2006/5/22
言葉のみち
18・5・22
今朝は、初めて「一休宗純禅師」らしき人物の、全身像の姿が現れた。
其の姿は、編み笠に杖を突いた姿で、黒い服の所々に穴が開いており、内の白い下着が見えている。よく絵で見る、松尾芭蕉や山頭火の旅姿を、連想すれば良いだろう。
そして、漢字の「径」の文字が出て来たが、左の行人偏が口で「口圣」なのである。其の意味を考えていると「有漏路・無漏路」の言葉が出て来た。
「有漏路・無漏路」を広辞苑で調べると、
【有漏路】 煩悩の多い者がいる世界。此の世。
錦之裏「迷うも 悟るも 有漏路より 無漏路へ 送る」 と 載っている。
今朝のメッセージは「路」や「径」の、足で行く道筋ではなく「言葉・口」に拠る処の、道筋を告げて来た物の様である。
今朝の、禅坊主の行脚・あんぎゃの姿は、一休宗純禅師らしいのだが、顔が幾重にも重なって見えたので、松尾芭蕉や種田山頭火、其れに「良寛和尚」などの霊魂が、統合されていた物ではないだろうか。
何故、いまの次元帯に、彼ら禅宗系の坊主達が出て来るのか、其の謎を解かなければ成らない。
其の一つは、彼等が人類の一番進化した、最先端に位置している存在だからであろう。
其れは、釈迦牟尼佛やイエスキリストやマホメットなど、昔の宗教の元と成っている人達の教えでは、もう間尺に合わない事を、示して来ているのだ。
昔の教えでは、現在のインターネット社会には、合わないのである。
今や、科学が進んで、宇宙の成り立ちや、人間の生命システムと、脳の働きも解明されて来ている。
其の成果で、人間の五感のシステムや、第六感性(シックス・センス)の解明も進んで来ている。
そんな環境の中で、昔の人の言い残した残飯を、いくらあさって見ても、未来を開くキーの言葉は出て来はしないのだ。
人間の、人間たる所以は、言葉や文字を扱う事にある。
だから、其の言葉の技術の最先端に、人類の未来世界が、存在している事に成るのだ。
五感で捉えた情報を、第六感に置き換える時、四次元の世界を変化させる事が、可能と成るのである。
其れが弘法大師空海に始まる、日本の言葉の世界なのだ。
今朝のメッセージは、昨日21日が空海の月命日だったので、書の達人と云われている「弘法大師空海」のお膳立てが、昨日あった上での、今朝の映像場面なのだろう。
其れが、「敷島の道」の国である日本の本来のハタラキなのである。
今朝は、此処まで打った時に、東京の中山博さんより7枚ものメッセージが送られて来た。そして、其のお筆先は、今日から縦書きに換わっている。
どうやら、日本の和歌は縦書きでないと、言霊が上手く流れないようである。
其れは、そうだろう。
横書きの文章を読んで居れば、首は横に振れるので、動作としては「嫌々・ノウ・否」の動きになる。
其れが縦書きなら、読む時に頷く動作に成る。
頷くとは、項・うなじが上下に動く事で「項搗く」の意味だから、ウンウンと首が上下に振れる事に成るのだ。
中山博さんのメッセージと、私の今朝のメッセージは、同じ次元の言葉の世界に関していて、其の内容面からも、ピタリと合っている事に成るのだ。
其れは、天皇陛下が詠む和歌や、七夕の短冊など、皆縦書きでないと、効力が薄いとの理・ことではないだろうか。
神社で唱える、祝詞やお札も、縦書きでないと都合が悪いだろう。其処が、西洋の詩の世界と、日本の和歌の言葉の使い方の差である。
今朝は、愈々、言葉を司る神が動き出した事を知らせて来ている。
其れも、天皇や宮司や管長など、位いや身分の高い者達ではなく、服がボロボロの「乞食・こつじき」姿の坊主ばかりである。
彼らは皆、住所不定無職の、名無し・家なし・家族無し・地位名誉無しで、金も財産も無い、着た切りスズメの人達である。
其れは、彼らが「有漏路」の世界の人ではなく、もう「無漏路」の世界に存在していることを示している。
彼らは、此の世の三次元世界の執着から、完全に脱却して、神の意識の傍らに座しているのだ。
今朝の映像が一休さんだけなら、一休さんは京都の大徳寺の建立に関わっているので、寺を持っている事に成り、「風餐水宿」の本来の意味が伝わらないから、他の雲水(俳人)の姿を借りたのだろう。
其れに、何故「敷島のみち」のミチの文字が、「路」では無く「径・経」の方の「口圣」が使われて来たのか、其の事にも意味が含まれている。
各は「足+口」の組み合わせで、上から下へ向かう神の言葉の意味である。
是は、神のお告げに従うミチである。
一方、「圣・巠」は真っ直ぐで、短いミチの意味である。
和歌の世界は、神のお告げを受けて、行動する物ではなく、此の森羅万象の現れである自然の景色に、人間が向かい合い、自然の働きと、自分の心象風景を同化させる世界である。
其れこそが、神の存在に対して、真っ直ぐに立ち向かう事なのである。
そして、其れも5・7・5・7・7の短い言葉の綴りである。
其れは、確かに、真っ直ぐで極力短くしたものである。
其れは、正に「圣」のミチの意味に通じている。
ようやく神は、人間の身近な処に、接近して来ているのだ。
もう神は、神社や寺院に在るのではなく、自分自身の咽モトに、達して来ているのだ。
其れは、イエスの謂う「此のミチを広めなさい。しかし何を話すか考えて行っては成りません。神は 其の時 その場で 貴方の舌を借りるのですから。」が、現実の世界と成って来たのである。
今朝の乞食僧は、イエスの行脚の姿も含んでいたのではないだろうか。
其れは、言葉の「圣・ミチは」時代や国を超えて、皆一つの時間軸に繋がっている理・ことを示している。
其れが、熊野大社の祭神「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」の世界であろう。
昨日の「A・ア・あ・エ」の文章が 余程効果を上げたらしい。
平成18年5月22日
礒邉自適
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