2001/11/11
軌道
13・11・11
昨夜は、一時過ぎに床に就いた。
そして、目を閉じたが、なかなか眠れないで居ると、意識の中に、澤山の軌道で光の点が回転しているのが映って来た。闇の中に、澤山の光が、無限に回転しているのである。
太陽系の惑星運動の様に平面ではなく、縦横無尽に、澤山の光の粒が高速で飛び回っていた。それは、原子の世界の電子の働きの様にも想えた。
原子運動の様子は、陽子を中心として、電子が、其の周りをランダムに飛び回っていると言う。私は、実際に、其の現象を見た事は無いので、ハッキリそうだとは言えないが、これまでの情報から、その様な動きだったと、謂うしか他に説明ができないのである。
私は、ここ数日「こころ」と言う日本語に、当て嵌まる漢字を捜しているが、私の気持に、ピッタリと当て嵌まる文字が無いので、気にして過ごしていた。
その答えが、今朝、未明の意識が捉えた映像なのだろう。
日本語の「こころ」とは、人間の意識は、環境の情報に因って「コロ コロ」と変化する意味から来ている。其れは、インドの釈迦仏陀の方便の中にも、語られている。
こころは、漢字の使用では「心、情、意」と有り、「心」とは、心臓の形の象形であるので、人間が動揺した時に、心臓がドキドキするからであろう。
「情」は「忄(心 )+青」で、青は混じりけが無いの意味で、混じりけの無い心の意味である。
「意」は、「音+心」の組み合わせで、人の口に上がる、言葉・音とは成らない心の意味で、言葉になる前の「意・おもい」の意味を表すとある。
(漢語林)
でも、此の三つの文字では、「こころ」の正体は分からない。
心を、意識の状態と考えれば、心は、全て脳の働きから産み出される、電気信号に因る環境情報と、それに因って引き起こされる、生理的化学反応と言えるだろう。
それであるならば、「こころ」は心臓に在るのではなく、脳細胞が総てを司っている事になる。
人間の脳は、電気信号に因って動く巨大コンピュータである。
私達は、過去の情報の集積に因って、未来創造の条件付けをしているに過ぎない事になる。そうであれば、人生体験の豊富な者が、「こころ豊かな者」と言う理・ことに成る。
「こころ豊かな者」の意味を、漢字で探すと「考」が有る。
考は、体験を積んだ老人の意味で、反対の意味は、「思」の文字で、子供の思い付きのこころの意味が有る。
子供達には、環境に因る情報はまだ少なく、目の前に有る食物や、オモチャに振り回されて、確立されたこころの状態は無い。
人間は、子供の時から、与えられた情報に因って、生きる道の方向付けが、されて行くのである。だからこそ、子供の時から、教育が重要視されるのだ。
私は、現在54歳で、老人と呼ばれるのは少し早いかも知れないが、体験数から言えば、普通の老人を超えているだろう。
私が、これ迄の人生を振り返って見ると、「こころ」とは、本来無いものだと言う事がハッキリして来た。
だから「こころ」の文字を捜しても、文字が見付からないのである。
あえて、此れと言う文字を選ぶとすれば、「謂・イ」の文字がある。
「謂」の漢字は「言+肉+米」の組み合わせで、言葉は胃袋の中の穀物からだとの意味で、何を食するかが、意識の元だとの考え方である。
「意識・こころ」が言葉の基・もとであり、意識は脳細胞が産み出し、脳細胞は血液から出来、血液は食物から作られる。
其の物理的要素からも、食物がこころの基だと言う考え方は、正しいと認めない訳にはいかない。
その食物も、細胞で出来ており、細胞も、原子運動が現象化したものである。
今朝、私の脳が見た現象は、その原子が、自分の運動を、私の意識の中で、みずから視た事に成る。
私の脳は、自らの始まりを確認した事に成るのだ。
人間は、言葉が無ければ、認識作用が起こらないと言われているが、其れは、他人とのコミュニケーションが行われる場合であって、自分の中では、言葉ではなく、潜在意識の世界で映像として見ているのである。
其れを、いつの時代かに、絵とし、言葉として来たのだ。
言葉や、文字や、絵の次元を、通り越してしまえば、其処には、言葉がもはや存在しない世界がある。
其処には只、原子の運動が有り「コスミックダンス」が起きているだけなのだ。
私の認識では、「こころ」とは「原子舞」と書く事しか、今日の処はないだろう。
其れは、人類だけの世界ではなく、森羅万象に通じる認識作用であると、言葉に出来る領域である。
平成13年11月11日
礒邉自適
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