2002/10/24
よみどの大神
14・10・24
今回の旅は、9月24日に屋久島から車で出発して、10月20日に帰島した。
9月26日、27日は、熊本で「荒井信介氏」の動きにお付き合いし、10月6日には、大分県久住町で開催された、幸野敏治氏「河童クラブ代表」の大野川河川シンポジウムに、パネラーで出演し、10月15日は愛媛県大洲市の、少彦名神社の秋の大祭で挨拶をして、最後に中山町の事務所を引き払い、中山町役場より転出証明を貰って、車一杯に積み込んだ荷物と一緒に、屋久島に帰って来た。
今年の9月10日に、「10・6」「提出」とのメッセージが有ったが、10月6日の大野川シンポジウムには、私が自ら提出した物は何も無く、私が出席者に配った物は、グリーンクラブのインターネットホームページ上の、トップ画面のコピーだけだったのだが、会合自体に提出された資料の内容は、河川の保護と植林に付いてだった。
出席者は、大野川の支流や源流の、大分県、宮崎県、熊本県の方々で、河川を守る運動や、植林を行っているグループの面々で、100名程であった。
シンポジウムが2時間余り続いて、第二部は天波博文氏のコンサートで、私と幸野氏のトークを入れながら一時間チョットあり、私は其の話の中で、「三名の共通点は、私は屋久島の安房川の辺りに住み、天波氏は熊本県の球磨川の辺りで、幸野氏は大分県の大野川の川辺りに住んでいる。」と話していたら、翌日7日午前8時8分に、「木の国・和歌山県・紀の国」の川辺町で、震度3の地震が起きた。
私は、川辺の地名が気になり、和歌山が「木の国・紀の州」と呼ばれるのは、素戔鳴尊が木を植えて回った事に、起因しているとの事なので、其れらの事を考えると「10・6」と「提出」のメッセージは、国土保全の為に木を植えて回った、素戔鳴尊とその子供達の想いの、現われの様な気がしてならない。
もう一つ、地震と言えば、大洲市で10月13日午後7時6分に、震度4の地震が起きた。
その時間に、大洲市に住む芳我美光氏と話していて、芳我氏に新しい仕事の話が有って、その内容を聞いていて、私が「それは良い話だから、是非やった方が良い。」と、云った時の地震であり、1時間位後に、私の手作りの、イチョウの木で出来たマナ板をプレゼントしたら、もう一回地震が有った。
これは、「食・マナ」を大事にした社会の、新しい組み立てを「神(少彦名の命?)」が、応援している証しではないだろうか。
今年3月25日に、「10・8」の数字が出て、何が有るのか気にしていたが、10月8日は高森町に住んでいる小田原氏に、高千穂を案内して貰い、高千穂神社に参拝し、帰りに、「草部吉見(くさかべよしみ)神社」に立ち寄った。
「高千穂神社」の祭神は、神武天皇の兄「五瀬命」で、「草部吉見神社」は祭神として、神武天皇の第二夫人「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女」の長男「日子八井命(ひこやいのみこと)・彦八井耳命)」と、その子孫を祭っている。
それと、媛蹈鞴五十鈴媛命の二男「神八井命・かみやいのみこと」の御子の「健磐龍命・たけいわたつのみこと」は阿蘇一宮である「阿蘇神社」の御祭神と成っており、其の息子「速瓶玉命・はやみかたまのみこと」は「国造神社」の御祭神と成っている。
其れ等の事から、宮崎県から阿蘇地方に掛けては、神武天皇の身内が住んで、多くの子孫が居る事が分かる。10月8日には、これらの地を回る事に成った。
1993年7月13日に、「筑紫の夜明け」の文章を蘇陽町で書いてから、9年が経っている。ようやく霊界の作戦が、実を結んだのであろうか。
私の精神状態も、静粛を迎えているので、上手く進んでいる事は間違い無いのだろう。
10月9日には、小田原氏に福岡市内に在る「熊野神社」に案内して貰い、社の前に立つと「名前を与える」と告げられ、私が怪訝(けげん)にしていると、「他の人間に 与える事は 出来ないから」と、重ねて告げられた。
私は、神名などを欲して、これ迄続けて来たのではなく、体を借りに来た4311体の霊界人が、早く成佛してくれれば良いと、それだけを想って来たので、今更、名前など貰っても全然嬉しくはない。
それでも、神社の祭神が困っている様なので、由緒書きを読んで見ると、熊野神社の祭神は「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」だが、合祀させられたのが「道祖神社」で、本々は道祖神が祭られていた場所らしい。祭神の名は「クナドの神」で、又の名を「道反大神」「黄泉大神」と言うと説明されている。
此の神は、現世と、あの世(黄泉の国)の間に存在する神らしい。
有名な「猿田彦神」も、高天原と現世の間に位置する神で、道祖神とされているので、同じ働きの者だろう。
由緒書きの中には、「此の神は 巨石を以って 象徴され、街路坐(みちにま)して悪霊を防ぐとされ、『船戸神』『久那斗神』とも呼ばれている」とある。
この神の働きは、この世とあの世の間を司るもので、サイの河原を牛耳るサイの神であり、名前を書き出すと「道祖神」「道反大神」「塞其黄泉大神(さいにますよみどのおおかみ)」「黄戸の大神」「岐神(ふなどのかみ)」「久那斗神」「船戸神」、そして、人間としては「猿田彦の神」と成るようである。
1984年の夏、北九州市小倉の「瑜伽神社」の境内に有る「猿田彦神」の石碑に、御手洗(みてらい)の水を掬って掛けたら、「猿」の文字の窪みに、5円玉と1円玉が二個現出した事があった。
私は、其の金額が合計6円に成るので、「あの世への 渡し賃の6文銭かな?」と思っていたが、18年間の私の旅には、この神の働きが付いて回っていた事に成る。
今回の旅も、猿田彦神を信奉している女性に頂いた二枚の航空券で、小田原氏に屋久島に来て貰い、屋久島の岳参りの行事で、中島権現様に登山して貰った事に、端を発している。
私は、今回の旅で、住所を屋久島に戻す事に成った。
私の18年間の旅が、本当に終了した事になった様だ。これから、多くの人達が、屋久島の私を訪ねてくる事になるだろう。
屋久島は、森と水の豊富な島である。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」は、アワギ原で禊ぎをして神の働きに目覚めているし、イエスキリストや、釈迦仏陀も、水で禊ぎ祓いをして悟っている。
「悟る・覚醒」とは、この宇宙が、闇の中に誕生した時点からの、記憶を取り戻す事でもある。
闇の中に、宇宙が誕生する、その場面が黄泉である。
「黄泉どの大神」とは、人々を本来の意識に目覚めさせ、覚醒させる働きの事であろう。
私に、其の名が当て嵌まるかどうか、これからの働きを見てみなければ分からない。其れに又、神に唆されて、自分の人生を棒に振りたくはない。
18年間も、無理矢理に付き合わされて、正直な処、もうウンザリである。
平成14年10月24日
礒邉自適
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