは、是からの社会が、男性の競争原理社会から、女性の生活中心主義の「生活安定・平和・環境保全」のライフスタイルへと、価値観が変化して行く事を意味している。
其れが、「アクエリアス時代・水瓶座」のムーブメントなのである。
私の役割は、其の女性達の活動を、支える事なのである。
今日は、5月5日だが、私が神の世界に突入したのは、23年前の1984年6月4日である。
其の日は、母親の64歳の誕生日でもあったが、旧暦では5月5日であった。
今朝のメッセージは、私の学びの旅が終わり、是からは、他人の学びの対象に成らなければならない事を、伝えて来ている。
何故、旧暦の5月5日に始まった事が、新暦の5月5日で決着を見て、新たな展開に向かう事に成るのか。
其れは、矢張り、神が暦を使って、此の三次元を動かし、スケジュールを組んでいるからであろう。
だからこそ、マヤ文明や、アステカ文明の人達は、暦を一番社会の中心に考えていたのだ。
日本には、神社に「鏡」が神具として供えられているが、其れは、エジプト文明の女神「イシス」が、頭に着けている鏡と同じ物である。
其の鏡は、「鳥居」や「高麗獅子」とセットで、エジプトから日本に伝えられた物である。
エジプトの「太陽の船」は、太陽の「女神イシス」を乗せて、太陽と地球の間を往復する物である。
其の、船の舳先に立つ神は、朱鷺の頭をした「イビス・Ebisu・恵比寿」である。だから、朱鷺は「トキ・時」で、時間を司る「神・はたらき」なのである。
今朝、私が受け取った機器は、トキを記録する為の、天体観測機器だったのかも知れない。
其れは、私がトキを計る「神・はたらき」として、「ラー・太陽の神官」の印であるヘルメスの杖を、受け取った事を意味しているのではないだろうか。
しかし、昔は、地面に「杖・棒」を立てて、太陽の影が地面を移動するのを計る事から、「土計・トケイ・時計」の言葉が生まれ、「0時・正午」と「午前・午後」の言葉が出来ている。
其の事が、科学の発達で必要なく成り、今では夜中に、勝手に日付が変わってしまうので、人間の意識が、宇宙の運行や自然のシステムから、外れてしまったのである。
私は、昨日11時半から海に行き、三時間程「貝・蜷類」や「蟹」を探して、海を泳ぎ回って来た。
其の行動を決めているのは、私の自我意識ではなく、太陽と月の働きに因る、潮の干満の自然現象である。
其れは、人間の力ではどうしょうもない、自然の決まり事である。
古代の人達は、皆、私と同じ意識で暮らして居たのである。
其の、現代人が忘れ去ろうとしている、自然のリズムを取り戻し、新しき社会を組み立て、生命の保全を図るのが、私の役割なのではないだろうか。
私へのメッセージは、日々変化しているが、大筋の処では一貫しており、順調に、未来構築へと進んでいる様である。
今気付いた事だが、助手席のボックスに立てられていた、道具の木の柄は、古代の歴代の「ラーの神官」の、杖を意味しているのかも知れない。
そうであれば、木柄が右側に立てられていたのも、理解出来て来る。
私は、其の、古代社会で受け継がれていた杖の存在が、忘れられていたのを、取り戻す事に成功したのではないだろうか。
そうであれば、古代の神官達や、私の父親や、無庵師匠も、胸を撫で下ろして居る事だろう。
私は、自分に起きた出来事を、新しき伝説として語る「語り部」として、是から子供達に、伝えて行かなければ成らないのだろう。
其れが、本来の「お爺さん・翁」の役割であるのだ。
「ようこそ お爺ちゃんパブへ」とは、良い言葉の響きと、好きな言葉である。ようやく、私の想いと現実が、重なる時節が廻って来たのだろうか。
平成19年5月5日(旧暦3月19日)
礒邉自適
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2006/9/26
「魂しいの発露」
老いる為に
魂しいの発露
18・9・26
今朝の映像は、私自身にも、思い掛けないものであった。
