2003/6/28
女と男
15・6・28
今朝は、女の人と男の人の姿が映って来た。
男女とも40歳位いで、一番充実している年代の様子であった。
男女とも、私が見た事が無い人で、別々に出て来たので、夫婦と言うわけでも無いだろう。言葉も無かったので、何処の人だか判からないが、東洋系の人間だった。
女性の方が、前に現れて、男性の方は後に映って来た。
女性も、男性も、上半身だけで、手に何も持っていないし、行動も無く、建物も見えないで、唯上半身の服装と顔の表情だけが見えた。
女性は、暗めの色の網目の服を着ており、化粧はしていないが、それなりに美しく賢そうで、静かに座っており、視線は少し伏し目勝ちだった。
一方男性の方は、背筋を伸ばして顔は真正面を向いており、顔も姿も自信あり気に輝いていた。
メッセージの映像は是だけで、言葉も文字もないので、何を伝えて来たのかは良く解からない。
私には、大事な理・ことの様なので、映像の意味を良く考えて見た。
是は、人間の本質の事を、告げて来ているものと想われる。
遺伝子の情報か、人類の潜在意識に関わる事の様で、男と女の役割や、性質と言うよりは、動物全体の、雄雌の関係性までを、視野に入れて考えなければならない様である。
一般的に考えれば、鳥や昆虫等は、雌は地味な色や格好をしており、雄は出来るだけ派手な格好をしている。
人間の女性の様に、雌の方が目立つ格好をしているものは少ない。
異性を選ぶのに、雌の方が努力をしているのは、人間の世界だけである。
人間だけが、雌の方が、雄に媚を売る仕種をするのは、どう言う理由が有るのだろうか。
私が考えるには、人間以外の動物の雌は、自分で食糧を確保出来るが、人間の雌だけが、自分で食糧を確保出来なく成った為に、化粧をして、雄に餌を運ばせる事を想い付いたのではないだろうか。
動物の雌は、雄に努力をさせ、自分は出来るだけ目立ない様にしている。
人間は、男性の方が、女性を選ぶ権利を有している感があるが、動物の方は、殆どが雌の方に選ぶ権利が有り、雄は雌に気に入って貰う為に、一生懸命努力をするのである。
それは、純粋に、優れた子孫を残す為であり、人間の様に、地位や資産等の有無を、相手を選ぶ目安とはしない。
動物の雌は、如何に、優秀な子供を産んで育てるかに、命を懸けているのである。
自然界の動物は、子供を育てる事が第一の目的であるので、自分の身体が外敵に見付からない様に、子育ての現場に溶け込んで、目立たない様な色彩を採っているのである。
一方、雄は縄張りを護る為に、声を大きくしたり、姿を派手な装いにしたり、角を構えたりして、他の雄よりは上位に立とうと努力する。
今朝のメッセージは、人間も、本来の姿に立ち返れとの事ではないだろうか。
暗目の網目模様の衣服は、出来るだけ目立たない事を意味しており、地面で卵を抱く母親鳥の姿を思い出させる。
雉や山鳥等の雌は、人間が近付いても、足で踏みつけるまで巣を離れない。
人間には、母親鳥が、其処に卵を抱いて居る事は、鳥が飛び立つまで見分けられない程に、その場に溶け込んでいる。
其れは、人間の軍隊の兵士が、緑と茶色の斑模様の迷彩服を着て、敵に見付かり難い格好をしているのと同じ事である。
化粧もせず、地味な格好をしている事は、人間の母親が、子供を家に置いて、着飾ってパーティに出掛けるのとは、反対の処にある。
現代社会は、子育て中の母親が化粧をしているので、子供にとって、母親の匂いは化粧の香りとなっている。だから、大きく成ってからデパートに行くと、化粧品売場で、懐かしい母親の香りと出会う事になる。
私達の子供の頃は、母親の匂いは、牛乳石鹸の香りくらいのものだった。
それと、ついでに言うなら、父親の匂いは、畑の仕事帰りにおぶって貰った、汗臭い背中の香りである。
私には、母親の風呂上がりの石鹸の香りと、父親の背中の汗の臭いが、両方とも、親の姿と伴って、思い出として残っている。
その思い出は、確かに、自分が両親に、命懸けで守られていた事の証しとして、自分のアイデンティティーを支えてくれているのだ。
