2012/7/25
天皇霊 其の三 後醍醐天皇
24・7・25
私は1985年7月2日に、丹後半島の付け根に位置する京都府京丹後市網野町で日本一周の旅が終わり、木津館に宿泊した。
翌日3日に、其の旅館の主人に近くの曹洞宗の龍献寺の「安井桂造禅師」を紹介され、其の安井禅師から、亀岡市に有る西光寺の「田中真海禅師」を紹介された。其れから、田中禅師に亀岡市の湯の花温泉の「憩の家」の「杉岡伴太夫政房」氏を4日に紹介された。
「7月2日」http://star.ap.teacup.com/170606/202.html
そして、杉岡氏が私の事を理解され、暫く憩の家に逗留する事に成った。そして、杉岡氏が最初に私に読む事を薦めたのが、金井南龍氏の著書であり其の本には、大本教の出口王仁三郎が鹿児島出身の政治家・床次竹二郎の弟、「真廣」に渡した手紙・遺書友人宛に出した手紙の内容は、「現在の宗教は全部偽物だ 本物が現れたら此の大本も終わりだ お先にさいなら」「本物の神は 鹿児島から 下駄を履いてチャラチャラ遣って来る」との事である。
其の本の内容を知っていた杉岡氏は、私が履いていた下駄の金具が両方緩んでチャラチャラ音を立てており、私の車のナンバープレートが鹿児島だったので、私に興味を持ったのであろう。
其れから、杉岡氏は「不思議な坊主が時々 空のタクシーを連ねて此処に来ると云うのである。其の坊主は、何時も一人だけで来るのに、今日は三名で来ると云う時には、自分は前のタクシーに一人だけ乗って、後ろに空のタクシーをもう一台連れており、到着すると両方のタクシー代を支払うとの事である。
そして、五人以上連れて来ると云う時には、空のタクシーを二台連れているとの事であった。
其の事を聞いてから、数カ月後に、再び、憩の家を訪れ逗留していると、ある日私の部屋に杉岡氏が上がって来て、「例の坊主が来た」と云うので、私も二階の自分の部屋から、階下の玄関に下りて行った。
そして、玄関に入って来た坊主の顔を見ると、私の口から、其の坊主に向かって「関の松は何本か」と突然に云った。
すると、其の坊主は私の顔を見て、「五本だろうもん」と応答した。私は、其の答えに対して、「松食い虫で 二本は枯れているだろう」と謂った。
其の坊さんは、玄関に上がると、大きな声で「親爺 紙と筆と 酒を持って来てくれ」と、奥の部屋に向かって云った。
そして、杉岡氏が茶色の藁半紙と、筆と墨を持って来て机の上に置き、お盆に日本酒をコップに入れて持って来た。
そして、其の坊主が酒を飲んでいる間に、私は、其の筆を手に取って半紙の中央に、坊主からは「言」の文字に見える様に、「心口」と書いた。
すると、其の坊主は、酒を飲み終えると、其の私が書いた「言」の文字に合せて、半紙一杯に漢字の文章を書いた。
私は、其の文章が、自分では読めないので、坊主に向かって「何と書いたか」と訊ねると、「お前は とぼけて生きて行けと書いた。」と云うのである。
そして、「親爺 酒をもう一杯」と奥の部屋に向かって云った。
そして、杉岡氏が酒を持って来ると「此れは 時が来たら 1億円の値打ちが出るから 大事にしまって置け」と云って、酒を一気に飲んで帰って行った。
其の坊さんは、御嶽山の近くに有る「天竜寺」の住職であるとの事であり、其れから暫くして、亡く成ったとの事であった。
年齢は、当時50歳代後半に見える年恰好だったので、高齢と言える状態ではなかったので、役割が済んで天に帰ったのであろう。
其の坊主が帰った夜、私は二階の、畳の部屋に寝て居ると、夜中にフト目が覚め、何か怪しい気配がするので、枕元の方を見ると、おぼろげな、霊が三体座って居るのである。
私は、其の三体の霊体は、昼間来た坊主が置いていった霊魂だと気付いた。すると、其の霊体が「天河に連れて行け」と、云うのである。
私は、其の状態で眠る分けには行かないので、直ぐに起きて準備をし、車で天河に向かって亀岡を出発した。
そして、5時55分に、吉野の「丹生川上神社下社(以前は闇龗神・くらおかみのかみ)」に到着したので、境内に車を止めて、横の河原で手や顔を清めて、再び車を運転して「天河神社」に向かった。
そして、天河神社に到着し、境内に車を止めて、伯方の塩の故・菅本フジ子さん(日本 自然塩普及会会長)に戴いていた、塩二袋を使い、神社の鳥居土台に
塩山を作り、神社の磐境・いわさかの清めをして、参拝を済ませた。
