2006/1/31
「カギかっこ」
18・1・31
今朝のメッセージは、私の書く文章に、前文は見えないが、終わりの所に、 。」(かぎかっこ)が付いていた。
其れは、もう私の文書に、昔の人達の霊魂の概念が、介入出来ない事を知らせて来たのだろう。
私のメッセージは、自分で書き始めた訳ではなく、22年前に4311体の霊魂が肉体を借りに来て、其の「神霊の思頼・みたまのふゆ」に応じた結果として、始まったものである。
其れは、私の脳に映されて来る画像や文字、其れに聴こえる言葉等を、私が通訳して、紙に書き出し始めた物である。
だから、私は、書いてしまった後は、殆ど覚えていない。其れは、私が考えて書いた物ではないからだ。
よく書いた事に関して、質問を受けたりするのだが、相手に「エッ 自適さんは 数日前に自分が書いた事を もう忘れているのですか。」と、その方達が驚いている。
其れは、私が考え出した物ではないから、直ぐに忘れてしまっても、仕方が無いのだ。
今朝は、もう過去の人達の憶いが果たされ、言い分が無く成ったとの事であろう。
其れは、「ヤジロウどん」が長年の鬱積が取れ、カメラの練習を始めた事でも分かる。
もう天下を取ろうとか、他人を救わなければ成らないとか、そんな人間感情の出る幕は、無いのである。
新しい未来社会は、皆が自分の生命に対して、真剣に取り組んで行く時代である。
自分の修行が済んでもいないのに、他人を救おうとか、説法しようとかするのは、昔の勘違いをしたままの霊が、憑依しているからなのである。
日本の惟神の道は、禊ぎ祓いの儀式だけが大事とされている。
其れは、過去の情報・因縁が憑依していると、未来に向かって事が進まないからである。
神・宇宙は、未来に向かって転がだけしか、方向性を有していない。
宇宙・神には、過去の世界は無いのである。
人間が「有る。」と錯覚を起こすのは、アカシックレコードに記憶されているデーターを再現して、過去の映像を観る事で「過去が在る」と、勘違いをしているだけなのだ。
其れは、今でも、テレビに「美空ひばり」や「石原裕次郎」が、元気な姿で登場して、歌を唄って居るのと、同じ理屈である。
例え、神社に行って神霊が現れても、昔の世界が、其処に存在する訳ではなく、昔の人の霊だけが、今の世まで、存在を続けているだけなのだ。
肉体が無ければ、飲食もしないで良いし、風邪をひく事も無いので、永遠に、其の時間帯に情報・因縁として存在出来るのである。
22年前、私に憑依して来た霊魂は4311体であり、その後、昭和天皇や美濃部知事なども亡くなった時に、私に飛び込んで来た。
私は、其れ等の霊魂の「神霊の思頼」を引き受け、今日まで、彼等に付き合って来た。そして、彼等の残念を全部解いたのだ。
私の父礒邉勲や、無庵師匠は、其の理を知っていたので、神社やお寺には、決して子供を連れて行ったりはしなかった。
其れは、父や師が、自分の魂しいに自信を持っており、祭られている霊に頼む事柄が、一切無かったからである。
其の二人に育てられた私は、霊魂の言う事は聴いて遣ったが、彼等の憶いに自分の意識を預ける事をしなかった。
だから、今まで彼等に付き合って、彼らの想いやカルマの何処に、原因が在ったのかが良く理解出来た。
だから、私は、彼等の長所も解かるが、短所も能く観えるのである。
其れが、能く見得るので、彼等と同じ鉄を、踏まない様にしていられるのである。
普通の人は、霊が憑依すれば、守護霊が付いたと言って、喜んで祭るが、私はそうではない。
どんなに、昔業績が在った人でも、現在の世の中に、其の人の手法が、其の侭通用する訳が無いのだ。
だから、昔の霊魂に、自分の魂しいを預けている人間の言う事を、疑わずに聞いて、直ぐに行動する人は、未来に繋がる事が、出来ないのだ。
私は、父や師の御陰で、皆と同じ罠に掛からないで、「神霊の思頼」を消化して来たのである。
今朝のメッセージは、昔の人達が、漸く成仏して、私の邪魔をしないと、宣言して来たのだろう。
今朝は、此のメッセージの前に、不思議な映像を見せられた。
其れは、空に黒い雷雲が現れ、私を追いかけて来るのである。
私は必死に逃げたのだが、その雲から降りて来た人に、捕まってしまった。
そして、その人は、私を、地球に住んでいる、杖を持った男性に預けて、帰って行った。
私は、其の地球人の目を盗んで、山の中に逃げ込んだ。
しかし、どんなに上手く逃げても、直ぐに、発見されてしまうのである。
しまいには、私があんまり逃げ回るので、其の男性が、手に持っている杖で、私の胸をドンと突いた。
私が、それで観念した処で、其の場面が変わった。
其の意味は、神が、地球に新しい使命を与えた子供達を降ろしていて、日本に降ろされた子供の名は「陽介」と言う名前である事である。
朝起きてから、事務所で「陽介」の文字を調べると、何と「介」は、鎧の中に入った人の形の象形で、他の動きから 助ける。くぎる。の意味で、今朝のカギかっこ 。」と、同じ意味である事が判った。
「陽」は、岡の上に登る太陽の事である。
其の、太陽の意志を「助ける。他から区別する。」との意味を持つ名前の子供が、神の使いとして、日本に存在している事になる。
私は、其の子供に心当りが有るが、其れを言う事は出来ないのは、読者の皆様も御理解戴けるだろう。
何はともあれ、神の計画が、順調に進んでいる事だけは、ハッキリして来た。
今日は、旧暦の正月3日である。
今年は、新年から目出度い事が、知らされて来た様である。
平成18年1月31日
礒邉自適
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