2006/7/11
影絵
18・7・11
今朝の映像は、唯一木々の梢や葉の形が、黒い影の様にシルエットで、次々に映って来た。
其れは、言葉や文字や音も無く、唯 物の形として出て来たのである。
どうやら其れは、視覚神経のシステムの基盤と成っている部分が、明らかにされて来たものだろう。
其の事から、考えられる事は、私の脳の視覚神経の基盤と、都会で生まれ育った人間の視覚神経の基盤の違いを、考えろと言う事ではないだろうか。
私の生まれた実家は、自分の家から、他人の家が一軒も見えない場所で、家の裏には直ぐに、屋久島の原生林に繋がる森が有り、小鳥が子育てをしている様な環境であった。
自宅は、日本の典型的な木造建築で、天井板が張られていないので、屋根の斜めの構造が丸見えの部屋で、其れを見ながら、寝起きをして居たのである。
だから、都会の四角なコンクリートの物の形は、私の視覚神経の基盤には成っていない。
私が、物心付くまでは、家族と自然物の他には、殆んど、人工物が無かった事になる。
其れに、テレビが持ち込まれたのは、父親が死んだ時で、知り合いが「寂しいだろう」と言って、持って来たのが初めてだから、17歳まではテレビは無かったのである。
其れに、トランジスタ・ラジオを父親が買って来て、音楽を聴いたのも、其の1〜2年前なので、殆んど、人工的な音にも無縁だったと言えるだろう。
だから、現在の人間社会では考えられない程の、静寂の中に、私の子供時代は在ったのである。
今朝の私の意識は、子供時代に、母親の背中におんぶされ、周囲の植物の枝葉の形を、認識し始めた頃にまで、遡っていたのではないだろうか。
其処には、もう人間の言葉が無く、文字も無いので、神や仏の認識も、無い世界である。
私は遂に、知識の無い、元の世界に還り着いたのである。
確かに、今日の私の意識は、物事の判断が出来ない処に、落ち込んでいる。
だからと言って、何かの、不安や悩みがある分けではない。
是が、老子の謂う「道の実行者・愚人」の状態なのだろうか。
そうであれば、私は一切のカルマ・業が消え、無垢の人間に、成ったと言えるのかも知れない。
だとすれば、22年前に私に起きた、4311霊体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」も、全部片付いたと言う事に成る。
もう、霊界人や、神々の相手もしなくてよく成り、自由な自分に、還れるのであろうか。
後は、全てが抜けきった、脱力感との戦いが、残っているだけなのかも知れない。
それとも、完全な三次元での活動に、入る事に成るのだろうか。
どうやら、屋久島は梅雨も上がり、夏の強い日差しが照り付ける日々が、訪れようとしている。
何もメッセージが来なく成れば、暑い日は、直ぐ近くの中橋川で水浴びをし、木陰で、昼寝三昧の毎日を過ごす事が出来るのだが、果たしてそう旨く行くのだろうか。
神々が、是までの、支援の元を取り戻そうと考えているのなら、是からが、本番と言うことに成り、私は扱き使われる事に成るやも知れない。
しかし、木々の梢や葉の形しか映らなく成った、私の意識を、是から、神がどの様に使い回すのか、私自身には分からない。
そう成る迄でも、惟 ボーとして、老子の謂う「愚人」を、楽しまなければならないだろう。
平成18年7月11日
礒邉自適
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