そして、車に帰って座席を倒して目を瞑ると、ルビーレッド色の様な輝きを持つ「コブラ・蛇」の姿が一匹現れて、「貴方のお蔭で ようやく入れる」と云って、磐座・いわくらの中に頭から侵入して行った。
其れから、私の身体が動き出し、車から降りて、神社の杜の裏側を回って、反対側の岡の方に登って行った。
其処は、公園の様に成っていて、石碑と石組が有り、「南朝と北朝の仲直り」の為の施設である事が書かれていた。
私は、其の施設に、霊魂に案内された事で、南北朝の合体が、行われた事を感じた。
後に、南朝の事を調べると、後醍醐天皇の事が出て来て、後醍醐天皇が隠岐の島を脱出する時に手を貸したのは、「関の五本松」が生えていた、島根県松江市美保関町の人々である。
其の事を、何も知らない私が、いきなり「関の松は何本か」「現在は三本であろう」と、天竜寺の坊主に云ったので、後醍醐天皇の事と、三体の霊魂の事が図星だから、坊主がビックリしたのであろう。
そして、其の天竜寺の坊さんは、何故か、私が其の「憩の家」を訪ねるのを、何年も前から知っていたのである。
後醍醐天皇は、1332年に隠岐の島に流罪と成っているが、1333年には隠岐の島を脱出して、奈良県の吉野で南朝を興している。
其の1333年の年数は、666年の周期の一つであり、1333年に666年をプラスすると1999年と成り、私が、神に告げられた時節の節目と重なって来る。
其れ以前は、1333年 − 666年=667年で、667年は「天智天皇」が近江遷都をした年であり、其れからマイナス666年は西暦元年で、「崇神天皇」の時代である。
そして、紀元前660年が「神武天皇」の時代であり、日本の歴史の中では666年周期で「政・まつりごと」の節目・変革が起きている事になる。
「天皇霊 其の一 天智天皇」http://moon.ap.teacup.com/20061108/63.html
「天皇霊 其の二 昭和天皇」http://moon.ap.teacup.com/20061108/64.html
其れを考えると、西暦2000年には、何等かの動きが起きていなければ成らないのだ。
私が1984年6月4日(旧暦5月5日)に神の世界に入り「残り16年半 失敗は許されない チャンスは一度」と告げられて、肉体が反応し始めたのは、其の事に関係が有るのだろう。
其の「16年半」の年月は、現在の日本の歴史の始まりと成っている神武天皇が、九州を出発してから「奈良・大和」で、政治を始めるまでの年月と同じである。
私が1985年11月10日憩の家に宿泊している時に、胴体の直径が20p以上有る金龍が、肉体に巻き付いて来た事が有った。
其れは、足利尊氏が「禅僧・夢窓疎石」に薦められて、後醍醐天皇の菩提を弔う為に天龍寺を建てた時に、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍寺」と名付けたとの云われにも関係が有るのだろう。
そして、中国では、皇帝の守り神が金龍であり、革命の時節には天命として、金龍が現れるとされている事にも、関係がある。
聖徳太子が編纂に関わったとされる、旧事本記大成経は後醍醐天皇にも影響を与えているのであろう。
其の旧事本記大成経は、現在群馬県甘楽郡南北村黒滝山の黒滝山不動寺に保存されており、其の旧事本記大成経が世に出る時には、新しい天皇が世に出るとの言い伝えが有る。
私は1986(S61)年1月26日に、其の黒滝山不動寺に、亀岡の「杉岡伴太夫政房」氏と、群馬県鬼石町の「中屋龍洲」氏を呼んで、住職の「長岡良円禅師」と14名で宴会を開いた事が有る。
そして、宴会が終わって外に出ると、夜空が揺れており、向こうから大きな火の球が、黒滝山の方に遣って来ると言う異変が起きた。
其の出来事も、旧事本記大成経が世に出る時節が、近付いている事を示していたのであろう。
「星が歩く」http://star.ap.teacup.com/170606/684.html
本日7月25日は、マヤ文化の暦・カレンダーで時間の余った日とされ、明日26日は元旦である。
其の日に、此の文章を書く事に成ったのも、宇宙の意志の影響か、マヤの神である「時間の操縦士」の働きの所為なのかも知れない。
平成24年7月25日
礒邉自適
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