と謂うのは、私の是までの価値観では、「縁」は、糸の様に繋がっているとのイメージで、「赤い糸で結ばれている」とか、「縁結び」と言って、見えない紐で結ばれていると考えて来た。
だから、日本国では「注連縄・しめなわ」が造られ、鳥居や神社の入り口に掛けられるし、人家でも正月には、玄関や車などに藁で編んだ「注連縄」が着けられて来た。
漢字の、「意識」の単語も「人間の意が 言葉に拠って 織られる。」との意味合いだから、やはり糸の感覚である。
処が、今朝は、其れが粒子の繋がりと成って、黄金比の放物線の様に、回転するのが見えて来た。
確かに、黄金比も図で書けば、其れは線である。
しかし、其の線を顕微鏡で視れば、墨の粉や色素の粒である事が判かる。
だから、此の世には線とは無く、全てが粒子の集まりなのである。
昨日のメッセージ映像に、「ナミオ氏・波男」が現れて「鍵を渡せ」と云ったのは、波である派動の感覚を、外せとの意味だったのではないだろうか。
そうであれば、親子の縁とか、仏教の結縁とかの概念を、排除しなければ成らない。
確かに、親子の関係は、遺伝子に拠る繋がりがあるが、親子は別の人格であるし、同じ両親から生まれても、一卵双生児の間は別にして、兄弟姉妹の性格や性質もバラバラである。
其れは、確かに、糸で繋がっているのではなく、情報に因る伝達の所為の結果である。
其の様に考えると、家系の系図も、線で繋いでいるのは正しいとは云えないし、釈迦から何代目の弟子だと云っても、何等かの確かな糸が、繋がっている分けでもないのである。
其れ等の事柄を、別な角度から見れば、此の世には「因縁」とかで繋がっている物は、何も無い事に成って来る。
何故、其れが、繋がっていると考え始めたのだろうか。
其れは、「縁で繋がっている」との言葉が存在し、其の言葉で、人間の思考に概念が生まれ、其の概念が伝え続けられているからではないだろうか。
其れ等の概念を忘れさせるのが、釈迦牟尼佛の説なのであろう。
釈迦牟尼佛とは、ブッダに成った「釈迦(姓)シッダッタ(名)」の事だが、彼は、池の水で禊ぎをしてから、菩提樹の枝の下で休んで、全ての言葉を頭から排除した時に、悟りを得ている。
其の釈迦牟尼佛の教えは、成仏・覚醒したければ「出家」をして、人間社会との「縁・えにし・ゆかり」を切りなさいとの理・ことである。
日本語の、「えにし」と「ゆかり」が、どう言う意味合いかは解らないが、日本の古神道では、神が降りるのは「ちぎ」であり、儀式は「ちはやふる」である。其の世界には、糸は無く、電気的な粒子を意味している様である。
振るは、「振り撒く」に発展するので、「たまふり」とは粒子的な振る舞いを起す事ではないだろうか。
其の意味から考えれば、巫女さんの舞いは「ちはやを 振り撒く」事であり、出雲の「お国さん」が踊りの始まりであるのも理解できて来るし、天の岩戸が「天のうずめ」の踊りで開かれたとの伝説の意味も、謎が解けてくる。
其れに、日本語の「ふるまい・振る舞い」や、「しぐさ・仕種」の言葉の持つ景色も見えて来る。
私には、昨日から、男の口調で言葉が聞こえ始めて来た。
今朝の、私へのメッセージの言葉も、訛りの有る男性の声だった。
今朝のメッセージの内容は、私の立場が、現場から下げられて、長老組の方に回される内容である。
其れは、野球の現役選手が、肉体の限界を感じて、グランドで活動する事から、身を引く様子と同じである。
現場から引退した後、能力の有る者はコーチか監督を務め、其のグランドに関わりを持って行くが、採り得の無い者は、其処から去るしかない。
其れ等の理を、知っている御仁のお出ましなのだろう。
どうやら、今朝のメッセージからすると、私の活動も終りを向え、何事からも現役を退かなければならないらしい。
其れは、ネィティブ・アメリカンの長老の様に、部族長の相談相手に成る様なものである。其れは、シャーマンとも違い、全ての業を終えた者の役目である。
私は、来年1月に満60歳を迎えるが、母親の体内に宿った時点から数えれば、丁度60歳で還暦と成る。
還暦とは、12支×10干の120年が大還暦であり、60歳は其の半分の「半還暦」だから、是からは、生命の消滅に向かって行く年代である。
