2006/9/26
魂しいの発露
18・9・26
今朝の映像は、私自身にも、思い掛けないものであった。
と謂うのは、私の是までの価値観では、「縁」は、糸の様に繋がっているとのイメージで、「赤い糸で結ばれている」とか、「縁結び」と言って、見えない紐で結ばれていると考えて来た。
だから、日本国では「注連縄・しめなわ」が造られ、鳥居や神社の入り口に掛けられるし、人家でも正月には、玄関や車などに藁で編んだ「注連縄」が着けられて来た。
漢字の、「意識」の単語も「人間の意が 言葉に拠って 織られる。」との意味合いだから、やはり糸の感覚である。
処が、今朝は、其れが粒子の繋がりと成って、黄金比の放物線の様に、回転するのが見えて来た。
確かに、黄金比も図で書けば、其れは線である。
しかし、其の線を顕微鏡で視れば、墨の粉や色素の粒である事が判かる。
だから、此の世には線とは無く、全てが粒子の集まりなのである。
昨日のメッセージ映像に、「ナミオ氏・波男」が現れて「鍵を渡せ」と云ったのは、波である派動の感覚を、外せとの意味だったのではないだろうか。
そうであれば、親子の縁とか、仏教の結縁とかの概念を、排除しなければ成らない。
確かに、親子の関係は、遺伝子に拠る繋がりがあるが、親子は別の人格であるし、同じ両親から生まれても、一卵双生児の間は別にして、兄弟姉妹の性格や性質もバラバラである。
其れは、確かに、糸で繋がっているのではなく、情報に因る伝達の所為の結果である。
其の様に考えると、家系の系図も、線で繋いでいるのは正しいとは云えないし、釈迦から何代目の弟子だと云っても、何等かの確かな糸が、繋がっている分けでもないのである。
其れ等の事柄を、別な角度から見れば、此の世には「因縁」とかで繋がっている物は、何も無い事に成って来る。
何故、其れが、繋がっていると考え始めたのだろうか。
其れは、「縁で繋がっている」との言葉が存在し、其の言葉で、人間の思考に概念が生まれ、其の概念が伝え続けられているからではないだろうか。
其れ等の概念を忘れさせるのが、釈迦牟尼佛の説なのであろう。
釈迦牟尼佛とは、ブッダに成った「釈迦(姓)シッダッタ(名)」の事だが、彼は、池の水で禊ぎをしてから、菩提樹の枝の下で休んで、全ての言葉を頭から排除した時に、悟りを得ている。
其の釈迦牟尼佛の教えは、成仏・覚醒したければ「出家」をして、人間社会との「縁・えにし・ゆかり」を切りなさいとの理・ことである。
日本語の、「えにし」と「ゆかり」が、どう言う意味合いかは解らないが、日本の古神道では、神が降りるのは「ちぎ」であり、儀式は「ちはやふる」である。其の世界には、糸は無く、電気的な粒子を意味している様である。
振るは、「振り撒く」に発展するので、「たまふり」とは粒子的な振る舞いを起す事ではないだろうか。
其の意味から考えれば、巫女さんの舞いは「ちはやを 振り撒く」事であり、出雲の「お国さん」が踊りの始まりであるのも理解できて来るし、天の岩戸が「天のうずめ」の踊りで開かれたとの伝説の意味も、謎が解けてくる。
其れに、日本語の「ふるまい・振る舞い」や、「しぐさ・仕種」の言葉の持つ景色も見えて来る。
私には、昨日から、男の口調で言葉が聞こえ始めて来た。
今朝の、私へのメッセージの言葉も、訛りの有る男性の声だった。
今朝のメッセージの内容は、私の立場が、現場から下げられて、長老組の方に回される内容である。
其れは、野球の現役選手が、肉体の限界を感じて、グランドで活動する事から、身を引く様子と同じである。
現場から引退した後、能力の有る者はコーチか監督を務め、其のグランドに関わりを持って行くが、採り得の無い者は、其処から去るしかない。
其れ等の理を、知っている御仁のお出ましなのだろう。
どうやら、今朝のメッセージからすると、私の活動も終りを向え、何事からも現役を退かなければならないらしい。
其れは、ネィティブ・アメリカンの長老の様に、部族長の相談相手に成る様なものである。其れは、シャーマンとも違い、全ての業を終えた者の役目である。
私は、来年1月に満60歳を迎えるが、母親の体内に宿った時点から数えれば、丁度60歳で還暦と成る。
還暦とは、12支×10干の120年が大還暦であり、60歳は其の半分の「半還暦」だから、是からは、生命の消滅に向かって行く年代である。
だから、何時死んでも良い様に、段取りをして措かなければ成らないのである。其の為には、あらゆる事の第一線から、身を引いて措かなければ成らない。
其れは、後継者が育つ為に、場・グランドを空ける事を意味している。
是からの私の役割は、コーチか監督の様な立場なのであろう。
其れも、「欽ちゃん」の様に、自分で球団を造って監督を務めるのではなく、自由で気儘な「雇われ監督」である。
其して、ピッチャー型の「星野監督」式ではなく、キャッチャー形の遣り型で、相手の行動を受けながら、対応して行く立場である。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージの続きである様だ。
私は、是から全ての面に置いて、現役で在っては成らないようである。
現役とは、寝ても覚めても、其の事を考え続けていなければ成らない役割だから、其の活動の間は、他の世界の事には、眼が行き届かない。
