2002/2/8
10円玉
14・2・8
今朝の霊夢には、10円玉が一個だけ出て来た。
一昨日、昨日と続いて、私の関係する人と場所に、大きな転換が訪れ、どうなるかと気を揉んでいたが、今朝は10円玉が出て来て「何だろう」と考えている。
「玉」は、丸いの意味で、円も丸い理・ことを表している。
数字の「10」は、「十・とう・ジュウ」で、完成の意味の「トウトウ完成した」とかに使用する様に、「十分・ジュウブン」の意味を持っている。
「十分丸くなった」、「完成した」との意味が、今朝の知らせなのだろうか。
他には、何もメッセージはなく、10円玉が一個映って来ただけなので、他に意味を探りようがない。
今朝の映像は、私の身の回りの変化に対して、私が動揺しない様に、全て丸く収まっていると、示してくれたのであろうか。
天の動きと、私は、相互扶助の様な関係に有る。私が居なければ、天の意志を受け取れないし、天の働きを認識する者がいない事に成る。
天・神は、人間界に認識をする者がなければ、働きが無意味になるので、まず天の働きを認識できる者を、育てる事から始めるのである。
人間界に、其の者が準備出来てから、全体を動かし始めるのだ。
其の者が、新しい「座標軸」となり、神の計画の「ウツシ」が、この現象界に現れて来るのである。
其の者が、日本語の「現人神・あらひとかみ」で、別の言葉で言えば、聖書で言う「義人」であり、新しい「王」でもあるのだ。
其れを、質量的に説明すれば、新しき「特異点」とも言えるだろう。
物が動くとき、中心的存在がなければ、皆バラバラに散ってしまい、物事の完成が出来なくなる。
天の座標軸であり、また物質面での特異点に、選ばれた者の名が「メシヤ」であり「王」である。
インドでは、2600年ごとに「転輪聖王(チャクラ・ブルティン)」が現れると言う。日本では、丁度、神武天皇から2600年が経過している。
正に、その時節を迎えている事になる。
此処で言う「王」とは、権力を持って民を搾取する王ではなく、一切、所有物を持たない「聖なる王」の理・ことであって、軍隊を持って、囲いを作る「國(国)」の意味の王ではない。
簡単に言えば、ブッダとなった釈迦に、国の政治を任す様なものである。
「天・神」が育てた人物が、天の意志の通りに、此の世を創造し、民を導き、その様子を認識し、情報として天に送り、また其の天から、新たな情報を受け取って、民や物を動かして行くのである。
その人物の名が「聖者」であり、日本語では「霊(日)知り」の役目である。
だから、天と人間には、切っても切り離せない、関係性が有ると言う事になる。
中国の老子は「天は大なり、地も大なり、そして人も大なり」と謂っている。天と、地と、人が、一体と成り、調和してこそ、人類に平和が齎されるのである。
処が、現代の世の中は、人間の欲望だけが先走りしており、天の意志を受け取る者が少ない。居たとしても、それは煩悩を抱えたまま、霊界にいる霊に動かされて、宗教や権力を欲している者である。
「天・神」は、一度に二人の王を育てる事はない。
何故なら、二人の王を立てる事は、わざわざ問題を起こす様なものであるからだ。
「座標軸」とは一点であり、「特異点」も一点である。
一個のピストンを動かすのは、一個の軸でしかない事と同じである。
人間でも、馬でも、昔から「旋毛(つむじ)」が二箇所有るものは、喜べないのと同じだ。
中心が、一箇所に在ってこそ、円は丸くなる。そして、その中心が動かずにジィーッとして居てこそ、渦は強く回り出すのである。
今朝の10円玉は、一個だけであった。
中心的役割を果たすには、どのようにしたら良いのか、そのマニュアルは無い。「芯」と言う漢字は、「草の心」で出来ている。芯とは、葉の細い蘭の一種の理・ことらしい。芯とは、出来るだけ細いほうが良いらしい。
西洋の言葉に「ホッカムリのカミソリ」と有り、其れは余計なモノを全て削り取って行き、最後に残った芯が真実であるとの意味らしい。
余計な情報を、全て削ぎ落として純粋な立場に成った時、其のコトが理解できよう。
日本の「神惟らの道」も、「みそぎはらい」が原点であり、釈迦の教えも「精進」である。
ますます「聖の道」は、険しさを求めている様である。
平成14年2月7日
礒邉自適
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