だから、何時死んでも良い様に、段取りをして措かなければ成らないのである。其の為には、あらゆる事の第一線から、身を引いて措かなければ成らない。
其れは、後継者が育つ為に、場・グランドを空ける事を意味している。
是からの私の役割は、コーチか監督の様な立場なのであろう。
其れも、「欽ちゃん」の様に、自分で球団を造って監督を務めるのではなく、自由で気儘な「雇われ監督」である。
其して、ピッチャー型の「星野監督」式ではなく、キャッチャー形の遣り型で、相手の行動を受けながら、対応して行く立場である。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージの続きである様だ。
私は、是から全ての面に置いて、現役で在っては成らないようである。
現役とは、寝ても覚めても、其の事を考え続けていなければ成らない役割だから、其の活動の間は、他の世界の事には、眼が行き届かない。
其れを避ける為には、あらゆる世界から、足を洗って措かなければ成らないのだ。
何故、此処に来て、この様な事柄を示して来るのだろうか。
其れは、今月30日より、新しい体制が動き出す事に関係があるのだろう。
其の動きに、私自身が嵌ってしまえば、私の意識が、三次元に定着してしまうからである。
其れに、今朝告げられた事は、是まで、22年間取り組んで来た行動からも、足を洗えとの事のようだから、シャーマン的な行為からも、外れろとの事のようである。其れは、四次元世界からも脱しろとの意味らしい。
私は22年前、37歳の時に、三次元世界を捨て、四次元世界に触れながら生きて来た。其の世界からも、離れて生きろとの事である。
其れが、何次元の世界なのかは私には判らないが、今朝の黄金比の放物線の映像からすれば、拡大する宇宙の模様を、視る事が出来る立場である事は間違い無いようである。
私は22年前、水断食を続け、脈拍が止まり、魂しいが自由に成り、時空を越えて視て来た宇宙の始まりの世界を、今度は、違う角度から観られるのである。
其れは、22年前に観た「宇宙の始まりに 自分が在り、此の世の事象は 全て自分の分身である。」との感覚とは、違うものだろう。
おそらく、釈迦牟尼佛が説明しようとした世界は、其の世界であり「三千世界に我が在り 衆生一切我が子。」の言葉は、其の世界を言い表しているものと想われる。
しかし、今朝の雰囲気は、其れと違い、「此の世界が、粒子に拠り 黄金比の螺旋で 拡大して行く」映像である。
それは、自分がそうであると言うのではなく、新しく創造される世界を、見詰める目線である。
其れは、釈迦牟尼佛が体験した世界より、もう一段深い世界と言うか、見られなかった世界であろう。
此処から先の世界は、誰も体験した事が無く、其の為に、言葉も概念も無いのかも知れない。
しかし、そう思うのも私の身勝手で、言葉も概念も有るのに、私の見識が未だ浅いから、気付かないだけなのかも知れないのである。
ただ謂える事は、釈迦牟尼佛も、老子も、イエスキリストも、自分の想う様な国を造る立場には至っていない。
自己顕示欲からではなく、神の支持に因り国造りが行なわれ、其れが現在まで保たれているのは、此の日本国だけではないのだろうか。
だからこそ、世界中の神霊が此の時代に、日本に皆集まって来ているのではないだろうか。
日本の国造りは、何度も、外来の男性が渡って来て、原住民・地祇の娘と結婚して行われている。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」・「饒速日命・にぎはやひのみこと」・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」・「神武天皇」等、皆自分が生まれた国ではなく、妻の里での国造りである。
其れ等を見ると、新しい国造りとは、他民族の男性の登場が必要らしい。
其れは、何故かと言えば、現状維持の体制側の人間では、革新が行なえないからである。