其れを避ける為には、あらゆる世界から、足を洗って措かなければ成らないのだ。
何故、此処に来て、この様な事柄を示して来るのだろうか。
其れは、今月30日より、新しい体制が動き出す事に関係があるのだろう。
其の動きに、私自身が嵌ってしまえば、私の意識が、三次元に定着してしまうからである。
其れに、今朝告げられた事は、是まで、22年間取り組んで来た行動からも、足を洗えとの事のようだから、シャーマン的な行為からも、外れろとの事のようである。其れは、四次元世界からも脱しろとの意味らしい。
私は22年前、37歳の時に、三次元世界を捨て、四次元世界に触れながら生きて来た。其の世界からも、離れて生きろとの事である。
其れが、何次元の世界なのかは私には判らないが、今朝の黄金比の放物線の映像からすれば、拡大する宇宙の模様を、視る事が出来る立場である事は間違い無いようである。
私は22年前、水断食を続け、脈拍が止まり、魂しいが自由に成り、時空を越えて視て来た宇宙の始まりの世界を、今度は、違う角度から観られるのである。
其れは、22年前に観た「宇宙の始まりに 自分が在り、此の世の事象は 全て自分の分身である。」との感覚とは、違うものだろう。
おそらく、釈迦牟尼佛が説明しようとした世界は、其の世界であり「三千世界に我が在り 衆生一切我が子。」の言葉は、其の世界を言い表しているものと想われる。
しかし、今朝の雰囲気は、其れと違い、「此の世界が、粒子に拠り 黄金比の螺旋で 拡大して行く」映像である。
それは、自分がそうであると言うのではなく、新しく創造される世界を、見詰める目線である。
其れは、釈迦牟尼佛が体験した世界より、もう一段深い世界と言うか、見られなかった世界であろう。
此処から先の世界は、誰も体験した事が無く、其の為に、言葉も概念も無いのかも知れない。
しかし、そう思うのも私の身勝手で、言葉も概念も有るのに、私の見識が未だ浅いから、気付かないだけなのかも知れないのである。
ただ謂える事は、釈迦牟尼佛も、老子も、イエスキリストも、自分の想う様な国を造る立場には至っていない。
自己顕示欲からではなく、神の支持に因り国造りが行なわれ、其れが現在まで保たれているのは、此の日本国だけではないのだろうか。
だからこそ、世界中の神霊が此の時代に、日本に皆集まって来ているのではないだろうか。
日本の国造りは、何度も、外来の男性が渡って来て、原住民・地祇の娘と結婚して行われている。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」・「饒速日命・にぎはやひのみこと」・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」・「神武天皇」等、皆自分が生まれた国ではなく、妻の里での国造りである。
其れ等を見ると、新しい国造りとは、他民族の男性の登場が必要らしい。
其れは、何故かと言えば、現状維持の体制側の人間では、革新が行なえないからである。
今回の新しき国造りが、どの様な形で始まるのかは判らないが、今朝のメッセージでは、私に現役から引退して、何も、しては成らないとの事のようだから、其れを守って、私は、全体の流れを眺めて居るだけにしようと想う。
今日は、此の文章を書いていると、月山の巫女さんから電話が有り、話していると途中で、インターネットも電話も携帯も一切通じなく成った。
其れは、4時間程で復活したが、種子島・屋久島全域だったらしい。
若し何か有れば、この様に成り、一切の連絡も取れないし、情報の入手も困難に成る。
電話線が繋がっているので、情報が手に入ると考え、安心して居ても、突然にして其れが切れるのである。
何もかもが切れて、繋がりが無く成る状態をシュミレーションしていないと、イザと言う時にパニックを起し、社会全体が混乱してしまうだろう。
そう成らない為にも、其々が独立して生きて行けるシステムを、完成させなければ成らないだろう。
そして、自立心を育てる教育を、構築しなければ成らないのだ。
今日の題を「魂しいの発露」としたのは、私が今朝、パソコンの前に座った時に出て来た言葉だが、其の意味は「人間の魂しいは、其々が 自分で体験を積んで 現場の映像を蓄えていないと、イザと言う時に アイデアが湧かないし 現実に対して 手も足も出せない。」との事ではないだろうか。
魂しいとは、「たま」が沢山詰まっている様を言っているのである。
其の「たま・魂・霊」とは、現場の映像の数であり、密議が図れる能力を意味している。
其の事は、私の人生の記録を見れば、参考に成るだろう。
其の、私の脳内の現場の多さは、他には、類が無いかも知れない程である。
現代文明だけの事か、自然生活だけの事かの、片一方だけなら、私以上の者は多いだろうが、両方のバランスを考えれば、私が、天の働きで遣らされた体験は、幅が広くしかも多彩だと想われる。
其れが、私の意識の特徴だとも考えられるのだ。
其の場数の多さが、是から社会の役に立つのだ。
そして、私には、是から「何もしない」と言う事を、修行する現場が待っているのだ。
平成18年9月26日
礒邉自適
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