2003/12/7
裸足
15・12・7
今朝は、少し変わった夢を見た。
明日12月8日は、インドのお釈迦さんが覚醒した日だから、其れに関係が有るのだろうか。
今朝の霊夢は、私が、自分より年長の男性と、同じ建物の中に居て、何処かに出掛ける準備をしている処から始まった。
相手の男性は、私の父親か、祖父か、先祖の人かはハッキリとしないが、人生の先輩である事は確かで、私は、其の人に付いて行かなければならない様なのである。
其の男性は、自分の荷物を纏めると、その荷物を担いで立ち上がり、部屋の外に出て行った。私も、急いで部屋を出て、戸口に立った。
私より、前に部屋から出て行ったその人は、素足のまま外に出て歩いて行く。
私も、建物の外に出ようとして、土間に下りたのだが、足の裏に違和感を生じて、裸足ではまずいと想い、踵を返して履物を捜した。
すると、私用の履物は無く、他にも適当な物が無い。
有るのは、普通の下駄か、近代風の草履とゴムのサンダルぐらいしか並んでいない。
私は、荷物を担いで旅をするのに、適した履物が見付からないので、どうしたものかと意いながら外を見ると、相手の人は待って居ないで、もう裸足のまま旅立ったらしい。
私は、裸足で歩き出す勇気が無く、迷っている処で、其の夢は終わった。
今朝の夢は、何を暗示するものだろうか。
私は、屋久島で生まれ育ち、中学校まで通ったが、靴を履いて歩いた事よりは、素足で歩いた事の方が記憶に残っている。
当時は、ジャリ道も無く、人と馬が歩くだけの、狭い土の道路だったので、素足で歩いても、別段不自由を感じないで歩いて居た。
其のお陰で、私の足の裏のセンサーは、人一倍、敏感に出来上がっていると考えられる。出来上がっていると言うよりは、昔の人と同じで、現代の人達の足の裏とは違っていると、言った方が当っているだろうか。
其の様に育った私でも、中学を卒業して働き始めたので、毎日、靴を履く様になって、現在・いまは裸足で歩くのは、家の中だけである。
今朝の夢でも、靴が無いので、大事な人の後に、付いて行く事が出来なかったのである。
日本人は、明治時代に靴の文化が西洋から導入されるまでは、下駄か草履を履くか、裸足で歩いて居たのだから、夢に現れた、裸足でどんどん歩いて行くのは、当たり前の事で、何ら不思議な事ではないのだ。
子供の頃から、一生裸足で歩き続けていれば、足の裏の皮は、硬く丈夫に成り、どんな所でも平気で歩ける様に成る。
昔の人達は、裸足で歩くので、足の裏のツボが刺激を受け、脳への刺激にも成り、健康にも良いし、自然の中を歩く事で、精神的なバランス・調和も取れていたのだろう。
インドの「お釈迦さん」も、一生裸足で歩いて旅を続けている。
釈迦像の足の裏に、マークを付けて、拝している寺も有る程だから、足の裏にも、何等かの神秘が隠されている筈である。
釈迦や、イエスの事を考えると、良い靴を履いてはいない。
聖者は、皆、履物に拘りの無い人達ばかりである。
王様や、戦士の様に、服装や履物に執着を示していないのだ。
古代の聖者達は自由だから、他人の時間に合わす必要も無いので、時計も必要では無いし、まして、足元を他人に視られる事を気にしなくても良いのだ。
天国への入り口は、素足の者こそ、通り易いのではないだろうか。
今朝の夢は、履物に気を取られて居る内に、導師に置いて行かれてしまった。自分の荷物は、必要最小限度にして、何時でも自由に動ける者こそ、神の意志に適う行動が出来るのだ。
聖者への道は、修行が必要なのではなく、自由に旅が出来る体制を、採るだけで良いとの理・ことではないだろうか。
王様に成る事は大変だが、聖者に成る事は、誰にでも簡単に出来そうである。その事の答は、お釈迦さんが、王様の位を棄て、裸足の旅を始めた事で出ている。
人間の、究極の目的が、魂しいの完成にあるのなら、何時でも、旅が出来る心構えと、準備が必要との事ではないのだろうか。
一番大事な事は、その機会に巡り合えるかどうかだけである。
其れは、常日頃、その機会を求めているかどうかに掛かっている。
平成15年12月7日
礒邉自適
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