2004/12/4
言葉の拘束力
16・12・4
今朝の霊夢には、女性の顔が出て来て、口が大きく開いていた。
そして、告げられて来た言葉の意味が「言葉の拘束力」であった。
現れて来た顔が、誰であるか考えて見るが、現世の人には、心当りが無い。
霊界人か、神霊で考えるならば「岩長姫」である。
岩長姫とは、「大山祇神」の娘で「木花之開耶姫」と一緒に、「天津日高彦火瓊々杵尊・ににぎのみこと」の妃に成ったが、顔が醜かった為に、実家に帰されたと伝えられている。
父親の大山祇神は、美しいが丈夫ではない娘に、身体が頑強で、何でも出来る岩長姫を付ける事で、二人の娘が両方共、幸福に暮らせるとの親心で、一緒に嫁に出したのであろう。
木花之開耶姫は、最初の子供を産んだ処で死んでしまうが、神として、全国に祭られている。
一方岩長姫の方は、その話のままで終わってしまっている。
丈夫で、何でも出来た娘が、顔が醜かったので帰されてしまった。
それだけの物語で、存在が消えてしまっているのである。
その短い物語は、短いだけに拘束力があり、他へ意味を広げる事が出来ない。
言葉は、人間の思考を広げもするが、閉じ込める事も又可能である。
一つの言葉が、人を救いもするし、不幸にもする。
言葉は、人間に取って、一番重大な働きを持っている。
日本には、神社等の儀式で唱える祝詞が在るが、そんなに長い文章ではない。
インドの、仏教の経典も澤山在るが、釈迦が伝えた言葉は、そんなに多くはなかったであろうし、イエスキリストの言葉も、そんなに多くはない。
聖書は、何人もの弟子が、同じ場面でのイエスの行状を、其々に伝えているので、書物として厚く成っているだけである。
言葉は、長ければ長い程、意味合いが薄れ、心に残るものが少なくなる。
せっかく唱える祝詞も、長くなれば、神様も嫌がって逃げ出すかも知れない。
短くて、単純な願いの方が、受け入れ易いのではないだろうか。
「言葉の拘束力」とは、その様な意味合いの事ではないのだろうか。
男性から、女性へのプロポーズの言葉も、長かったから、上手く行ったとの話は余り聞いた事が無い。
成功した例は、殆どが単純明快な短い言葉の様である。
今朝のメッセージは、私が告げる言葉が、拘束力を持つ様に、短くて、確かな意味を持つ事だけにしろとの理・ことかも知れない。
今日の、読売新聞のコラム編集手帳に、詩人の長田弘さんの「言葉のダシのとりかた」と言う題名の詩が有り、
「かつおぶしじゃない。まず言葉をえらぶ。大きくてよく乾いた言葉をえらぶ」
「だが まちがってはいけない。他人の言葉は ダシには使えない。いつでも 自分の言葉を使わねばならない」云々と、載っている。
私へのメッセージと、新聞の記事がシンクロしている様だ。
神は無言ではあるが、確実に、私を運んでいる様である。
平成16年12月4日
礒邉自適
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