2002/8/24
父ちゃんはお前を大事にしている
14・8・24
今日は、自宅の裏に溜っていたカンナくずや、古い板切れ等、家の修理で出た木屑を、山の方の実家へ運んで焼いた。
帰りに、仏壇の父親に挨拶をすると、誰かの口調で「父ちゃんは お前を大事にしている」と、云われた。
「父ちゃん」とは、私が17歳の時に、49歳で死んだ父親の事だと思うのだが、それを云って来た霊が誰だか判からない。
私に身近な霊魂は、父親と、両方の爺婆と、直ぐ下の29歳で亡くなった弟ぐらいのものである。
「父ちゃん」との言い方は、自分の身内の霊であろう。
其の言い方からすると、私の父親は、私の事を守護している事に成る。
だが、「大事にしている」と云われても、現状は、とても恵まれているとは想えない。母親の家・私の生家は、他人には、絶対に見せられない状況である。
雨漏りが有るし、床は落ちて、普通には歩けない状態である。
82歳の母親が、何時、足を踏み外して、床下に落ちるかも分からない状態である。そんな状態の、母親を見て心配している私が、護られているとはとても想えない。
父親なら、自分の妻である、私の母親を、一番最初に、心配の無い状態にするはずである。そう想うのが、子供の普通の心境だろう。
その私の自宅も、18年間で白蟻が一生懸命に食べたらしく、修理が大変である。材料を買う金も無いので、修理も能率(ラチ)があかない。
女性のパートナーが欲しくても、食事に誘う金も無いので、デートも出来ない。
何もかも、遣りたくても、何一つ、積極的に動けない状況である。
この様な状態で、何故、大事にしているのだろうか。
18年前、全てを止めて、精神的な世界に入らなければ、今は大金持ちに成っていた事は、現在の屋久島の状況を見れば分かる。
大成功者に成れたはずなのに、そう成って行く寸前に、私に全てを捨てさせているのだ。
そして現在は、白蟻と共同生活をしている。
とても、大事にされているとは想えない。だからと言って、私が不幸かと言うとそうではない。どちらかと言うと、精神的には、幸せな状態に在る。
では、どうして、現在私が、大事にされているのか考えて見ると、心当たりが無いでもない。
それを、一口に言うと、「私に 人間社会の煩わしい事を 一切させないで 自由にさせている」と成る。其れなら、私も「ナルホド」と納得が行く。
大きな事をする、事業家に成っていれば、毎日、人間関係や金の事に振り回されて、お盆か、正月位しか、頭の休まる暇・ひまが無いだろう。
私は現在、明日の日程が、何時も決まっていない状況なので、何かを、しようとさえ思わなければ、何も困る事は無い。何かを、しようとするから、資金や物や、人が必要と成って来るのである。
私は、実際の処は、寝る家も有り、食物も、皆が差し入れて下さるので、不自由はしていない。
釈迦仏陀や、イエスキリストよりは、ずっと恵まれている状況である。
何故、この様な状況に、追い込まれたのだろうか。
「追い込まれる」とは、悪い時に使う言葉だが、「善い方向に追い込まれる」とは、私が使ったのが初めてかも知れないが、4311人の霊魂に、この道に追い込まれたのだから、表現が間違っているとは思わないが、とにかく追い込まれて来たのである。
18年間、外に逃げ出す道は、無かった様に思える。
私は、他の人が出来ない役目の処へ、無理矢理に引き込まれているのだ。
私は、自分の体験から、「導かれた」とやさしく言う事に対し、少し抵抗がある。18年間、自分の子供達とのクリスマスも、正月も無いのだから、父親不在の子供達が、どんなに寂しい思いをしたかを想うと、心が痛むだけである。
其処までの気持ちにさせながら、私に、何をさせようとしているのだろうか。
私が、自分で知る処だけを述べると、
1.神のメッセージを受け取って、人間界に知らせる事。
2.新しい時代の創造をする為に、知恵を付ける事。
3.現在まで続いている、文化や伝統の本来の意味を知る事。
4.霊界人の念いを叶えてやる事。
5.神の存在と霊界の実在を、皆に認めさせる事。
6.新しい世の中を創造する為に、今世の役目を持っている人を捜し出して
結び会わせる事。
7.若者達を良い方向に導く方法を取る事。
8.大きくは地球の環境を守り、小さくは自分の家族を幸福に導く事。
9.新しい価値観を創造し、宇宙に新しい記憶として残す事。
10.万人の幸福をはかり、調和を祈る事。
等、気持ちを書いて行けば、幾等でも出て来る。
文字にする事は、実に簡単だが、実際に行動に移すと、何かと、難しい状況が生れて来る。だからこそ、要は私が諦めない事なのだ。
私が頑張って、存在を続けなければならない。何故なら、私の存在を中心として、新しい社会を組み立てる為に、霊界が働いているからである。
其れを、私は此の神の世界に入った時、「新しい事象の特異点」又は「神が 新しい図面を引くための 座標軸」と、説明できる事を教えられた。
こんな風に書くと、私が権力者か、人類の指導者であるかの、受け取り方をされかねないが、そうではなく、私は、神社の神主的役目で、現象界には直接関係してはいけない立場である。
だから、私には、家族や資産や金も持たされていないし、財産も権力も0なのである。それでこそ、神の役目に立てるのである。
「大事」とは、「重要で根本にかかわる事。かけがえの無い事。」仏教用語では「出家する事」等の意味であり、漢字の「事」の意味は「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結び付けた札を手にした形にかたどる。祭事にたずさわる人のさまから、しごと、つかえるの意味を表す。」と 載っている。漢語林
其の、象形文字からも解る様に、「事」とは神との繋がり・むすびの為に勤める者と、その行事のことを意味している。
私が、現在行っている事も、その様な意味合いの事である。
この世で、一番大事な理・ことわりは、神との繋がりを、はかる事に努めること。其れを、仕事とすることらしい。
私が、大事にされているのは、その事を、実行する為に、守られているとの事だろう。
私も、普通の人間である。お金が有れば、自分で考えた事を、どんどん始めてしまうだろう。
そうすると、個人的な生活と成ってしまって、神の御用に立つ事が出来なくなる。私は、ただ毎日を、自分の考えを出さない様につとめ、此の侭の状態を続けるしか、他に道が無い様である。
大事にされると言う事が、どんな意味なのか、又一つ認識が深まった事になる。
「大事の前の小事」という諺もある。
私の行動で、人々が、神に対する信用を失ってしまう事に成れば、何にも成らなくなる。
私自身の、行動や言動も、大事と考えなければならないのである。
私の自身の生活の日々が、大事なことに、成ってしまっている様である。
平成14年8月24日
礒邉自適
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