今回の新しき国造りが、どの様な形で始まるのかは判らないが、今朝のメッセージでは、私に現役から引退して、何も、しては成らないとの事のようだから、其れを守って、私は、全体の流れを眺めて居るだけにしようと想う。
今日は、此の文章を書いていると、月山の巫女さんから電話が有り、話していると途中で、インターネットも電話も携帯も一切通じなく成った。
其れは、4時間程で復活したが、種子島・屋久島全域だったらしい。
若し何か有れば、この様に成り、一切の連絡も取れないし、情報の入手も困難に成る。
電話線が繋がっているので、情報が手に入ると考え、安心して居ても、突然にして其れが切れるのである。
何もかもが切れて、繋がりが無く成る状態をシュミレーションしていないと、イザと言う時にパニックを起し、社会全体が混乱してしまうだろう。
そう成らない為にも、其々が独立して生きて行けるシステムを、完成させなければ成らないだろう。
そして、自立心を育てる教育を、構築しなければ成らないのだ。
今日の題を「魂しいの発露」としたのは、私が今朝、パソコンの前に座った時に出て来た言葉だが、其の意味は「人間の魂しいは、其々が 自分で体験を積んで 現場の映像を蓄えていないと、イザと言う時に アイデアが湧かないし 現実に対して 手も足も出せない。」との事ではないだろうか。
魂しいとは、「たま」が沢山詰まっている様を言っているのである。
其の「たま・魂・霊」とは、現場の映像の数であり、密議が図れる能力を意味している。
其の事は、私の人生の記録を見れば、参考に成るだろう。
其の、私の脳内の現場の多さは、他には、類が無いかも知れない程である。
現代文明だけの事か、自然生活だけの事かの、片一方だけなら、私以上の者は多いだろうが、両方のバランスを考えれば、私が、天の働きで遣らされた体験は、幅が広くしかも多彩だと想われる。
其れが、私の意識の特徴だとも考えられるのだ。
其の場数の多さが、是から社会の役に立つのだ。
そして、私には、是から「何もしない」と言う事を、修行する現場が待っているのだ。
平成18年9月26日
礒邉自適
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2006/4/14
「子供が未来を見る目線を」
理想的な老後
天の常立神降足
12・11・6
平成12年(2000)9月9日「重陽(ちょうよう)の節句の日」、霊夢に天より大きな両足が降りて来て、床に着いた処が映ってきた。
そして、其れまで挨が積もっていた床は、足の周囲から金色に光り始め、美しく輝き出した。
其の夢の意味を考えていて、彿足を頂く仏教の儀式を思い出した。
人間が、帰依するのは仏様の両足と言うことである。
天から降りてきた足は、地上では何を現しているのだろうか。
日本の神話では、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」の二神が天降って、国産みをしたと伝えられている。
メッセージの両足が、男女・陰陽の二つの性を表すのであれば、「伊邪那岐命・男」と「伊邪那美命・女」の事であるとも言えるし、さらに、この地球上の生物は、皆、雄雌の二つの性に因って営まれている理を、表しているとも言える。
神が地上を歩く、地上に生の営みを起こしていると考えれば、9月9日の「菊理姫の日(ククリの日)」に、神の足の夢を見た事も納得が行く。
「白山菊理姫」は、石川県白山に祭られている白山権現の神であり、その本体は白山龍王である。そして、「伊邪那岐命」「伊邪那美命」の仲人とも云われている。
陰陽の結びの神が、地上に足を降ろしたと言うことであれば、地上の陰陰の働きが正されるのではないだろうか。
人間を含む、地上の生物は、全てが雌雄の性エネルギーが源と成って、生かされている。
「有・ユウ・ある」と言う漢字の象形は、「右手+肉」の組み合わせで、男性が狩りで得た肉を右手に持って、誇らしげに女性に見せている様子から、出来上がっている。
