2006/8/5
平素
18・8・5
今朝のメッセージは、昨日の「神籬・ひもろぎ」「磐境・いわさか」の儀式の所為か、光りの中に「赤軸 譲り葉」の枝が、一枝美しき姿で現れた。
其れは、「天津日嗣・あまつひつぎ」が、正しく譲られた理・ことを告げて来たのだろう。
天皇陛下の、代替わりの時だけに行われる「大嘗祭・おおにえのまつり・だいじょうさい」は、「大譲祭・だいじょうさい」の意味を兼ねている。
其の「譲る」意味と、正月の鏡餅や門松に使うユズリハの枝は、橙との組み合わせで「代々 正しく譲られる」の意味を表し、人間の祈りの原点を現しているものである。
今朝のメッセージは、諸々の事柄が正しく委譲された事を、神が知らせて来たのだ。私はどうやら、無事に役割を果たしたようである。
1984年6月4日に、紫陽花の花が一枝現実世界に届けられてから、22年が経過し、ようやく譲り葉が届けられ、一連の作業が終了した感がある。
やはり、言葉よりは、物がハッキリ現れた方が、納得出来るものがある。
其の譲り葉の枝の後に、「平素」の言葉が出て来て、「平素の心がけ」とかの「平素 なに なに」の単語が幾つかある事が告げられ、其の「平素・・・」を紐解くように告げられて来た。
今「平素」を漢語林で調べて見ると、「平」は、水面に水草が浮いている形の象形で「たいら・ひらたい」の意味で、「素」は「繭から糸を巻き取る」形の象形で、「白い モトのままの糸。」の意味である。
平素とは「元の侭で 何事も無く 平らかで在る。」との意味のようである。
今朝は、私に「是からは 平素で在りなさい。」と告げて来たのだろうか。
其れは逆に、是から色々様々な事が起きるので、「絶えず 平常心で在りなさい」と、告げて来ているのかも知れない。
大体、私の是までの体験から、神々の遣り口も見えて来た。
何かを示して来る時は、次ぎの段取りが出来ている時である。
次に起きる事の為に、私に、平常心で居ろと告げているのだろう。
其の自覚の為に、「平素」の言葉を送り着けて来たのだ。
其の事を、気にし出したら眠れなく成ったので、2時頃屋外に出て見た。
すると、空は見渡す限り満天の星である。
暫らく星空を観た後、再びベッドに横に成って寝て居ると、昨日と同じく4時頃から、雷が激しく鳴り始め、やがて雨が降って来た。
其の雨音を聞きながら眠ったら、再び映像が映り出されて来た。
其の映像は、男性が訪ねて来て、私に地図を見せて、開発に協力してくれと盛んに頼むのである。
私は、もう不動産業には興味が無いので、その場から離れようとするのだが、其の御仁は、私に関係がある所だと言う。
仕方が無いので、私が其の地図を見ると、地名が磯辺で、其れは、私の故郷に関係が有るらしい。
私が、其の地図を、もう一度良く見ると、其れは東南アジアの地図で、マレーシア半島から、インドネシアの島々が、載っているのが判った。
どうやら其の御仁は、「東南アジアの開発に 力を貸して下さい」と頼みに来たらしい。
其の50歳代の男性が、誰だかは判からない。
そんな事を話して居る処に、船が迎えに来たと云う。
見ると、私の居る高殿の下に、大きなクルーザーが着いた。
下を覗いてみると、五階だてに成っているマストの最上部が、私の居る立場と同じ高さに成っているのである。
私も、船を所有していた事があるので興味を示し、船に渡って、船室を見て回っていると、エンジンが掛かり船が動き出したので、慌てて外に出て、船がUターンしている時に、桟橋に飛び降りた。
しかし、何時の間にか、私の腰にロープが括られていて、其のロープの端は、船のとも綱を括る所に、括り付けられている。
私はロープを解く事が出来ずに、其の侭、向こう岸に着くまで引かれて行った。
どうやら、メッセージの内容からすると、東南アジアに行くのを断わる事が出来ない様に成っているらしい。
西川氏も、私を、タイ国に連れて行きたがっているし、私の知り合いの服を造る「うさと君」も、タイのチェンマイに住んでいる。
其れに、孔紀氏もインドネシアに、私に会わせたい人が居ると云っていた。
どうやら、私が是まで体験した事が、東南アジアに行けば役に立つらしい。
其れに、其方に、私のソウル・ルーツも在るようである。
何かしら、能く分からない部分はあるが、日本では認められない私の概念が、東南アジアに行けば、理解されるのかも知れない。
1万年前の氷河期には、海水が今より100m以上も下がっていたので、インドネシア付近の島々は、大きな大陸であり、多くの人々が住んでおり、温暖化で海水が上昇を始めたので、其の人々は、世界中に散って行ったのである。
其の民族の言葉がマレー語で、現在、日本・韓国・中国・アセアン地域・セイロンまで広がって残っていると言う。
其れは、黒潮に乗って、日本列島を経由して、南米にまで拡がっているのである。
同じ言葉がある所には、同じDNAの人間が存在し、同じ文化が伝えられているのである。
其の文化の流れを辿る事が、今後の、私のライフ・スタイルに成るのではないだろうか。
これから、愈々世界への旅が始まるのだろうか。
私には、守るべき個人的な物は、一切何も無い。だから、今日からでも、旅に出る事が出来る。
現在、私が行っている事は、携帯電話と、ノート型パソコンが一台有れば、出来る事である。
愈々、世界中の「大山祇神」と「海神」に会いに行かなければ成らないのだろうか。
言葉の流れを辿って行けば、神と人間の繋がりが、深く理解出来、言葉の力で、未来世界を創造する事が、出来るかも知れない。
昨日判明した、調和の「調」の漢字の意味が、「言葉に神経が行き届く、ととのう・やわらぐ。」だから、言葉が隅々まで行き届けば、世界の調和が計られ「しらべ・ひびき」が整うと言う事に成る。
其れこそ、「伊邪那岐・いざなぎ・イザ凪」と「伊邪那美・いざなみ・イザ波」の言葉の、語源の世界なのではないだろうか。
古い言葉が、正しく再生され、放たれる時、古代の神々が皆復活して来るのである。
それが、英語の「リリジョンreligion」の本来の意味で、神々と再び結ばれる時代が、近付いていると言う事なのだ。
新しい世界を創るのにも、やはり古い言葉の呪文が、必要だったのである。
私の「ネバー・エンディング・ストーリー」は、未だ続いて行くのだ。
「アウト・オン・ア・リム」として・・・。
平成18年8月5日
礒邉自適
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