2001/11/12
心の御柱
13・11・12
今朝の夢の映像は、港から船が出航する場面で、港の内側の水面に、柱が出て立っている。
其の柱が邪魔なので、私が取り除こうと意い、水の中に潜って、その柱の根本を見てみた。すると、其れは、人工的に造られた檀の上に、立てられている事が分かった。
誰かが、岩礁の目印として、造った物であるらしい。
夢は、そこで終わった。
朝起きて、昨日まで、数日読んでいた本「古代神道天皇家の謎」(関裕二著)の続きを読み始めた。すると、「心の御柱」の事が書かれている。
・・・「心の御柱」とは、伊勢神宮の20年に一度の遷宮に際し、真っ先に、山からこの柱のための木材が伐り出される。
造営する時は、先ずは、最初に、この「心の御柱」を立てるというから、よほど大事な柱なのであろう。
さらに、20年後、この宮が壊され、隣に新たな宮が立てられた後も、この柱だけは残され、小屋を建てて守られるのである。
「古代神道天皇家の謎」には、この「心の御柱」を祀る事ができるのは、特殊な巫女に限られていて、其れが「大物忌・おおものい」と言う童女であったとの事である。
朝廷から、「斎宮・いつきのみや」に派遣された「斎王・いつきのみこ」も、他のいかなる位の高い神職でさえも、何故か、この大事な御柱を祀る事はできないのである。・・・ と 書いて有る。
この文章を読んでいて、私が、今朝の夢で見た、水面に出ていた柱は、この「心の御柱」を暗示するものだったのではないかと、感じたのである。
日本の神道では、水を大事にし、神社に入る前に、手や口を清める作法をとる。そして、水を溜めている、御手洗には「心洗」と書かれている。
水は、心を清めて、神の世界に入る為には、欠かせぬ物らしい。
今朝の夢では、水の面・おもてに1メートル位の柱が一本立っていた。
其の柱は、神の世界から、現世に目印として、顔を出しているのではないだろうか。
人間の目は、顔の前方180度くらいの範囲を、漠然と視ている。
何か、危険なものを見付けたり、赤く熟れた木の実を見付けた時は、その一点に注意が集中する。
一点に意識が集中すると、今度は、全体的な状況が見えなくなる。この仕組みは、人間の脳の仕組み、其の儘の現れでもある。
人間が、何かを意識する時は、意識を一点に集中しなければならない。
此の「心の御柱」の役割とは、意識を一点に集中させる為の、物ではないだろうか。
神社を建てても、大きな建物に成れば成る程、人間の意識は、其の施設の何処の何を、見て良いやら分からなく成り、意識は繁雑に成ってしまう。
その事を防ぐには、安定した一定の場を定め、其処に意識を集中する為の、何らかの、目に見える、確かな物体が必要である。
しかも、その物体は、人間の背丈よりも高ければ、人間の目が上下に振れてしまうので、目線より下で、動かない物でなければならない。
そう考えれば、地面に埋めてあり、少し顔を出している柱は、一番理に適っていると言えるだろう。
その柱を祀るのが、童女であると言うのも、謎が解ける。
おとなに成ると、様々な情報・雑念が頭に有るので、意識が集中できないが、童女ならば雑念が一切無い。柱の前に額づけば、神霊が、そのまま童女の意識を、使用する事が出来るのである。
私が、屋久島で、神の世界に飛び込んだ時、私をサポートしてくれたのは、皆二〜三歳の童・わらべ達であった。
不思議な事に、二〜三歳の子供には、絶対知り得ない情報で、私を導いてくれたのである。
古代の儀式は、「潔ぎ祓い」が中心であり、如何に、純粋意識に成るかが、最大の課題であった。
現在の、神社や、寺院で、行われている儀式には、その純粋さが欠けている。
御利益とかの願望意識は、儀式では、本来穢れとして祓うものであって、邪魔でしかないものである。
純粋意識で、一点に心を集中する、その為の方法が、伊勢神宮等の、自然の中に造られている神社の伝統儀式なのだ。
禅宗で行われる座禅も、同じ様に、意識を一点に集中する為の方法であり、目線が大事とされ、1メートルぐらい前方の場を、見つめて行うのである。
其れも、意識が「彷徨・さまよう」事を、防ぐ為の方法である。
今朝の夢に出て来た、水中に出ていた柱は、自然そのままではなく、人為的に、意識を集中できる物を、用意せよとの事であろうか。
そして、岩壁を離れたけれど、港を出て行かない船の意味は、何なのだろうか。
岩壁を離れる事は、出家とか、彼岸へ渡る為に、人間社会より出て、神の世界に出発する事である。
そして、その船は、行き先が決まっているわけではないので、港から出港する必要は無く、意識の中に、神の御柱を立てろと言う事なのだろう。
神社は、その為に必要であり、大事な理を伝える為に、存在してきたのである。神社で、儀式が続けられていなければ、私の意識も、それを捉える事が出来ないし、神霊達も、メッセージを人間に伝える方法を他に持たないのだ。
本来の神社の役目が、段々と見えて来た、今朝のメッセージであった。
平成13年11月12日
礒邉自適
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