人間が、存在を続けていられるのは、この性のシステムがエネルギー源となり、あらゆる創造に関わっているからである。
そう考えると、雌が待っている所へ、雄が獲物を持って帰り、それを雌が喜んで迎えれば、雄もまた生きがいを持って、生きる事が出来るだろう。
其の仕組みが崩れると、雄は何の為に、命を懸けて働けば良いのか、目的を失って、生きがいを無くすのではないだろうか。
昨日11月5日、鳳凰からのメッセージで、Uターンが示された。
イエスキリストは「その時には 一番先の者が 一番後になる」と云っている。
いよいよ、宇宙は「アクエリアス・水瓶座」の時代に入ったのだ。
女性が、本来の女性性に返るとき、世界は新しい時代の創造へと向かうのだろう。
「嫁」と言う漢字は、家の女と書く。
女性が、「娘(良い女)」から嫁になり、母親となって、世界に、平和を齎す子供達を育てるとき、人類の未来はバラ色となるのだ。それが、アクエリアス・ムーブメントである。
是までの、魚座の2000年間は、男性の競争原理で動いて来た。
是からは、老子の謂う「男性の立場を知った上で 女性の側に身を置く」と言う、受け身の行動が主流になるのである。
神話では、伊邪那美命(女性)の方から先に、伊邪那岐命(男性)ヘ言葉を掛けた時に、出来た子供はヒル子で、形に成らなかったと言う。
次に、伊邪那岐命・男性から、伊邪那美命・女性ヘ言葉を掛けると、今度は次々に正常な神が生み出されたと言う。それが、生命の正しい生き方と言う理・ことなのであろう。
「庁・チョウ」と言う漢字は、役所という意味だが、元々は「廰・チョウ」という字で、「建物の中に 聴く人が居る」と言う意味から成り立っている。
キリスト教の教会には、小窓が有る部屋が有り、訪れた信者は小窓の向こう側に居る司祭に向かって、罪の告解をする。
其れは、競争社会に疲れた人々の心身ストレスを、取り除く宗教的な手段の一つであろう。
現在の世の中には、子供自身の悩みを聞いてくれる所が無い。
その為に、社会全体が暗く成っている。
少年少女が、明るく育ってこそ、大人が元気に働けるのではないだろうか。
其の様な世の中にする為には、子供達の目標となる、理想の大人が存在しなければ成らない。
数10年前までは、勉強すれば「未は 博士か 大臣か」と云って、子供達を励ましたが、いまや手本と成るべき、其の博士や大臣は、堕落してしまった。
子供達が、目標を見失ってしまった為に、教育と言う事が難しく成ったのである。
世の中には、立派な大人は存在するのだが、地道で確かな生活を成し遂げている者は、マスコミべ−スに乗り難い為に、子供達の目に触れる事が殆ど無くなってしまっている。
政府の仕事は、正しく治める事である。
「治・ジ」とは、「民の心を 耕して 安らかにする」との意味である。
今こそ、教育に「治」が求められているのである。
子供達の目標となるべき存在が、完成された大人・おとなとしての「翁・おきな」であり、その子供達をはぐくみ育てるのは「嫗・おうな・女」で、「翁」と対の存在である。
政治の役割は、「嫗・おうな」が十分に子育てが出来る環境を、整える事であろう。
それが、「水瓶座・アクエリアス」時代の、神が望む世界である。
平成12年11月6日
礒邉自適
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2006/4/14
「白山 白龍大権現 菊理姫」
美しい老い方
白山 白龍大権現 菊理姫
18・4・14
昨日4月13日は、私の長男「海生」の誕生日で、岡山の、太陽の化身「朱雀」のハートである「スーリアさん」の誕生日でもあった。
其の「生命・ネイチャースピリット」の言霊と、「翁と嫗」のメッセージがダブルで届けられた。
其れは、人間の、生命の究極の姿と、其れを表現する言葉が、ペアーになって伝えられて来た事に成る。
其れは、未来に向かって育って行く、青少年の目線を護る事であり、目標と成る景色を意味している。
此の殺伐とした、世の中の未来を明るく照らすテーマは、翁と嫗の幸せな姿が、身近に存在する事である。