私の父親は、49歳の時、働き詰めの儘死んだので、今朝映って来た男性の様に、自信に満ちて輝いていたとは言えないが、心に恥じ入る事は何も無く、此の世を去ったと想われる。
自然の生き者達は、自分の栄華を極めようなどと想っているもの等、一匹も居ない。美しく見えても、其れは自分の本質を、目一杯発揮して輝いているだけである。
身を飾る材料も、殆どが、自分の体の細胞を、変化させた自前の物である。
人間の様に、石油で出来た不自然な物を大事な膚に塗ったり、借金をしてまで宝石などを身に付けたりはしない。
自然の生き物が、美しく身を飾るのは、花や昆虫や小鳥も皆、生命を継続する為の、純粋な目的の為だけであり、不純な動機など一切無いのである。
今朝のメッセージは、子育てをするのには、どんな母親が一番相応しいか、男性は本当に雄としての資格があるのかを、考えろとの事ではないだろうか。
現代社会には、様々な問題が起きている。
それは、人間はどう生きたら良いのかの、指針が失われている事が、最大の原因と成っているのではないだろうか。
あまりにも、余計な事が多すぎて、方向性が見えないのである。
子供の時から、どんな大人に成りたいとの目標が無ければ、道を真直ぐに進んで行く事は出来ない。
現在・いまの社会には、お手本と成る大人像が無いのである。
居たとしても、子育てに真剣に取り組んでいる人達は、マスコミにはなかなか登場しないし、マスコミを賑わしているのは、普通の生活とは直接関係のない、スポーツや芸能の世界の人達ばかりである。
出来るだけ、目立たない様に努力している母親像と、何も持たなくても、魂が光り輝いている父親像が、目安として出て来なければ、子供達がかわいそうである。
一生、物を追い続けている大人達の姿は、もう子供達も、見るのが嫌に成っているだろう。
其れ等に付いて、私にも是まで、具体的な方法論が有った分けではないので、今朝のメッセージの映像は、私に思考の糸口を、与えてくれたような気がする。
この様な文章を書く事は、余り無いと想うので、母親との思い出を最後に少し書いてみる。
私が小学生の頃、母親に「お母さんは どうして 他の人みたいに 化粧をしないの」と尋ねたら、「お父さんと結婚して 一緒に外に出掛ける時に 化粧していたら お父さんが『どうして化粧をしているの』と聞いたので 『外に出掛けるから』と答えたら 『誰に見せるのか 化粧するのだったら 家で 私の為にして見せてくれ』と言われ 其れから化粧はしないので 化粧品も無いのよ」と、教えて貰った。
私はその時、子供ながら妙に納得が行き、両親を好きになった事がある。
其の父親が49歳で死んだ時、母親は43歳の女盛りであった筈だが、父親の骨を墓穴に沈めて土を掛ける時に、皆がビックリする程の大声で、父親の名を呼びながら泣き崩れた瞬間、女の性(さが)が吹き飛んでしまったのか、それ以後、母親から女の色気を感じ取った事が無い。
東京生まれで、東京育ちの女性が、上は未だ17歳で、下は5歳迄の子供を5人も抱え、親類が誰一人居ない屋久島で生きて行く事は、大変な想いがあっただろう。
「女は弱い されど母は強い」との諺が有るが、女性にとって、子供とは命を懸けられる最大の対象物なのであろう。
私には、そんな母親像と、早死だったけれども、社会に尽す父親像が手本と成って、現在の精神を支えてくれている。
私にとっては、両親の姿が一番の財産と言えるのである。
今朝のメッセージは、女性の姿と、男性の姿が、自分の両親ではなく、見知らぬ人だったのは不思議なのだが、私の思考に流れ込んで来る情報源が、私一人の個人的な事ではなく、全体的な要素を含んでいる事を、知らせて来ているものと想われる。
今朝のメッセージに出て来た人が、何処かに実在して、世に知られるのを待っている事を期待して、今日はペンを置く事にしよう。
平成15年6月28日
礒邉自適
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