2005/12/2
「管理完結 (ことばをはずす)」
神様からの伝言板
管理完結 (ことばをはずす)
17・12・2
今朝のメッセージは、と言うより、今朝送られて来た画像は、管理に付いての極まりの様に感じるモノである。
私自身が驚くのは、管理に付いての認識をして、文章を書いて、今日の分で丁度10弾と成る。
今朝は、神が、数遊びをしているかの様に、トウトウ完結の場面構成が、映し出されて来た。
劇場は、山の中腹の建物で、登場人物は、私と他に、男性二名である。
其の建物は、唯一軒だけ山中に存在し、他に人間は誰も居ない。
建物の状況は、柱と屋根が有るだけで、壁が何も無い。
座敷は板張りで、2間の4間の広さで、長い方に1m幅くらいの縁側が付いている。木造で、古びた木質の色の他には、装飾も何も無い。
座敷の他には、台所も無いし、仏壇や仏具、其れに神棚も神具も無いので、寺でも神社でもない。其れから、家具や食器や本など何も無い。
直射日光も当たっていないので、光りも無く、風も無いので風音も無く、小鳥や虫の声もしない。
ただ山中の一軒屋に、三名の男性だけが居るだけである。
向かって、右に居るのは、私より何歳か年長で、左の男性は私より年下の元気そうな若者である。
年長の方は、一重の衣を着流しに着てはいるが、若者の方は上半身裸である。私も、裸ではないが、大した衣服は、身に着けている感じは無かった。
其処で演じられた事は、唯「言葉を外す」との内容が、話されただけである。
右側の男性は、聞き役の様で、何も話さなかった。
左側の若者が、何か理屈を言い掛けたので、私が先に口を切った。
私が話した事は、釈迦の「十二縁起」に付いてである。
私はこう言った。
「釈迦は 人間は行く(すすむ)と 物事が目に着くので 其れに名を与える。名を与える事で 思考が生まれ 言葉を綴る様に成る。そうなると悩みを創り出し 其れで起きる感情が 様々の問題を発生させる。だから言葉を使う事を止めることだ。と云っている。」と、力強く話し、すかさず若者の肩を、平手で強く叩いた。
すると若者は、唖然として 空中を見上げ 茫然自失と成った。
私は、役目を果たしたらしく、縁側に出て、座敷の敷居に腰掛、外の景色を眺めた。すると、年長の方も縁側に出て来て、私の右横に座った。
その人も、感じる事が有ったらしく、満足している波動を送って来た。
そして、黙って、自分の食い掛けの柿を、私の方に差し出した。見ると、もう半分以上は齧っている。私は、其の柿を見て、どうしたものかと考えて居た。
其の御仁は、他には、何も持っていないのである。
最後の残り物を、私に差し出したのである。
私は、断って良いものかどうかの判断に迷いながら、自分の左側を見た。
すると、生味噌が一塊と、穀物を炒った「飯・いい」が、縁板の上に、其のまま無造作に置かれている。
私はどうやら、生味噌と、乾し飯を食べて、生活しているらしい。
私は、相手に「私は 食べ物は有りますので」と、丁重に答えて、其れを辞退した。
そして、景色に目を移すと、遥か向こうの眼下に、町が見える。
私が「町へ降りますか」と訊くと、否との意志表示をした。
私は其処で、「ああこの人は 未だ世間に対して 拘りが有るのだなあー。」と感じて、其の場を去る為に 自分の食べ物の後始末に掛かった。
若者を見ると、未だ、空中を見て居るのだが、其の顔の表情には、悟りの喜びが満ち溢れている。
私が安心した処で、今朝の劇場は終演と成った。
私は、今朝の映像を、忘れない様に反復してから、トイレに起きた。
時間は、午前3時丁度である。私は、再び床に入って大きく息を吸った。
すると、心臓の鼓動音と、自分の呼吸の中に、音色を聞いた。
そして、一つの作業が終わったのを感じた。
6月6日に孔紀氏と繋がり、其の事で、急速に神界が動き出し、慣れないパソコンに必死に立ち向かって来たので、呼吸が浅く成って居たのだ。
そして、其の事が理解されると「自適塾」との言霊が立ち上がって来た。
其れは、今朝の場面の続きが、自適塾で開始されるとの事ではないだろうか。
私は、再び、自分の立場へ還るときを、迎えたのかも知れない。
そうする事が、此処半年の現象を、役立たせる事に繋がるのかも知れない。
12月6日で、孔紀氏と繋がって丁度丸6ヶ月である。
2000年12月6日に、初めて、インターネットにホームページ「木のネット」「森の木」を開設した。其れから、丁度丸5年と成る。
私の考えていた事が、孔紀氏のはたらきで「UPO・世界平和機構」として、10月10日にインターネット上に立ち揚がった。
既に、世直しの旗が立てられたのである。
そして、其れとは別に、ミクシィーと言うサイトも在り、二年間で100万人を超えている。
是は、昭和20年8月15日に、奈良の矢追日聖氏に降りた天啓が、実現して来た事にも成るのではないだろうか。
愈々、私の一人言でしかなかった事が、現実の事として、世間に認識される日が来るのだ。
私は、肉体を持って町の中に降りて行かなくても、こうして、求めている人には伝わる様に、神霊から伝えられて来る画像を、言葉に変換して、届ける事が出来る。
神霊が、21年前に「16年半掛かる。」と云った事が、5年延びたが、其れは神霊にも予想しなかった展開が、起きたからだろう。
人類には、未だ、世界を一つの意識に結び付けた人物は、存在しない。
神霊界でも、始めての出来事なのだ。だからこそ、準備の為に、年月を要したのだろう。
今朝の演劇の建物は、誰も所有しない建物であった。
勿論、私の所有物でもない。誰も管理をしていないし、誰でも自由に出入りが出来て、使用可能な建物である。
人間は、意識が自由に成りさえすれば、自分の所有物は無くても、世界を楽しめるのだ。
其れが「極楽」の漢字「極・きわまった 楽・らく」の意味だろう。
自分の肉体を離れたり、この地球を離れては、極楽は何処にも無いのだ。
無の世界には、無しか無いのである。
「西方浄土」も、言葉のマジックで、何処にも無いのだ。
この素晴らしい、神の意識が現象化した世界の中で、魂しいを磨き上げて行くしか、他に道は無いのだ。
アレアレ、演劇とは違う場面に嵌り込んでしまっている。
是では、言葉を外す事には成っていない。ここらで止める事にしよう。
夫々の立場を、尊重しなければ・・・・
平成17年12月2日
礒邉自適
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