其の為に、神々が、今日から動き出すとの事であろう。
私が、1985年7月2日に京都府丹後半島の網野町で、全国一周の旅が終り、翌日3日から、新しい人脈に繋がり始め、2002年4月24日に屋久島に18年振りに帰り、再び新しい動きが始まったのが、2003年7月3日である。
何故、其れ等の日付が7月3日であるのか、其れは数霊が「73」が、「なみ・波」の言霊に関係があり、此の三次元世界を動かしている「神・はたらき」が、「伊邪那美命・いざなみのみこと・イザ波」だからであろう。
其れを考えると、愈々、空間を維持する「伊邪那美」が動き出し、「たまふり」が開始されるのであろう。
平成18年4月14日
礒邉自適
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2005/1/16
「つがい・隹隹」
好い夫婦
つがひ(隹隹)
17・1・16
今朝の霊夢は、私の意識が、神社の建物の中に在った。
そして、私の右側に白い服を着た「神官」や「巫女」姿の人達が居て、拝殿の建物から外に出て、広場に続く長い階段を降りて行った。
誰も居なく成ってから、私の意識も、建物から外に出て、石段を降りて行き、其の自分の姿が、他の視線で見えて来た。
私も、白い古代の服装で、腰の所を括っている。
下の広間に着くと、私の姿が、人間の姿から、狼の姿に変化してしまった。
其れも、一頭ではなく、雄雌の二頭に成ったのである。
そして私の意識は、自分の魂が、狼と重なって居たのだと想った。
そしたら、次の瞬間には、元の人間の姿に返り、今度は、右側の方に鳥が「番・つがい」で居て、お互いが向き合って睦み合っている。
其処迄で、今朝の映像の場面は終った。
朝起きて「つがい」の漢字を調べると、漢字には「番」と「雨+隹」のつがいが有り、その意味を漢語林で探すと「雨+隹」の字は無く、「隹隹・ショウ」が「つがひ」として有った。
「隹隹」は、二羽の鳥が向き合っている象形から、出来ていることが判明した。
今朝の霊夢に現れた、二羽の鳥の姿は、そのまま「隹隹」の象形だったのである。
二羽の鳥の件は解ったが、狼に、人の姿の霊が変ることの意味が解らない。
狼は、日本語では、その名が示す様に「おほかみ」で、「神」と考えられており、漢字でも、自然の「然・ゼン」は「犬(狼)+火+月」の組み合わせで出来ており、字義は「恐ろしい狼が近づかない様に 火を燃やす」との意味である。
昔は、狼が人間に取って、一番恐れられる物だったのだろう。
人間は、万物の霊長だと昔から云われているが、其れは、それで本当の事で、人の御霊は、何10億年の生命のエネルギーを元として、存在して居るのかもしれない。
私達の、魂しい自体が、其の生命システムの最終結果であり、現在の私達の存在を通して、未来が創造されて行くのではないだろうか。
しかし、そう成るにしても、根っこの処には、地球生命の遺伝子の歴史が秘められている。
其れ無くしては、生命の存在は有り得ないのである。
其の、生命の根源の処に、陰陽の「隹隹」のエネルギー(働き)がある。
其の雄と雌の互いの働きから、生命活動が生じているのだ。
雄雌の働きが、此の地球上から消えてしまえば、地球生命の存続は在り得ないのである。
古代の人達も、その理に気付いており、「隹隹」の文字の象形に、その意味を現したのではないだろうか。
今朝は、何者かが、私の意識中に、「狼」と「鳥」の雌雄を映し出して来て、ツガイの意味を知れと、告げて来たのだろう。
私は二度結婚して、七名の子供が居る。
離れて暮しているが、皆無事に過ごしている様である。その点では、現代社会の仕組みには感謝している。
私し自身が、結婚を体験し、雄として、雌を意識の対象と考えて、行動を続けて来たので、今朝のメツセージが理解出来るのだ。
是以上、思索が進まないので、今日はここらで止めておこう。
平成17年1月16日
礒邉自適
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